どちらか

 メアリーが再び眠りについた後、部屋から外へ出て夜空を仰いだ。

 現代とは比べ物にならないくらい、宝石を散りばめたように輝きに満ちた古代の空が頭上に広がっている。煌めく夜空にまず、行方の知れない良樹を想った。

 メアリーを巻き込んだのが事実であるならば、良樹も同じ空の下にいる気がしてならない。3人とも同じアマルナからタイムスリップしたのにも関わらず、私はアマルナに、メアリーはギザに降り立った。そのことを考えれば、良樹もまた別の場所に落とされたという可能性が浮上してくる。

 この時代の、どこかに。古代のどこかに。もしそれがエジプト以外の別の国だったら。敵国同然のヒッタイトにでも落とされていたら。メアリーのように彷徨っていたら。ひもじい思いをしていたら──。

 私より知識がある良樹でも、あまりに文化が違いすぎるこの古代で一人生きていけるほどのものは持っていない。考え出したら止まらなくなって、居ても立ってもいられなくなる。そうでいながら連絡を取る術を何も持ち合わせていない私には、どうすることもできない。恨めしくなるほどにそれが無力だった。


「良樹……」


 隣の柱に手を置いて、空の星々を見上げた。居場所が分かりさえすれば、すぐにでも飛んで行って助けに行くのに。どうすればいいのだろう。


「何を考えている」


 声に顔を上げるとすぐ傍に彼がいた。月光の中に淡褐色を淡く光らせて私を見ている。


「ヒロコ」


 呼んで、私の髪に触れた。まっすぐ向けられた情熱を帯びた表情は、理由なく私の身体の熱を上げていく。


「もとの時代のことを、考えているのか」


 吐息と共に私に尋ねかける。


「そのような思い詰めた顔をして……帰りたいと思っているのか」


 今にも崩れそうな彼の言い方に不安が過って、彼と向かい合った。見えた俯く表情は夜に埋もれている。


「どうしたの?」


 あなたらしくない言葉だと言えば黙り込んでしまう。闇に沈み、向こうの橙の光が私たちの影を長く伸ばしていた。

 何も返答がないまま、彼の腕が伸びてきて、やんわりと私を抱き寄せた。


「アンク?」


 手を相手の背中に回して身を委ね、母親にでもなったかのように擦りながら彼の胸に頬を寄せた。


「……何を、考えていた?」


 髪を撫でる手を止めず、再度尋ねてくる。

 何かあったのかしら。


「良樹のことを考えていたの。それだけよ」

「ヨシキ?」


 反射的に彼の顔が顰められた。分からぬとひん曲がったその面持ちに自然と頬が緩む。


「幼馴染だって前に話したでしょう?写真は捨てちゃったけれど医師をやっている人。私の兄みたいな人よ」


 私を好きだと言ってくれた人。1年近く私のためにエジプトにいてくれた人。結婚まで望んでくれた、あの人。

 探さなければ。現代人が古代に一人落とされて、生きていけるはずがない。


「メアリーと一緒に私を連れ戻そうとしていたから、あの人もきっとこの時代にいるはずなの。良樹は知識はあるけれど、不器用なとこもあるから心配で……あ、そうだわ、あなたにお願いが」


 彼に良樹の探索を頼もうと顔を挙げた途端、唇が少し乱暴に塞がれた。熱は触れるだけですぐに離れ、私は熱い息が掠める唇を軽く噛み、身を若干のけ反らせて相手を見る。どんなに背を反らせても彼の腕がそうさせてはくれず、すぐに引き戻された。

 驚く私の髪を巻き込んだ首の後ろに添えられた手は髪の感触を確かめるように動き、近くに迫った彼の顔は随分と苛立ちに満ちていた。


「急に、どうしたの」

「他の男のことなど考えるな」


 ついさっき触れ合った相手の口先からぼそぼそと文句が紡がれる。きょとんと鼻の先にいる彼を見つめていたら、淡褐色はふいと逸らされてしまった。


「腹が立つのだ。この胸の中に私以外の男がいると思うと」


 またぼそぼそと、気恥ずかしそうに。その様子を見て一つ、思いつく。


「もしかして」


 ほんのりと胸が暖かくなるのを感じながら、おずおずとその人の顔を覗いた。


「……嫉妬?」


 向かいの顔がさっと戸惑いの色を浮かべたけれど、すぐに眉間に皺を寄せた。


「嫉妬ではない。そのような下賤なことなどせぬ。ただ、他の男のことを考えているヒロコに腹が立っただけのこと。お前の夫は私だろう」


 世間ではそれを嫉妬と言うと思うのだけど。


「私を怒らせたいのかヒロコは」


 どうにもこうにも胸が熱くなって、何も言わず微笑んで彼の胸に頬を寄せる。嫉妬ではないというのなら何も言うまい。彼も私を抱きすくめ、頭頂に唇を落とした。


「……なのか」


 寄せていた胸に彼の声が響く。


「え?何?」


 こんなに近くにいてもよく聞こえない。いつもなら遠くにいても分かるくらい大きくて、耳を塞いでしまうくらいの声で私を呼ぶのに。


「だから」


 しんとした世界で俯いたままの彼は薄い唇を動かした。


「ヨシキを、好いているのかと聞いている」


 やっぱり嫉妬だ。そうだと分かって、自分の口が緩んで弧を描いたのを感じた。両手を伸ばしてその人の熱い頬を包む。それでも彼の顔は引きつったまま緩んではくれない。


「良樹も大切な人よ。だけどあなたとは違う存在で……うまく言えないけれど」


 愛しいと思える彼の頬は触れているだけで胸を満たす。


「ヒロコ」


 もたれ掛るようにして私を腕に抱く。広い胸に埋もれて、嗅覚が彼の香り一色に染まった。


「怖い」


 私を自分の腕に埋めながら、彼が小さな声で呟く。


「ヒロコがまた帰るのではないかと、傍からいなくなるのではないかと思うと、怖い。不安で、不安で堪らなくなる」


 ああ、そうか。やっと彼がメアリーに向けていた視線の意味が分かった。見知らぬ人物への軽快だけではなく、現代の人間である彼女を見て、私が帰りたいと言い出すのではと焦っていたのだ。

 時折彼は子供のようになる。自分はどうなってもいいと言っているくせして、周りの誰かを失うことを酷く恐れているような節が見え隠れする。


「……ねえ、アンク」


 静かに身体を離して彼の顔を覗いた。薄い唇を噛んだ彼がその眼差しの中に私を宿らせる。


「2人がこの時代にいるのならもとの時代に帰る方法を見つけなくちゃいけない。2人は私が引き込んでしまっただけだから……でも、帰る方法が見つかったとしても私が帰ることはない。そう決めたのだもの」


 手を伸ばして固めの髪を撫で、微笑を向ける。


「この命が尽きるまで、あなたの傍にいる」


 これは変わらない答えなのだと、何度口にすればあなたは信じてくれるのだろう。すると、顔に安堵を乗せて彼はまた私を抱き締めた。


「これでやっと、テーベへ行ける気がしてきた」


 それを聞いて思い出した。彼は私を置いてテーベへ向かう。

 1か月もの間、この人と会えなくなるのだと実感して、私も自分の腕に力を込めた。


「あなたがいない間、メアリーを私の傍に置いて欲しいの」


 彼にどうかと頼む。


「それが一番メアリーにとって良いことだと思うから」

「仕方が無い。許そう」


 溜息を吐きながらも了承してくれた相手に、ありがとうと小さく呟いた。

 彼の鼓動を聞いて思うのは、今眠っている友人にこの決意をどう伝えようかということでもあった。

 すべてを伝えなければならない。だが、この想いを知ったら彼女はどうするだろう。私の愛した人の名を言ったらどんな顔をするだろう。何と言うだろう。

 あれだけ、この世界を拒絶してしまっている。帰りたいと渇望している。そんな彼女に伝えなければならなに私の決意は、彼女を絶望に陥れるものに成り得るのではないだろうか。


「ヒロコ」


 離すまいと篭る力が背中から伝わってくる。


「もう一度」


 縋る、甘えるような声で彼が言う。


「もう一度、その口で愛していると」


 顔を上げたら、すかさず長い指が唇を辿った。どれだけ言っても足りない言葉を、あなたは求める。そんな例えにならない瞳に私だけを映して。


「その声で好きだと」


 暖かい手と真摯な眼差しに魅入られた私の肺は呼吸を忘れてしまう。吸い込まれてしまいそうになる。


「愛してるわ」


 吸い込まれてしまう前にそう言ったら、彼は嬉しそうに微笑んで、さっきよりずっと濃い甘さの中に私を落とす。

 互いの吐息を溶け合わせ、息を上げていく。愛しい人の口づけはいつも激しく、呼吸が止まってしまいそうになる。それでも彼の何もかもが愛おしくて堪らないのだ。この瞬間がずっと続けばよいのだと思えてしまう。

 このまま抱きしめていてほしいと。あなたとの幸せを、ひたすらに願っている。


「……だがあの女、様子がおかしくなかったか」


 唇を離すと、唐突に彼が尋ねてきたものだから、呼吸を整えながら首を傾げた。


「メアリーのこと?」


 そうだと彼は頷く。


「今は混乱しているだけよ。とても優しくていい子なの」


 確かに様子がおかしいというのはあるかもしれない。でもそれはただ、精神状態が不安定なだけだろう。

 彼は納得いかないように気難しい顔をした。


「ならばいいが……ヒロコと話している様子を見ていたが、どこか狂気じみているように見えた」

「お待ちを!!そちらはなりませぬ!!」


 そんな切羽詰まった声が鼓膜を打った矢先、扉が音を立てて開く音がした。大きく轟いたそれに、私も彼も弾かれるように互いに顔を上げて我に返った。


「なりませぬ!」


 メジットの声だ。


「お戻りください!メアリー殿!」


 眠っていたはずの彼女が、どうしたのだろう。

 目覚めて私が傍にいないことに混乱したのだろうか。


「……メアリー?」


 咄嗟に彼の腕から逃れて、声の方へ行こうとしたら彼に遮られた。一瞬、彼の肩越しに誰か二人の影を見た。彼は扉の方を振り返ったままじっとその方向を見据えている。


「……あなた、誰」


 耳を打った響きに、明らかにメアリーだと確信した。どうにかこうにか背伸びをして二人の姿を見る。


「申し訳ありませぬ!!すぐに下がります故」

「あなた誰よ!!!」


 メジットを遮って再びメアリーの悲鳴じみた声が部屋に響き渡った。メジットの腕を振り払い、驚きと怒りを混ぜ、私を抱く彼を睨みつけている。


「弘子に何してるの!!」


 再び悲鳴を上げ、彼女は傍の机上にあった彼の短剣を握り、鞘のまま向けて床を蹴った。


「メアリー!駄目、やめて!」

「汚い手で弘子に触らないでよ!」


 金の装飾がなされた切っ先が、橙の光を浴びて鈍く光る。一気にこちらに近づき、その刃が振り上げられたと思ったら彼が動く前に別の手がメアリーの刃を撃ち落とした。その反動で彼女も床に放り出される。メアリーの前に立ち塞がったのはラムセスだった。


「衛兵!!」


 扉から兵が現れ、起き上がろうとする彼女を素早く抑え込んだ。


「駄目よ、メアリーを傷つけないで!」

「ファラオ」


 冷たい緑眼で彼女を見下ろし、ラムセスが彼を呼んだ。炎の色で普段より赤さを増した髪を揺らし、彼の前に跪く。


「やはりこの女、始末しておいた方がよろしいのでは」


 私を抱く彼の腕の力が増した。その目には怒りのような、それでも恐怖に似た色が漂っている。


「いくら王妃の冥界でのお知り合いとは言え、今ファラオに刃を向けたというのは偽り無き事実。これは大罪に御座います」

「違うの、彼女は何も知らないだけなのよ」


 彼を押しやって、ラムセスに抗議した。


「弘子!」


 押さえつけられた苦しげな彼女が、私に瞳孔を回した。


「メアリー!」


 彼を押し切って、メアリーの方へ駆け寄って屈み込む。

 王族に矢先を向けることのできない兵たちは戸惑いつつも、メアリーを取り押さえる腕を離した。


「大丈夫?怪我はない?」

「王妃って、どういうことなの」


 彼女から問われたものに、はっとした。

 縋るような眼が私を捉えている。


「あのメジットとか言う女から聞いたの。あなた、王妃だって……エジプトの、王妃になったって」


 私の口からではなく、他の口から彼女は知ったのだ。


「嘘よ……嘘よね?だって、王妃だなんて。ねえどういうことなの?意味が分からないの。どういうこと?」


 放たれた、真実を求める親友の声には切実なるものがあった。

 こうなってしまったからには決意を固めなければならない。

 一度、目を閉じてから息を吸い、立ち上がって彼とラムセスを含めた皆に向かって口を開いた。


「手荒な真似は許しません。私の大切な友人です」


 泣き出しそうな顔の彼女を見つめる。


「弘子……」

「メアリー、あなたに話さなければならないことがあるの」


 真っ直ぐ言い放った。


「とても、大事なことよ」








 時間が意味を失くしていた。部屋へ戻り、メアリーと二人向かい合い、すべてを話してしまって自分の中が空っぽになった感覚と、今にも切れてしまいそうな緊張がある。まとわりつく暗がりと、メアリーの髪に薄く広がり揺らめく橙。決して心地よくはない雰囲気に取り囲まれ、私は呼吸を殺していた。


「……何、言ってるのよ」


 何分経ってからか分からない。それが、向かい合う人が発した最初の一言だった。


「アンケセナーメン?王妃?ここで生きる?本気で言ってるの?」


 寝台に腰を下ろすメアリーは膝の上の拳を震わせ、見開いた瞳で茫然と向かい側の私を見つめている。


「私は、彼と一緒にここで生きると決めたの」


 自分を落ち着かせ、淡々と返す。


「何言ってるの。弘子は私と帰るんでしょう?そうでしょう?」

「……帰る方法は私にも彼にも分からない」


 震え出す手を膝の上に抑え込んで私は首を振った。


「じゃ、じゃあ、どうやって弘子は」

「一度帰った時は、あちらの時代から聞こえた彼の声に引き寄せられた……考えてみたんだけど、もとの時代に戻るには向こうからの彼の声がなければいけないのだと思う」


 今までのことを考えればそうなる。私の時代に彼がいるはずはないが、ここへ来る時もあちらへ帰る時も私は間違いなく彼の声を聞いた。それが今のところ、時空を越える共通の条件だ。


「でも彼はここにいる。未来から私たちを呼べるはずがない」

「……なら、私たち、どうやって帰るの」

「条件は彼の声であるのは間違いないと思う。だから彼の傍にいることが帰ることが元の世界に帰る一番の近道だと思ってる」


 仮説でしかない。証拠なんてない、いつでも崩れてしまうような話だ。


「メアリーも彼の傍にいればきっと帰れる。だから……」

「あの人が、弘子を古代に呼んだのが……ツタンカーメン?」


 少し離れた柱に寄りかかって立っている彼にメアリーの視線が飛んだ。3人だけの部屋に彼は、気配を消すようにして伏せていた目をすっと開け、彼女を見返した。細め、その中の瞳を光らせる。


「嘘言わないでよ。何言ってるの。全然分かんない。全く分かんない。意味不明」


 彼女が突然立ち上がり、私を見下ろした。


「タイムスリップのことは認める。だけど、弘子だって知ってるでしょう?ツタンカーメンは19歳で死んでるの。あの人が今20歳を越えてるなんておかしい。弘子、あなた騙されているのよ」

「違う。私たちの時代で真実として綴られている歴史と本物の歴史は違うの。お願い、落ち着いて」

「落ち着いていられるはずないじゃない!!親友が古代の人を好きになってその奥さんになって古代に残るなんて聞いて、誰が落ち着いていられると思う!?」


 ギザで会った時のように彼女は髪を振り乱し、その場に屈み込んでしまった。私も椅子から腰を浮かせて傍に屈み、彼女の背中に触れる。


「メアリー、私は彼をここに残して帰ることはできないけれど……大丈夫、メアリーと良樹は私が絶対に元の世界に帰すから」

「馬鹿言わないで!!」


 私の手を振り払い、鋭い視線で私を射抜く。その目に、胸が締め付けられる思いがした。


「弘子、あなたはこの時代の人間じゃない!ここにいるべき存在じゃないの、私と同じ!!あの人を好き?愛してる?それが許されることだと思ってる!?馬鹿なこと言わないで!」


 彼女は髪を振り乱し、私の肩を掴むと大きく揺さぶった。


「分かってるの?ここに残ると言うことは、あの男を選ぶと言うことは、元の時代を捨てることよ!?おじさんやおばさんを捨てるってこと!私や良樹を……!」


 分かっている。胸が千切れんばかりの思いで、あの時代との繋がりをすべて断ち切ったつもりでいたのだから。写真も、携帯も、何もかもをナイルに放ち、すべてを捨てる覚悟を決めた。


「あなたがいない間おばさんがどれだけ泣いて、おじさんがどれだけ走り回って、良樹がどんな思いであなたを探したか分からない訳じゃないでしょ!?」


 私の肩を彼女が掴んで揺さぶった。

 両親を思ったら泣き出したくなった。


「ねえ、目を覚まして」


 揺すり、縋り付くような瞳をこちらに向ける。幼い頃から隣にあった、懐かしい眼差しだった。


「あなたは未来の人間、こんな時代にいるべき存在じゃない。弘子、あなたは良樹と一緒に……」

「目なら、覚めてるわ」


 むしろ眠ることを知らないくらい。この古代という世界に落とされてから幸せを感じながらも、いつも不安の中にいた。


「お父さんもお母さんもこの胸に沁みついて、決して離れない。代えがたい大切な存在……良樹のことも好きよ、とても。この思いは永遠に変わらない」

「なら!」

「だけど私はあの人を愛した。掛け替えのない人になった。死なせたくない」


 譲れないものが出来た。現代を切り離しても守りたいと思えるものが出来た。


「歴史を変えると決めたの」


 彼のために。

 彼が若くして死ぬのだと分かって、帰ろうとは思えない。


「何言って……」


 胸元を握りしめ、彼女を見据える。揺らぐ眼差しと、私の言葉を否定するかのように嘘と動く唇があった。


「だからアンケセナーメンとしてこの国の王妃に、彼の妻になった。もう引き返せない」


 メアリーは目をこれでもかと見開き、わなわなと身体を震わせた。小さな悲鳴がすぐそこの唇から洩れ、周りの空気を振動させる。


「私は未来には帰らない。この時代の人間としてここで彼の傍に立つことを選んだ」


 私は、一番言わなければならなかったことを言い放った。


「……ごめんなさい」


 許してとは言わない。

 沈黙が揺れる。揺れて蠢いて。私たちを飲み込み陥れて、正気を奪おうとするかのようだった。


「……変よ」


 沈黙を掻い潜り、悲愴を孕んだ声でメアリーが言った。地べたを這うような低い声だった。茫然とした二つの目が、私の膝あたりを漂っている。


「弘子……あなた、変だわ」


 何も言えない。昔の、ここに落ちたばかりの私なら絶対に下すことのない決断だった。何度も帰りたいと願い、何度も彼を突き放した。


「どうしちゃったの?私の知ってる弘子じゃないよ。どこ行っちゃったの?」


 消えた訳でも、どこかへ行ってしまった訳でもない。古代に来る前の私の心は、この胸に今もまだ眠っている。


「どうしちゃったのよ!!」

 

 唐突に彼女の手が動き、私の手を掴んだ。あまりの強さに顔が歪む。


「ねえ!」


 さっきよりずっと強く私を揺すった。崩れてかけた気持ちと、彼女の苦しげに泣き出す顔に挟まれて胸が潰れてしまいそうなのを抑え込み、歯を食いしばる。


「ツタンカーメンは悲劇の少年王!その王妃だなんて気が狂ってる!悲劇の王妃、その名前の意味、弘子だって分かるでしょう?」

「険しいと分かっていても私は彼を追いかけたい。たとえ今が、これから訪れる物が儚くても、私は彼の傍にいたい」


 静かに、それでいても芯の通った声で告げた。


「彼はもう、私のすべてよ」


 ふるふると弱々しく首を振り、彼女は自分の髪を掻き乱した。


「嘘!嘘!!!」


 そんな空気と同化してしまいそう声が耳を掠めていく。再び訪れた沈黙に、身に着けた麻が床に擦れる音を聞きながら、メアリーは前かがみだった身体を起こした。


「……こんな、ところに」


 ぼろぼろと落とされる言葉があった。


「こんなところにいるのがいけないのよ!」

「メア……」


 立ち上がる親友の狂気じみた表情に、小さな恐怖が走った。


「ここを出るの!!早く立って!!立つのよ!!」


 私の腕を掴むと無理に立たせ、駆け出した。抗うことが意味を成さない。もつれる足をどうにか動かして、待ってと声を掛けるのに彼女はこちらを見てくれなかった。


「メアリー!落ち着いて!ねえ!」


 私の声が聞こえていないかのように彼女は我武者羅に走り、どんどん扉が近づく。扉に手を掛けようとした時、さっと影が横切った。影で消えた出口の前でぴたりと止まり、メアリーは私を庇うように背後に追いやる。


「妃の手を離せ、女」


 私たちの行く手を塞いだのは彼だった。メアリーを凄まじい形相で睨んでいる。


「聞こえぬのか。我が妃の手を離せと言っている」


 仁王立ちで腕を組み、淡褐色で私たちを見下ろしていた。


「ヒロコをお前などに渡すつもりはない」


 久しぶりに見る、たじろいでしまうほどの目つきに、怒っているのだと一目で分かった。


「退いて!私たちは帰るの!」


 彼を見ていたら親友の身が心配になって、メアリーの腕を引く。


「メアリー、ここを出ても私たちだけでは路頭に迷うだけよ!お願い、一緒にここにいよう?ね?落ち着いて」

「弘子は黙ってて!ここにいるから、こんな男と一緒にいたから、弘子は変になったのよ!!」


 私の言葉を振り払い、彼女は彼を見上げた。


「ツタンカーメン!!」


 その名に、身がざわつく。私が彼の正体を知った時のあの名前だ。


「私が予言してあげる。あなたの未来を」


 何を言おうとしているのかが分かって口よりも先に胸が悲鳴を上げた。メアリーは私を掴んでいない左手を前に出し、人差し指を槍のように彼に突き付ける。


「あなたは死ぬ!!近い未来、殺されてか、事故か、病気かで!!必ず死ぬの!」

「やめて!!」


 言わないで。彼に言わないで。


「あなたは黒ずんだ醜いミイラになって終わるの!必ず!絶対に!」

「メアリー!やめて!!!」


 ただの歴史として綴られた一文でしかないかもしれない。私たちが勉強のために読んできた分厚い本の一文でしかないかもしれない。けれど、その一文がどれだけ今の私や彼にとって重いものか。


「メアリーが今死ぬと言っているのは今を生きている人なの!私たちと同じなの!そんな酷いこと言わないで!」


 止めようとする私の声などに、聴く耳を持ってくれない。浮かべられた顔は、私の知っている彼女とは思えないくらい怒りに歪んでいた。


「早死にする、それもすでに悲劇の人生を歩むと決まってるあなたが弘子を幸せに出来る訳ない!弘子は現代に生きる人間なの!あなたみたいな死んだ過去の人間と一緒にいることなんて誰が許すっていうの!過去の人間が未来の人間をとやかくできると思うな!!」


 メアリーを映す淡褐色に赤が走る。ホルエムヘブなら怖気づくようなその目を、私を守ろうとする親友は一瞬怯みながらも迎え撃つ。


「私たちの時代であなたは死人よ!!弘子と釣り合うはずがない!」


 私の親友には、私が愛した人は過去の人間で、ミイラにしか、これから死ぬという未来を持った死人同然にしか見えていない。感情を持つ、一人の人間だと言う認識がないのだ。

 私は何度も首を横に振って、やめてと唱え続ける。


「ツタンカーメン!あなたは死ぬのよ!」


 瞬く間の時間だった。褐色が素早く飛び、彼女の首に巻きつくのを見た。メアリーの手が私から離れ、私の視界に恐ろしい光景が広がった。


「アンク!!やめて!!」

「誰に向かって口をきいているか、分かっているのか!」


 壁に押し付け、彼はもがくメアリーに低めた声を放った。


「ラーの子、この雄大なる神の国を統治するファラオであるぞ」


 以前の儀式で生贄を捧げる時の顔と同じだった。冷酷で、人を殺すことを厭わないような。


「このまま絞め殺しても、私は構わぬ」

「アンク!やめて!駄目!!お願い!」


 彼の腕にしがみ付いてその手を引き離そうとするのに、動いてくれない。


「アンク!!!」


 私を見ないその目の鋭利さはまるで刃のようだ。このままでは、殺してしまう。


「私の大事な人なの!放して!許して!!」


 泣きながら叫んでいた。どうしてこんなことになったのだろう。自分が許せないのと、大切な友達が殺されてしまうのではないかという恐怖に押しつぶされてしまいそうだ。


「あんたが……あんたが!!弘子を!」


 首を絞められているのにも関わらず、メアリーは途切れた言葉を吐きだし、彼に目を剥いた。憎しみと怒りを混ぜたような眼差しは鋭さを増している。


「返しなさいよ!!私の弘子を返してよ!!」


 泣きながら叫ぶ彼女に、褐色の手に血管が浮き出るのを見て、私の身体から血の気が引いた。


「やめてっっ!!」


 叫んだ途端、彼の手が力を緩め、メアリーが壁に沿うようにその場に座り込んだ。げほげほと首を抑えて咳き込んでいる。


「メア……」


 倒れこんだメアリーに駆け寄ろうとすると彼に乱暴に引き寄せられ、動きを封じられた。


「メジット!ラムセス!」


 呼べば、二人はいつも通りすぐさま扉を開け、彼の下に跪く。知らない間に部屋の外に待機していたのだ。


「この女を我が目につかぬところで女官として養育せよ。決して妃に近づけるな」

「はっ」


 立ち上がったメジットがいつもの笑顔を消し、後ろにいた他の女官たちに命じる。


「この娘を女官部屋に連れて行きなさい」


 女官たちが走り寄り、未だに苦しそうにむせている彼女の腕を掴んだ。


「や、やだあっ!!」

「メアリー!!」


 離してと泣き、暴れながらも、連れていかれるべく扉の方へ引きずられていく。


「アンク、お願い、もう一度話をさせて!」


 彼は私に目を向けてはくれなかった。私をメアリーのもとへ行かせまいと強く抱き込んで、視界からさえもメアリーの姿を奪ってしまう。


「弘子!助けて!!」


 メアリーが私を呼んでいた。


「お願い!連れて行かないで!!」


 動けば動くほど、彼の腕に力が籠められる。


「助けてくれないの?私を見捨てるの!?私を!!弘子!!」

「違う!違う!メアリー!今、今行くから!」


 彼を突き放そうとしたら、ふと彼の辛そうな視線とぶつかった。今にも泣き出しそうな彼を見て、私の目から一気に涙が溢れ出た。

 メアリーの言葉に、傷ついたに違いなかった。恐れていた事実を突き付けられ、私が現代へ帰るのではないかという不安を募らせた彼をこのまま置いて、彼女の方へ向かう気持ちを躊躇わせる。

 私が選んだのはどの道だったか。でも。それでも。彼女を一人には出来ない。


「ヒロコは私の妃だ」


 迷いで、私の腕から抗う力が抜けた一瞬に、彼が私を抱き上げて、メアリーとは反対の方向へ歩き出した。


「メアリー!」


 彼が苦しんでいるのを知りながら、私は彼の肩越しに見えた、引かれてもう手先しか見えない彼女の名前を叫んでいた。

 涙が止まらなかった。

 自分がこれほどまでに泣いているのは、メアリーと無理に引き離されてしまったからだろうか。彼が酷い言葉を彼女に浴びせられたことだろうか。彼が近いうちに死ぬ人だと、一番聞きたくない事実を、親友の声で聞いたからだろうか。全部がぐじゃぐじゃに混ざり合って、それが余計に涙の量を多くした。

 分かっていた。これは自分が導き出した決断の結果だ。ただ、こんな形になるとは思いもしなかった。

 彼は決して、泣きじゃくる私を離そうとはしなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る