胸騒
* * * * *
摘んできてもらった青い花から土を水で綺麗に洗い流し、切り揃えた。
ヤグルマギクに勿忘草、そして名前も知らない青い花。紫に近い青。うっすらと色づく白に近い青。その中間の青。色んな青があるものだと見比べて思う。汲んでもらったナイルの水に根本を浸し終えると椅子に腰を下ろしてそれを眺めた。
部屋に音が無かった。風音くらい聞こえて来そうなものなのに、今日は何もない。風が吹いていないのだろうかと思いながら何となしに傍の机に目をやると、ぽつりと置かれた手鏡が静かに私を映しているのを見た。
酷い顔だ。赤らんだ目元は腫れぼったく、目元に対し顔色は心なしか悪く見える。手鏡を手に取って眺めてみて、自分の顔の血色の悪さに、獅子狩りに行くのを止められたのもよく分かる。化粧で隠せるだろうかと思っても、してもらう気になれず鏡を伏せ置いた。
そのまま立ち上がれば心許ない私の足取りは、またあの箱に向かっている。床に膝をつき、幼子をあやすとされるべス神が描かれた木箱の蓋をそっと持ち上げると、懐かしい産着や遊具が顔を出す。それらを見て、小さく咳き込んだ。
手を伸ばして取り出した麻を、強く抱き締めて顔を埋めた。独りでいれば必ずと言っていいほどこれを手にして、気づけば無意識のうちに泣いている。ますます辛くなるだけだと分かっているのに、あの子の遺品を見たくて、触りたくて仕方がなくなる。手放せなくなる。
これを手にしたその一瞬だけ悲しさが凪ぐ。この行動が自分の悲しみを深めるものになろうと、それでもいいとただただ抱きしめることを繰り返す。あの子を抱いていた日々を鮮やかに思い出せる刹那が、私には痛いくらいに愛おしかった。
「王妃様」
背後に掛かった声はメジットのものだ。彼がいない間はよく私の様子を見に来ては声を掛けてくれる。獅子狩りの一行が帰ったのかもしれない。そうなら出迎えに行かなければと振り返ると、彼女は哀れみを乗せた眼差しを私に向けていた。
「どうか、気を強くお持ち下さいませ」
彼女もまた、泣きそうな顔をして頭を下げる。ごめんなさいと謝った方がいいのか、頑張ってみると励ましに応えればいいのか。決められずに産着を膝の上に置いた私は「ええ」と答えるだけで終えてしまう。なんて情けない。私は、侍女一人にさえ安堵を与えてあげられない。
「宰相殿が緊急にお話をしたいとのことです。お通ししても構いませんか」
ナルメルが。
宰相が話したいというのだから、余程重要な話なのだと察するのには容易い。
「通して」
箱にすべてを戻して蓋を閉め、急いで涙を拭って立ち上がった。せめてこんな姿を見せるのは侍女だけにしたい。
背筋を伸ばして顔を上げる。メジットを背後に付け、扉から杖先の音を響かせてやってくるその人を迎えた。
「王妃」
薄氷を踏むような様子で、ナルメルはやってきた。表情にはいつもの穏やかさが感じられない。潜められた眉根に、固く閉ざされた髭のかかる口元、悩ましげに深く刻まれた長い皺。いつにない緊張した面持ちに、出所が分からない不安に襲われる。
その人は一回礼をしてから神妙な表情を私に向けた。
「たった今、知らせが参りました」
決して良いものではない事は推察できる。自然と身構えた。
「ファラオが事故に見舞われたと」
宰相の言ったことに耳を疑った。よく、分からない。
「事故……?」
自ずと声が震えた。「ええ」と宰相はあくまで冷静に頷く。
「獅子狩りの最中にチャリオットから転落したとのことです」
転落。チャリオットから。走っている最中だろうか。もしそうならば、怪我は。
そんな私の心境を読み取ったのか、ナルメルは私が口開く前に制するように掌を向けた。
「詳細は分かりかねまする。ただ、知らせからすると怪我を負われたご様子」
「彼は今どこに」
「こちらに向かっておいでです」
淡々とした口調は、事故が大きなものだったのか小さなものだったのかの判断を鈍らせる。
「怪我をした姿を民に見せられぬと、道をお選びになられましょう。セテムたちがそうさせるはず。故に少し時間が掛かるやもしれませぬ」
王が怪我した姿を晒すのは民に不安を植え付けるだけ。それも国と民の繁栄を願う獅子狩りで怪我をしたのなら尚更、どれだけ重症であろうと、彼は民の目に触れない帰路を選ぶ。
「それにまだどれほどのお怪我を負ってしまわれたかは定かではない」
事実を確認するまで無闇に取り乱してはいけないと自分を抑え込んだ。ナルメルもそれを私に求めている。確かめもしないで一喜一憂するのは混乱を招く。
「すぐ王宮の施設にお入りになるとのこと。我々もあちらで御帰還をお待ちいたしましょう」
その言葉に頷いた。
西の宮殿と長い階段で繋がる
数人の侍女とナルメルと侍医が隣に並び、彼が現れる方向を瞬きの少ない目で眺めて待った。なかなか現れないことに気が気ではなくなってくる。胸騒が止まない。今まで事故、殺人、病気には気を付けてきたつもりだった。彼も常に意識してくれていた。歴史も変わったような気がしていた。
でも、恐れていたものが起きたのだとしたら。命に関わる事故だったとしたら。そう思うだけで、身が竦む。
「ファラオはお強い方ですもの。心配する必要などありませんわ」
メジットが何度も私の肩を擦ってくれていた。
「……そうね」
大きな事故だと、まだ決まったわけではない。前にだって似たようなことがあった。テーベからメンネフェルに来る途中に襲われたと聞いて、私はこれでもかと狼狽したのに、当の彼は腕に軽い傷を負っただけでけらけら笑いながら帰ってきた。今回も同じかもしれない。帰って「周りがうるさかった」と愚痴を零しながらも笑って戻ってくるかもしれない。ナルメルたちにほっとした空気が流れて、私が心配かけないでと怒る。そんな私を、彼は心配性だと言ってまた笑う。そうであってほしいと、ただ祈ることしか出来ないでいた。
「王妃様!宰相殿!」
はっとして顔を上げると、女官の一人が階段を駆け降りてきていた。息を切らして跪きながら告げる。
「ファラオがご帰還なされました!今こちらにいらっしゃいます!」
やがてセテムとカーメス、ラムセスを先頭にした6人の兵が担架を運んで現れた。誰もがその表情に焦燥を露わにしている。彼はどこかと探して最初に目に入ったのは、その担架に横たわる人物。それが彼だった。
「アンク!」
抑え込んでいた不安が破裂し、悲鳴のような声を上げて私は担架に駆け寄った。その姿を見て頭が真っ白になる。
彼の身体を染めている鮮やか過ぎる深い赤が、最初何によるものなのか飲み込めなかった。
「これは……」
願っていたような軽い傷などではない。血だらけだ。そんな言葉が大げさではないくらいの状態で、額には玉のような脂汗を流し、身体のあちこちに深い傷があった。何度と分からず呼びかけても、彼は真っ青の歪んだ表情で呻くだけで、辛うじて聞き取れても「足が」と漏らすばかり。
左足の膝。そこに見た光景に、悲鳴を上げずにはいられなかった。布が被せられていて直接見えなくとも、それが血の色に染まり、どれだけ酷い怪我を負ったかを私たちに突き付けてくる。
骨が折れているどころではない。肉を引き裂かれたか。折れた骨が肉を突き破ったか。左足の原型がとどまっていない気がした。
「申し訳ありませぬ!私どもが付いていながらこのような事態に……」
セテムの声だった。王の姿を見るなりナルメルも重々しく唸る。
「御身に何が」
「事情は後ほどお話し致します。今は一刻も早いお手当を」
カーメスが兵たちに準備の整った施設の一室に促す。
「アンク!!アンク!目を開けて!」
我を忘れて彼を呼んだ。タシェリの呼吸が止まろうとしていた時の胸騒に良く似ている。この言葉に出来ない恐怖に呑まれるのは2回目。もう二度と味わいたくない、怖いくらいに胸を蝕んでくるこの心地。
意味が分からない。訳が分からない。私の声に応えてくれない。もしかして、このまま。
「……いやああああ!」
例えにならない恐怖が駆け上がって夫の胸に縋って叫んだ。
「あなた!あなた!!」
最悪の事態が頭に浮かんで浮かんで、消えてくれない。
「あなた……っ!」
「王妃!」
後ろから誰かに夫から引き剥がされ、夫が私から離れていく。必死に手を伸ばした。
「あなた……!」
施設の部屋の向こうに、侍医たちを連れて彼は消えた。
同時に自分の足が崩れ落ちる。誰かに後ろから支えられ、夫に触れた自分の手を見たら血糊があった。握ると生暖かさが感じられる赤。これだけの血を流して。あれだけの怪我をして。ここは古代で。それ相応の治療など出来るのだろうか。
頭に浮かぶのは、何度も恐れてきた事実。何度も何度も、恐れてきた。そうならないようにしてきたはずなのに。
糸の切れた人形のように床に座り込む。悄然と、瞬きを忘れた目で宙を見ていた。
私は、あなたまで失うのだろうか。
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