獅子狩り

 全身を包む上着を頭から被り、ナクトミンが操る茶色のチャリオットに乗り込んだのは、太陽が真上から僅かにずれ始めた時間帯だった。

 馬乗りの数人の兵たちを連れ、少し遅れて出発する。向かうはライオンが多く生息するというナイルの畔。王宮からの狩人らを見送る民がずらりと列を成す間を走り過ぎ、テーベと砂漠を区切る巨大な門を勢いよく飛び出した。


「狩りの間、アイはどこに?」

「大体、危険の及ばない高い所にいるよ」

「他の神官もか」


 そうだね、と彼はちらとだけこちらを見やる。


「戦闘力が無い神官たちは狩場から遠くの場所で傍観して祈ってるのが普通なんだ。だからファラオから離れた場所にいるアイ様が直接手を下すことは無い。やるなら誰かに命じるか、もしくは他の方法ってなるかな」


 何とか会話を成立させてはいるが、ガタガタと身体に細かく振動してくる感覚はトロッコにでも詰め込まれているようでいい気はしない。従来チャリオットは3人までが乗車可能であり、戦時は一人が操縦、他の二人が武器を振り回す役目になる。それなのに操縦しにくいから屈んでいろと言われた俺は腰を屈め、頭だけ出して周りの光景を眺めていたのだが、砂が目に入って辛くなり、結局は蹲るようにしてそこに乗っていた。


「獅子とはどうやって戦う?」


 車輪が地面を蹴散らす音に負けないよう声を張って尋ねると、相手は一瞥もくれずに「簡単だよ」と笑って見せた。


「槍か矢で目玉をぶち抜いて、あっちから視界を奪えばほとんどこっちが勝利。相手は嗅覚も聴覚もすこぶるいいから気を付けなくちゃいけないけどね」


 確かにそれが一番手っ取り早いのだろう。肉食動物に分類されるライオンは人間と同様敵や物質との距離を目で測ることができる哺乳類で、目を失うと戦いには一気に不利になる。それに対しほとんどの武器をこれでもかと言うほど上手く使いこなすナクトミンの実力を思えば、ライオンの目玉など一撃で打ち抜けるのだろうし、簡単だという台詞もあながち大げさではないのかもしれない。


「僕も一頭狩る予定でいるけれど、ヨシキもやる?」

「いや、いい」


 即答だった。武器一式を扱えるようになったとは言え、まだそれで何かをやったということがない。幾らなんでも初っ端からライオン相手というのは無茶ぶりすぎる。


「ならその時は降りてね。邪魔だから」

「その間、俺はどこにいればいい」

「神官と一緒に並んでればいいんじゃない?丁度ヨシキと同じような格好してるからさ」


 しばらく北に上ると、砂の性質の所為で植物の色が乏しい広大な地帯に辿り着く。ナイルの畔とは聞いていたが、着いた場所はそれほど畔でもないようだった。ナイルから数キロ離れている場所で、一面薄茶色の短い草にで覆われているものの、荒野と表現してしまった方が早い。草木の代わりに崖に似た岩が多かった。

 小高い場所、兵がずらりと並んだ後ろに神官たち。離れた狩場には兵たちが跨る数十頭の馬。彼らは6台のチャリオットを守るように、そして讃えるかのように囲んでいる。彼らも到着したばかりなのだろう、その名残の砂煙がまだかなり舞っていて、足先は霧の中に突っ込んだかのようにぼやけて見えた。

 兵にぐるりと囲まれる神官の列に近づいた時、ナクトミンが俺をチャリオットから下ろしたので、先程言われた通りそのまま神官の後ろに落ち着いた。砂煙も届かない、丁度良い高さで狩りの様子が観戦できる場所だ。そして周りに並ぶ無言の神官たちを見て、ナクトミンがここにいろと言った意味がよく理解できた。装飾品は付けているものの、神官たちは俺と同様長い上着で鼻と口を覆っていて目元しか見えていない姿で、個人の特定どころか表情も読み取れない。俺が加わることを拒む者は誰一人いなかった。ナクトミンの戦車から下りてきたことを多少不自然に思われたとしても、遅刻した神官の一人として思われるくらいなのだろう。

 ここから数メートル先に、神官たちの中央で背もたれのある椅子に腰掛けているアイを見つけた。両端には酒樽を持ち、酒を杯に注いでいる女官が二人。アイは満悦の様子で酒を口に含み、余興を楽しもうとした雰囲気だ。それでも何かに命じている様子も、辺りを見渡しても怪しい人物は見当たらなかった。


 獅子狩りは最初の一頭が見つかるとどこからともなく始まった。姿を現した一頭に透かさず誰かが矢を射ると、楽器隊が戦闘に似合う緊張した音を勢いよく弾き出す。獅子が刺さった矢に痛みに吠え、矢が飛んできた方向を両目で睨みつけると、周りを囲む狩人たちはこれもまた間髪を入れず、獅子の眼球目がけ二発目を放つ。右目を潰された獣は耳を塞ぎたくなるような雄叫を弾かせ、チャリオットと馬でぐるりと一周囲まれて逃げ場を失った。威嚇丸出しの獣を中央に、矢や石や剣が一斉に向かう。一人が獅子の頭の後ろに槍の切っ先を立て、貫く。抜き様に血飛沫が舞った。両目から血を流し、それでもけたたましい咆哮を続け、鋭い牙を剥き、ここまで唸りがこだまする。仲間の危険を察知した他のライオンが跳躍するように攻めて来て、最初の一頭で力を持て余していた兵たちが我こそはと一斉に立ち向かって行く。これが繰り返され、計5頭のライオンが狩人たちに囲まれていた。

 ここで見る獅子は、自分の記憶にあるどの獅子よりも二回りほど大きく、その毛並みも黄金に近い。なんて雄々しい生き物だろう。エジプト人がこの猛々しい獅子をスフィンクスの身体に当てはめたのもよく分かる。この姿に憧れたのだ。強いこの姿を己の下に組み敷き支配することによって、権威を証明した。

 狩りの中では馬から引きずり落とされ、獅子の下敷きになり大怪我を負う者も、噛み付かれる者も出てくる。地面に広がっていく鮮血は、決して獅子たちだけのものではないはずだ。

 至近距離で見たら、どれだけの迫力だろうか。どれだけの恐怖か。遠くから眺めていても身体が緊張して固唾を飲むくらいの光景なのに、よくもまあ正面から向かって行けるものだと内心は感心と驚愕に満ちていた。

 最初の一頭が息絶え、獅子狩りにも見慣れ始めた頃、俺の目はとある人物を捉えた。焦点がいきなり合うように瞳孔が締まるのを感じた。


 ──あの男。


 獅子に槍で向かい、さらに突っ込んでくる獅子にそれを振り被る。7台のチャリオットの中でただ一人黄金色のものに乗っている男。布の下の唇を噛みしめた。1年以上前に見た、どれだけ憎んでも足りない黄金が似合うあの姿だった。

 メネスと黄金の腕輪、戦闘用の翡翠色の胸当てを身に着けた男は声を上げて指示を出している。何を言っているのかまでは聞こえてこない。ただ、馬やら兵たちの声の間に聞こえるその声は、耳を離れない恨めしい声と同じだった。

 弓を引いて剣を持ち、片手で戦車を扱い、真っ直ぐ背筋を伸ばした王らしい威厳が備わるその姿。これほどまでに憎しみを抱いていたのかと、姿を見て実感しながら拳を固く、時間をかけて握った。今まで薄まっていたように感じていた憎しみは、皮が剥がれたかのように俺の中で浮き彫りになっていく。腹の内で何かがせめぎ合っていて、気分が悪い。醜い自分に吐き気がした。

 暴れ出しそうな自分の右腕を抑え込みながら、アイの様子を窺い見る。それらしい変化はない。それどころか酒を飲んだ所為でできた赤い顔面は、酔っているのだと見極めるのにそう時間を要さなかった。次に周囲にそれらしいのはいないかと見渡してみたが、同じように何も見当たらない。

 もう一度、黄金のチャリオットの主を見据えた。睨みつける、そんな言葉の方が正しい。自然とそんな目になった。どれだけあいつがこちらに近づこうと、遠のこうとあの男に危害を加えようとするのはライオンしか確認できない。そのライオンさえ不利な状況に追い込まれ、時間が経つにつれじれったさが募る。

 眺めている内にここであの男を殺すのは自分なのではないか、という考えが頭を過った。もう少し近くにいたならば、そしてもっと俺の武器を操る技術が長けていたならば、間違いなくこの手で狙い、殺していた。たとえ自分の腕前が鼻で嗤ってしまうくらいのものだと分かっていても、今弓を持たせてもらえれば、あの心臓を撃ち抜ける気がしてならなかった。そうでいながら、冷めた目で自身を見る自分もいる。これほどに憎めるものなのかと。

 弘子は何もかもを捨ててあの男を選んだ。病死したとは言え、あの男の子供をその身に宿して産んだ。なのに、未だに俺は。

 なんと愚かで単純なのか。殺人の欲求など一生抱くことなどないと思っていたのに、駆け廻る感情がその欲求を最大限にまで引き上げてくる。分かっていながら止められない。その醜さもまた自分という人間なのだと思ったら可笑しくなった。


「怖い顔をしてるね」


 先導して一頭を狩り終えたナクトミンが、チャリオットを降りてここへ上って来ていた。


「そんな睨みつけたって人は殺せないよ」


 俺が誰を見て、何を考えているかを、ナクトミンは察しているようだ。


「ファラオよりホルエムヘブさんの方見ていた方が面白い。衛兵から抜擢されただけあって、あの人の戦いっぷりは誰よりも凄いから」


 くつくつ嘲笑気味に笑いながら俺の隣に立って、腕を前に組んで残り3頭の狩りを見物し始める。

 あれだけ激しい戦闘を繰り広げておきながら息ひとつ上がってない。疲れたと愚痴っぽいものを零しながら女官から水を貰う青年に、「もう行かないのか」と問うと、「一頭だけで十分だ」と答えが返ってきた。それ以上の会話はしなかった。


 1時間半ほど過ぎた頃、吠え付いていた最後の獅子がついに絶命した。わっと歓声が上がり、今年も豊作に恵まれるだろうという王に向けた祝福で満ちる。ナクトミンを隣に、俺は遠くからその男を眺め続けた。

 こうして第三者的目線で見れば、同じ権力者であるアイとあの男の違いがよく分かる気がする。アイは権力で人を結びつける。脅して威圧的に頭を下げさせ、権力に物を言わせていることが多い。対して、あの男は違う。周囲の者の表情は朗らかで、頭を下げる顔は感謝と尊敬の念が明らかに現れている。礼とは本来こういうもの。感謝と尊敬が合わさって自然と出てくるものこそがそれなのだ。

 アイとあの男、どちらが王位に相応しいかなど、こんな俺にだって判断できる。抱く憎悪は変わらなくとも。

 その時、遠くにいるその男が足元に青い花が咲いているのを見つけ、チャリオットからわざわざ降りて自らの手で取るのを見た。荒野ではあるが、小さな青い花が茶色の草に埋もれていたようだ。あの戦闘でよく潰されないで咲いていたと感心する。

 だが、何故。花なんか。

 摘んだ花を目線より上に掲げ、陽を当てながら眺める慈しみを含んだ淡褐色を見た途端、ふっと力が抜けた。癖毛の将軍に持ち帰るようそれを手渡し、渡された相手も女官を呼んでそれを保存するように命じるのが分かる。弘子のためなのだとすぐに悟った。

 あの男は知っているのだ。どんな花よりも弘子が青い花を愛していることを。どんな花よりも喜ぶことを。だから我が子を失って傷心しているだろう弘子に、それを贈る。弘子に、笑って欲しいのだろう。

 そう悟るとすとんと胸に何かが落ち、肩から腕から、力が抜け落ちた。何とも悔しいような、悲しいような、安堵のような、判断し難いしみったれた感情に浸った。


 陽が傾きかけた時、獅子狩りの終わりを告げる楽器の音が轟いた。神を称え、国と民の繁栄を願う神官の唄がナイルの名を交えて流れていく。そこに吹き抜ける涼しめの風が何とも心地よい気がした。ふと、怪我人も少なくない激しいこの行事がまもなく終わりを迎え、王宮への帰還の準備が始まろうとしていることに気付く。

 何も、なかった。俺やナクトミンの思い込みでしかなかったのか。いや、むしろこれで良かったのかもしれない。


「ヨシキ」


 落胆と安堵が入り混じった心境で沈み始める夕陽を眺めていると、ナクトミンが潜めた声で呼んできた。返事をしても彼はこちらを見ずに一点だけを眺め、微かに開いた唇でこう続ける。


「東の崖」


 当惑しながら、言葉通り目を東に向ける。崖と呼べるほどのものではないが、登れば見渡せる高めの場所に大きめの岩が山脈のように列をなしていた。


「右に3つ、大きめの所。その、上」


 辿ると、ひとつの影が示された場所に動いているのを見た。兵と思わしき一人の男。狩りが終わったはずだというのに、張り詰める音が聞こえて来そうなほどに弓を引いている。上にいるその男が矢先を向けているのは、狩場のある下。

 矢の標的は。狙いの先は──笑みを湛える、何も気づいていない戦車の上のエジプト王。


 息も止まる緊張が身体を雷の如く縦断した。同時に二つの声が耳に鳴った。




 ──黙って、見ていればいい。


 見ているのか。殺されようとしているのを、見て見ぬふりをするのか。


 ──殺されてもいいくらいの、憎い相手だ。


 そうだ。でも、人一人の命だぞ。


 ──何を今更。善人気取りか。


 違う。人として。娘を失ってあの男まで失ったら弘子はどうなる。


 ──だが憎い。殺したいほどに。


 憎い。だが。


 ──見殺しに。心臓を撃ち抜かれる瞬間を見て嗤え。


 どうすればいい。


 ──弘子を手籠めにした憎い男が死ぬのだ。


 ひとりの人間が命を落とすのだ。




 一瞬にも満たない間の思考だった。頭が真っ白になるくらいの瞬く間。足を踏み出し、矢が放たれたと同時に憎い男に向かって鼓動が限界にまで駆け上がる。俺の手が素早く口を覆う布を引き剥がし、そして喉奥から自分の声が飛び出した。


「ツタンカーメン!!!」


 力の限り叫んでいた。何を思っての行動なのかは自分でも定かではない。

 たった、一言。ただひとつの名を叫んだ。声帯が、千切れたかと思うくらいに。


 空気を割った声に反応し、あの男がこちらを振り向く。届いたのだとそう思った時、淡褐色の目と視線がぴたりと克ち合った。あるはずの喧騒が消えた瞬間。瞬きをするくらいの短い時間であろうとも、あの男は確実にその眼で俺を捉えた。

 だがそれも束の間。突然その男の馬が猛り立ち、互いの視線がずれたのだ。

 崖の上にいた男の矢は、ツタンカーメンから外れ、彼を乗せるチャリオットの馬の眼球に物の見事に深く突き刺さっていた。馬とは思えない痛々しい悲鳴が響き、片目の潰れた馬は手綱に抗い暴走し、乗っている男の身体が大きく揺れる。右へ、左へ、激しく続く蛇行が尋常ではないくらいにチャリオットを引っ張り回し、乗り手が止めようと抵抗する動きが軋む音を弾かせる。そして数分もしないうちに暴れ出すチャリオットはバランスを崩し倒れ、数メートル引きずられたそれから男が転げ落ちたのを見た。


「ファラオ!」


 叫ばれるや否やのこと。


「獅子だ!!」


 別の人間がそう叫んだ。狩った5頭など比にならない巨体の獅子が一頭、謀ったかのように躍り出て、場は騒然となる。これが謀の内なのか、それとも偶然に重なったことなのか。もし偶然なのだとしたら、神とは一体何なのだろう。神も仏もありやしない。


「獅子を食い止めろ!」


 兵たちが立ち向かうにも関わらず、獅子は軽々とそれを飛び越え咆哮を上げながら、骨折か何かで起き上がれずにいる男の方へ、地を蹴り上げて突進した。

 「ファラオ」と誰かが悲鳴を上げる。これこそ一瞬の出来事で誰もが何も言えなかった。声を発する時間が皆無だった。

 世界が音を失くし、色を失くす。男が自分を庇おうと反射的に腕を前に出したその光景を最後に、周りの砂煙で悲鳴も咄嗟の出来事に真っ青になった将軍たちの顔も、助け出そうと反応した彼らの姿も何もかもが消えていく。

 風が止んだ。神官たちは恐れと衝撃で誰も目を見開いたまま動かない。

 だが一人、遠目にいるアイが不敵に嗤うのを見た。


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