第7回 おっさんの野球指導教室~その2~

 チームメイツは練習場所をグランドから、すぐそばの吹き抜けのピロティへ移った。

 彼らはバットを持ち、各々でおっさん考案の練習をすることになった。

 それは素振りやノックと等の、所謂普通のバッティング練習とは異なものだった。

「やあっ」「とうっ」

 先のような、二人一組で合わさる音声が相次いで発せられてコンクリート張りのピロティの床や壁を這うようにして、響き渡る。

 声に合わせて、組み合った少年たちがバットを手に立ちまわり続ける。

 それら一部始終を、おっさんと畑がふたりして仁王立ちの姿勢で見守っていた。 少年たちの自主性に委ねたいというおっさん側の要望を、畑が受諾する形でもって、向こうから持ち掛けられる場合でない限り揃って、押し黙って眺めることにしたのだ。

 練習が始まりふたりが一言も発さずに並び立って観察するようになり、早十数分。

 そんな気まずい沈黙に耐え兼ねた畑は、わざと一度だけ咳払いを挟むと、隣に居るおっさんに話しかけ始める。

「あの、先輩。これはいったい何の練習なのですか」

「何って。それはお前、」話しかけられた方に一瞥暮れた後に眼前のチームメイツを顎で指し示しながら「日本剣道形にほんけんどうがたに決まってるだろう」

 断言されてしまい、仕方がなくもう一度視線を少年たちに向ける。

 その一挙手一投足に対して、気を配りつぶさに目に焼き付けた。

 やはり、どうみても彼らの動じ方は、所謂野球の練習のそれには見えなかった。 目の前で繰り広げられる光景に躊躇と困惑を抱きつつも、正直な感想を上げた。

「全くもって、野球関係ないじゃないですか。いや、関係ないどころかむしろ全く別の競技の、別の練習にわざわざ付き合わさせてるじゃないですか」

「ばか言え、これだってれっきとした野球の練習のうちだよ」

「その割には、さっきから見てて野球要素が一欠けらも残ってないんですけど。せいぜい木刀の代わりにバットを使わせてるぐらいしか見当たらないじゃないですか」

「それだけじゃないだろう。バット以外に、本来は胴着と袴を履いてやる所を今回は野球のユニフォームで上下統一させてるし、素足のかわりにスパイクだって履かせている。だから、これは野球の練習の一環なんだ」

 あくまで最初の構えのまま強硬に主張を続ける。

 畑は少し頭を抱えたくなった。

 しかし、先の発言すべてを屁理屈だとすぐには一蹴しなかった。

 きっと何か考えがあって、わざわざこんなことまで彼らに課しているのではないか、と。

 頼りにするにはいささかか細すぎる理だった。

 が、かつての女房役だったよしみを感じて、一応信じてみようと結論付けたのである。

 白髪交じりの後頭部を掻きながら、畑は細く長いため息を放出させる。

 すると、隣のおっさんが、畑の肩を強く叩いて正面への注目を煽った。

「見ろよハタ坊! あの子ら、今から打太刀うちたち仕太刀したちを入れ替えるみたいだぞ」

 眼前にて、控えの1年生の二人組が攻守交替してそれぞれが木刀に見立てたバットを持ち換え練習に臨んでいく。

 事前におっさんがチームメイツに教えた形は、太刀七本ある内の五本。つまり、面抜き面。手抜き籠手。突き返し突き。突き返し面。そして、面擦り上げ面までだった。

 ふたりの一年生同士はすでに一通りやったが、打太刀仕太刀を取り換えて今一度面抜き面から始めようとしていた。

 おっさんと畑の方へ背中を向けている一年生が仕太刀から打太刀。

 それと対峙しているもう一方の一年生も、打太刀から仕太刀に切り替えていく。


 一年生ふたりが相対すると、徐に上段の構えへとそれぞれ移行し始める。

 と、同時に打太刀側が左足を一歩前に踏み込んだ。

 一方が右足、もう一方が先に差し出した左足を前に送ると互いに間合いを詰め寄らせる。

 きっちり三歩ずつ踏み込んだところで、お互いが一旦立ち止まった。

「やあっ」

 そして、最初に技を仕掛ける側の打太刀が声を発しながら、引っ込めていた右足とともに両手で掲げていたバットを振り下ろした。

 それに合わせて後から打太刀を迎えうつ側である仕太刀が、一旦すり足で後退して打太刀からの一振りをやり過ごしていく。

「とうっ」

 間髪入れずに、仕太刀が後ずさった所から一歩前に踏み込んで、がら空きになった相手の頭目掛け振り下ろした。

 もちろん、本当に当てる気はないので頭の上ギリギリで寸止めさせる。

 その後バットの先端を打太刀の眉間まで持ってくると、その位置でピタリと止まった。

「ちょっと、後ろ下がってよ」

 仕太刀から言われ、えっ、と打太刀がとぼけた返事をする。

「切っ先が眉間に定まる前に一歩下がるって、あのおっさんも言ってたじゃんか」

「そうだっけ」

 そうだよ、と強く打太刀に対して言い切った。

 仕切り直しということで、双方ともに所定の位置にまで戻った。

 再び、打太刀側からの掛け声とともにバットを振りおろし、それを仕太刀が軽くいなして先ほど同様に掛け声とともにバットを振り下ろした。

 今度は打太刀が一歩退き、眉間にバットの先端をしっかりあてがわせる。

 今度はミスせずにやってみせたと、安心したのでバットを振り下ろした姿勢のままさらにもう一歩下がる。

 それにあわせて、仕太刀側も打太刀の眉間に定めた姿勢のまま、すり足で前に出る。

 すると、今度は打太刀側から、

「そっちこそ、おっさんの言ったこともう忘れてる。こっちが一歩下がった後で一歩進めるのはあってるけど、そのときはバットを上に構えなきゃ。あと、前に進めるときはすり足の両足でなくて、左足だけを前に差し出すんだって」

 仕太刀側のミスが指摘される。

 仕太刀を担った一年生は、自分でもびっくりしているようだった。

「あっ、ごめんごめん。つい、うっかり」

 

 それら一部始終を見届け、おっさんは噛みしめるように何度もゆっくりと頷き始める。

「ハタ坊。今ので、何か感づかなかったか」

 急遽振られて、畑は焦り出す。

 剣道に関して知識ゼロな彼は、仮にも有段者の実力を誇るおっさんを前に何も言葉が見つからない。

 かと言って、何もわかりませんでしたと開き直るにはまだ早すぎる。

 回答に困ったあまり、天井を見上げた。

 一面コンクリート張りの空からのお恵は、生憎期待できそうにはない。

 無言のままは流石に不味いと思った畑は、高校時代ですらお目に懸かれなかった輝いた眼差しを送り続けているおっさんに対して、どうにか悟られまいと適当な言葉を並べ立て始める。

「ああ、えっと、まああの、そうですね」

 同時に、先ほどまでの一年生同士の練習の光景を思い出して考えを巡らせていく。

 どちらも剣道に関しては素人並だったのもあるが、それ以上にやはり普段やり慣れている練習と180度異なったことをやらされているので小さなミスを連発してしまうのだろう。

 いくら有段者であるおっさんの教えがしっかりしていたとしても、それらを一朝一夕で習得するのは至難の業だ。

 なぜなら、脳内で記録再生された『動』と、実際に己が肉体に落とし込ませた『動』には決定的な差が存在している。

 頭の中の記憶とは結局どこまで行っても平面的にしか残らず、けして俯瞰ふかんで見た現実を凌駕することはありえないのだ。

 奥行きに関する情報が欠落しているにも関わらず実体で再現を試みると、大抵失敗してしまう。

 百聞ひゃくぶん一見いっけんかず、一考いっこう百見ひゃっけんを上回る。

 だが、思考を幾百と続けてもたった一回の行動には、到底及ばないのである。

 到達した真理を前に、畑は改めて失敗づくしで散々だった一年生の様子を今一度思い浮かべる。

 やがて、気付いた。

「まさか先輩」

 ハッとした表情で、おっさんを見遣る。とうのおっさんは、無言のまま『ご明察』と顔に表していた。

「二人一組でバットを交じえて練習させたのは、それぞれで練習の様子を監視させ合うため。なおかつ、片一方が何かしでかしたらすぐに指摘して早急な改善を働きかける。そうすることによって、日頃の全体練習漬けでぼやけてしまっていた『本来のポジション』を自分の中で思い出させられる」

 そういうことですか? 

 練習の意図について長々と述懐してくれた畑に、おっさんは反復で肯定した。

「そういうこと。ま、あくまで建前だけれども気分転換にはもってこいだろうと思ってな。月並みかも知れないが、新しいやり方を実践するにはまずそれまでのやり方を一度真っ新に返す必要がある。途中まで描いていた絵を最初からやり直すみたいに、白く塗りつぶすんだ。その上から新たに塗り重ねていけば、塗りつぶした前の色がぼんやりと浮かんできて、かえって真新しいキャンバスの上に新しく描いただけの絵よりも雰囲気と味がでてずっと良くなる」

「つまり、以前からの教えも無駄にはならない、と」

「第一、そんな簡単に切り替えられるほど人間は便利じゃないだろう。子供ならなおさら、むしろ卸したてのスポンジみたいに吸水力がダンチなのさ。定期的に絞ってやればまた何回でも吸収できるし、何回でも使えるからな」

「そういう事もきちんと織り込んだ上で、させてたんですね。俺みたいな教科書通りの教え方をさせるような人間には思いつきませんでしたよ。しかし、この練習方法はどのような経緯で培われてたというのですか?」

「昔、俺が小学生のころ少年野球の傍ら警察署の剣道教室に通っていたことがあったんだ。ほら俺、親父が警察官やってたからその縁でさ。それで、俺に剣道の形を叩き込んでくれたのが機動隊の兄ちゃんらなんだよ。あの人たちの教え方といやあ、そりゃもうとびっきり厳しかったさ。他の皆もろとも、俺も練習の度にボコボコやられまくってよ。それに、機動隊員だからみんな背がでけえの、もう怖えのなんのって」

「いや。別に、先輩の日本剣道形の習得の経緯を知りたいんじゃないです。つまり、野球少年たちに、あえて畑違いな剣道の練習をさせるというような柔軟な発想の源はどこから来るのか。それを、俺は知りたいんです」

「……ちょっと長くなるけどいいのか」

「バッチ来いです」と、答える畑に「いい返事だ」とおっさんは称えた。

「俺が小学生の頃、野球は専ら親父に指導してもらってたんだ。それは良かったんだが、所詮は巨人フリークの生兵法なまびょうほうだから小学校を卒業するころにはいらんクセがすっかり身に付いていた。中学の野球部に入りたての時は、自分の球威に自信があったからコーチに試合に出してくれるよう頼み込んだんだ。けど、監督はプレー時の俺のクセを完全に見抜いてて、そのクセを完全に克服するまでは絶対に登板させないって断言されちまったってわけさ」

「それで、どうしたんですか?」

「一旦、野球から離れてみようと思ったんだ。代わりに他の事を、野球やってる時と同じくらいの熱量でやりまくったんだ。勉強に読書、委員会の仕事なんかも、とにかくできそうなことは片っ端からしてやった。もちろん、部活がある日は休まず顔を出したぞ。練習はそこそこに、主に雑用をこなしていたけど」

 なるほど、と畑が一拍置いた。

 それで、と再び口を開き続きを催促しだす。

「収穫は、あったんですか? あえて、自分から野球を遠ざけてみて」

「もちろんあったさ。俺が他の事に取り掛かろうとした時には、いろんな人たちが俺にアドバイスをしてくれた。担任の先生に同級生の図書委員、生徒会長なんかも。そうやって色々な話を聞いていくうちに、最初からそれに疑ってかかるよりもまずは騙されたと思って、相手を信じてやってみようって意識に変わっていったんだよ」

「でも、かと言って相手の言ってること全てが正しいとは限らないでしょう。逆にそれで痛い目にあったら……」

「うだうだ言う前に、まずやってみる。やらないで痛い目見るよりかは、そのほうがずっとマシさ。ともかく、色々と首を突っ込んでみたら返って見識が広がるようになって、少し聞き分けも良くなった。おかげでコーチからの正しい野球のやり方の指導も素直に聞けるようになって、その年の夏から先輩たちばかりいるスタメンにちょいちょいお邪魔させてもらえるようになったんだよ—―――とまあ、俺のフリーダムでフレキシブルな野球スタイルってのはこういう経験の積み重ねから生まれたといっても過言じゃない」

「先輩のスタイルって、どちらかと言えばクレバーにも思えますけれど。やっぱり俺なんかじゃ先輩には敵いませんよ。俺よりも教えるのに長けてますし」

「マジで?」

「正直、そんな先輩に嫉妬している自分がいます」

 熱い視線を送りつけてくる後輩に。

 イヤ、イヤ、イヤ、イヤ! と頑なに否定し続けるがおっさん自身は、そう言われて不思議とまんざらでもない表情を浮かべていた。

「そんなこと言われたら、こっちが逆にヤケちまいそうだ。恥かしくって」

 徐に帽子を目深に被りなおすと、あからさまなキメ顔を畑に差し向けながら次のように言い切ってみせた。

「俺に触ると……火傷するぜっ」

ふるッ‼」

 そうして、ふたりはまた顔を見合わせて大きく笑い合った。ピロティにて奏でられる親父同士のデュオは、校庭に植えられた木立から発せられる夏の蝉の大合唱すらもたやすくかき消してしまう。

 暫く笑い続けてから、おっさんはふとチームメイツに視線を向けた。

 真っ先に眼前に飛び込んできたのは、先ほど来互いのミスを指摘し合っていた控えの一年生コンビであった。

 すでに、一本目はやり終えこれから四本目の段階に差し掛かろうとしていた。

 すると、途端に辺りが気になり始めたのかおっさんはなぜか頻りに見回した。 

 突然の挙動にギョッとしながら畑が、どうかしましたかと問いかけてくる。

 だが、それには一切応じずに、眼前に控えた一年生たちのもとへとまっしぐらに歩み寄った。

「やあ、おつかれ! 練習は楽しいか?」

 声に応じて、こちら側に背を向けていた打太刀の少年が振り返る。

 少年はバッティングフォームの要領でバットを立てて己の右側に寄せる、『八相はっそう』の構えのままで挑んだ。

「あ、監督の先輩のお巡りさん。お疲れ様です。とっても楽しいですよ! なんだか、自分が侍になったみたいです!」

 そうかそうか、と納得しながらおっさんが彼に問いかけていく。

「ところで、ひとつ聞きたいんだけどさ。雄馬ゆうま……菅野って子、どこいるか知らない?」

菅野すがのさんですか? さあ、どこにいるのやら」

 答えあぐねる彼に成り代わり、向かいのほうで脇構えの姿勢で佇む仕太刀の子が答えた。

「菅野さんなら、さっき黙ってピロティから出ていくのが見えましたよ」

 首をあちら側へ伸ばすと、確認しにあたった。

「出てったのか。こんな、炎天下なのにか」

「多分、外で水飲みに行ったんだと思いますよ」

 

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