願い

 禿鷹の翼をモチーフにした黄金の冠に、目元の緑のライン。赤や青、緑が置かれた襟飾り。コブラを象る細い腕輪と薬指の王位継承の指輪。ずっしりとした王族の衣装。

 鏡の中の自分に準備が全て整ったのを確認して、ネチェルたちの手を借りて立ち上がる。振り返ると同じように正装に身を包んだ彼がすでに来ていて、「準備は出来たか」という問いに私は静かに頷いた。身体を飾る眩い黄金とは正反対の気持ちが胸にある。

 大丈夫。胸の中でそう呟いて前を向き、歩き出す。侍女と側近をそれぞれに従えた隣り合う彼と、頭を下げる女官と兵の道を通って神殿へ向かう。


 とても静かな朝だ。衣が黄金と擦れる音と、自分たちの足音しか聞こえない。

 目に入る色は主に白。外の風景を縦に割いてしまうレリーフが浮かんだ白い円柱。白い床。白い天井。空気も、音も、何もかも、取り囲む色すべてが薄れて生まれたての白に還るように淡く見えた。それとは対に、長く伸びる柱と私たちの影は黒い。二色しかない世界に、ただただ心が静かだった。


 渡り廊下に入って、二体の神像が守るように立つ神殿の入口に差しかかる。彼に手を引かれて入る中で、顔を上げた先の巨大な神像アメン・ラーが視界を埋め尽くす。火を焚いているせいか、神殿内は靄がかかっていて深い森の中にいるかのように幻想的だった。その巨象の足元には大勢の神官たちが控えており、私たちの後ろについていた女官と側近たちは流れるように神殿の壁に沿って並び、その右列先頭にナルメルがつく。


 風景はいつもの儀式と何ら変わらない。けれど、唯一違うものがある。神殿の中央に設けられた祭壇に、いつもなら置かれていない、小さな棺がひとつ。彼が作らせた黄金の人型棺だ。

 落ち着いた心が僅かに蝋燭の火のように揺れるのを感じながら、彼と一緒にその前まで歩む。女児用として作られた棺の微笑む表情は、とても幼く、可愛らしく、穏やかだった。その色鮮やかな顔にそっと触れて頬を撫でる。


 一緒にいたはずだった。笑い合えていたかもしれない。ごめんなさい。

 覚悟を決めて来たつもりでも、遣る瀬無い想いが止まらない。あれだけ泣いてきたのにまた目頭が熱くなる。


「ヒロコ」


 溢れるもので胸がいっぱいになって蓋をするように目を閉じた時、私の手に手を重ねながら彼が慰めるように私を呼んだ。手の甲からじんわりと広がるぬくもりに胸が熱くなる。


「人に宿りし魂はバーとなりて、オシリスのもとへ羽ばたかん」


 死んだなら、その人の霊魂は精神や心の元となる「バー」と生命の元となる「カー」の二つに分かれ、カーを身体に残し、バーは鳥となって天へと向かう。


「その後、最後の審判を経て未来の復活を得るものなり」


 ミイラの中に残された心臓「イブ」を用い、オシリスのもとで生前の行いの正しさを説き、永遠の命──復活を許される。数千年後、悠久の時を越えて甦る。


 私が棺の傍についたままの形で儀式は始まった。厳かな歌があり、言葉があり、彼が永遠の命への祈りを目の前のアメン・ラーに捧げる。その威に溢れる彼の声は、降り注ぐ木漏れ日のような優しさがあった。巣食ってしまったような悲しさがありながら心は思いの外静かだった。今は自分でも驚くくらい和いでいる。

 瞼を閉じれば、歌が音の粒のようになって、どこか異空間にでも飛ばされたような心地になった。


 棺に頬を寄せて、中にいる子をあやすように撫で続ける。

 この広い宇宙の中で。忘れ去られていく文明の中で、私だけは絶えずあなたを感じていよう。どこかで笑ってくれているだけでいい。次の世があるのなら、そこで幸せに暮らしてくれるのならそれでいい。私の願いはそれだけだ。誰にも代わらぬ私の愛し子が、今は安らかに眠れるよう。


 1時間ほどで儀式は終わり、私たちのもとへナルメルがやってきた。いつもと同じ穏やかな表情で、一礼してから髭の下の口を動かす。


「埋葬は今夜、畏れ多くも私どもで行わせていただこうと思いますが、あの谷の王と王妃、どちらの墳墓に埋葬いたしましょう」


 その台詞で真っ先に思い浮かぶのは王家の谷。この時代では限られた者にしか伝えられない秘密の王家集合墓地地帯。そういう理由もあって、墓への埋葬は深夜に一部の者の手によって行われるのが常だった。


「いや」


 棺を撫でて首を横に振った彼に、ナルメルは少々驚きを浮かべる。


「ヒロコと話し合ったのだが、しばらくはこの神殿に置いておこうと思う」


 肩に手が回されるのを感じながら、私も宰相に頷く。これは昨日の夜に決めていたこと。


「私か妃のどちらかの死後、共に同じ墓へ埋葬する。寂しく感じることが無いように」


 本来ならすぐに死後の家となる墓に埋葬するところを、まだ生まれてもいなかったあの子が復活した際、父も母もいなかったらそれこそ寂しいだろうと、二人で話し合って決めた。私か彼か、このどちらかが寿命を全うして墓に入ることになった時、一緒に埋葬してもらえればいい。

 少しの間をあけてから、宰相は私たちを交互に見て、納得したように再び深く頭を下げてくれた。


「分かり申した。姫君のご遺体は時が来るまでこちらで丁重にお納めいたしましょう」


 ナルメルと神官の計らいで、場所は最高神アメン・ラーの足元に置かれることになった。


「また、来るからね」


 棺にもう一度軽く触れてそう告げる。この場所でも、一人で寂しいだろうから。


 妊娠していた時に彼が贈ってくれたお守りと、子供の遊び道具を隣に添えた後、「魂がアメン・ラーのご加護の下にあらんことを」という言葉が神官たちによって謳われ、棺が納められるのを見届けて私たちは神殿を後にした。








「あー、もう帰るなんて勿体ないくらいだわ」


 ヌビアへ帰国するキルタ王妃が、何度も「つまらない」と連呼しながらも宮殿から外へ出てきた。

 外は明るく、今日は風が強めなのか、砂漠の砂が時々風に乗って流れてくるのが見える。この分だと白い布はあっという間に砂の色に染まってしまうだろう。


「もう少しいれば良いものを」


 彼の提案に私も賛同するのに、彼女は「いや」と渋めな顔を横に振った。


「ダメダメ、私の旦那ってば早く帰って来いってうるさくて。帰らないと他の王妃の方に行っちゃうしね。私もうかうかここで楽しんでいられないわけ」


 ヌビア王には王妃が5人、それに加えて側室が20人いるというのだから驚かずにはいられなかった。私であったならそこで生き残れない気がする。いや、生き残れない自信がある。


「あと、早く記憶が戻るといいわね。記憶がないと生まれながらの王族でもこんなになっちゃうのねえ。まあ、影ながら応援してるわ。頑張って」


 彼女は記憶を失っているという私の身の上について興味津々だった。つまらないの二言目は必ずこの話題についてで、「こんなの」呼ばわりされながらもつい笑ってしまう。


「私も突然記憶がなくなるなんてことがあるのかしら。ちょっとわくわくするわ」


 けらけらと肩を揺らし、王妃は身に纏った上着を侍女に手伝わせながら着込んだ。そんなキルタ王妃に、隣の彼が深く笑いながら前に出た。


「ヌビア王によろしく伝えてほしい」

「ええ、それよりこんなに色々と貰っちゃっていいの?上質な布やらパピルスやら、お酒に黄金に……何だか悪いわ」


 外に開ける階段下の広場には鮮やかな飾りで埋め尽くされた馬とロバとラクダで溢れている。それらにはとてつもなく重そうな沢山の積荷がくくりつけられ、その間にヌビア兵と女官の多くが跪いて王妃を待っていた。


「ほんの礼だと思ってくれて構わない」

「そう、ならありがたく頂いていくことにしましょう」


 彼には軽い返事を返して、キルタ王妃は私の両手を取った。


「さあ、お別れよ」


 この人のさっぱりとした自信で満ちる笑顔はとても素敵に見え、同性でも憧れてしまう。


「本当にありがとうございました」


 エジプト王である彼の頼みとは言え、わざわざ来てくれたことに心を込めてお礼を言う。あれからもずっと色んな話や悩みを聞いて、ひとつひとつ真剣に答えてくれた。


「私もあなたのような一国の王妃として相応しい人間になりたいと思います」


 私の言葉に、彼女は「確かにね」と否定することなく頷いて微笑む。


「あなたは王家って感じじゃない。そこらにいそうな踊り子みたいだし、黄金で飾ってないと商人の娘だって言われても違和感がないから」


 そうなのだろう。彼は一目見れば他人とは違うものを感じさせるし、彼女も同じ。黄金で着飾り、周囲から王妃と呼ばれない限り、一体誰がと言うくらい、私は私でしかない。王妃の姿というものを十分に持てていない。


「まあ、あなたほどじゃないにしても私も同じようなものだったけど」


 あはは、と明るい笑い声が突然飛び出してくる。


「ほら、私ってあまり綺麗ってわけでもないでしょう?肩幅は広いし、鼻も顔も丸いし、釣り目だし。だからあなたの旦那に会う前くらいまで、まったく自信がなくて、ずっと誰かの影に隠れているような王女だった」

「あなたが?」


 こんなにも堂々としているのに。そうよ、と彼女は私に顔をこれでもかと近づけてきた。言う通り、今目前にいる女性がネフェルティティのような美貌かと聞かれればそうでもない。それでもそれを打ち消すくらいの美しさが彼女には備わっている。


「でも、ある時私は、自分は美しいって思うことにしたの」


 顔と顔の距離を離して、王妃は目を輝かせた。握る手に力が籠められる。


「これが私の一線だったと思ってる。きっと、あなたにとってはまた違う。案外近くにあるし、それはとても当たり前のものだったりするの。私には分からないあなたの一線を自分で見つけてみるといいわ」


 私の一線。


「キルタ様、そろそろ」


 ヌビア侍女の声が急かす。呼ばれた彼女は「ちょっと待って」と返して、改めて手に力を込めてこちらをじっと見つめ、その輝く黒い瞳に大きく私を映し出した。彼女の愛用する香油の香りが、一層濃くなり鼻先を撫でていく。


「こんな立場だから苦しい時も辛い時もある。けれど、女で生まれたからには女としての自分の思う最高の幸せを掴みたい。掴んで、はちゃめちゃに生きてやりたい。そう思ったの」


 相手は口端を大きく上げて、満面の笑みを浮かべた。


「一緒に生きてやりましょうよ、はちゃめちゃに」


 強い言葉に、私は自然と首を縦に振って返していた。

 片手が離れ、もう一方も離れていく。風が相手の波打つ真っ黒な髪を大きくなびかせた。


「最後にもうひとつだけ」


 一段降りた彼女の瞳は私を真摯にとらえる。


「完全に立ち直るにはもう一度子供を授かるしかないと思う。私はそうだった。今ヌビアで待ってる王子と王女、それが私の生き甲斐で何よりの宝物だから」


 もう一度子供を授かる──考えていなかったことではない。むしろ望んでいることだ。でも、この胸にはそれを望む私と、怖いと怯えている私がいる。また同じことが起こったらと、拒んでしまう私が。


「あなたはまず、転んでは立ち上がってを繰り返すといいわ。それでだんだんに強くなれたらなお良し!」


 にっこりとした笑顔を最後に残し、それじゃあねと、彼女は颯爽と階段を駆け下りていく。そんな彼女を取り囲んでいた侍女たちはまたしれっとして追いかける。そして王妃は見事と言わんばかりの飛び乗りで馬上の輿におさまった。ぴんと伸ばした背は勇ましい。


「若きエジプト王、そして王妃よ!お元気で!また伺おう!」


 オリーブ色の手を空に掲げて、王妃としての威厳を孕ませて彼女は叫ぶ。それに彼と私も腕を上げて返した。


「出発!」


 彼女についていた将軍らしき男性の一声でヌビアの団体は砂漠の地へと帰って行った。




「災難だったな」


 行列を最後まで見届けてから彼が苦笑する。その人の言う通り、台風のような人だった。台風のような人でありながら、台風一過の空のように彼女に会えた後の心は晴れやかだ。


「もう二度と呼びたくは無いな。次の機会は王子をよこせと言っておこう」


 そう言う彼の表情も朗らかなのだ。


「ヌビアの王子様ということは息子さん?」

「ヒロコも一度会っているはずだ。……いただろう、ほら、婚儀の祝賀を述べた者の中に齢9つの王子が」


 いきなり記憶が飛び出て来て、あっと声をあげてしまう。思い返してみればいた。彼女と同じオリーブ色の王子。可愛らしくてあどけない挨拶をしてくれた、あの子。なるほど、似ているかもしれない。あの子が宝物と言われた、ヌビア王妃のお子さんだったのだ。


「なら今度はヌビアの親子にお会いしたいわ」


 行列が見えなくなった遠くを見やり、そんなことを言ったら彼も頬を緩ませた。気持ちの良い、微笑みだった。

 空が青い。世界が明るい。最後に空を仰いで、風の音に耳を傾けたのはいつだっただろう。

 進まなければ。まだ私の一線は分からないけれど、もう一歩、自ら前へ踏み出さなければ。


「アンク」


 やはり今日は風が強いようだ。声を出そうとした口の中には砂が入り込んでいるような感覚がある。それでも髪を抑えて彼を見上げた。


「なんだ、礼なら聞き飽きだぞ」


 ヌビア王妃を私のために呼んでくれたことに対して、昨夜お礼を言ったらこの調子だ。得意げに口角を急カーブで上げている。


「お願いがあるの」


 彼が不思議そうに私の目を淡褐色で捉えた。


「願い?」


 聞き返す彼にこくりと首を動かす。

 このまま放っておいては駄目だから。もう一度ちゃんと向かい合わなければならないと思うから。


「会わせてほしいの」


 この心に区切りをつけるために、私がまずやるべきことは。


「メアリーに」


 彼女の話を、聞くこと。



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