幕間・前編 車窓での世情
空は茜色の陽が差し込んだ水色から、しんと静まり返るような濃厚な紺色に移ろいかけていた。
そんな空模様の真下を、一台のパトカーが走行している。
フロントガラス越しに見えた車中からは、人影が二人分ほど確認できた。
運転席には、おっさんが両手でしっかりとハンドルを握り真っすぐ前を見据え安全運転にと努めている。
一方隣りの助手席には、自前のランドセルを膝の上に置き車内にて揺られながら、雄馬が大人しく座り込んでいた。
車中からはふたりの会話の様子は全くない。
むしろ、互いに押し黙りそれで重苦しい沈黙に揃って浸りきっているようにも見える。
雄馬は、練習でくたびれた身体をシートに押し付けていた。
ふと、車窓から
冷房の利いたパトカーの窓は、雄馬が顔を寄せ吹き付けると途端に真白に大きく曇りがかるほど冷え切っていた。
曇ったガラス越しに、絶え間なく流れゆく街並みが見えた。
進行方向手前から電柱や建物などが眼前に流れて来て、対象が真正面に付いたタイミングで一瞬だけその全体を見通すと、すぐに後方へと追いやられて見えなくなってしまう。
ただ、一切は過ぎ去って行くのだ。
雄馬という一人の人間の都合などお構いなしに、今まさに街並みに沈みゆく夕日も、刻一刻と刻まれ続ける時間も、そしてそんな光景と状況に身を置く自分自身すらも思い出に移ろう間もなく過去へと追いやられてやがて見えなくなっていくのである。
昔から父親の転勤という名の呪縛に振り回され続けてきた彼には、心当たりがあった。
転校に次ぐ転校。
その度に繰り返される当地ごとに出来た友人たちとの、悲しき別れ。
ひとつ別れがもたらされるごとに、咎という名の彫刻刀が彼の心にまた一つ傷を刻む。
……気が付けば、心の板にはささくればかりが目立つ醜悪な地獄絵が踊っていた。
ある意味、切り捨ててきたこれまでの過去に対する正当な代償だと考えた。
むしろ、それで済むなら安いくらいだと雄馬はただ受け入れていた。
人生と言う名の乗り物に、途中下車は許されない。
雄馬の経験上、有頂天発どん底行のジェットコースターとは、一度コースターに跨ったら最後キャンセルは利かないのだ。
唯一の対処法は、せいぜい笑って下まで落ちることだ。
しかし、未だ幼く色んな意味で純粋な雄馬はなかなかその事に気が付けない。
目を瞑り、感覚を閉じる。
それが、彼の生み出した彼なりの苦しみから逃れるための処世術だったのだ。
すっかりと、気分を落ち込ませて項垂れる雄馬。
黄昏時を迎えて考え込むと、どんどんナーバスな方向へと舵を切ってしまう癖が彼にとっては玉に瑕に他ならなかった。
まだお腹もそこまですかせている訳でもないのに、なぜこれほどまでにマイナスな思考に陥っているのか。
とうに理由なんて分かり切っていた。
「ねえ、おっさん」
ひどく重苦しい沈黙に耐え兼ねてから、固く閉ざされた口を雄馬はおっさんのためにこじ開けた。
対して、しばらくぶりに彼の声を聞き、上機嫌になったおっさんは運転をそこそこに声を弾ませた。
「おうっ! どうしたんだ雄馬」
「いや、別に大したことはないんだけどさ」と、前置いて先ほど来延々と歌の調べを垂れ流すカーステレオを指差し、「もう、この曲飽きたよ」
セダンのパトカー内では、
あ、そう?
とぼけた声を上げながらも、おっさんは彼に同調を呼び掛けつつも、昔話に花を咲かせ始める。
「でも、いい曲だろう? なにせ中島みゆきが作詞曲とその歌も全部ひとりで手掛けてるからなあ。中島節もさることながら、後続の男性コーラスとのハーモニーはまさしく圧巻の一言だ。俺が今の雄馬と同い年のころのヒットナンバーでな、当時流行ってた学園ドラマの挿入歌だったからなんだろうけど、小学校で歌ってた奴がいたら問答無用で先生に張っ倒されたんだ。……だけど給食の時間に、友達の放送委員が視聴覚室で校内放送ジャックして、この歌のレコードをかけて完奏させちまったんだ。思わず拍手しちまったよ、他の皆に釣られて。まあ、その友達はその日からあだ名が『
またもや、過去話で店を広げられそうになりすかさず雄馬がぴしゃりと止めに掛かった。
「そんなん別に聞きたいんじゃなくって。なんか、今パトカー乗っているって時にこの曲が流れてると何もしてないはずなのに―――—なんか、自分が悪い事したみたいに思えて気分が悪くなる。聞いてると段々気持ちがこの曲に引っ張られていくっていうか、他に、曲はないの?」
雄馬の呼び掛けに、ない、ときっぱり言い切って見せる。
「生憎この曲一本きりだ」
「じゃ、切って」今一度カーステレオに人差し指を差し向けておっさんに指図した。「あいよ」
生返事を寄越したおっさんが停止ボタンを押し、曲はピタリと止んだ。
すかさず、沈黙がやってきた。
自らがもたらした状況にも関わらず、なぜか機嫌を損ねた様子で雄馬が手足をそわそわゆすり始める。
こともあろうに、自ら寄越してきた沈黙を自分で破り、おっさんに物言いを浴びせかける始末であった。
「あとさ、もう車走らせてかれこれ20分くらいなるけど。僕んち車ならたかだか5分くらいで着くはずなのに、さっきっから全然違うところ走行してるみたいなんだけど」
それまでカーステレオに向けられた指を、絶え間なく流れ続ける車窓の景色に方向転換させた。
辺りはすっかり暗がりが広がっている有り様である。
おっさんは悪びれもせず、適当に謝るに留まった。
「すまねえな。一応、パトロールも兼ねてやってるもんでな。そのかわり必ず送り届けてやるからよ、悪く思わんでくれ。それよか、気分転換に中島みゆきでも」
「もう、中島みゆきはお腹いっぱいなんだってば! 延々と同じ歌声同じ歌詞を聞かされるこっちの身にもなってよ」
「よし、わかった。じゃあ、俺がお前のためにいっちょ歌い上げてやる。さだまさしか? かぐや姫か? なんなら
思いもよらぬおっさんからの懐メロ特集の提案に、ひどく深いため息を吐いた。額を右手で押し抱くと、雄馬は徐に項垂れてみせた。
「もう、歌はいいよ。なんでもいいから、早くパトロールを済ませて、家に返してよ」
「まま、そう急かすな。こんなのどかな田舎だからって、まったくもって犯罪が無いことはないんだ。スピード違反とか駐禁とかもきっちりとりしまらないとな。ただでさえ、富山ってのは歩道より車道の利用率が高いんだからな。もう、猫も杓子も車ばっかりだ」
「だって、最寄りのコンビニに行くのに片道10分は余裕でかかるんだもの」
「まあ、田舎ならそれくらい普通じゃないか? 都会はともかく、交通機関に普通に事欠くここらじゃ機動力の無さは致命的だからな」
そんな駄弁りを交えながらも、パトカーはどんどん道の上を進んでいった。
すると、ここへきて夜行性なおっさんの腹の虫が活発に動き出した。
「しかし腹減ったな。雄馬、せっかくだし晩飯でも食いに行くか。もちろん、金なら俺が持つ。ここらへんに、
しかし、そんなおっさんからの誘いにも雄馬はにべもない様子だった。
「おっさん、話聞いてた? 帰るのがあんまり遅くなると、怒られるのは僕のほうなんだってば。それに、晩御飯ならいつもお母さんが作ってくれてるから、いらないよ」
「あーお母ちゃんな。そっか、そうだよなあ。お前が扶養家族だってのをすっかり失念しちまってた」
途方もなく笑いが込み上がってくるおっさんであった。
「なあ、お前のお母ちゃんってどんな人だ?」
「どんなって、料理とか洗濯とか買い物とかスーパーのパートとかやってて、めっちゃ忙しい人。でもって、怒ると金切り声で叱ってくるからめっちゃ恐い」
「至って普通のお母ちゃんだな」
きっぱり言い切った手前。さらに、それからと続けた。
「あと、ピンクとかめっちゃ好き。あ、あとお父さんより年が2コ上まわってる」
「へえ、てことはだ。
「多分。……ねえ、奥さんの方が年上なのを姉さん女房っていうけど。じゃあ、旦那さんが年上だったら
しばらく黙って考え込む素振りを見せるも、
「それは、単なる年下好きじゃねえの?」
いともあっさりと、何のひねりも無い解答をおっさんは提示した。
「なるほど」
しかしかえってそれが功名であり、雄馬も咄嗟に腕を組みながら納得の一言を漏らした。
すると、
「あっ」
ハッとした様子で雄馬が正面を見開いた目で臨んだ。
「どうした、なんか見つけたか」
無意識に、人差し指を同じ方向へと突き付ける。
左手に詰まったレジ袋を提げて、右手で小さな女の子を引く大人の女性らの姿が見えた。
雄馬はそれに見覚えがあった。
「お母さんだ。妹もいる」
「どれどれ、ああ、あの親子連れの。名前は?」
「うちのお母さん、春海ってんだ。妹は、亜季」
ほほう、とおっさんが食いつきだした。
「
「うちのお母さん
他愛もない親父ギャグをマジになって返す雄馬に、おっさんはずっこけそうになった。
車中であるにも関わらず。
「いや、そうでなくて……なあ、どうする? お前ふたりに声掛けて来いよ」
え、なんで。
唐突に振られて、素っ気なく返した。
「なんでってお前。家族だからだろ、ただいまくらい言ったっていいだろう」
「ただいま、なんて。そんな言葉、僕何年も言った事ないよ」
衝撃の回答に、おっさんは思わず舌を巻いた。
怪訝な表情で見遣りながら、すっかりと調子を落とした声つきで雄馬に聞き返した。
「ウソだろおい」
「いや、ホントだよ。お母さん午後から夕方までパートで帰ってこないから、先に帰っても家には誰もいないんだ。……誰もいない暗がりの広がる玄関で、ただいまって言っても仕方ないでしょ」
帽子のつばをつまみながら、雄馬の話に耳を傾ける。
思わぬ共働き世帯の闇を垣間見た所で、やや疲れた様子でため息を吐いた。
「そいつは、難儀な話だな。それなら、なおさら言わなきゃ駄目だ。ほら、あのふたりに車寄せるから言っちまえよ。窓も開けといてやるから」
そう言って、おっさんが運転席側から雄馬のいる助手席側の車窓が開くように操作しだした。
急に開かれたことで車内に立ち込めたきな臭い空気が、一気に外へと抜け出ていく。
突然外気に触れた雄馬は、すっかりパニックになったあまり開けられた窓をこちらからスイッチを操作して閉じてしまうのだった。
「ちょっと、待ってってば。開けないで。勝手に、開けないでよ!」
なんだよ、と。
おっさんはそんな雄馬に対して、至って不満げだった。
「こっちは親切でやってやったんだぞ。……あーあ、通り過ぎちまったよ」
どんどん後ろへと流されていく母親と妹を背に、雄馬はすっかりと身体を強張らせている始末である。
「ご、ごめんなさい。でもっ、まだ心の準備が」
「たった一声掛けるだけで、そんなに堅くなるなよ。別に
「は、はあ」
おっさんが深呼吸を促して、ようやく雄馬は余分にみなぎっていた力を解くことができた。
そんな様子の彼に、おっさんは蚊の鳴くような声で思わずぼやいた。
「……最近のガキときたら、てんで小さくまとまっちまいやがって」
名残惜し気にそのまま車を走らせていると、夕方の帰宅ラッシュ時に発生した渋滞に突如捕まってしまう。
文字通り二進も三進もいかなくなった状況を、おっさんは好機と捉えた。そして、すかさず隣の雄馬にとけしかけ始めた。
「お、渋滞だ。チャンスだ雄馬。窓を開けとくから、スタンバってろよ」
「わ、分かったよ言うよ。やっぱり、こういうことはちゃんと言っておかなくっちゃ」
違えねえ。
決意を新たにしてやたら精悍な顔つきで迎えんとする雄馬に対し苦笑しながら、おっさんは肯定していく。
すかさずおっさんが運転席から助手席側の窓を開けてあげる。
「俺が、クラクションを鳴らして惹き付けてやるから向こうが近づいてきたら、とっとと言いな」
再び雄馬が硬直しないように、おっさんが優しく語り掛けてきた。
「うん、おっさん」
雄馬はそう言って、おっさんからの忠告を飲み込む。
しばらく雄馬がサイドミラーで後方を確認していると、さっきまいたばかりの母親と妹のシルエットが小さく見えた。
ふたりが、段々とこちらにと迫ってくるのを実感した。
来たよ、と振り返り隣のおっさんに合図する。
「よし、鳴らすぞ」先ほどの提案通りクラクションを一回鳴らしついでにダメ押し気味にハンドルの真ん中に手の平を押し付けて、「さらにもう一発」
二回目のクラクションが鳴った時、ちょうど進行方向から見て左側から母娘のふたりの連れ添った影とパトカーが重なり合う。
すると、雄馬の妹・亜季がけたたましく雄叫びを上げるパトカーの存在に気付きだした。
おっさんの目論見通り、まずはこちらに興味を持ってこさせるよう仕向けた。
珍しもの好きの亜季は、円らな瞳ををまるで宝石のように輝かせながら春海に呼びかける。
「あっ、パトカー! お母さーん、パトカーだよ。パトカー!」
その呼びかけに春海も途端に立ち止る。
そんな彼女は、Tシャツにスキニージーンズといういつも通りな装いであった。
亜季の音頭に乗ってあげると、春海は次のように聞いた。
「本当だ、パトカーだねえ。亜季ちゃんは、パトカーが好きなの?」
「うんっ、好きー」
そう答える亜季はそれまで引かれるために握っていた母親の手を離し、グッとパトカーに近寄って来た。
天真爛漫な様子の亜季は、恐らく母親によって被らされたであろうつばの広がった麦わら帽子を頭に装着し、恰好はほんのり赤みを帯びた桜色をした膝丈の長さのワンピースでコーディネートされていた。
あんまり近づくと危ないわよ、と春海が静止を呼びかけた。
家でも外でもあまり変わらない様子で迎えてくる菅野家一のお転婆姫を見、ニヤニヤさせて雄馬が軽く手を振った。
必然的に下からその様子を見上げる恰好となった亜季がそれに気づき、
「あっ、お兄ちゃんだ」
屈託のない笑顔を浮かべながらその存在を春海にも明らかにした。
だが、それには乗らず春海は声色を一段階トーンダウンさせて、物々しく言い放った。
「亜季ちゃん? パトカーはねえ、お巡りさんとそのお巡りさんが取っ捕まえた悪い事した人が乗るものよ。亜季ちゃんのお兄ちゃんは、お巡りさんでもなけりゃ別に悪い人でもなんでもないでしょ」
とは言え、亜季も亜季で嘘は口にしてないので、簡単には引き下がれなかった。
「ウソじゃないもん。ちゃんと乗ってたし、手も振ってくれたもん」
「コラ! 亜季、いい加減にしなさいっ! 一昨日だって、お兄ちゃん亜季にステーキ半分こしてくれたんでしょ。そんな風に悪くいわないの、警察に逮捕してもらうよ?」
駄々をこねる子供への
しかし、それでもなお亜季は食い下がってみせた。今日ばかりは、そんな根拠も権限もない脅しには屈さないという強い決意を滲ませる。
「だって」
「だってもへちまもありません。そんなわけ……」
叱りつけるためにそれまで亜季に向けていた視線を、咄嗟にパトカーへと切り替える。
春海の眼前にて、パトカーの助手席で礼儀正しく腰を掛けた様子の息子・雄馬の姿が飛び込んできた。
開いた口が塞がらないまま、パトカーの前にて立ち尽くす。
夏の暑さと連日出ずっぱりなパート作業で疲れが溜まっているのかいつもより20歳くらい老けたように、雄馬には見えてならなかった。
もはや力なく立ち尽くすだけの存在となった春海は、左手に提げられたレジ袋を手放し落として、アスファルトの上にて購入した物々を散乱させてしまった。
興奮している妹と、冷めきっている母親。対照的なふたりを一緒くたに目の当たりにして、すかさず雄馬が手を振り声を掛ける。
「た、ただいま………………お母さん、亜季も」
「おかえりー!」
亜季は元気いっぱいに、手を振り返した。
思いがけず訪れた家族の団らんの一時に、雄馬は顔をさらに綻ばせた。
だが、終わりは突然やってくる。
それまでを見届けていたおっさんが、運転席側からスイッチを操作して助手席側の窓を閉じにかかったのだ。
「あっ、窓が……なんで」
咄嗟に運転席を見遣った。
おっさんは、前を見据えて両手でハンドルを握り緊めて直していた。
「悪いが、もう青信号なんでな」
いつの間にやらとっくに渋滞は解消していた。おっさんから見て背後に付けていた車が動き出したのを機に、おっさんはアクセルペダルに足を踏み込ませた。
スタートがかかってもなお、雄馬は窓の向こう側にいる家族に対して儚げに手を振り続けた。
どこかへお出かけするのだと思い込んだ亜季は、そんな実の兄の旅立ちを心から祝った。
「バイバーイ!」
大手を振って清々しく見送る亜季、それに比べ極めて狼狽しきった様子で全くもって名残惜しそうにパトカーを半狂乱で追いかけ止めようとする春海だった。
「ま、待って! そのパトカー、ちょっと待って! お願い行かないで。待って……待ってってばあ‼」
たったひとりきりのシュプレヒコールのさざ波を、無慈悲にも一台のパトカーは通り過ぎていく。
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