15章 魂の行方

オリーブ色の来客

 流産してからひと月と少しで、生理が来た。

 涙目で喜んでくれたネチェルとは裏腹に、少しだけ戸惑う自分がいる。生理が再開したらようやく落ち着いた気持ちが乱れるのではないかと思っていたが、実際感じたのは説明のしようのない安心に似た感情だった。このまま生理が来ることなく、一生子供が授かれない身体になっていたら、という心配があったからだと思う。

 鈍い痛みが腹部にある。私の空っぽになった身体は、時間と共に元の周期を取り戻す。何事も無かったかのように。

 また妊娠できるという僅かな安堵を覚えながらも、それが無性に悲しかった。


「おい」


 椅子に座り、部屋からぼうっと庭を眺めていたら、ぶっきらぼうな声が耳の傍を横切って行った。振り返った先にこちらへ向けられた緑の瞳がある。ナイルから吹く風に、炎のような赤毛が靡いている。


「情けない顔だな、相変わらず」

「……ラムセス」


 頭巾を乱雑に左手に握り締めながら、相手はこちらの傍をゆっくり通り過ぎ、庭の方へ足を踏み入れた。ぐっと伸びをし、それから私に向き直る。


「ひと月も過ぎたのに、まだ落ち込んでるのか」


 以前なら言い返していたところだが、今の私は否定することができない。私自身が驚くくらい落ち込んでしまっている。そんなことはないと頬を上げて見せるものの、自分でも分かるほど弱々しい笑みにしかならなかった。


「いい加減……って言っても無理か」


 こちらの反応に困ったように肩を落としながら、ラムセスは床に腰を下ろした。

 まだふとした時に泣きそうになったことはあっても、ぐしゃぐしゃに泣いてばかりだった当初と比べればこれでも落ち着いた方だ。最近は前を向き始めている。悲しんでばかりはいられない。私だけが苦しいわけではないのだから。


「まあ、元気出せ。自分が死ななかっただけ幸運な方なんだ」


 胎児が死ねば母体も死んでしまうことが多いこの時代、母体だけでも助かったことは幸運の内に入る。この人なりの精一杯の励ましに、何も言わず頷くだけをした。


「……そろそろ時間?」


 今日は同盟国ヌビアから王族が来訪する予定になっている。時間帯的にもう来ている頃だろうし、時間になったら呼びに行かせると彼に言われていた。


「いや、先ほど到着なさったばかりだ。お前との謁見はもう少し経ってからだろう。メジットが知らせに来るようになっている」


 てっきり呼びに来たのだと思っていたから拍子抜けだった。浮かしかけた腰を椅子に戻しながら、首を傾げる。


「ならあなたは……?」


 きょとんとした私を、赤毛を揺らしてラムセスが振り返る。彼の目を思わせる、貫くような眼差しがこちらを射止めた。


「聞きたいことがある」


 私に聞きたいこと。一瞬だけ迷う素振りをしながらも、決意を固めたようにラムセスはまた私を見つめる。


「ある男のことだ」


 そう言われ、良樹のことだとすぐに察した。


「手がお前と同じ肌の……医療施設でヨシキと呼ばれていたあの男。ファラオは二度、俺たちに探すよう極秘に命じた。その理由はどれだけ尋ねてもファラオは俺にお答えくださらないままだ」


 推理をする探偵のように渋めの顔をして、ラムセスは続ける。


「そしてあの夜、明らかにファラオのご様子はおかしかった。ファラオがご即位されてから仕えてきた身だが、あのように取り乱されたご様子は初めてだった」


 ラムセスは見逃さなかった。彼がすぐに取り繕ったはずの、その束の間の歪を。


「おそらくあの男が関わっているというところまでは考え付いた。アイの元にいた魔術のような医術を持つ男。調べても調べても何一つ分からない」


 良樹の消息がぴたりと途絶えたのは、あれからすぐのこと。白い煙のように、名前も存在も消えてしまい、今はどこにいるのか見当もつかない。最後の良樹との言い合いを思い返しながら腕を擦っていると、ラムセスは私に向けた緑の目を細めた。


「お前、あの男と何か関係があるんじゃないのか。あの男を知ってるんじゃないのか」


 言って良いものか分からず、俯くことしか出来なかった。良樹と私のことを話すとなると、タイムスリップのことまで話は広がる。彼が話していないのなら、私だけの考えで口の紐を解いていいとも思えなかった。


「万が一、お前がファラオに危機の及ばせる存在であったのなら、俺は間違いなくお前にこの剣を向ける」


 言うか言うまいか迷う中でラムセスは腰の剣に手をかける素振りをしたものの、やがて息をついて手の力を緩め、剣の柄から手を離した。


「その時は俺自身も死を覚悟の上だが……それにお前がファラオの御命を狙っていたのならとっくの昔にやることはやっているだろうからな」


 私から一歩遠ざかり、赤毛の隊長はくるりと背を向けて頭巾を被る。白い上等な生地で織られたそれは、王家に仕える者としての証だ。相手はじっと庭の緑を見据え、唇を噛みしめていた。


「いきなりおかしなことを言った。本来ならファラオが自らお話しくださるのを待つべきものだ。今まで仰ってくださらなかったことはない。待てば必ず……」


 眉間にできた皺を緩めて、ラムセスは白い頭巾を靡かせて私に向き直る。その人のものとは思えないくらいの柔らかい表情だった。


「こんなことをへなへななお前に言っても仕方ないんだがな。まあ、まずは元気を出すところからだな、お前は」


 いつもの調子でぶっきらぼうながらも笑ってくれた。


「失礼いたします」


 扉が開き、ラムセスが言った通りメジットが入ってきて頭を下げる。


「ファラオとヌビアの御方がお待ちに御座います」


 メジットに頷いて椅子から立ち上がる。婚儀の際、多くの国の王族やその使者たちと会ってきたが、それ以来他国の王族が来訪しても対応するのは王である彼のみであった。自分がその場へ呼ばれることが今回が初めてのことであり、多少の疑問を抱きつつ、メジットと数人の侍女を連れて部屋を出た。

 指定された広間へ向かうと、玉座の前に立つ彼と髪の長い人物が楽しそうに談笑している姿があった。彼と話している相手はこちらに背を向けており、自分の知っている人物かの判別はつかなかった。


「来たか」


 私を見るなり、彼がこちらに手を伸ばす。その向かいにいた、彼と同い年ほどの王家の人間であると一目で分かる、すらりとした背の高い女性が私を振り返った。大きく開いた胸元はエジプトとはまた違った雰囲気の装飾品で飾られている。


「身体は大丈夫か」


 手を取る私に、彼が尋ねてくれた。大丈夫だと頷きつつも、どうしても彼と話していた初めて会う人に目が行った。

 黒人よりは薄い、暗めの赤みが乗った肌──オリーブ色。その濃い色が身を包む麻の白さを引き立たせていた。エジプト人とはまた違う風貌と豪華な装いから、来訪すると言われていた王族で間違いないだろう。


「キルタ王妃、初めて会うだろう。我が妃だ」


 彼は私を示して相手に私を紹介すると、今度は逆に彼女を示した。


「こちらは我が同盟国、ヌビア王妃だ」


 エジプトに多くの黄金を輸出している、エジプト南部の国ヌビア。国土から多くの金を発掘する鉱山が多いことと、肌の色がエジプト人より濃いことから、『黒の国』と呼ばれている。確か、歴史的にもヌビアは古代から金や鉄、銅などの鉱物資源に恵まれ、エジプトにとって重要な役割を担っており、数千年後にはエジプト支配下になる国のはずだ。


「貴殿がエジプト王妃か」


 彼女が一歩こちらに踏み出すと、耳から垂れる長い耳飾りが軽やかな音を鳴らした。顔立ちは丸顔で驚くほどの美女というわけではなくとも、気品の溢れた凛然とした雰囲気がそれを引き立たせ、見る者を魅了する。これはネフェルティティや彼が持つものと同じ、王家の誇りが放つものなのだろう。私には無いものだ。


「初めてお目にかかる、私はヌビア国王第一王妃キルタと申す。この度は夫であるヌビア王の代理として伺った。ご体調を崩しておられたと聞いていたが、お元気そうで何より。安心いたした」


 鳥の羽を用いた白い扇を片手に持ちながら発せられる声は、いかにも一国の王妃であるという威光が感じられた。


「こちらこそ、お初にお目にかかります。あの、今回は遠い所から……」


 挨拶をしなければと言葉を探すのに、詰まってしまう。慣れない環境に間誤付いていると、相手は口元から扇を離し、私から彼に向き直った。


「もう崩していいかしらね。肩っ苦しい挨拶嫌いなのよ。旦那から強く言われてるだけで」


 ぺろりと仮面がはがれたように彼女は凛々しい表情を一瞬にして崩した。扇を傍に控えていたヌビア人の侍女に渡して胸の前に腕を組む。別人のように変わった彼女に、傍の彼もくすくすと笑いながら頷いた。


「そうしてやってほしい。妃も戸惑ってしまっている」


 彼女は私の前にやって来て屈み、こちらをじっと覗き込んできた。


「誇り高きエジプト王の妃っていうからもっと美人で気高い人だと思っていたけれど、何だか小っちゃい子ね。指で弾いたら飛んで行っちゃいそう。……まあ、あんなことがあったなら仕方ないのかもね。あらあら、近くで見たら私の飼ってる猫ちゃんに余計そっくりねえ。可愛いこと」

「大事な妃だ」

「あら、骨の髄までやられてるってわけなの。凄いことだわね」


 彼に腕を回されながらも、頭上を飛び交う会話に目が回りそうになる。私の前にいる彼女は王妃という自分と、普段の自分をきっちり区別している人なのだろう。彼も使い分ける人間ではあるが、これほど顕著ではない。二重人格かと疑ってしまうくらい、先程と違い過ぎる。


「あなたの旦那とは遠征に来てからの仲なの。私の一目惚れの相手だったりするのよ」


 突然、鼻がつくくらい顔を近づけてそう言ってくる彼女に息を飲んだ。そんな私を見て、彼女はまたからかうように肩を揺らす。


「もともと我が国とヌビアは同一の祖先から別れた国。よって他国以上に繋がりは深い。即位して数年後に遠征に出た私を迎えてくれたのがこのキルタ姫だった」


 そう補足をしてくれる彼は苦笑を浮かべている。


「我が国ヌビアは弱き小国、エジプトの援助がないとやっていけない。黄金を送る代わりにこれからも良い関係を続けさせてもらうつもりよ」


 彼はヒッタイトとの交渉の成立前、16、17の時にヌビアとリビアの二国に遠征を行っている。それ以来の知り合いということだろうか。


「安心して。私は普通に結婚して子供もいるから。今日から3日ほど滞在するけれど、どんなに色男だろうとあなたの旦那に手を出したりしないわ。身体の関係なんて一回だけだもの、私が詰めて詰めて詰め寄っての結果だったし。若気の至りっていうのかしらね、懐かしいこと」


 あはははと大声でオリーブ色の王妃は笑う。私は唖然とその人を見ることしかできない。


「昔のことだ、気にするな」


 また苦笑しながら私を抱き寄せる彼も、楽しさを表情に滲ませている。けろりと暴露されて気にしない方がおかしい事実だ。それでも彼には側室十人とも関係があったというのは知っているし、今更この方との男女の関係だなんて驚くことでもないのかもしれない。ただ、こんな真正面から告白されて困惑するのは当然の反応だろう。


「ヒロコ」


 悩んでいると彼の声が鼓膜を叩いた。


「お前にこの無鉄砲な来客の宮殿案内をと思っていたのだが、頼めるか?」


 これからヌビアの宰相と話さなければならぬのだと、彼はセテムが控えている扉の方を指差す。セテムの前にヌビアの宰相と思われる老人が恭しく立っていた。

 いきなりの申し出に選択の余地など無かった。気づいた時にはがっしりとオリーブ色の指がこちらの腕に巻き付いていたのだ。


「あなたがしてくれるとは嬉しい。ならさっさと行きましょう。ほら」


 慌てて彼を振り向いても、時はすでに遅し。彼の苦味を混ぜた朗らかな笑顔は、王妃の笑い声が大きくなるにつれ、見えなくなった。









「あれは何?猫の像!?猫の神いるの!?」

「ええ、あれは音楽の神でそれを祀るバステ……」

「あら、あれも素敵ね!」

「あれは先々代がお造りになられたものをアケトアテンから……」

「これも凄いわ!どうやって作っているの?あの緑の染料は何から?」


 引っ張られながら小走りで宮殿中を回る私はすでに息切れ状態だった。しらっとしてついて来るヌビアの侍女に比べ、私の侍女は私同様あたふたして一緒に連れまわされている。あっちへびゅんびゅん、こっちへびゅんびゅん。とにかくヌビア人は止まることを知らないのかと思えるくらい、こちらの答えを聞き終わらない間に「あれよこれよ」と次へ進んでいってしまう。それに加え、この人が昔彼と関係を持っていたと知ったせいか、気持ちがどうしてもついて行ってくれなかった。


「何だか華やかねえ。すごいすごい。私の宮殿とは全然違う!話通り!」


 ぐいんとUターンして戻ったかと思えば別の道を見つけてそこへ駆け込む。


「ずっと来たいと思ってたのよ。砂漠ばかりかと思えば王宮は緑で……ナイルの水をうまく引いているのね。ああ、ここも凄い!感動!楽しい!」

「喜んでいただけて光栄です……」


 走り回るなんて久々で、乱れてきた息を整えながらそう答えた。いつの間にこんなに疲れやすい身体になっていたのだろう。身体が重い。怠さと生理痛が重なって辛さが増していく。


「あの、キルタ王妃……」


 休憩を申し出ようとした時、後ろにいたはずのメジットが素早く私たちの前に出てきた。


「ヌビアの王妃殿下」


 敬意を示しながらも上げられた彼女の表情はいくらか強張っていた。むしろ敵意がある気がする。


「恐れながら王妃様は未だ本調子では御座いませぬ。どうかあちらこちらに連れまわされることはお控えください。もし万が一……」

「黙れ」


 あははと大きく笑っていた雰囲気を瞬間的に消し去り、キルタ王妃はぴしゃりと言葉を跳ね退けた。


「名も知らぬお前に言われる筋合いなどない」


 言い放たれた強い声色に周りにいた侍女も私も、僅かに怯みを見せる。それでもメジットはまた一歩前に進んで口を開いた。


「物足りなく思われるかもしれませぬが、ご案内は私どもが」

「王妃が己の国を他国の王族に紹介する。これも出来ずして何が王妃か。そんなことでは王家の恥にしかならぬ。侍女ごときがしゃしゃり出てくるな。私はヌビア王妃である」


 鼻で冷笑しながら呆れ気味に続けられた王妃の言葉に、はっとする。


「しかし!今、王妃様は」

「口うるさい侍女は好きではない。私はこの王妃に案内してもらいたいと言っている。それが聞こえぬのか、エジプトの侍女は」


 反論しようと口を開きかけていたメジットに、目でやめるよう合図を送る。それと同時に「行くわよ」とまた腕を引かれて歩き出す。

 このままでは駄目だ。キルタ王妃の仰る通りだ。倒れるほどの辛さでもないのに、他国の王族の前で一度引き受けた仕事を放棄しては王家の面目に関わる。

 私がそういう態度でいられなかったから、メジットが他国の王妃に口出しをした。メジットのことでこの王妃の気を悪くさせたなら、それは違わず私の責任だ。王妃として、大勢の人々の前を行く者として、心配させるような顔をするなと言われたのはいつだったか。


 何を忘れているのだろう。私はそれほど弱くないはずだ。こんなことで休みたいと弱音を吐く人間ではなかった。古代に来た頃、彼に現代のことについて質問攻めにされたあの時を思えば、これくらいの説明なんて朝飯前だ。


「エジプト王妃、あの楽器は何?」


 また別の空間に入って、キルタ王妃が質問をする。次から次へと繰り返されるそれらに、出来るだけ丁寧に答える。自分の言葉で伝えていく。知識はある。今まで学んできたのは、こういう時のためだろう。彼の力に少しでもなりたかったからこそ、王妃として相応しくありたかったからこそ、膨大な知識を頭に詰め込んで来たのだ。負けじと、王妃としての役割を果たそうと躍起になった。


「この柱は王家の花であるハスをもとに設計されました。ハスは永遠の象徴、自然との共存を表す神の花でもあります」


 この国の誇り。この国の素晴らしさ。


「こちらの壁画に描かれているのは冥界の王オシリス神。弟セトによって暗殺をされますが、妻イシスの力で復活を遂げ、今も我々を見守っています」


 同盟を組んで良かったと、この国と関わりのあることを誇りだと思えるよう、この国を伝えることが私の役目だ。

 大体のものを説明し終えた時、キルタ王妃は満足そうな笑みを浮かべてくれた。時間はすでに夕暮れ近くになって、向こうの切り抜かれた窓から夕陽色が零れている。

 それに照らされる今にも動き出しそうな、私の背丈よりも大きな神の像が真向かいにある。神殿の像と同様、エジプトの像の躍動感と威厳は、大きな何かを秘めている。


「私の国はね、エジプトのものをよく模倣するの」


 傍にあった、愛と幸運の女神であるハトホル神像を眺めながら隣の王妃は呟く。うっとりした黒い目は夕陽色が灯って綺麗だった。


「だけど、同じものは決して作れない。どうしても何かが足りないの。彩色だとか、細やかさだとか……ううん、もっと奥深いところで違ってしまう。やっぱりこの国の技術は凄い。人の心を捉えるものを作り出せるのだもの」


 指先で像の肩に触れ、一息ついてから私を振り返った。


「どんな悲しいことがあっても、この素晴らしい国の王妃であることを、忘れては駄目よ」


 あまり年が変わらない人のはずなのに、何かを悟ったような面立ちには見惚れてしまうくらいの凛々しさがある。


「あそこが最後ね。行きましょう」


 こちらが返事をしない間に、私の腕を取って彼女は歩き出す。楽しそうに、軽やかな笑い声を立てながら。そして近づく、一番奥の外へ繋がる扉の無い空間。開かれたその場所へと飛び出し、そこから溢れ注ぐ橙に目を細めた。

 青い風がすぐ横を吹き抜ける。爽やかな草木の香り。太陽の光に照らされる、一面の青い絨毯──ヤグルマギク。

 私の腕を掴む彼女の小さな感嘆を、以前と変わらぬ儚い美しさを眺めながら聞いた。


「素敵……どんな黄金よりも何よりも輝いていて、今日見た中で一番好きかもしれない」


 夕陽を浴びた青さは、言葉では言い表せない、黄金や銀とは比較にならない何かを私たちに見せつける。それはきっと、命の健気さ。


「ねえ、ここはどういう場所?」


 この場所は。


「夫が、私に贈ってくれた……大切な場所です」


 テーベに来た日に彼がくれた、私の好きな花で埋め尽くした贈り物。今、左の薬指にはめられている指輪と同じ。

 「あの王がねえ」と私の短い説明を聞いた彼女は風景を再び見渡した。絶えずナイルから流れてくる風に、私たちの長めの髪が後ろへと吹き流れる。さわさわと花たちが擦れる音が、向こうからこちらへ駆け抜けていく。閉じこもっていてしばらく感じることのなかった初々しい風が、わだかまりを吹き飛ばすようだった。


「大事にされてるじゃないの」


 にっと、口角を上げてキルタ王妃が私に言った。


「言っちゃうけれど、あなたの旦那、あなたのために私を呼んだのよ」


 彼が。私のために。

 話に追いつけないでいると、彼女は私の手を取って、ヤグルマの中に足を踏み入れた。


「王妃という同じ立場にいる女として話を聞いてやってほしいって。自分には話せないこともあるだろうからって」


 二人の足が地面を踏む音を聞きながら、どういうことか分からずオリーブ色の彼女を見つめていたら、その人は優しくにっこりと微笑をくれる。


「私も三度子供を亡くしてるの」


 水を頭から掛けられたように、衝撃が走った。


「二人は生まれる前の流産、一人は生まれてすぐに毒を盛られたわ……殺されたの」


 その言葉に、身体が震える。胸が詰まる。


「その子の乳母がね、敵国に買われた女だったの。それが理由」


 16の時に最初の妊娠、6回の妊娠の内、3人の子供を失ったこと。それらをゆっくり、ヤグルマの青に腰を埋めながら話してくれた。


「あなたは奇怪な毒でお腹にいた時に奪われたと聞いたわ。でもあなただけじゃないの、王家の子供は生まれるのは難しい。もちろん、一定の年齢まで育つことも。常に命を狙われて生き続けなければならない。大国の王子となると特にね」


 彼女と同様、子供を殺されたという王妃は多い。彼自身も、異端王の息子という汚名の下に生まれたせいもあって、敵国だけでなく自分の民にも幾度となく命を狙われてきた。


「子供を殺されることほど苦しいことはない。こうやってへらへらしてる私だって、あなたみたいに塞ぎこんでた時があったわ」


 穏やかに、遠い記憶を振り返るように紡がれる話に耳を傾ける。


「慰めで、また戻って来てくれるからとか、また妊娠できるからとかよく言われるけれど、私たちにとってあの時の子に代わる子はいないのよね。死んでしまった子はその子だけで、その子も変わりなく私たちの子だったんだから」


 たとえどれだけその後に子供が生まれても、あの子はあの子。別の存在で埋められることはない。あの子はもう私のところへは帰ってこない。


「辛いだろうけれど、死んでしまったその子はちゃんと自分のお腹の中で生きていて、この世に存在していたんだということを、忘れては駄目」


 強いような、それでも優しさのある彼女の眼に、私は小さく首を縦に振った。無理に立ち直ろうとして、思い出を手放してはいけない。妊娠して感じた感情を、妊娠した経緯を、すべてを大切にしたい。時を越えて彼に出会って、そこで愛し合い、自分のの身体に奇跡が起こって、尊い命を授かったことをすべて。大きくなっていくお腹の存在に、どれだけの感情をもらえたかもすべて。失ってしまっても、それらは確かな真実だったのだから。


「忘れちゃいけないの。亡くなってしまってもこの子は自分たちの子供であること、お腹の中にいた時、沢山の幸せと喜びを与えてくれたこと。今も尚沢山のことを教えてもらい、家族の、命の大切さを教えてもらっていること」


 一気に流れ込んでくる。幸せで堪らなくて、どんどん愛しさが高まって行ったあの日々。


「そして、その子は自分たちの心の中で生きていること。生き続けていること」


 もう一度、「忘れては駄目よ」と念を押すように奏でられた声に私は強く頷いた。

 まだ思い出すのは辛い。けれど、愛しい記憶には変わりない。私の赤ちゃん。私の、愛しい子。

 目頭が痛んで、仕方がなくなって、手で覆う。


「明後日でその子のミイラが戻ってくると聞いたわ……それがあなたの区切りね」


 しばらくしてから花畑の中に寝転がった彼女が、大きく息を吸う。

 それを聞いて、自然と腕に力が入った。魂の器となるミイラ。産むことが出来なかったあの子が私のもとへ帰ってくる。彼を筆頭に、神々に死後の復活を祈る儀式が行われる。それが、自分の気持ちに区切りをつける時。


「素敵じゃない。数千年後に魂が戻ってきて生き返るだなんて。太陽なのね、エジプト人は」


 ヌビアは神様のもとにいって終わりなのよ、と続けて腕を天に掲げて伸びをした。指と指から漏れる夕陽が彼女の表情を照らし出す。

 美しい光だ。昇っては沈み、また昇る太陽は、甦る魂の象徴。エジプト人のすべて。


「数千年後になったとしても、また一緒に生きることができるかもしれないのよ。別れざるを得なかった今、それ以上に素敵なことがこの世界にどれくらいあるかしら」


 死んだとしても魂が帰って来てやがて生き返る。エジプト人はそれだけを信じて、今と言う時を生き、死んでしまった人と別れを告げる。

 最初はそれが馬鹿馬鹿しくて鼻先で笑っていた。一般的に魂と呼ばれるのは身体を流れる電気であり、存在し得ない、そう思っていたから。

 けれど今は切実に願っている。そうであってほしいと心から祈っている。古代人が生み出したこの死生観は、亡くなった人々が幸せであってほしいという強い想いが形となって現れたもの。この想いがただの電気であるという一言に、どうして治まることが出来るだろう。


「羨ましい。私も死後でいいから会いたいと思うもの」


 あーあ、と大文字になっていた相手は、勢いをつけて身体を起こした。そのまま宮殿の方を振り向いて、顔を覆ったままの私の肩をつつく。


「心配し過ぎてお迎えにいらっしゃったみたいよ」


 彼女の指先の方向を見たら、侍女たちと一緒にセテムを連れた彼がいた。困ったように眉を下げ、微笑む彼が。何とも言えないその柔らかい表情を見たら、どうにもこうにも胸が熱くなる。


「私の旦那はね、私が悲しんでいる姿を見ると、しっかりしようとして辛い姿を見せないようにしてたんだって。でも一人になった時には涙が止まらなくなることも多かったみたい。あなたの旦那もそうなんじゃないかしら。どうせあの人、隠れて泣く性格でしょ?」


 キルタ王妃に手を取られ、立ち上がって彼を見る。

 迷惑をかけたと思う。泣いて、泣いて、慰めの言葉さえ返してあげられなくて。自分のことしか考えられなかった。それなのに、何もしてあげられず咽び泣くだけの私に、彼は懸命に手を握っていてくれた。同じ立場で同じ経験をしたというヌビアの王妃を呼んでくれた。


「私の旦那の場合は、あまりにも私が立ち直らなかったから他の王妃の方にひょいひょい行っちゃったけれどね。あなたは一人だけの王妃。少しずつでいいの、頑張りなさい」


 ありがとうと彼女に告げたら、その人はまた声を上げて高らかに笑い、彼らに向かって手を振った。


 ──少しずつ。


 何が、できるだろう。こんな私から何を贈ることができるだろう。あの愛しい人へ。


 ──笑顔を。


 今までの思いやりに少しでも報えるような感謝の笑顔を、彼に贈りたい。ほんの少しの、見返りにしかならないだろうけれど、何も持たない、空っぽになった私が唯一持てるもの。

 手を夕暮れの空へと掲げ、封印していたように忘れていた私の精一杯を頬に浮かべて、彼の名を呼ぶ。すると彼は淡褐色を細めて微笑み、小さく手を振り返してくれた。黄金の腕輪の煌めきを、高らかな青い世界に落としながら。


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