第10回 打倒、不死鳥殺し

 雄馬がおっさんをグランドにて初めて引き入れた日から、数日が経過した。

 流石に毎日ではないがおっさんは、暇さえ合えばいくらでも定陵ゴールデンフェネクスのチームメイツの前にと顔を出し練習に付き合うようになった。

 最初の頃はチームメイツの練習をチームの監督で後輩の畑ともども、傍から静観していた。  

 チームメイト側から相談にと話しかけられる以外で余計な口は出さないというスタンスであった。

 しかし、見続けていく内。チームの欠点および弱点などがおっさんの眼前で次々と明らかにされ、終いには元・高校球児だったおっさんの血管内を滔々と流れる野球人としての血を熱く呼び覚ます事となった。

 もとより、ぜひともおっさんの指導を直接チームメイツに仰がせてもらいたいという他ならぬ畑からの強い要望もあったので、次第におっさんはチーム練習に顔を出すついでに口も出すようになった。

 さしあたって、本格的に野球を指導する側に立ったおっさんはまず投球の改革にと乗り出す。

 全チームメイツを眼前に座り込ませてから、まず具体的な方法から提示し始めた。

「ボールを投げる時、両肩を下げず必ず平衡にした状態でやれって皆言われたと思う。はっきり言うが、それは手垢がベタベタ付きまくった古いやり方だ。今どきのピッチングは投げる方の肩を下げてやるのが、主流になりつつある。それを裏付けるかのように、プロ野球界で名投手として名を馳せたレジェンドは肩を下げてやる傾向が多い。古くは沢村栄治。金田正一、江夏豊、村田兆治、江川卓、桑田真澄、工藤公康。海外に目を向ければ、ロジャー・クレメンス……最近だとドジャーズのクレイトン・カーショウ選手なんかもそうだ」

 自ら実践している方法を同様に取り入れている有名な選手たちの名前をいくつか挙げ、興味を惹かせようとした。そのやり方が功を奏し、うまくチームメイツのいたいけな興味心を自分に取りつかせれた。

 それなのに、と落胆しきった素振りと声を振り絞ってさらに言葉を繋げる。

「体育の教科書なんかじゃ昔から「投球の仕方」の所には、肩を下げず真っすぐのまま投げましょうって注釈が入れられちまってる。別に教科書のやり方が全て間違っているとは言わない。でも、みんなちょっと考えてほしい。『教科書通りのやり方で必ず勝てる』と、思うか? そうじゃないだろう、なぜなら最初っから野球に教科書(ブック)なんか在在しないんだから。満塁ホームランで逆転サヨナラ勝ちもあれば往々にしてサヨナラ負けもある。『まさか……』と思った出来事が、野球ではちょくちょく起こり得るんだ。だからこそ、野球は『筋書きのないドラマだ』と昔の偉大な先達は仰ったんだと、俺は思う」

 現状立ちはだかっているチームの課題を、教科書通りと一刀両断するおっさん。 ただし全否定はせずに、基本は基本とフォローしつつもチームメイツに対し自ら思考し行動することを是とした。

 ニヒルな笑みを浮かべるおっさんの口元から微かにため息がこぼれた。

「ハタ坊から聞いてる。お前ら、勝ちたいんだろう。今年こそ隣町との強化試合に勝って自信を付けて、そしてその後の市の少年野球大会で勝ち馬に乗りたいんだろう? だったら、勝つための練習と努力をしなくちゃ駄目だ。その方法をみっちりと、お前らに叩き込んでやる」

 おっさんは右手で握りこぶしを作ると、同じく己が左手の平でがっちり受け止める仕草を取る。

 おっさんの手元からは、紙袋を叩いた時のような乾いた炸裂音が発せられる。

 決して大きくはなかったその音に雄馬を含めた何人かの人間はハッとした顔つきを浮かべていた。

 すると、拳を解いた右手をズボンのポケットに入れおっさんはここぞとばかりにポケットの中の物を取り出した。

 ちょうど、大の大人のおっさんの手の中ですっぽり収まったそれは、練習用の軟球だ。

 ポケットから軟球を取り出すなり、おっさんは高く掲げて全チームメイツに見せつけ始める。

「変えるべき処はとことん変えて、かつ試合においては武器になる自身の良さを存分に引き出す。それが俺のやり方だ。俺から言わせてもらえば、お前たちはただ惰性で普段通りの練習をこなすあまり本当に自分達がやるべきことを満足にさせてもらえず窮屈しているように思える。勝利とは身の丈にあった練習方法をこなしてこそ、初めて外から己の内へフィックスできて自ずとそれを重々認識することのできる代物だ。そして、それを認識できた時初めて人は『楽しい』と心の底からそう思えるんだ。とどのつまり楽しんだ者勝ちなんだよ、野球ってのは!」

 楽しんだ者勝ちというあまり聞き馴染みのしない言葉が、その場にいた全チームメイツの心を満遍なくくすぐり出す。

 その時、彼らを見据えていたおっさんの目は、少年のように輝きを放っていた。 あからさまな大見得を切るおっさんだったが、自らの盛り上がりもそこそこに留めてから少年たちに同意を求める。

「……そんな俺の考えに賛同する奴がいたら遠慮なく手を挙げてくれ。絶対に、後悔なんかさせない」

 直後、チームのほとんどが黙って手を挙げたのだった。

 かくして、正真正銘おっさんの野球指導教室が幕開けしたのは言うまでもない。

 おっさんの指導は、多岐に亘った。

 十八番の投球時の体重移動の仕方からはじまりバッティングフォーム、ゴロ及びフライの捕り方、さらに進塁にまで指導は及び、たちまち定陵ゴールデンフェネクス内ではおっさん主導によるプレースタイル刷新の嵐が吹き荒れた。


「ボールを投げる時。取り分けコントロールを利かすためには親指人差し指中指の3本の指先の感覚が大事だって皆教わったんだと思う。それも確かに大事なことではあるんだが、でも本当に指先だけでしようと思ってもなかなか上手くはいかない。一番大事なのは身体全体でコントロールをすることだ。指先だけで100%調整するんじゃなく、全身の筋肉ひとつひとつを使って身体全体で投げるつもりで、体重移動させることが投球においては肝要なんだ」


「バッティングフォームで大事なのは背筋を綺麗に伸ばすことよりも、まず腰をいれてお尻を突き出すイメージで構えることだ。背筋を伸ばしすぎない分、胸元にゆとりが生まれるからインコース・アウトコースどちらにも調整が利きやすい。それから、バットを振る際上半身のひねりを意識することもまた大事だ。下半身つまり腰を固定して、ゴム動力をイメージしながら上半身をひねることで振りかぶった時勢いが増すというわけだ」


「ゴロの球は正面に回って、両手を使い身体で捕れ。基本中の基本。あるいは、脈々と受け継がれている技術だが、俺から言わせればまさに悪しき風習でしかない。とどのつまり、試合で大事なのはゴロを身体で受け止めるんじゃなく、バッターをアウトにする技術だ。型にはまり切ったフォームでなく、臨機応変に対応できるフォームを模索すべきだと思う。もし練習するのなら、そっちのほうがいいだろう?」


「進塁の最終手段は誰が何と言おうが、スライディングだ。とはいえ、一塁からいきなりスライディングで進めようとはするな。男なら一塁くらい己の脚で走って到達してみせるんだ。さて、今までさんざあれこれをお前らに俺なりのノウハウを叩き込んだつもりなんだが、例えそれら全てをきれいさっぱり忘れ去ってもこれだけはちゃんと覚えていてほしい。お前ら、絶対に足でスライディングなんかするなよ? ……これは、野球やる奴の最低限のエチケットというやつだ」


 そんな、おっさんの徹底した指導が無事に実を結び全チームメイツのプレースキルは格段に上がった。

 投げる打つ捕るあるいは守る、全ての技術においてキレが目立った。

 以前は黙々と推し進めていた練習風景も、今や皆が所々で顔を綻ばせながらリラックスしきった状況で誰もがおっさんの言った通り『楽しんで』野球にと勤しんでいた。

 その結果、あるひとりのメンバーが以前と比べ己がスキルを大変大きく向上させるのに成功していた。

 そのメンバーとは、何を隠そう図らずもフェネクスにおっさんを引き合わせることとなった張本人、雄馬であった。

 そして、そんな雄馬の躍進ぶりをチームメイツは目にすることとなった。

 ある日の放課後。

 非番だったおっさんは警察の制服でなく、雄馬と初めて出会った時のような私服の出で立ちで練習に顔を出して来た。

 顔にマスク首から下の全身にプロテクターを装着し、右手にはキャッチャーミットを備えている。

 正しく捕手然と化したおっさんは、本塁の外側にてしゃがみ込む。

 そこから、視線を真っ直ぐ見据えてひとりマウンドの上に立つ雄馬に呼びかけた。

「雄馬、来いッ!」

 対して、はるか先の本塁から聞こえたその声に頷いてみせる雄馬。

 そして、左手のグローブ内からボールを取り出す。本塁側とちょうど垂直になるよう身体を半身に置き換えて、フォームを整えていった。

 右手に持ち換えたボールを高らかに上げて、

「――――行きますッ!」

 先のような宣言を済ませる。

 それから間もなく右投げの姿勢に移り始める。

 おっさんに教えてもらった通り左足を高く上げたと同時に捕手に対して左肩甲骨の位置を見せつけるほどに上半身を強く捻りだした。

 リボルバーの拳銃をイメージしつつ、撃鉄の役割を担う右肩をクンと落とし少し溜める。

 シリンダーを回転させるように柔らかく左足を持ち上げ、その後トリガーの踵を強く前に踏み込んで同時に勢いよく投げ放った。

 パンッ、という弾着を告げる音がミットから発せられた。

 一部始終を傍から目の当たりにした脇谷と寺内は、とても同学年とは思えない球の速さに愕然とさせられていた。

「す、すげぇ球威」

「とてもじゃないが、俺らじゃ真似できねえよ」

 完全に呆気に取られた様子のふたりからさほど離れてない所で、アレクが両手でスピードガンを構えて計測を行っていた。

「ええと、今の記録103㎞/hキロ……えっ、嘘。103㎞/h⁉」

 自ら雄馬の投球の観測を担ったはずのアレクも、液晶に表示されたその結果に驚きを隠せない。

「マジかよ。速い速いとは思ったけど、まさかの100の大台を突破したってのかよ」

「ちょっと待てよ? ウチらの所の投手で100㎞超えてるといやあ、これまで主将キャプテン只一人」

 雄馬のたたき出した記録に、脇谷と寺内は改めて舌を巻くこととなった。

 そして、その記録に自分達の主将の影を連想した。

 そんな矢先。ねえねえ主将と、記録がばっちり表示された計測器を片手にアレクはたまたまその辺を通りがかっていた織田にと見せびらかそうとした。

「これ見てみてよ。見たら絶対びっくりするって!」

「……なんだよアレク」

 大仰な様子の彼を、あまり気乗りしない反応で迎える。

 身の危険を感じたあまり脇谷と寺内が、すかさず二人の間に割って入った。

「バッ⁉ 馬鹿アレク、やめろっての」

「そ、そうだぞ。ああっ、き、主将? どうかお手柔らかにお願いします、こいつ、けして悪気があってこんな事したんじゃないんです」

 まるでこの世の終わりが訪れたような挙動と言動をとる彼らに、すっかりと織田は呆れかえっていた。

 そんなふたりを軽くいなして、言い出しっぺのアレクに改めて用件を伺う。

「なんの話だ。アレク、でいったい何がびっくりなんだって?」

「コレコレ! さっきユーマの投球を記録してたんだけど、マジびっくりなんだよ。見てよなんと……!」

 これ見よがしに、計測器を見せつける。

 織田の目に、表示上の数値が明らかになる。

「――――。」

「ね、すっごいでしょ……主将?」

 なぜか、すっかり押し黙ってしまった彼に食い下がって見せるアレク。

 全くもって顧みない様子の後輩に、うんざりさせられる脇谷と寺内であった。

「お、おい」

「よさねえか」

 例の計測器を手に取った織田の視線は自然とマウンド上の雄馬へと注がれていた。

「あいつが」


 傍らでその様なやり取りが交わされていたとはつゆ知らず、雄馬はおっさんとともに練習の成果をキチンと出せたことに大変満足している様子だった。

 キャッチャーマスクを外したおっさんは、ミットを着けてない方の手で向かいの彼目掛け親指を立てて褒めちぎっていた。

「ナイスボール!」

 思わずハミかみながら、雄馬もそんなおっさんに対し親指を立て返してみせた。

「へへっ、そっちこそナイスキャッチ! あ……」

 するとその時、白線を越え自分のいるマウンドへと向かう主将の織田が見えた。 みるみるうちに近づいていき、ついには目と鼻の先の距離まで寄ってこられた。神妙な顔つきを浮かべる主将を前にして、雄馬はまんじりともできなかった。

 どれだけ思考を巡らせても心当たりひとつなく、皆目見当つかない体たらくだった。

 膠着し切った空気を先んじて破ったのは、織田からであった。

「お前のか」

「へ?」

「これ、お前のかって聞いてんだ」

 雄馬に差し出した右手にはあの時の計測器が握られており、雄馬自身もそれに気づいた。

「これは……アレクに持たせてたやつ」

「これ、この記録。ほら」

 液晶上に表示された103の数字を何度も指し示して、本当に雄馬による記録なのかどうか本人に尋ねる。

 しばらく溜めて、整理し終えた様子の雄馬が織田に向き直る。

「……て、言う事なら。多分僕のです。さっき、このマウンドに立って投げてたんで」

「あ、そう」

 あっさりとした受け答えで返す織田。

「もしかして、見てくれてたんですか?」

「いや、たまたま通りかかった所をアレクに捕まってコレを見せつけられて、それで、気になってお前の面拝みに来たんだ」

 自らの問いに素っ気なく応じられて、そこはかとなく腑に落ちない感情を募らせる。

「そ、そうですか」

「どんな、気分だ?」

 思いがけない質問に、えっ? とすっかり拍子抜けした感じの声をあげた。

「生まれて初めて、そんな速い球を投げられて。なあ、どうなんだ?」

「どんなって」

 執拗に問い詰められ、思わずたじろぐ。

 少しの間地面を一瞥してから、ありのまま感じたままの様子を織田に対し伝えた。

「すみません、よく……わからないんです。いつも通りのつもりで、ただがむしゃらにやってたらなんとなく」

でも、と言葉を繋ぎこれまでとは違うあからさまな変化を真摯に織田へと語って見せた。

「でも、今までの投げてきた感じとは、明らかに違ってたんです。身体に籠っていた熱いものが、手を通してボールに直接乗り移った気がしたんです」

「そうか」

「あ、次使われますか? マウンド」

「……いや、別に。そんなんじゃないから」

「あ、挨拶が遅れてすみません。お疲れ様です!」

 突然の来訪のあまりしでかしてしまった非礼を、帽子をとりその場で深々と礼でもって雄馬は詫びた。

 しかし、返ってきたのは言葉でなく沈黙だった。

 ………………。

「あれ?」

 顔をあげるとさっきまで居たはずの織田は、影も形も見当たらないでいた。

 既に本人は、雄馬のいるマウンドを後にして水飲み場へと向かっている最中であった。

 完全に拍子抜けしていた彼は、これが後々にまで影響を及ぼす布石だったとは知る由もないのであった。

 ひとり取り残される雄馬を背に、織田はいつか彼にされた所業を思い返しながらしめしめとひとりせせら笑いを浮かべた。

「ざまーみろ」

 そして、この日を境に定陵ゴールデンフェネクスでは練習の方向性を巡りしばし不穏な雰囲気がたちこめるようになった。

 織田はおっさんが来る以前から続けられた昔ながらの練習をチーム内にて徹底させるようになった。

 文句を言ったりおっさんがご教授してくれた方法でやろうと提案したものがいたらまず真っ先に怒号が飛び、主将権限の下容赦なく排除させられる。

 時に制裁の名の下彼からの直々の暴力をもらい受けることもあったりと、瞬く間に、内部では粛清の嵐が吹き荒れた。

 誰が見ても、独裁であることは間違いなかった。

 そんな状況を知ってか知らずか、監督の畑は、なぜか静観をきめたままだった。 織田でさえも流石に白日の下にさらすことを躊躇したとは言え、部員たちの表情や全体の雰囲気でいくらか察せるにも関わらず畑の口から直接の忠告も何もなかった。

 そして、チーム内が独裁体制に移り暫く。

 隣町との強化試合の日まで2週間を切り始めていたこの日。

 グランドにて、おっさんは不在であった。

 自らの専横っぷりにすっかりと味を占めた様子で、いつになく上機嫌のままグランドへと上がる。

 同級生でありかつチームの副主将・高橋にまずはと挨拶を呼びかけた。

「よお」

 するとそんな彼とは正反対に、不安と戸惑いに絆された表情で高橋が迎える。

 そして、来られて早々、高橋が苦言を呈した。

「あ、織田。なあ、ひとつ聞きたいんだけどさ。お前、最近後輩たちの当たりが厳しくないか? 今の所、みんな文句は言ってないみたいだけど」

 それらをあまり気にも留めない様子で聞き流しつつ、織田は辺りを見回す。

 同じグランド上にて、準備体操を入念に行う者。

 二人組になって、投球やバッティングに励む者など。

 皆それぞれで好きなように練習をしていた。

「足りないな」

 きっぱりと言い切る織田。

 そんな容赦のない一言に副部長の高橋は、困惑していた。

「えっ? な、なにが」

「もう大会まであと僅かだってのに、練習に来てるレギュラーメンバーが若干一名足りない」

 一名って、そんな彼の言葉を真に受けた高橋が改めてグランド上を見渡しその該当する人物の名前をあげた

「一名って……アレクのことか」

なあ高橋、と呼びかけた織田が彼と真正面に向き直ると次の事を聞いてきた。

「アレクが今どこいるか知らないか?」

 どアップの無表情を向けられた高橋はその異様っぷりに少したじろぐも、彼なりの解を口にしていく。

「ひょっとしたら更衣室、かも」


 グランドにて部長が不穏な空気を立ち込めさす一方、更衣室には雄馬を含めた残りのチームメイツたちが着替えの真っ最中であった。

 雄馬は最近の練習を通じてすっかりと打ち解け合う仲になったアレクと会話を交えながら自身のユニフォームに袖を通していた。

「それで、パトカーの窓からただいまって手を振ってやったら、お母さん手に持ってた荷物全部歩道にぶちまけちゃってさあ」

「マジかよ。はっはっはっ! ユーマのお母さんはおんもしろいなあ」

 この間巻き起こった珍事を得意げに語っていた。そんな様な話をアレクは嬉々として聞き入れていた。

 すると、更衣室の扉が唐突にバンと音を立てながら強く開け放たれる。

 中にいた全員が驚きの余り、扉の方へ振り向くと怒りでいきり立った様子の部長が入り口にて立ち尽くしていた。

「……楽しそうだな、おんもしろい話してさ」

 外からも聞こえるぐらいだったアレクの高笑いを耳にしたみたいだった彼は、その鋭い視線を思いきりアレク本人へと向け始めた。

 そんな状況でもお構いなしなのか、いつも通りマイペースでアレクは生返事を寄越す。

「あ、主将。ちっす」

 対して、雄馬はあわてて上のジャケットだけを羽織ると、そのまま織田へ向け深く一礼した。

「しゅ、主将。お疲れ様です、よろしくお願いします!」

 主将の織田が襲来したことで、一転、更衣室は異様な空気に満ち満ちていた。

 雄馬やアレク意外に同室していた面子も一旦着替えを取りやめて、先の様子を黙りこくって見届けた。

「……アレク、お前練習もロクにしないで何やってんだ?」

「何って、着替え」

「いや、違うだろ。お前ここで、菅野とダラダラ口喋ってただけだろうが」

「だから片手間で、」

 のらりくらりの生返事を相変わらず続けようとするアレクに、織田は完全に痺れを切らして常日頃抱いていた思いを口にし始める。

「ああ言えばこう言う、こう言えばああ言う。お前本当に生意気だよな?」

「そうっすかねえ」と、まるでへらへらと笑みを浮かべまるで他人事の様に捉えている彼に、とうとう怒りを露わにして声を荒げて「そうだよ!」

「練習でもすぐメニューと違ったことをやろうとする、普通に練習には遅刻してきてそのくせ何食わぬ顔で混ざってくる、おまけにいつまで経っても敬語は覚えない。正直不快なんだよ――――お前の存在自体が‼」

 両こぶしを握りしめながら溜りにたまりかねていたものを全てぶちまけた上、ダメ押しにきつくアレクを指差して糾弾しだした。

 そんな織田のど迫力ぶりに周りの面子たちは、中断させていた着替えを次々と再会し始め、済んだものから次々と外へと逃げていくように飛び出していった。

 更衣室にはアレクとそれを先ほど来追及し続けている織田。

 そして、そんなふたりを完全に困り果てた様子で何度も見返している雄馬の3人だけが残された。

 すっかりと広くなった更衣室にて、アレクがぽつりと言い放った。

「はあ。まあ、なんか……すんません」

「それが、お前の答えか」

え? と、呆気にとられた様子で織田に聞き返す。

すると、もういいと織田がアレクと突き放してきた。

「アレク。お前はウチのレギュラーには相応しくない。これから試合に向けて一致団結しなきゃならないって時に、お前みたいなのがひとりでもいたら纏まるものもままならない。お前の口から、直接、監督にスタメンを辞退する旨を伝えろ」

「き、主将。ほ、本気ですか?」

 唐突に告げられた事実上の辞職通告が突き付けられると、当事者でないにも関わらず雄馬は動揺したあまり、咄嗟に織田へと確認をとった。

 次の瞬間、

「菅野……ッ!」

 それまでアレクと話し合っていた彼が突如豹変して、雄馬の胸ぐらを掴みかかってきた。

 両手で持ち上げられ、徐々に首がしめつけられていく。

 きゅうきゅうになった雄馬ののど元から、食用ガエルのような潰れた声が発せられた。

「ぐぇぇ」

「お前が、お前なんかがあんなおっさんを連れてきたばっかりに。お前のおかげで、ウチはもう滅茶苦茶だよ。お前がチームを壊して汚したんだ……そして、殺した!」

 理不尽にも謂れのない暴力と罪に晒されながらもなんとか説得を呼びかけてみるも、

「な、何を言って。僕がこ、ろ」

「黙れ不死鳥殺しっ!」

 焼け石に水どころか火に油を注いでしまう結果になり、さらに雄馬の首元での締め付けが強くなる一方であった。

 喋るどころか呼吸もままならなくなり、そのうち頭の中がぼうっとしてきて思考する力すら消失してきた。

 もう少しで意識を手放しかけたその時、見兼ねたアレクが織田の背中に大騒ぎしながら思い切り飛びついてきた。

「うわあああああああああああ」

 かすんだ視界の先に、傍若にも首を絞め上げて怒りの余り顔を歪ませている主将とそれを背後からおぶさる形で羽交い絞めしようと必死に抗うアレクのきばった顔とが見えた。

「あ、アレク……!」

 自分はいいから早くここから逃げろ。顎の先端からすぐのところをキリキリやられ、思うように喋られない。

 雄馬は、そんな自分のために文字通り捨て身で頑張り続ける友人に、名前を呼びかけるのが関の山であった。

「くそっ、何しやがる! 離れろ、離れやがれ!」

「なら、その手をユーマから放せ。Filoフィロ da putaプッタ(こんちきしょう)!」

「く、くそっ!」

 最後まで雄馬をとっちめられぬまま、織田は悪態をついて背後から抱き着かれているアレクの言う通りにした。

 拘束を受けていた箇所が急に解放され、そのまま直立を保とうとたたらを踏むも酸欠と消耗により雄馬は膝から崩れ落ちる。

「ぐぇほ、ゲホゲホ」

「ユーマ大丈夫か。ユーマ!」

 むせる彼の背中に手を回し優しく名前を呼びかけながら擦っていくアレク。

 腹の底から空気をむさぼり吸い、なんとか意識を完全回復させた雄馬がそれに応えた。

「う、うん……」

 一方織田はチッと舌打ちし、更衣室の床にてへたり込む雄馬をあからさまに上から見下ろす。

「とんだ邪魔がはいった。だが菅野、この落とし前はきっちりつけてもらうぞ」

 同じく上から指を差され、訳も分からず雄馬は先の言葉を反復させる。

「落とし前?」

「まずはケジメとして、あのおっさんにもうここへは来るなって言え。それからチーム全員に迷惑を掛けたことへの詫びとして、土下座をしろ。それが済んだら、自分の口からチームを辞めるよう監督に伝えるんだ。」

 いいな、と唐突に選択を迫られる。

 ただ「落とし前」の言葉の意味を知りたかっただけであった。

 しかし、とうの主将の口からはそんな自分のささやかな幸せすら踏みにじるかのような破滅と絶望のつまった悪意のシナリオが語られていくのだ。

 いったい自分が何をしたというのだろう。

 ひょっとしたらこれまで碌に挨拶すら交わさず無礼な態度を取り続けたことへの贖罪なのだろうか。

 とはいえこんなやり方は一方的過ぎて常軌を完全に逸している。

 自分の日頃の行いに対する怒りだけでない。

 

「………………」

 雄馬が完全に困惑のあまり思考も行動も詰まらせているように見えた織田は、

「いいな、って聞いてんだろうが」

 未だ床上にて張ったままな彼と同じ目線の高さになるようしゃがみ込んで視線を釘付けにする。

 せめて一言くらい声を返そうと口を開きかける。

 だが言葉が出かかった所で、アレクに腕を掴まれあらぬ横やりを入れられた。

「ユーマ、別にそんなことに耳を傾けなくたっていい。ほら、ユーマ立って。僕といっしょに帰ろう」

 未だ痛みの残る喉元を手で押さえ呆気に取られた様子で雄馬は立たされる。

 彼の右腕は先ほど来アレクに掴まれたままであった。

「菅野はともかく、お前はここから出ていかなくていい。俺はお前の言葉遣いやら先輩に対する礼儀の無さに目が付いただけで、別にお前まで」

 雄馬には首を絞めてまで排除しようとし自分にはそうまでしなくていいと軟化した態度を取る。

 そんなダブルスタンダードもいい所な始末に、我慢ならなくなったあまり肝心の織田自身の言葉を遮ってまで彼を非難し始めた。

「礼儀礼儀って、そんなこと気にしてる暇があったら練習をがんばりゃいいじゃん。それでもって、実力を付ければみんな自然とついてくるじゃないの。特に、打率がせいぜい2割いくかいかない所にいるアンタはさあ!」

 大袈裟な身振りで激しく責め立てた。

 すると、それが彼の逆鱗に触れたようだった。

 効果は抜群だ。

「今、何て言った」

 怒りを無理やり封じ込めてるので、織田の声は静かではあったが確かに震えていた。

「ごめんね、聞こえなかった? とうとう耳にまで脂肪がついちゃったか。悔しい? なら、せめて僕みたいに打率4割をマークしてみせてよ。いくら自分の思い通りに上手くいかないからって、気に入らない奴をいちいち切らないとアンタは気が済まないのか」

 啖呵を切りまくり、嘲笑を浮かべるとそれまで雄馬の腕を掴んでいた手を離し急に解放しだした。

 物々しい空気を発しながら、織田がグイと身体を寄せて迫り来る。

「テメエ!」

「ついでに言っておくけどさ。僕に敬語とやらを使わせたかったら、もっともらしく振る舞ってよ? 敬語の敬ってさあ、尊敬の敬って書くらしいけどこっちはこれっぽちも尊敬の気持ちなんてないんだ。アンタみたいなガキ大将風情に、尊敬の念なんてちっとも抱けないよ。おっと、ガキ大将なんてそんな言葉は相応しくない」

 言い直すよ、とあからさまに挑発的に言い回した上前言った言葉を最悪レベルの罵倒文句にまで引き下げてきた。

「この、醜くて汚れ切った、まるまると太った豚野郎!」

 次の瞬間、額に青筋を立て烈火のごとく怒り狂った様子の織田が今度は言い出しっぺのアレクの方の胸倉を両手で掴む。

 そしてそのまま更衣室の壁目掛け叩き付けた。

「てめえええええええ殺してやるううううううう」

「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお」

 遠吠えをあげて唸る二匹の獣と獣が互いの鼻先がぶつかるほどに迫り合う。

 チームの主将と、同じくその4番を務める若きホープ。

 肩書きと実力。果たしてどちらが真に上なのか更衣室にてまさに雌雄を決さんとしていた。

 すると、

「お、織田! 馬鹿、何やってんだよお前! やめろ、やめろって!」

 グランドから駆けつけてきた高橋が突如として、二人の間に割って入りこんだ。

「放せ高橋ッ! こいつは、コイツだけはッ!」

 どうどうと、宥めようとするが火がついてしまった以上織田には引き下がるという選択肢がなかった。

 こんな半端なところでイモを引いてしまってはかえって男が廃る。

 せめて、自分の面子くらいは大事にしたいと考えての事であった。

 一方、傍観者から一転当事者かと思いきや再度傍観者へと激しく立場変えさせられた雄馬は、高橋という第三者の介入で緊張の糸が切れて腰を竦ませてどっかり尻もちをつく。

「あ、ああ……」

 どんな形であれ最悪な状況に発展する前に諍いが済んで良かった。

 ひとり安堵の気持ちを抱き、それに浸る余り無意識に声まで漏れ出ていた。

 更衣室で巻き起こった修羅場は、どうにか解決に漕ぎ着けた。

「静かにしろ、このだらぶつ馬鹿者どもがあっ!」

 そして、漕ぎ着けた先に待っていたのは、監督からのありがたいお説教と言う名の反省会であった。

 遅れて畑も、高橋同様更衣室に駆けつけて早々無意識に富山弁を発しながら怒った。

「か、監督……」

「練習もせずに、何やってるかと思えばこの有り様か」

 極めて残念そうにため息をし、更衣室全体を見まわすと腕を組み壁際でアレクと相対したまま固まっていた織田を見遣る。

「男子たるもの、ケンカのひとつやふたつする気持ちはわかる。だが仮にも試合を控えている身だぞ。ましてや、アレクはウチの攻撃の要で主力のひとりだ……納得のいく説明をしてもらえるか。織田?」


☆☆☆☆☆☆


 渋々織田自身の口から事の発端から現在に至るまでが刻々と語られる。途中アレクが補足と言う名の茶々を入れてきたのでそれに痺れを切らしそうになった。しかし、監督の畑から鋭い視線を浴びせられていたため流石におおっぴらに喧嘩するわけにもいかなかった。

 ひとしきり事情を聞いて、腕を組んだまま畑がきっぱり織田に非があると認めた。

「アレクもアレクだが、お前もお前だ。そもそも、先に手を出した時点でお前の負けだ。正当防衛ですらない」

 織田はひるまずに、反論した。

「監督。俺は伝統を、古き良きゴールデンフェネクスのアイデンティティを守りたかっただけなんです。なのに、菅野がおっさん――監督の先輩を連れてきてからおかしくなりだしたんです」

 すると、畑は一段階声を低くさせて唸るように追及しだす。

「おかしくなった、だと?」

「俺らの目の前に突如として現れてきて俺らの目の前で元・高校球児であることをありありと見せつけたかと思ったら、その後ずっと日本剣道形なんてやらせて。ある時は、ヒットを教えに来たかと思えば、ゴム動力だのなんだのと要領を得ない言い回しで引っ掻き回すわ。ゴロを教えに来たかと思えば、既存のゴロの捕り方を悪しき風習でしかないと言い切って先輩たちを公然と侮辱するわ。……おかげで、チーム内ではあのおっさんのやり方がはびこるようになって、気付けばかつてのゴールデンフェネクスは見る影もない。これでもまだおかしくなってないと思えますか?」

「別におかしくなっていないだろうが。今まで盲目的に黙々とやってきたことが、はっきりとした目的と目標を兼ね備えてかついい方向へと修正していっている。チーム全体に訪れている変化の兆しを逐一おかしいおかしいと取り上げて問題視している、むしろそんなお前の方がおかしく見えて仕方ない」

 自分の意見を全否定あまつさえ、己自身に批判の声をぶつけられ流石に弱気になる。

「べ、別に俺はどうでもいいんです。ともかく、俺は一主将としてフェネクスを背負っているんです。1年生のころから入団して今まで色んな試合をこの目で見てきました。そして、惜しくも敗れ、涙をのんでチームから去って行った色んな先輩たちの悲しみも見ました。そんな俺としては、現状チーム内にはびこっているこの無秩序さをただ黙って見ているというのはいなくなった先達の皆さんに対して申し訳が立たないんです! 温故知新ともいうでしょう?」

 覚えたての四字熟語を使い、今回の騒動を引き起こした理由をそう片付ける織田であった。

 これに対して、畑は一度飲み込んでから再び反論を浴びせた。

「温故知新か。織田、一応これだけははっきりとさせたいんだが、古典と時代遅れは全くもって似て非なるものだぞ」

「どういう意味ですか?」

「古典は、ざっくり言えば文化的なものだ。落語だったり、小説だったりと、『立ち止り振り返る』ために今日までその形態を維持したまま横たわっている。一方時代遅れは、『けして振り返りたくない』遺物のことを言う。それは正しく、俺や先輩たちが高校時代に受け続けてきた監督からの理不尽な仕打ちそのものだ。走るときは息を止め水も飲むな、なんてお前たちにはさせなかったのは、俺はもとよりお前らにそんな不毛なことを振り返らせたくなかったんだ」

 自身に起こった時代遅れもいい始末な所業を例に挙げて、さらに言葉を繋ぐ。

「温故知新の対義語は、懐古趣味だ。古いものは次々に新しい物へと移り変わっていくのが道理だ。古い価値観や方法を改め、常に新しいモノを模索し続けることが正しい道だ。温故知新なんて、所詮、台頭するのは『新』であり『故』じゃないんだ。俺が思うに、織田――――お前は単にそこを履き違え、古いやり方に固執し続けているだけだろう」

「ちがいます。俺はただチームの伝統がないがしろにされているのを放っておけなくて」

 だからといって、と織田の細やかな反論すらも自らの言葉で遮り畑は許さなかった。

「それが新しい考え方やり方を排斥するという口実にはならん。……ところでお前、この間の社会科のテスト何点だったんだ?」

「そ、それがいったい」質問の内容が急に別方向へと切り替わり織田がややたじろいでると、「いいから。なあ、何点だよ。教えてくれないか?」

 そう促されたので気乗りせず率直に点数を口にした。

「89点ですけど」

「確か範囲は、国内の産業と開発だったな。なら聞くが、『日本国内における国産自動車メーカーの中で、シェア一位はいったいどこのメーカー』だ?」

「……トヨタ」

 正解だ、と織田の口から直接述べられた解に丸を付けると若干顔を綻ばせ始める。

「国内シェアは実に47%、国内だけでなく世界中でもその名を広く轟かせていて、その勢いはとどまることを知らない。かつてのビッグスリー、GM・フォード・クライスラーをあっという間に追い抜いて、今なお自動車メーカーでの第一線をひた走っている。それが、お前たちが知っているというより学校の授業で教えてもらった知識の範囲内でのトヨタなんだ」

「それがいったい、うちらとどう関係があるんですか」

「まあ、聞けって。今でこそ『自動車メーカー』として名を馳せているトヨタだが、それがはたして昔から自動車の製造に着手していたと思うか? 徳川慶喜の大政奉還から100年足らずで第二次世界大戦に参戦した極東の国の一企業の車が、その辺の道を走っていたと思えるか?」

「いいえ……」

「思えないだろう。それどころか、そのころの自動車メーカーとしてのトヨタはまだまだ生まれたてほやほやのひよっこだった。さて、もう一つお前に質問するが、トヨタはそもそもなんの仕事を主としていた会社だったんだ?」

 暫く考え込み、自身の記憶の片隅にて埃を被っていた知識を持ち出し朧気に述べていく。

「確か、紡績だったような」

 その通りだ、とまたもや彼の解に丸をあげて二の言葉へと繋げる。

「良く知ってるな。まあ厳密にいえば自動織機の開発・製造と、それに伴った織物の生産と販売だ。しかし、おかしくないか? 元々機織りの会社でしかなかったトヨタがあれよあれよという間に、世界的自動車メーカーにまで上り詰めただなんて飛躍しすぎて関連付けられないだろう。しかし、信じられないかもしれないがそれが現実であり事実なんだ」

 一旦深呼吸して間を置く。

 すると、意を決したように口を開き、トヨタがいかにして世界一になったかを長々と語り出した。

「1900年代初頭。自ら興した紡績業にて一定の成功を収めたトヨタ初代社長・豊田佐吉は直後に訪れた景気悪化による業績不振の責任をとらされる形で、トヨタから追放された。紡績業から一線を退いた彼は、リベンジを図ろうと当時機械製造そして大量生産のメッカであったアメリカに渡った。現地での視察途中、彼の目に飛び込んできたものは当時の最先端技術の結晶T型フォード自動車と呼ばれる代物だった。驚いたのはそれが一台だけでなく大勢列をなして満遍なく路上を走り込んでいたことだった。しかも、車道は端から端まで完璧に舗装がなされており、豊田佐吉は脱帽した。同じ頃、日本で車と言えば馬車や人力車といったものばかりで舶来の自動車は一部の成金共にしか扱えない贅沢品でしかなかった。おまけに、まだまだ道路は未舗装ときたもんだ」

 合間に人差し指で天井を指すジェスチャーを交えて、さらに続ける。

「そして、豊田佐吉はこう分析した。『これからの時代馬車や人力車に成り代わり自動車が日本人にとって欠かすことのできない移動手段になる。そして、日本列島を股に掛けた一大交通網が張り巡らされその上を車が往来する時が必ずや訪れるだろう』――――と。ひとりの男の胸に、自動車製造という火が灯された瞬間だった。しかし、その時点で彼は既に初老を迎えていた。今から自動車の開発に取り掛かったとしてもまともにトヨタ印の車がお披露目される頃、もうこの世に自分はいないだろうと考えるに至った。かくして、彼は将来を見据えてトヨタが自動車造りに向けて円滑に進められるよう、尽力した。そして、己の息子及びそれに追従する次世代たちに自らの夢を託した彼は、さらに事業を押し広げるのに成功した会社と莫大な財産を遺し安らかに息を引き取った。生前直接示し合わせた事はなかったそうだが、彼の息子・喜一郎が自動車製造に傾注したことにより結果として父・佐吉の目論見通りにトヨタは推移していった。その後のトヨタの躍進は言うまでもない……今のトヨタ自動車を含めた全トヨタグループを統括する社長は、喜一郎の孫であり佐吉のひ孫にあたる人物だ」

「なんか聞いてて気が遠くなりそうでした。で、結局監督は何が言いたかったんですか?」

 まあそう急かすな、と織田からの催促を簡単に説き伏せて次にトヨタの成功した最大の秘訣についてさらに長々と語り出す。

「今日に至るまでのトヨタの成功の最大の理由。それは単に自動車造りに手を出したからじゃなく、紡績から自動車への分野拡大という変化を受け入れたから成功したということをお前に一番伝えたかったのさ」

「変化って?」

「これは会社の経営に限った話じゃない。組織やそれに所属する個人。あるいはヒト以外の動植物。今、お前たちが目にしているあれこれは全て絶えず変化するという途方もない過程を受け入れた一つの結果そのものだ。そして、それは新たなる変化に向けての布石でもある。だからこそ、過去に淘汰されることもなく今を健在でき、心置きなく未来を見据えることもできるんだ。逆に、そうでないものは総じて……衰退して滅びる」

 変化に対応できないものは漏れなく滅びる。

 ネアンデルタール人がクロマニョン人に比べ発声器官が未熟で人間らしい意思の疎通ができずバラバラだったためクロマニョン人に滅ぼされてしまったり、ガラパゴス島のサボテンが天敵であるイグアナに捕食されぬよう高い位置に増生しかつ長く伸びたつるつる滑る幹のある種へと進化を遂げかと思いきやイグアナ自身もその木を登るため鋭い爪を持つようになるなど独自の進化を迎えたように、森羅万象は絶えず千変万化し永久不変なものは存在しない。それは幾重にもわたり積み重なって今日まで続いた歴史が証明していた。

「それってつまり、チーム内に訪れた異常という名の変化の流れを拒み続ける俺のせいでウチら定陵ゴールデンフェネクスに未来がないってことなんですか」

「いや、決してそんなことはない。お前の頑張りが定陵に対してマイナスに働くなんてことはないはすだ。とはいえ、プラスにもならんだろうな。停滞だ。とどのつまり、今まで通り据え置きってことなんだろう。勝敗も実力も、な」

 どうしようもない現実を直視させられ、織田は黙り込んでしまう。

「………………。」

「そこまで変化を嫌うお前の気持ちも分からなくない。とはいえ、現状。要するにチームに訪れている変化の目を摘むなんてことはしてほしくない。例えばそう、菅野とか」

 畑は視線を織田から、その辺で突っ立っていただけの雄馬に切り替えた。

 急に振られ、動揺し切った感じに彼が口を開く。

「えっ、ぼ、僕が……?」

「あれ、ひょっとして自覚ナシのパターンってやつなのか」

 そんな問いに、雄馬は高速で首を横に何度も振った。

「じ、自覚も何も。僕は僕です。何も変わっちゃいません」

「何もってことはないだろう。ほんの少し前まで皆との練習でもひとりでやってたお前が、今じゃ多少積極的に一丸となり練習に取り組んでる。すれ違う時は一度立ち止ってから帽子を取って深々と礼をするようになって、この間先輩が捕手をしてた時は103㎞/hという記録も皆の見てる前でたたき出してみせたじゃないか? ハッキリ言って、お前は変わったよ。それだけじゃなく、お前は他の奴にはない素晴らしいものを持ち合わせている」

「僕が、持ち合わせている。ですか?」

 そうだ、と雄馬からのたどたどしい問いを簡潔な言葉で肯定・その根拠を述べた。

「だからこそ、お前はあの日ピロティで先輩と出会い約30年間に亘って隔絶されていた俺と先輩を結果的に引き合わせてくれた。間違いなく、お前は持っているよ」

 すると、それまで雄馬と話し合っていた畑が改めて織田に向き直り、質問を投げかけた。

「わかったろ。今のチームはまさに、生まれ変わろうとしている所なんだ。菅野だけじゃない、他のチーム全員にも良い変化が見られる。これでもまだお前は、変化することが悪い事だと思えるのか」

 極めて納得のいかない面持ちで強く歯を食いしばり、織田はそれが自分の意地によるところもあると語ったのだ。

「確かに、最初から決めつけてた俺に落ち度があるのは認めます。でも、それでも、たとえ、そうだとしても、こればっかりは譲れません。俺はどうしても、このままのやり方で勝って先輩たちの無念を晴らしてやりたいんです。自分勝手なのは百も承知ですので」

「主将……」

 雄馬が織田に対しぽつりと、残念そうに呟く。

 すると、畑の口から雄馬と織田両人ともに思いもよらなかった事を持ち掛けられる。

「そうか、それがお前の答えなんだな。そこで提案なんだが、新しいやり方か今まで通りのやり方どちらが強いのかを野球で白黒つけるってのはどうだ?」

「野球で?」

 愕然とさせられ、思わず聞き返す雄馬。

「いいっすね、それ。その方が、俺ららしいっちゃらしい決着の付け方だと思いますよ」

 対して、先の提案について自信に満ち満ちた様子で乗っかろうとする織田である。

「文字通りの新旧対決だ。お互いがお互いのやり方でしのぎを削るという、至極単純な方法だよ。ただし、条件がある。完全なる一対一、すなわち二人っきりで戦い合って貰う」

「『二人っきりで?』」

 意識せず述べた言葉が被り、雄馬と織田は互いに自分たちを見合った。

「野球なのに、二人っきり? なーんて疑問に思うかもしれないが、心配しなくてもちゃんと考えてある。面子はもちろん織田と菅野ふたりでやり合う事。先輩後輩の間柄なんか関係ない。上から直接下をねじ伏せるもよし、逆に下から思いきり上を突き上げるもよし。責任は俺がとる。さて、ここまでで異存はないか?」

 織田はきっぱりと、その勝負の提案を承服した。

「ありません」

 遅ればせながら、雄馬もその勝負を謹んで受けることにした。

「僕も……ありません」

「よし、なら早速準備に取り掛かろう。お前たちも今からスタンバっとけ。特に菅野、いい加減とっとと着替えろ」

 まだユニフォームの上だけを羽織っただけの彼に、そう忠告した。

 慌てて雄馬が腰を折り曲げて、己の不格好ぶりを謝罪した。

「は、はい。すみません」

 準備にとりかかると言って更衣室を後にする畑。

 しかし、その更衣室の入り口には騒動を聞いて駆けつけてきた野次馬根性丸出しなチームメイツが軒並み出張っている始末であった。

 だが畑は特に怒ることなく、何やってんだお前らと静かに一喝し全て終わったんだからグランドに戻れとやんわりレギュラーから補欠に至る全員に呼びかけた。

 その後、しばらく間を置いて織田が徐に更衣室から立ち去った。

 二人の間に会話はない。ひとり取り残された雄馬は孤独とは裏腹にこの場での諍いが一応終焉し、ひとまずホッとしていた。

 一方織田は外へ出てすぐのところから雄馬の居る更衣室をじっと恨みがまし気に見据えていた。

「絶対に、その泣きづら拝んでやる……今に見てろよ」

 負けない、負けられない、負けたくない。

 本当に正しいのはいったいどちらなのか、互いのこれからを賭けてグランドではその戦いの準備が畑によって推し進められていく。

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