第5回 紺服の来訪者
迎えて、平日の放課後。
グランド上には、
今日の練習に備えて、自分たちが使う範囲のグランドを六年生以下の各チームメイツがトンボを駆使して砂地を一斉にすいていく。
無論5年生である
みんなと同様に両手で携えたトンボを砂上目掛けて構え、逐一腰を入れ丹精込めてグランドを少しずつ整地していく。
無言のまま作業を進める。
だが、雄馬の心中は得もいえぬ不安が渦巻き穏やかさとは程遠かった。
ふと、昨日の、おっさんの口ぶりを思い返す。
確かにあの時、自分の目を見て今日の練習に付き合ってやると言い切っていた。 それも自分だけでなく、ここにいるチーム全員にもれなく手取り足取り野球のいろはを叩き込むとも宣っていたのだ。
威風堂々と胸を張り一切包み隠さない様子のおっさんが頭の中で再生されると、途端に半信半疑な思いが雄馬の中で芽生え始める。
はたして本当におっさんがここに来てくれるのだろうか。
もちろんそんな思いもあるにはあった。
だが、それ以前に彼自身は頭頂部が若干禿かけた言い出しっぺのあの男のことをこれっぽちも知らないのだ。
とどのつまり本名も素性も何も知らぬまま、昨日一昨日と立て続けに
にも関わらず、何も疑わずすべてをおっさんに委ね信用するというのは、小学生の雄馬からしてみればあまりにも酷な無理難題であった。
悪い人ではなさそうだ、と。
おっさんとの初対面時では確かにそう思った。
だからといって、おっさんがいい人であるともいまいち信じ切れなかった。
そんなどっちつかずな自分に、雄馬は業を煮やしていた。
実の両親が喧嘩した時と同じような重圧に押しつぶされそうになっていると、突然の怒号がグランドの片隅から発せられた。
雄馬を含めた定陵ゴールデンフェネクスのチームメイツが一斉に、声のした方へ視線を合わせた。
その先には、チームメイツと同様のユニフォーム姿で仁王立ちをするひとりの大兵肥満の中年男性がいた。
「全員、集合ッ!」
すると、全員トンボを置いてそそくさと男の元へ駆け出した。
男はピロティを背にして立つと、自分の周囲を取り囲む要領で全チームメイツが集結しているのを目でざっと確認した。
その人だかりの最前列には、レギュラーメンバーの9人がが雁首をそろえて出張っていた。
そんな彼らの後ろでざっくばらんに並び立っているのは、まだ一回もスタメンで起用されたことがない所謂「控え」と呼ばれるチームメイツの面々だ。
当然、雄馬もそんな「控え」という名の馬群の一頭として、突然のチーム招集に臨んでいた。
辺り一面に広がる静寂。梅雨明け直後の強烈な日差しが、チームメイツの浅黒く焦げた地肌に大粒の汗を纏わせる。
グランド上では、血気盛んな野球少年たちの熱の籠った息遣いが細やかに聞こえるだけだ。
誰も言を発さないのを聞き届けてから、男もといチームの監督である
チームメイツを真正面に、再び怒号を張り上げた。
「気を付け、休めッ!」
その言葉に応じて、全チームメイツがただ突っ立っているだけの姿勢から両腕を背側に回して、両脚を己が肩幅ほどに開かせた姿勢で立ち尽くす。
視線が一斉に降り注ぐ中、畑はそれに臆さず彼らと同じ姿勢になりながら大声を発した。
「お前たちも分かっていると思うが、あと少ししたら夏休みだ。夏休みに入ったら、お前たちに待ち受けているイベントがある。そのイベントとは、毎年の夏休み恒例、定陵市が主催で行われる少年野球の、少年野球による、少年野球のための大会。所謂、第45回定陵市少年野球大会が今年も執り行われる予定だ」
そこまで言ってから、畑は両腕を背中から前へと持ってきて、腕組みをし始める。
体勢を少し変え、さらに報告を続けて行う。
「かつては、ウチらも強豪チームの一角として名前が知れ渡っていたが、ここ数年優勝から遠ざかっている。優勝までもうひとつというところで、これまで何人もの先達が涙をこぼしたことか。今年は、なんとしても優勝を勝ち獲りたい。そのためには、是が非でもお前たちには頑張ってもらいたい。……いいなッ!」
はい、監督! チームメイト達は、皆口を揃えてこれに応じた。
「だが、ウチらには優勝以前にもっと大事なことがある。もちろん市の大会にむけてこれから練習なり猛特訓に励むのもいいが、ウチらには肝心なる大会の前に絶対に負けられない戦いがある。それは、」
途中から項垂れさせていた首を起すと、畑はすぐそばで控えていた9人の内ひとりを直接指名した。
「――――なんだ?
織田と呼ばれた5厘刈りで畑同様貫禄たっぷりの6年生が、一歩前に出て答える。
「はいっ、市の野球大会の前に行われる、恒例の隣町のチームとの強化試合ですッ!」
簡潔に述べた後、織田はすぐに一歩引いて元の立ち位置に着いた。それを見届けた畑は、その通りだ、と彼の言葉をあからさまな大声で肯定する。
「今、
言葉からも顔からも悔しさを滲ませる。
畑は薄黄色の地面を一瞥してから、右手で拳を作りそれを目の前にもってきた。 チームメイツに対しこれ見よがしに晒した握り拳は、怒りからかそれとも武者震いという奴なのか、かすかに震えている。
それだけでは貧しいと思った畑は、拳をそのままに、わざわざ宿敵の名前すらも引き合いに出してまで彼らに発破をかけてくる。
「大会の前に今年こそは隣町の宿敵、『
突如として、気まずい沈黙が舞い降りてきた。
例によって皆だんまりを決め込んでいた。
監督の畑に最接近しているレギュラーの9人もそれに漏れることなく、一様に目を伏せている。
雄馬はそれらを後方から観察し、さらに、自分同様周りの控え選手の様子をキョロキョロ見まわした。
誰も指一本動かしてないことを改めて、彼は認識した。
そして、開いた手をゆっくり上へ上へと持ち上げようとしたその時だった。
「では、誰もいないようなので――――」
手が上がり切ったのとほぼ同時に、畑が集いそのものを打ち切ろうとして口を開いた。
慌てて雄馬は、咄嗟に大声を上げて無理矢理その口上を阻む。
「ま、待って! 待ってください、監督」
思わぬ横やりに畑は、口元を「え」の形のまま硬直させ目も白黒させてしまっていた。
調子を狂わされたと思いつつ、すぐに気持ちを切り替えて目線を後方の雄馬に合わせた。
「お前は……
「監督。実は、あのう……」
雄馬は提起しようとしたところで、ハッとした。
なんと、隣の控え選手がこちらをまじまじと見ていたのだ。
逆隣りにいる控え選手もまた、彼のことをジロジロ眺めていた。
彼らだけではない。
気が付くと、最前列に位置するところからチームのレギュラーメンバー全員が、雄馬に熱い視線を送っているのだった。
「うん? なんだ。何か、変わったことでもあるのか」
おまけに、監督の畑もこちらを凝視しながらしゃべっていたから、次第に雄馬は萎縮し始めた。
言葉に詰まり、目線は下に追いやられ、彼の顔は彼自身もまるで火を噴いているかと思うくらい熱く迸っていた。
「そ、その、何というか。えっと」
何を言うべきかは分かっていた。
あとはそれを声にのせて監督自身の耳に直接聞き届けるだけだった。
ところが、肝心の言葉が喉元に差し掛かると途端に通りが悪くなり、言葉が全て詰まってしまう。
原因はやはり、監督及び全チームメイツからの注目であがってしまったからだった。
まさに、しどろもどろな態度で迎えてくる雄馬に、段々と畑も苛立ちを見せ始めた。
「何なんだ」
「あ、あのですね。実は」
畑が語義を強めても、雄馬は一向にたたらを踏んだような言葉遣いで挑み続ける。
とうとう、そのいつまでも煮え切らない様子に痺れを切らした畑が、声を張り上げた。
「ええい、菅野いい加減にしろ! あるならある、ないならない。男なら、はっきりものを言ってみろ。さあ、言えっ。言うんだっ」
畑の勢いに圧されるが、それもあってか不思議と胸のつかえがとれた気がしてむしろ清々しく思えた。
ここまで来て今更後戻りなんてできない。
腹を括った雄馬は、昨日一昨日とピロティで出会ったおっさんのことを洗いざらい白状した。
一切を語り終える頃には、あたり一帯は微妙な空気に包まれた。
畑は引き攣った顔で怪訝そうに雄馬を見、ギャラリーと化したチームメイツはひそひそと話し込んでいた。
雄馬は話せば多少の難色を示されるということを、あらかじめ覚悟していた。
だが蓋を開けてみれば、難色を示すどころの騒ぎでなく
まさか初っ端から暗礁に乗り上げてしまうなどとは、流石に想定していなかった。
取り付く島もない状況に曝され、あてもなくきょろきょろと思わず辺りを見回す。
もしかして、とか。やっぱり、とか。それって、とかなんとかと言った言葉ばかりが断片的に彼の耳に入ってくる。
雄馬は、ひとり歯がゆさを噛みしめていた。
男ならこそこそ言わずハッキリとモノを言えばいいのに、そうした方がずっと気が楽でいい。
すると、そんな雄馬の期待に応えるかのようなタイミングで、畑が皆の言わんとする言葉を彼らに成り代わり徐に言及しだした。
「なあ、菅野。ひょっとしたらそいつは、不審者なんじゃないか?」
あらぬ疑いを寄せられていた事に雄馬は驚愕した。
驚愕するあまり、返す刀で反論しようにも冒頭から言い淀んでしまう。
「い、いいえ。違いますよ、確かに最初は少し怪しいくらいでしたけど話してみると結構感じのいい人っていうか」
「少なくともお前の感じ方次第ではそうなんだろうが、傍からこうして聞けば聞くほど怪しさしか感じないぞ。やっぱりお前、そのおっさんとやらにちょいと騙されているんじゃないのか。いざとなったら、俺の口から直接然るべき機関に通報してその不審者とやらに対し然るべき対処を……」
聞けば、洒落にならなくなりそうなことを畑が口走っていた。
あわてた雄馬が、話の腰を折るのも承知で必死に訴えかける。
「ちっ、違いますって。誤解ですよ誤解! それに不審者じゃありませんって。どっちかといえば、その、不審者風。そう、その、おっさんは不審者風だったんです。確かに恰好はだらしなかったし、なんか明るいうちに学校の中をうろついていましたけど、それでも悪い人じゃなかったんです。だから、不審者なんかじゃありません。強いて言えば、不審者と似た雰囲気を併せ持った通りすがりのただのおっさんなんです」
あまりにも、苦しい弁解であった。
言ってる雄馬本人でさえもそう感じるほどだ。
ひとり泡を喰う感じの彼に、監督である畑も流石に受け止めきれんとばかりに大きくため息をつく。
「……不審者と似た雰囲気を併せ持ったって、それはもうほぼほぼ不審者と言っているようなものじゃないか。まあ百歩譲って不審者じゃなかったとしても、だ。生憎俺はそいつを信用しきれん」
雄馬の弁解に対し一定の理解を示す畑。
とはいえ、あくまでも自分の否定的な姿勢を崩そうとはしなかった。
「そいつは元・高校球児とも自負していたんだろう。まずそこが気に食わん、同じ元・高校球児であるこの俺を差し置いて野球の指導者面ぶっているのがまったく気に食わんのだ。しかも、そいつは今日ここに姿を現すというじゃないか。このご時世、こんな明るいうちから定職にも就かずプラプラ小学校にやってこれるなんて、そのおっさんはいったいどういう神経をしているんだ」
真正面から正論をぶつけられ、雄馬はただ黙って聞くことしかできない。
他のチームメイツとともに完全に口を閉ざしていると、畑から直接指をさされてここぞとばかりに力説されてしまった。
「ともかく、だ。誰がなんと言おうが、俺はそんな訳のわからぬ輩をこのグランドには上げさせん。少なくとも、俺の目が黒いうちは勝手が許さん。もし怪しいやつを一回でも見かけたら、チームの一
左手を輩に見立て、それを未だ握りしめていた右拳でぐりぐりと押し込んでいく。
それを見た雄馬はただ唖然とするしかなかった。
そんな不審者狩りに闘志を燃やしている畑の後ろから、唐突に何者かの間延びした感じな声がグランド中に響き渡った。
「ほうほう、それは実に熱心な心がけですなあ。ちょいと立ち聞きさせていただきましたが、ひょっとして不審者でもこの近辺に出没いたしましたか? 最近、物騒ですねえ。こんな田んぼと湿気だらけの田舎でさえ、犯罪の魔の手が差し迫っているとは」
不意打ちすぎる掛け声に驚いた畑は、反射的に振り返り絶叫した。
「誰だあんたは⁉ 一応、ここは小学校の敷地内なんだぞ。関係者以外の人間は許可なく立ち入ってはいかん」
突然の
湧き上がった激情のあまり、畑は眼前のチームメイツに今一度怒声を浴びせにかかる。
「というか、お前らそこからなら確実にコイツが侵入した瞬間を目撃していたはずだろう! なんで誰も何も言わなかったんだ⁉」
「………………。」
そう問われた彼らは、皆押し黙ったままそれぞれ立ち尽くしていた。
普段から、怒声や雰囲気で威圧をかけながら指導し続けた結果。
彼らは監督である畑がしゃべっている間は、何があろうとけして声は出さないように育っていた。
誰も何も言わなかったのではない。
本当のところは、監督に怒鳴られるのが怖いあまり何も言えなかったのである。
周囲に矛先を向けていた畑へと、闖入者らしき全身を紺色の服で身を包んだ男がおっとこれは失敬、と自らの非を改めついでに自己紹介を開始した。
「すみません碌な挨拶もなしに、いきなり声掛けしてしまって……自分、こういう者です」
帽子のツバをつまみながら、同じく着用していた深い紺色のジャケットの胸元に書かれた白文字をもう片方の手でありありと見せつけてくる。
胸元には、白文字で「
愕然とした畑は、とっさにその男の顔を見ようとそちら見遣った。
目深に帽子を被っていたので顔はよくわからないが、視点をもう少し上に移すとその帽子にあしらわれた桜の
それを見た畑は、ようやく目の前の男が何者であるかを初めて理解することができた。
逆上せていた頭も覚めたと同時に顔も青ざめ、素早く謝罪する構えに移る。
「すみませんでした。サ、サツ……いやひょっとして警察の方ですか? な、なにしに当校にまで来られて?」
かしこまりきった様子で臨む彼を、警察官はやんわりと宥めながら事情を明かした。
「いえ、ちょっとここに用がありましたので立ち寄らせていただきました。あと一応、立入許可証はもらってますよ。ほら」
首から下げた許可証を目の前で提示されると、畑はたちまち頷く。
「なるほど。それで、いったい当校に何の御用があるのでしょうか……あの、お巡りさん?」
畑の呼びかけを適当に流しながら、警察官は周囲に集っているチームメイツをキョロキョロと見まわす。
すると、はるか後ろに控えていたある選手に注目しだした。警察官は、突然高らかに手を挙げて雄馬の名前を口にした。
「あっ、いた。おーい、雄馬! 約束守りに来たぜ。そんな隅っこばっかにいずに、こっち来いよ」
突然の名指しに、反射的に身体をビクッと痙攣させてから雄馬はそそくさと前に出た。
言い出しっぺの警察官の元に来たころには、周りのギャラリーがざわざわと何やら囃し立てているようだった。
緊張と不安に苛まれた雄馬は、自分を指名した警察官に助け舟を求めんとすがる。
「あ、あのう……」
注目と飛び交う雑音とで完全に委縮し切った彼を見て、盛大に吹き出す。
「はは、なんだお前緊張してるのか? そんなドギマギしなくたって、もうちょっとリラックスして……あれ、ひょっとして忘れちまったってか」
いざフレンドリーに接してみても怯えた表情ひとつ変えないままなのを見て、拍子抜けした警察官が追及を仕掛ける。
雨に打たれた捨て犬のような儚い目をしながら、雄馬が聞き返す。
「と、と言うか。だ、誰ですか……?」
漠然とした恐怖が渦巻き小刻みに震える彼を目の前に、警察官が慌てふためく。 いやいや、わかるだろうと。
強く催促を求めながら、目深に被った帽子をパッと取って正体をありありと明かす。
「俺だよ、俺!」
そこには、昨日一昨日と雄馬が見慣れた特徴的な禿げかけた頭頂部。
それに反比例するようにちぢれ麵のように伸び切った襟足がありありと示されていた。
喉元から絞り出した声を震わして、答え合わせする。
「お、おっさん……だよね?」
「いや、当ったり前だろうが。昨日も一昨日も、あっちのピロティの奥で練習にがっつり付き合っただろうが」
どうだと言わんばかりにおっさんが腰に両拳を当て、己が胸を張り見せつけてくる。
その滑稽な姿に何とも言えない感情を抱きながら、正直な疑問をぶつけた。
「に、にしてもその恰好って、おっさん何者なの?」
「見ての通り警官さ。普段は、そこの駅前の交番で巡査長やってる」
そういいながら、先ほど取った帽子を今一度頭に被り直す。
帽子にあしらわれた桜の代紋が、真夏のきつい日差しを照り返していた。
すると、そんなふたりを静観していた畑が、
「あ、あのう……」
先ほどの激情に駆られた態度とは打って変わり、ぐっと慎重な態度で接してきた。
言葉だけを切り取れば、先ほど雄馬が発したものと合致する。
だがそこには緊張や不安の様な負の感情の類は微塵も無い。
むしろ、畑の口から発せられたそれは、期待や希望がにじみ出ていた。
「人違いだったらすみませんが、もしかして、『先輩』ですか?」
この場の誰もが思いがけぬ言葉が飛び出て、辺りはしんと静まり返った。
投げかけられたおっさんも、返す刀で切り返す。
「えっ……もしかしてアンタ名前は、『畑』かい?」
本名を呼ばれたことで疑惑が確信へと変わり、破顔しながらおっさんの元へ詰め寄る。
なぜ、おっさんが名前を知っていたのか。
畑自らが、すこぶる上機嫌になりながらその理由を明かした。
「そ、そうですそうです! お、俺っす。高校の頃、野球部でアンタの女房役やってた
畑は帽子をとると、おっさんに深々と頭を下げた。
チームメイツは、その光景に愕然とさせられた。
日ごろから、自分たちに高圧的に接している我らが監督がこんなにも遜った態様で他人を迎えるなんて。
中には、迎えられている側のおっさんに対して、只者ではないと勝手に思い当る者がいた。
頭をあげ直立の姿勢に戻った畑を、長い溜息を吐きながら大層感心した感じで目を見張る。
白く染まった髪、無数のしわが刻まれた顔、そしていかにも中年らしく出来上がった見事なビール腹を見、
在りし日から、実に30年。
おっさんは、ダイヤモンドの思い出の中で活き続ける後輩の姿を、目の前で立ち尽くす現在の後輩の姿に重ね合わせていた。
「どうりで似ていると思った。いや、もしかしたらとは思ったんだが、まさかこんな所で、こんな形で高校時代の後輩とばったり出くわすなんてなあ」
なあハタ坊、と畑に呼びかける。
まさかの監督の昔のあだ名発覚という事態に、ギャラリーと化した一部のチームメイツがどよめく。
「ハタ坊、って」「よりによって、ハタ坊なのかよ」「ハタ坊って言われる面かよ、あの頑固親父が」「つーか、ハタ坊ってなんだ。元ネタがわからん」
周りが好き勝手騒ぎ、肝心の二人の会話も酣にさしかった時。
ひとり取り残された雄馬はただじっと、畑とおっさんのやり取りを見届けていた。
すると、昔の呼ばれ方にはにかんだ畑が、よしてくださいよハタ坊なんてと照れていた。
「それはこっちのセリフですって。びっくりしましたもん、まさか制服に身を包んだ装いでこっち来られるなんて夢にも思いませんでした。でも今は立派に警察官として日々の公務に勤しんでいるんですね。俺ら市民の平和と安全のために、身を粉にしてまで戦い続けているとそう思うと……ううっ、なんだか涙ちょちょ切れちゃいますよ」
両手を顔まで持ってきて、べそをかくような素振りをする。
バレバレのウソ泣きに苦笑しながら、泣いてねえじゃねーかとおっさんが側頭部に渾身のビンタを見舞っていく。
一方で畑のほうも殴られたにもかかわらず、とっさに謝りながら豪快に笑い飛ばした。
あの堅物で有名な畑が、他人から思いっきり殴られている。
おまけに、殴られてもけして怒らず痛気持ちよさそうに顔をヘラヘラさせている。
雄馬を含めた全チームメイツは、この世のものとは思えない衝撃の光景を目の当たりにしたあまり、顔をキョトンとさせていた。
「驚いたといやあ、お前、監督って言われてたけどマジなんか」
不意に尋ねられて、誇らしげに畑が口を開いた。
「あ、はい。お陰様で、ここの監督に就任して15年ちょいが経ちます。それに普段は、あそこで主に6年生の坊主共を相手に教鞭を振るってるんです」
「教鞭って、お前まさか……」
グランドの向こう側にそびえ立つ、定陵小学校を指し示しながら。
「はい! 俺、この小学校の教師になったんす!」
衝撃の告白におっさんも驚きを隠せなかった。
「高校時代、あんだけバリバリにツッパってたお前が。野球のこと以外、てんでからっきしなお前が、こともあろうに教師? へえ、人間って変わるもんなんだなあ」
思わず腕を組み、心底感心に浸る。
そんなおっさんを前に、ここへきて畑が帽子のつばをつまみながら俯きだす。
雄馬は何気なく、そちらの様子を窺ってみる。すると、帽子を目深に被り直している畑から嗚咽が漏れ聞こえた。
身体全体をぴくぴく引き攣らせながら、なんと畑は男泣きに泣き暮れていたのだ。
嘘だろ、おい。
そんな声がグランド中に木霊したようだった。
振り返ってみると、自分以外のチームメイツが一斉に唖然とした表情で、畑ひとりに傾注していた。
遅れて異常事態に気付くおっさん。
しゃくり上げながら涙するかつての後輩を、おいおいと牽制する。突然の号泣に、ひとり笑みを浮かべながら呼びかけていく。
「まさか、本当に泣いてんのか? 馬鹿だなあ。お前、こんな白昼堂々男泣きするやつがあるか。いい年したおっさんが明るいうちに表で堂々と泣いてるなんて傍から見りゃ、ただの訳アリにしか見えねえぞ」
「す、すみませんっ。じょ、冗談のつもりが……本当に、泣いてしまいました。どんな形であれこうして先輩と二人して再会できたことが、本当にもう、ただ嬉しくって嬉しくって」
ユニフォームの袖で涙を無理やり拭う畑に、おっさんも神妙な表情を浮かべる。
「ハタ坊……」
「それに変わったといえば、先輩だって」
「いやいや、俺はどこも変わってねえよ。なんとなくここまで来ちまったってだけだ」
キリのいいところで泣き止むと、畑は潤んだ瞳のままおっさんに向き直った。
そして、顔をほころばせながら思いのたけを堂々と口にする。
「そんなことありません。先輩は変わりましたよ、ちゃんと! あの時、はっきり俺に『野球なんかやりたくない。もう野球と関わるのはゴメンだ』ってぶっちゃけてましたよね。声に力がこもってたから俺も本気でその言葉を受け止めてました。でも、時が経ってその考えも変わったみたいで、よかったです。先輩」
「………………。」
すると、ここへきておっさんが押し黙ってしまった。
後輩の言葉に頷かず、かといって首を横にも振らない。
いつになく顔を強張らせて、整地された砂地を眺めていた。
先ほどまで、あんなに和気あいあいとした空気が漂っていたというのに。
いつの間にか、妙な沈黙が横たわっていた。
「先輩?」
堪らず、畑が重ねておっさんに同調をと呼びかける。
後輩の言葉に徐に顔を上げると、おっさんはどこかばつの悪そうな態度でぎこちなく接した。
「ああ。そう、だな。そんなことも、言ったっけかなあ、俺。あ、アハハハハ……」
そう笑いつつ被っていた帽子のつばを抓み、皆の前で何度も左右へとしきりに動かし続けていた。
雄馬にはその光景が単なる照れ隠しに見えず、まるで何かを
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