第3回 すてきなふたり

 彼方のおっさんを値踏みするようにじっと眺める雄馬。

 するとまたもやおっさんの方から、ねえ、と話しかけられた。

「そのカッコ、もしかして少年野球団のユニ? 君、何年生?」

「ご、5年生です。僕は、定陵ゴールデンフェネクスっていうチームに入ってます、菅野雄馬すがのゆうまです」

 少し躊躇したが、正直に答えていった。

「守備時のポジションはどこなの」

「い、一応投手です。でも……」

「でも? でもって、何だ」

「……僕まだ、一回も登板させてもらってません」

 おっさんは、視線を雄馬の顔から自らの右手でキャッチしたボールへと切り替えた。

 手中で収まり続けている軟球を手で弄りつつ雄馬の言葉に、ふうんと、軽く言葉を添えた。

「要するに、君は控えの投手ってわけかい」

 は、はい、と。そう答えた雄馬は、ほんのり顔を赤らめてゆっくりうなだれていった。

 ちなみに体勢は未だ四つん這いのままなので頭が下がると傍から見て、ただ雄馬が土下座しているようにしか見えない。

 すると、それを見てなぜか心を痛めたおっさんはボールを片手に雄馬のもとへ歩み寄りながら、次のように呼びかけた。

「おい、どうした。大丈夫か。傷ついたなら謝るよ。なにかまずいことでもいったか?」

「いや、別に傷ついてはいないです。ただ、ちょっとみそっかすな自分がちょっぴり情けなく感じてしまって……」

 彼の元に来たおっさんは、雄馬の言葉に耳を傾けた。

 するとそれを聞いて、自らしゃがみ込んだ。

 そして、四つん這いの雄馬に高さを合わせ、彼を励まし始めた。

「人は誰でも最初のうちはミソッカスだよ。初めから完璧な奴はいないし、だれだって失敗くらいするさ。君はまだまだ若いんだから、落ち込む必要なんてないだろ」

「はあ……そうならいいんですが」

「もっと、シャキッとしなって」

 おっさんは、雄馬を励まそうとお留守だった左手でぽんと彼の右肩をたたいた。

 次の瞬間、雄馬の右肩に激痛が走った。

「い、痛いっ! うう……い、いてててててて」

 雄馬は痛みのあまり顔がゆがみ、その辺でうずくまった。

「だ、大丈夫か。すまん、その、肩を痛めているなんて知らなかったんだ。あんな沢山投げ続けてだから、てっきり肩の調子がいいんだとばかり思ってた。申し訳ない」

 彼の見事な痛がりぶりに、おっさんも一旦かしこまった。

 あわててあたりを見回す。

 すると、先ほどの備品倉庫のそばに放置された走高跳用の白いマットを発見した。

 自らのダメージにひとり喘ぐ雄馬の、さっきとは逆の腕におっさんが触れた。

 立てるかと声を掛けられ、そんなおっさんに雄馬は黙って頷いた。

 それから、おっさんに介助してもらい、ゆっくりと立ち上がって見せた。

「さっきはごめんな。あっちに白いマットが見えるから、そこに行こう。とりあえず、俺の肩につかまれよな」

 肩を貸してもらってそう言われると雄馬は力なく、はいと一言だけ答えた。

 白いマットの手前まで、痛む右肩を逆側の手で押さえつけながら歩く。

 手前まで来て、おっさんの手から離れると、おもむろにマットの上に腰を下ろした。

 痛めた右肩がなんだか熱い。

 支えている左手の平から、嫌でもそれがわかった。

「うう……」

「ちょっとそのままでいてくれよ。大丈夫、いいもの持ってきてやるからさ」

 そうおっさんは、呼びかけた。

 すると、ピロティの外へ向けたったかと走り去っていった。

 ピロティから出てすぐの所を曲がると、そこにひっこんだ。

 ほんの一拍二拍かの間を置いて、再びおっさんが姿を現す。

 しかも、右手にはさっきまでなかったレジ袋が提がっているのが見えた。

「よー、おまたせおまたせ。にしても、ここ、涼しいな。一歩外出ただけでもう、汗だくだくだよ」

 そうぼやきながら、健康サンダルの闊歩音と持ってきたレジ袋の擦れる音を一色たにピロティ内で響かせて、雄馬の元に駆け寄った。

 雄馬の右肩の方へと周り込むと、おっさんは自ら持ってきたレジ袋を中身ごとマットの上に置いた。

「なあ、たしか真っピンクのタオル持ってたよな。出せよ」

「ありますけど、何するつもりなんですか?」

「まま、それはいいからさ。男なら、細かいことは気になさんなって。ささ、早く早く」

「わ、わかりましたよ」

 雄馬がしぶしぶ襟に指を差し込み、ユニフォームの下で首元に掛かっていたタオルを引き抜くと、それをしぶしぶおっさんに明け渡した。

「はい、でも僕の汗かなり滲みついてますよ。それ」

「よっしゃ! こいつは上等だ、さあて」

 おっさんがタオルを右手で受け取った後、おもむろに左手で先ほどのレジ袋の中を漁り始めた。

 袋から割り氷の詰まったパウチを取り出すと、先ほど雄馬から譲り受けたタオルを上から巻き付ける。

 そして、枕のような外見になった氷のパウチを、すっと雄馬の前に差し出した。

「はいよ」

「はいよ、って……なんですか。それは」

「何って、決まってんだろ。アイシングだよアイシング。投げすぎた後には、これが一番手っ取り早い」

 しぶしぶ受け取る雄馬。

 その後、おっさんの指示に従いマットで仰向けになり、マットと右肩の間に氷を敷いてじっとしていることになった。

 タオルにユニフォーム、それからインナーという三重のベールを通して、冷気が痛めた右肩にじわじわ効いてくるような気がした。

 その後、仰向けから横向きに。横向きからうつ伏せに移行してから、再び仰向けに戻ったり。持参したスポーツドリンクの残り分をちびりちびり消費するなどして、いいかげん30分が経とうとしていた。

 下に敷いたパウチの氷も溶けだし、直接タオルに滲みこみ始め一層冷却感が強まり気持ちがいい。

 無言のまま、じっとしていると雄馬と同様にマットの上で寝転がっているおっさんが欠伸をかいた。

「にしてもここ本当に涼しくて居心地がいいな。思わぬ避暑地発見だぜ」

 すると、それまで言葉を発しなかった雄馬が、唐突に口を開いた。

「あ、あのっ」

「うん、何か用か?」

「あのう、ずっと気になってたことがあるんですけど。どちら様ですか?」

 そう問われると、おっさんが上半身を起こして答えた。

「え。どちら様って、そりゃあお前……見てのとおりの人間なんだが」

「……お名前は、なんていうんですか?」

「名前? そんなに知りたいのか」

「いやだって、そしたら僕、あなたのことを何て呼べばいいかわからないじゃないですか」

「別に名乗るほどの者でもないし、おっさんって呼んでくれたらそれで十分だ。それでいいだろ……えっと、ユウタ?」

「惜しい、僕雄馬です」

「おっさんでいいだろ。雄馬」

「分かりました。じゃあ、改めてその、おっさんに聞きたいことがあるんですけど」

「まだ何かあるのかよ」

「おっさん、もしかして僕の練習ずっと見てたの?」

「見てたけどどうした」

 おう、と応じて悪びれもせず、逆に質問の真意を問いただしてくる。

 ひるまずに、毅然と雄馬は抱いた疑問を具体的に明示した。

「いやさっき、タオル差し出した時に、真っピンクのタオルって具体的に言われたからなんで色まで知ってたんだろうって。それが、ずっと不思議で仕方なくって」

 ああ、なるほどな。

 と。

 あっけらかんとした表情で、おっさんはそのまま言葉を繋いだ。

「今日はちょっとコンビニに行ってて、晩酌用の酒とつまみと氷を買いに行ってたんだ。家に帰りがてらうろついてたら、たまたまこの小学校の裏にまでたどり着いて、裏からピロティまで行ったら中から音がしてさ。なんだと思って見てみたらなんか知らんけどタオルぶん回してひとり地団駄踏んでたもんだから、放っておけなくてなあ」

「僕、そんな風に見えてたんだ」

 雄馬は、静かに愕然とした。

 こっちは真剣に練習に臨んでたつもりでやってたってのに。

 傍から見たら、まさか地団駄を踏みまくってるようにしか見えてなかったなんて。

「なんか、今にして思えば、憑りつかれたかのようにひたすらタオルを空中に叩き付けてるようにも見えててちょっと危ない感じがしてな。練習に熱中するあまり、五里霧中っていうか。心ここに在らずっていうか」

 そう指摘され、雄馬は心当たりがあった。

 現にこうしておっさんの証言に沿ってその時の記憶を思い返そうとしても、記憶にもやがかかった様で情景がうまく再生されなかった。

 練習をしたという記憶はちゃんと残っているのだが、それをどのような具合でやり遂げたのかは彼自身分からないでいる。

 チーム内では、控えの投手に甘んじてしまい未だ試合での登板が皆無な自分にほとほと嫌気がさしていたのか。

 あるいは、そんな息子の心の闇を察しないばかりか子供たちの居る状況でも平気で気まずい雰囲気を醸し出し終いには喧嘩にまで発展させてしまうそんな不甲斐ない両親に対しての憤りを隠せなかったのか。

 いずれにせよ、彼自身の中で積もりに積もり燻っていた不満が練習を引き金に大爆発してしまったという、結果だけが今薄汚れたマットの上にて寝転がっている。

「……すいません、よく覚えてないです」

「覚えてない、か。てことは、よっぽど集中してやってたんだな」

 首を掻きながら、おっさんは独自の見解を述べていった。

 雄馬が壁打ちで使っていた柱に一旦目をやってから首をひねり、同じく横たわっている彼を見遣った。

「でも、無理は良くないな。根を詰め過ぎたって、逆効果にしかならない。ましてや、雄馬。お前は仮にも投手なんだろ? ならもっと、限度を見極めて練習に臨むべきだと思うぞ。ましてや、練習の度に投手の命である肩をこんな痛めつけてたら……そのうち使い物にならなくなっちまうぞ」

「………………。」

 冷静で、客観的な分析に、雄馬は何も言えなかった。

 そもそも、この練習自体が、両親の居るところから一刻も早く逃れたいがためのパフォーマンスでしかない。

 彼自身、野球は好きだったしステップアップするための向上心も一応持ち合わせてはいた。

 だが、真面目に練習を繰り返していくなかで頭の中の雑念がたちわち湧き上がってきて、邪魔をしようとする。

 それを振り払うべく、彼の怒りの感情が呼び起こされ結果として暴走状態に陥ってしまったのだ。

 所詮、彼は日ごろの不満を、野球の練習を通してただ八つ当たりしているに過ぎなかった。

 おっさんに見ぬかれ、それを指摘され雄馬はようやく初めて全てを理解することができたのである。

「雄馬、お前本当に野球が好きなのか?」

「好きだよ」

「そっか。ところで、明日は日曜だな。お前、なんか予定あるか」

「無い、けど」

「今日と同じ格好で、明日またここに来いよ。俺が野球の楽しみ方を教えてやる」

「お、おっさんが?」

「そうだ。……おい、なんだ。その怪訝な目つきは。心配しなくたって、野球のルールくらい全部わかってんだ。自慢じゃねえけど、俺は元・高校球児なんだ。心配しなくたっていいし大船に乗ったつもりでドーンと構えてくれりゃあ、それでいいんだ」

 おっさんはそこまで言い終わった後。

 どっこいしょ、と言いながらそれまでマットの上にて据えていた腰を持ち上げた。

「じゃあ、俺はこの辺でお暇させてもらうわ。雄馬、その下に敷いている氷もあと30分で水になるだろう。それまでに、きっちり肩を冷やし終えて氷が融けきったらパウチの封を切って中の水を、どっかその辺のグランドに捨てて帰れよな」

 そんじゃあばよ、と。

 おっさんは最後まで飄々とした口ぶりで、右手に酒とつまみが詰まったレジ袋を携えてから立ち去って行った。

 その様子をただマットの上で横になりながら眺めるばかりの雄馬。

 おっさんがピロティを後にして数分が経過した後、横向きから仰向けに姿勢を移し天井を真っすぐ仰いだ。

 一度だけ深呼吸をして、とりとめもなく呟いた。

「何やってんだろう、僕」

 泡沫のような儚い声は、ピロティ全体に響き渡る前に夏の薫る風に乗っかっていき、晴れ渡った青空の向こうに溶けていった。

 

 ☆☆☆☆☆☆


 しばらくして、氷がすべて水になった頃。

 空の太陽は、定陵小学校の校舎の真上に昇っていた。

 おっさんの言いつけに従い、雄馬はピロティ出てすぐのグランド際に張り巡らされた側溝に水を全て捨ててから帰路についた。

 封を切り空になったパウチを捨てることができたのは、雄馬が家に帰ることが出来てからだった。

 お昼の腹ごしらえ代わりに朝の余り物をつまんでから、水風呂に入った。

 水風呂で汗を流して体操着に着替えてからひとり寝室にいき、念のため右肩に湿布を貼りそのまま布団の上で横になった。

 余程練習に精が出たのか、寝始めてから五分も経たずにそのまま深い眠りについた。

 夕方になってから、母親の春海はるみが近所のスーパーのパートを終え託児所で預けられていた娘の亜季あきと一緒になって帰って来た。

 それからしばらく経って、春海がひとり台所の前に立ち夕飯の準備をしていた。 亜季は麦茶をすすって、ひとりカウチに腰かけてテレビ画面に投影されているアニメの女の子に熱い視線を送り続けていた。

 やがて、アニメも本編が終わりエンディングに突入した頃、台所からは出来上がった夕飯の香ばしい匂いが亜季の小さな鼻先をくすぐった。

 それと同時に、亜季のお腹の虫も活発になった。

「おかーさーん、お腹空いた」

「もうすぐ出来るわよ。おかずをテーブルに並べるから、亜季、寝坊助のお兄ちゃんちょっくら起こしにいってちょうだい」

「はーいっ」

 そう言って、テレビを点けっぱなしにしたままカウチから降りると亜季は小さな足で駆けていく。

 寝室の襖の前に立ち、元気いっぱいに開け横たえた兄を元気いっぱいな様子で迎えた。

 未だに健やかな寝息を立て続ける雄馬。

 そんなことはお構いなしに、亜季はいつものやり方で兄を起しにかかった。

 亜季は枕元の兄の顔に近づいて、その顔目掛けて手を伸ばし、

「お兄ちゃん。お、き、てっ!」

 閉じていた瞼を思いっきり手でひん剥いてみせた。

 むりやり開眼させられ、雄馬はたちまち覚醒せざるを得なくなった。

「ぅあ、ああ、亜季? ……もう、その起こし方止めてっつったのに」

「お夕飯できたってー。早く、起きて起きてっ」

 夕飯という単語を聞きつけ、寝ぼけ眼を擦りながら雄馬はしぶしぶ寝床を後にした。

 敷居を跨ぎ、リビング兼ダイニングのテーブルの席に付くと、テーブルの上にはステーキが鎮座していた。

 ニンニク醤油仕立ての芳しい香りを前に、眠気は途端に吹き飛び、食欲が湧き上がって来た。

「さあ、二人とも食べて食べてっ」

 ご飯が盛られた茶碗をふたりにハキハキと配る春海は、心なしか嬉しそうに雄馬は捉えた。

 茶碗を受け取ってから、ステンレスのフォークとナイフに持ち換え、眼前のステーキを食べ始めた。

「んー! おいしいっ、ステーキおいしいっ」

 噛み締めるたびにあふれ出る肉汁の迸りに、亜季は大きく舌つづみを打つ。

 雄馬は強烈なステーキの旨味に逆らえず、茶碗に手を伸ばしフォークで白米を書き込んでいった。

 微笑みを浮かべながら、春海は二人に優しく呼びかけていった。

「二人とも、よく噛んで食べなさいな」

 母親の言いつけ通りにきっちり30回咀嚼した後、口の中身を全てのみ込んでから雄馬が訪ねてきた。

「お母さん、今日なんでステーキなの?」

「スーパーでいいお肉が安く売られていたのよ。あとお父さんに聞いたら今日はステーキが食べたいって言ってたから」

「え、今日お父さん残業ないの?」

「なんかそう言ってたけど。でも、お父さんが私に献立の注文をしてくるなんて、久しぶりだったから私も張り切っちゃってね。だから、今日のステーキはよく出来てると思うんだけど、そこんとこどうよ?」

「うん、すっごく美味しいよ。これ。あ、てことはもう帰ってくんだね」

「ええ、7時には帰ってくるって言ってたからもうそろそろ……」

 すると、そんな母の声を遮るかのように突然母の携帯から着信音がけたたましく流れた。

 すかさず携帯をジーパンから取り出し、もしもしと応対を始めた。

「ねえ、そろそろ約束してた時間になるんだけど、そろそろ帰ってこれそう?」

 いつになく上機嫌な声で出迎えた、電話の相手は徹次てつじだった。

 そんな感じに呼びかけた後、暫しの沈黙が訪れた。

 その間も春海は、うんうんと相槌を打ちながらにこやかな表情で迎えていた。

 しかし、ここから雲行きは怪しくなっていく。

 それまで微笑みながら頷いていたにも関わらず、段々相槌を打つのを止め真顔で携帯を横顔にあてがうようになった。

 はあ? という納得の得られない感じの返答が春海の口から発せられる。

「ちょっと待ってよ。今朝ステーキ食べたいって、私に言っといてよくそんな事言ってきたわね。普段尋ねても、知らぬ存ぜぬって感じなのに今日みたいな日に限って献立の催促をしといて、やっぱ無理なんてそれは都合よすぎるわよ」

 雄馬はフォークを止めて、横の話し合いに耳を傾けて直感した。

 視点を前に切り替えると、向かい合う形で座りステーキを頬張っている亜季に対し食べるのを中断するよう呼びかけた。

「なあ、亜季。一旦、食べるの止めてお兄ちゃんの話し聞いてくれないかな」

「なんで?」

 拙いナイフとフォーク使いで食べ続ける亜季は、口周りにべっとりと肉汁を付けたあどけない様子で兄からの提案に疑問を投げかけた。

 そして、雄馬の口から次の事が語られた。

「実は、おにいちゃん。お風呂入った時、脱衣所で忘れ物しちゃってな、脱いだユニフォームのポケットに入れたままなんだけど。取りに行ってくれたら、すっごく嬉しいんだけど」

「いいけど……何を忘れたの?」

 フォークを皿の上に置いて、亜季が尋ねた。

 すると、しっかりとした口ぶりでこう宣った。

「携帯」

 聞いて、亜季はびっくりしたあまり、見開いた目でさらに問い詰めた。

「お兄ちゃん、携帯もってたの?」

 聞かれたが、明確な返事は避け、あえて相手にも有利な感じで話を持ち掛けていく。

「今どうしても必要なんだ。取りに行ってくれたら、お前にも触らせてやるよ」

「ほんとぉ⁉ いいの、私も触って。ね、ねえねえ、その携帯でちえちゃんと、まーちゃんと、えりかちゃんとお電話できるの?」

「もちろん、朝飯前さ。ところで、その子たちはもしかして亜季のお友達か?」

「うんっ!」

 鼻息を荒げて、キラキラした目でそう答えた。

 雄馬はそんな亜季の頭をやさしく撫ぜた。

「ははは、亜季はお友達を作るのが上手いなあ。じゃあ、さっそくだけどとりに行ってくれるかな?」 

「取ってくるーっ」

 そう言って、亜季は椅子から元気よく飛び降りて、パタパタと弾みながら脱衣所に向かった。

 そんな妹に、さらにダメ押し気味にもう一言付け加える。

「あ、念入りにようく籠を探してくれよな」

「はーいっ!」

 元気いっぱいの返事がはるか彼方から聞こえてきた。

 彼女が、食卓を中座して間もなくのことだった。

 ずっと徹次と話し合っていた春海が、とうとうシビレを切らして携帯越しの亭主を相手取り怒鳴り散らした。

「あのねえ! 都合悪いときには速攻下手に回るくせに、都合のいいときだけ耳触りの良い言葉並べるの止めてくんない⁉ それでしわ寄せ喰らって結果的に余計な仕事増やされるのはコッチなんだからさあ! 第一、もうアンタが帰ってくるの見越してとっくにアンタの分のステーキ焼き上げちゃったわよ!」

 一方、横で控えている雄馬は黙ってステーキを切り続けていた。

「………………。」

「ちょっと、いくら残業つったってそうは問屋が卸さないってもんよ? 言い訳はいいから身体で態度を示してみせてよ一回くらい! その、ブヨブヨに肥え太った贅肉だらけの身体でねっ!」

 とうとう春海の口から、直接悪口まで飛び出してくる始末である。

 しかし、そんな中雄馬は無言のまま、ステーキを口に運んでいく。

「………………。」

「おかしいわね、心なしかアンタの声が段々小さくなっていってるような気がするんだけど。まあいいわ……仕事なら、まあしょうがないわよね。滅私奉公も致しかたないわけだし、仕事が楽しすぎて家族サービスする暇も無いようじゃこれ以上文句言ったって焼け石に水よね」

 すでに勝敗は、決していた。

 半分白旗状態の徹次に対して、追撃の手を一切ゆるめようとしない春海。

 雄馬はそんな状況でも黙々とステーキを食べ進めていった。

「………………。」

「じゃ、精々お仕事頑張んなさいな。サヨナラ」

 最後に捨て台詞を吐き、壮絶な夫婦喧嘩は終結した。

 携帯を切り上げた途端、我に返り慌てて実の息子を見遣る。

「……聞いてた?」

「えっ、何が? 僕ステーキ食べてたから、ごめん。全然聞いてなかった」

 咄嗟にとぼけて見せる。

 ただの口八丁だが、それでひどく納得がいったようだった。

「ううん、聞いてないならそれでいいの。なんでもないから。ところで、そのステーキ美味しい?」

「う、うん絶品だよ」

「じゃあ、もう一枚ペロッと軽くイケるわよね?」

「あ、う……うん! でも、本当に食べていいの? お母さんとお父さんの分は?」

 そう尋ねられて、春海は雄馬に悟られぬよう何事もなかったかのよう振る舞った。

「ああ、いいのいいの。私は後で戴くことにするし、アイツ……お父さんは、やっぱ今日帰って来れない、って」

「そ、そっか」

 しばらくして。

 一旦台所に戻った春海が、焼いたステーキをもう一枚雄馬の元へ持ってきた。

「さあ、遠慮しないでどんどん食べてね」

 そう強く薦める。すると、春海が突然声色を変えて息子に呼びかけ始めた。

「雄馬」

「な、何さ」

「お母さんね。雄馬の素直な性格が好きだな」

「ふ、ふうん」

「素直で、優しくて、家族思いで、いつも正直でいられるそんな雄馬が大好きなの、お母さん」

 雄馬は謝った。

 ごめんね、お母さん。

 僕、さっそくお母さんの期待を裏切って実の妹に携帯を持ってるなんて嘘をついちゃったんだ。

 いくら妹に夫婦同士で繰り広げられる醜い争いを見せたくなかったとはいえごめんね。

 本当に、ごめんなさい。

 口では言えなかったが、心でしっかり謝り倒した。

「………………。」

「いっぱい食べて、いっぱい大きくなってね」

 髪を優しく撫でてから、おでこに自らの唇をもってきて一回だけ、キスをした。

 雄馬は、なんとも言えない気持ちでいっぱいになった。

 さて! と、春海は気持ちを切り替えて主婦としての次の仕事を思い出した。

「……洗濯物取り込みにいかなきゃ」

 ベランダまで出て、おもむろにシーツなどを取り込んでいく。その様子を雄馬は何も言わずガラス越しに見据えていた。

 すると、さっきは元気いっぱいに廊下へ出ていったはずの妹の亜季が、すっかりと顔をむくらせながらゆっくり部屋まで戻って来る。

「あ、おかえり亜季」

 気付いたため、声を掛けた。

 しかし、亜季はただいまを言うどころか、暴言を兄目掛けて浴びせに掛かってくる。

「おにいちゃんの嘘つき! お兄ちゃんのユニフォームめいっぱい探したのに、携帯なんてどこにもなかったじゃん!」

 それに対し、雄馬は言い訳もせず、残酷な真実をそのまま彼女に突き返した。

「ごめん。よくよく考えてみたら、最初からおにいちゃん携帯なんて持ってなかった」

「なにそれーっ⁉ 信じられないっ! 噓つきはなんだよっ、もうっ、お兄ちゃんなんて大っ嫌い!」

 嘘をつかれ、憤慨するあまり顔をさらにむくれさせる。

 さながら、元日に焼いた餅を彷彿とさせるような人相へと変貌させていた。

「そっか、大っ嫌いか」

「ふん、だ」

 強硬な姿勢を崩そうとしない妹を前に、兄はというとあくまで慎重に挑む。

 そして、兄は最強のカードを妹に対し容赦なく切ってみせたのである。

「じゃあ、この今焼き上がったばかりのステーキを、僕が半分こしようなんて言っても食べてくれるわけないもんなあ」

「………………。」

「ざーんねーんだなあ。ステーキに罪はないのに、僕が嘘ついたばっかりに。きっとこのステーキだって、お前に食べられるなら本望だったろうにな。しょうがないから、嘘ついた責任をとってこのステーキはすべて僕の胃袋に収めることに……」

「待ってーっ!」

 突然の絶叫が、3LDKの我が家にて木霊した。

 声のした方へふり見てみると、そこには大口を開けて固まった様子の亜季が何かを訴えんとしているのである。

「うん? どうかしたのかな、亜季ちゃんたら」

 意地悪めいた聞き方をする雄馬。

 すると、売り言葉に買い言葉という奴で、見かねた亜季がムキになるあまりとうとう駄々をこねだした。

「私も食べるーっ! ずるいずるいっ、お兄ちゃんばっかりステーキ食べたり携帯使ったり! 私もお兄ちゃんと同じステーキ食べたいっ! ずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるいずるい!」

 そんな事を主張していた亜季の円らかでくりくりとした大きい瞳には、うっすら涙がにじみ出ていた。

 素直に感情を炸裂させる妹を見て、やれやれと宣いながらもしぶしぶもう一枚のステーキを切り分け始める雄馬である。

「……最初から、そう言えばよかったんじゃん。天の邪鬼でいたって、いいことなんか一つもないんだもの。僕は嘘をついたからその責任取ってステーキを召し上がろうと思ったんだ。そういえばさっき、お前も僕に「ステーキなんて食べたくない」なんて嘘ついたんだからお前も責任とって半分喰え。ほら、切り分けてやるから皿をよこせよ」

「はあい」

 その後、ふたりはステーキを仲良く分け合って食べた。

 それから食後の皿洗いを含めた後片付けも、仲良くふたりで分け合ってやり遂げた。

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