キャッチボールをしよう

はなぶさ利洋

第1回 行け行け雄馬

 冷房の利いた寝室にて、雄馬ゆうまは寝間着から少年野球団指定のユニフォームに着替えていた。

 電気も付けず赤いソックスを履き終えてから、辺りを見回した。

 その視線の先には、彼の幼い妹の亜季あきが、タオルケットに包まれていた。

 薄暗い中うつ伏せの体勢で、鈴虫の羽音のような細やかな寝息を立てて眠っていた。

 さらに、呼吸するたび寝床にてひとりその小さな身体を忙しなく蠕動ぜんどうさせていた。

 それを見て雄馬は、思わず口を開いた。

「まるでナメクジだな」

 と。

 同時に心の中で、そんな風に周りを気にせず何のはばかりも無く寝続けられている彼女を我が妹ながら、とても感心していた。

 純粋に羨ましかった。

 それらを見届けた後、雄馬は妹をおもんぱかって、なるべく音を立てぬよう抜き足差し足でおもむろに襖の前までやって来た。

 襖をそっと引くと、その先はリビング兼ダイニングの部屋に直接繋がっている。 開かれた襖の敷居の手前から、その全景が雄馬の瞳に映し出された。

 リビング兼ダイニングの部屋では、両親がテーブルを一枚隔てて互いに向き直る配置で座っていた。

 ただし、父親も母親も互いの存在には一切目も暮れなかった。

 父・徹次てつじはタブレット端末を駆使して新聞購読、母・春海はるみは自前の蛍光ピンクのスマホにインストールされたアプリゲームをプレーするのに終始していた。

 ふたりの間に会話は存在しなかった。

 そもそも、互いに直接まともな口を利くなんてもうだいぶご無沙汰であった。

 流石に、実の子の雄馬や亜季とはそれなりに言葉を交わすのだが夫婦同士だとせいぜい口喧嘩に及ぶのが関の山だった。

 菅野家すがのけで夫婦喧嘩といった両親の修羅場が繰り広げられるのは、さほど珍しい光景ではなかった。

 大抵の場合、口火を切るのはいつも徹次の方からだ。まずは妻である春海に対し日頃の不満を一方的に浴びせに掛かってくる。

 やれ、味噌汁がぬるいだの。やれ、ワイシャツにアイロンがキチンとかかってないだの。やれ、子育ての合間を縫ってまでパートにでるのは、転勤族で異動が多く出世もままならず安月給に甘んじている自分への当てつけではないかだの。

 徹次の口から飛び出す文句のバリエーションは春海自身の不徳の致すものから彼自身のあからさまな被害妄想にまで及ぶ。

 次に徹次の二つ年上でより弁が立つ姉さん女房の春海が耐え兼ねて逆切れしだす。

 最後は彼女がヒステリーを引き起こす寸前で、徹次自ら退く形で夫婦喧嘩の決着と相成るのだ。

 菅野家において夫婦同士の交流とは、すなわち諍いと同義だった。

 そしてその後に訪れる平穏な団らんは、次に繰り広げられる『』までの布石であり単なる準備期間でしかない。

 現時点における、互いに無関心な振る舞いはあくまで一時休戦と言う名の膠着状態からくるものだった。

 断じて愛などというまやかしの幻想の入る余地などない。

 精神的に背中合わせの両親ふたりきりの空間に、雄馬は意を決し、脚を踏み入れた。

 敷居を跨いだ途端、張り詰めた空気が彼の身体の上に覆いかぶさった。

 夏場の朝だというのに、取り付けられた空調機器も手伝ってか室内は極めて冷え切っていた。

 殺伐とした雰囲気を、雄馬は肌で感じ取った。こんなところで立ち止まってはいられない。

 頭の中で警鐘サイレンが鳴り響いた。

 可及的速やかに、かつ、慎重に、次の行動に移った。

 テーブルの上には、雄馬が寝ぼけ眼を擦りつつもきっちり平らげた跡がついた食器類が、今朝配膳された時の雄姿をそのままに留めた状態で鎮座していた。

 雄馬はただちに器を一か所に集め、重ねたのち、水の張ったシンクに沈めた。

 そのままの勢いで、足早にその部屋を後にした。

 玄関へと通じる渡り廊下の上を早歩きしていた時、雄馬は内心部屋から出れて少しほっとしていた。

 一秒でも早くあの居心地の悪さからおさらばしたかった、というのが正直な本音だ。

 現に今身に着けている少年野球団のユニフォームにも、そんな彼の切なる願いが表れていた。

 家にいてもいいことなんてひとつもない。

 まして、険悪な仲の両親の居付くこのマンションの中は一瞬だって居たくなかった。

 練習だ。

 野球の練習がしたくてしたくてたまらなかった。

 野球の練習に没頭している時だけは、家での嫌な出来事を全て忘れることができた。

 家のことを忘れてひたすら練習に明け暮れば、きっと監督やチームのみんなも認めてくれるだろう。

 今は無理でもいつか、投手としてスタメンで起用してくれるはずだ。

 もし、そうならなおさらこんなところで燻ってはいられない。

 監督が、チームが、なによりピッチャーマウンドが僕の到来をいまかいまかと待ち望んでいるのだから。

 焦りと、期待で頭がいっぱいになる中、雄馬はせっせと玄関先でスパイクを履きにかかっていた。

 まずは、手前脇のスタンドに無造作に立てかけられたバットとグローブを携えた。

 それから同じく、スタンドのフックに引っ掛けられたチームのイニシャルが刺繍で刻まれたキャップに徐に手を伸ばした。

 野球帽のつばをつまんで被ろうとしたその時だった。

「雄馬、ちょっと」

 沸き立った情熱に水を差すような凛とした声が、背後から発せられたのを理解した。

 振り返ると、先ほど来スマホに夢中だったはずの母親がいつの間にかすぐそばの所で佇んでいた。

 汗をふくためかこれから洗い物に勤しむためかわからないが、首にトイピンクのタオルを掛けたままで雄馬の前に現れていた。

 突然の母親の出現に少しためらいつつも、すぐに言葉を返した。

「な、何か用?」

「それユニフォームよね、野球の。ひょっとして練習しにいくの」

「うん」

「確か、野球って土日祝日は練習ないんだったわよね? それとも、あったんだっけ?」

 おぼろげな記憶を辿る春海。

 対して、いきなり痛い所を突かれどぎまぎしている雄馬。

 焦る余り、言葉を詰まらせかけた。

「そ、そうなんだけど。ほら、近々試合もある予定だし、こまめに調整しておかないと」

 押し黙ったら疑われそうだったので、次から次へ口からの出まかせをでっち上げた。

 するとそれを聞いた春海も思わず、あらまあ、と声をあげるのだった。

「そっか、こんな暑いのに大変ね。でも雄馬? それならそうと早く言ってちょうだい。もしそうならもうちょっと早くに起きてお弁当作ってあげられたのに」

 やや不機嫌そうに物申す、春海。

 ため息をひとつ払ってから徐にジーンズのポケットに手を入れた。

 暫しまさぐった後。

 右ポケットからサーモンピンクの財布を取り出して、その中から千円を抜いて、雄馬に差し出した。

「はいっ。お弁当と、スポーツドリンクの代金。千円なら十分でしょ」

 突如として降って涌いた千円に、呆然とさせられた。

 そして直後に襲い掛かってきた野口英世の誘惑に、雄馬は目がくらみそうになった。

 だが数秒前に、実の母親におべっかを使ったのが負い目になったのか、今度は雄馬の良心がじくじく咎め始めた。

 さすがに悪いと思った雄馬は、湧き上がった欲を押さえつけてやんわりとその千円を春海の元へ突き返した。

「こ、こんなお金要らないって! スポドリなら自分の金で買えるから。それに練習は午前中だけだから、昼までにはこっち帰ってくるよ」

 手渡した駄賃をそんな感じに返され、春海はキョトンとした。

 しぶしぶお金を元の財布の中へ戻しつつ、実の息子を気に掛けた。

「そう、なら気を付けてね。今日は最高気温が30度超えるらしいから、水分補給はかかさずにするのよ? ちょっとでもヤバいってなったら、迷わず飲んで。いいわね」

「わ、わかったよ。じゃあ、行ってきます」

 玄関で母親に踵を向け、ドアノブに手を掛けたその時。

「雄馬待って」

「何――――わぷっ!」

 再び呼び止められたので、反射的に振り返った。

 途端に視界が、外国のおもちゃのようなひと際目を引くピンク一色で覆われた。

 手に取ると、それは先ほど来春海が何気なく首に掛けていた、例のタオルだった。

「忘れ物。じゃあ、元気で行ってらっしゃい」

 それだけ言って、春海はすたすたと引き返していった。

 ひとり玄関先にて残された雄馬は、改めてトイピンクのタオルを首に巻いてからバットやグローブを携えて今度こそ扉を開けた。

 そして、出てすぐの所で大きくため息をついた。

「……ただ、外出ていくだけで、もうこんなに疲れるなんて」

 既に参った様子の雄馬は、扉を背にさらに大きなため息をついた。

 そんな彼の右頬を夏の朝陽がバッチリ捉えて離さない。

 照らされた右頬は大粒の汗ですっかりびしょびしょだった。

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