第7話
翌日目覚めは最悪で、朝一番の掃除もぐだぐだと終わり、訓練も当然の如くうまくはいかなかった。
体力の落ちきっている僕を見ながら、しょうがないと口で励まして、木下大尉はいつもより大きくため息をついた。すいませんでしたと頭を下げたところで、晴臣さんならばここでがつりと一発くるはずだったが、木下大尉はその頭に手を添えただけだった。本当に、出来た人間なのであった。
僕は久方ぶりに湯船に浸かったような、妙に弛緩した体をもてあましながらも、もともと自分はこういった人間が好ましい人種だったのだなと改めて思い出した。
権力に屈せず、屈強な体を不条理に振るわず、けして激昂せず、温和で、しかし時に激しく熱い人間に自分はなりたかったのだと、僕は考えた。
体の痛みもいくらかそう思うことで柔らかく四散していくように感じられた。
木下大尉は僕の他に十人の直属部下がいた。新隊員制度で、一人ひとりがある程度新人隊員を受け持って直下部下に引き入れるのが原則だが、本部の仕事が忙しい晴臣さんはその限りではなく、幼いころ少しだけ面識があった僕でさえ、父親が頼みに頼んで直属部下という、晴臣さんに言わせるとしち面倒くさいものにようやくなれたくらいだった。
しかし今回僕が免職になったことで、晴臣さんには新しい直属部下がついていた。同期の清水達也という男で、僕よりはるかに入隊試験で上位だった切れ者だ。僕はそんな事を思いながら、それを無理やり心の脇に押しやり、木下大尉の下でおそらく共に出陣するであろう面々を思い出していた。どれもこれも、骨が皮膚を突っ張ったような無骨な、そして非常に屈強なイメージのする顔であった。それらの人間達は皆、一様にして木下大尉に深い忠誠を誓った男達だ。その集団の中に入ると僕はいささか小さくひ弱で、頼りなく見える。その体を懸命に大きく見せようとしたとて、とうてい同等の働きが出来るという事などありえなかった。そしてもちろんそんなことなど誰も自分に求めていなかった。しかしそれに追いつこう追いつこうとする事で以前以上に体は疲労する。木下大尉はそういった僕を気遣い、そして事あるごとに休養を当てた。なるほど木下大尉という人間はおおよそ晴臣さんと正反対の人間のようだった。それは人間の性格とかそういった表面上のものでなく、人間の根本に関与する信念に近いものだ。
ある日の事だった。僕はその日も木下大尉の温情で、訓練を早引けしてリハビリ室にこもっていた。その時晴臣さんと偶然面を合わせたのだ。晴臣さんは眉をピクリと震わしただけでその後は何の変化もない顔を僕に向けたままそこに静かに立ち止まった。実に、カッターナイフを買ったあの時以来の再会だった。僕の心臓は突然我を忘れたように狂った鼓動を打ち始めて、それに答えられない体がすでに逃げ体になっていた。汗が噴出しその冷たさが背を粟立たせた。僕は、とうとう泣き出したくなるような恐怖に負けて、その場を逃げ出した。
走りながら、自分は、一体何から逃げているのか分からなくなった。果たしてそれは晴臣さんの性的暴力からだったか、精神的圧力からだったか、更にはそれ以外の何かだったのか。それがなんにしろ僕には耐えられなかったのだ。
僕は晴臣さんが恐ろしい。一体全体何故こんなにも恐ろしいのか、これは動物が天敵から身を守る本能に似た感覚で、ただただ恐ろしいのだ。近づくだけで流血してしまう。そんな恐怖の概念が消えない。そしてそれは事実なのだから僕の場合それも仕方ない事ではあった。そうして日毎木下大尉と晴臣さんの訓練へあまりに差がある事に多少の違和感を覚えながら、新体制になって一ヶ月が過ぎようとしていた。
十日ほど前にリハビリ室であった以来、晴臣さんと顔を合わせていなかった僕は、食堂でふと晴臣さんと目が合った。互いに遠く離れたところからよく気付いたものだというかんじで、僕は驚きながらもまた恐怖が勝って目をそらしたが、心臓には痛みのような深い拍動が強く残ったのだった。
木下大尉は明るく、そしていつも誠実だった。
そういったところが同期にもそして先輩隊員にも人気の要因だ。何事にも強硬な姿勢を崩さない晴臣さんと衝突するのも、それはえてして仕方のないことであった。木下大尉は晴臣さん含める上級隊員25名に意見書を提出し、その中には僕の晴臣さんへの傷害事件の事も織り込まれていた。
そうして、初めて性的暴力に追求しもちろん体罰私刑などにも言及した。そういったこともあり、上層部からはいわくつきの隊員として見られているようだった。
木下大尉はそういった苦難を僕達には見せず気丈に振舞ったが、それが返って同隊員に心配をあおった。処分決定から二ヶ月が過ぎた頃、僕は晴臣さんの訓練に復帰した。
これはまさしく僕にとって恐怖の再臨であった。
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