2012
* * * * *
窓ガラスから見える空が、悲しいほどに青い。雲一つなく高く澄んでいて、ぼうっと眺めているだけで吸い込まれそうになる。
世界は同じ空で覆われているはずなのに、どうして場所によってこれほどまでに違うのか。特にエジプトは、空の違いが顕著に出る土地だと思う。太陽がまず、どこよりも大きく違うのだ。
「ナカムラ!!おい、ナカムラ!」
名前を呼ぶ声がどんどん近づいているのを聞き、椅子にもたれた身体を起こす。身体に重たさを感じて頭だけを動すと、見た目30代後半の男性医師が背後に立っていた。皺ひとつない健康的な褐色の肌がつるりと頬を光らせている。
顔は見たことがあるが、名前は……思い出せない。
「何ぼうっとしてるんだよ、やっぱエジプトの気温には慣れないか?もう半年になるってのに」
エジプト人特有の肌に覆われた顏が、これでもかと爽やかな笑みを浮かべている。
「どうしたんです?」
前髪を掻き上げて、回転椅子を若干回しながら彼に身体を向けた。彼は俺の机に片手をついて体重を預けて話し出す。
「この患者、明日にでもお前に頼みたいんだけれど、いいかな?是非お前に診てもらいたいんだって聞かなくて」
ドイツ語で書かれた紙カルテが渡され、何と思うことなく受け取って目を通す。
60代、男性。数日前に突然の発熱、頭痛、筋肉痛、嘔吐などの症状。鼻血や歯肉からの出血、吐血。蛋白尿が見られ、黄疸が現れている。症状だけで一つの病名に行き当たった。
「黄熱病、ですか」
蚊から人へと感染することで発症する感染症で、死亡率は免疫のない旅行者などでは50%以上。流行地域はアフリカと中南米の国々。まず日本や欧米では滅多にお目にかからないが、感染すれば命に関わる厄介さを持っている。
あの野口英世も研究している最中に感染し、死亡したことで知られる有名な病気だ。それも黄疸が出ているとなるとかなり重症であると診断できる。
まいったな、と肩を落とした。黄熱病には今現在有効な治療法がない。俺が診てもこの男性医師が診ても結論は違わないだろう。
顎先を掴んで首を傾げてから、口を開く。
「……対症療法しかないですね」
対症療法とは、一般に何らかの痛みを訴える患者に対し、薬物やレーザーなどで神経系を抑制したり遮断したりすることで痛みを制御する治療法の総称で、あまり望ましいとは言えない。
例えば、胃痛を訴える患者に痛み止めだけを与えると言ったような、原因そのものを治療するものではないからだ。つまり、応急処置にしかなりえない。
「分かってる。もう手遅れなんだ」
さっきまで陽気だったその男は、悲しげな顔をした。
もう一度資料に目をやるが、ここまで重症になれば死を待つのみだ。潜伏期に発見できていれば治る見込みもあったのだろうが、大丈夫だと言って病院に行かず、悪化してようやく病院に来た時にはすでに手遅れというパターンがアフリカでは多い。
「でもお前に診てもらいたいって言うからさ。評判のいいお前が駄目だと言えば受け入れるって言ってる」
「そんなに俺は評判なんですか」
あまり実感が湧かず、少し驚いて相手を見やると数度強い頷きが返ってきた。
「ああ!何たってアメリカ帰りの日本人医師なんてそういるもんじゃねえし、なんたってこの若さであの学会に出て認められたんだ。10年に1人の逸材だって噂もある。それに、何よりあの論文は凄かった」
「論文?どの?」
「この前の学会で発表したやつだよ。俺も読ませてもらったよ。あれならその若さで学会に一目置かれるわ。なんせ師事してた教授もまた名の知れた……」
アメリカを出る前に書いた比較的最近の論文だ。この前の学会で高い評価を受けたもので、そのおかげで多くの機関から勧誘を受け、今回は母国への帰還もかねて日本の有名研究チームを選んだのだ。それが一段落つけばまたアメリカに戻るつもりでいた。
「なあ、忙しいのは分かってるが、頼むよ」
両手を合わせ、俺に顔をぐんと近づけてきた。それを片手で避けながら、視線をカルテに向けたまま頷く。
「分かりました……会うだけ会ってみます」
対症療法がまた予想外の効果をみせる可能性もゼロではない。人の身体は不思議に満ちているのだから。
「ありがとう!あのじいちゃん、絶対喜ぶぞ!お前を神の化身なんて呼んでるからな!」
彼は嬉々として白い歯を覗かせながら笑い、俺の肩をばしばしと叩いた。
医師は神ではない。医師になってから、いくつの命が医師の手から零れていくのを見てきたか。
何もできず、命が消えていくのを見届けることしか出来ない切なさや遣る瀬無さに埋もれていた数年前。
救っても死んでいく。救おうとして手遅れになる。その繰り返しを淡々と目の前にして、いつものことだと思った自分を冷酷だと感じるようになって、結局は研究の方に重きを置いて携わるようになったのだ。
自分の無力さを思い知ったのも、研究の分野に足を踏み入れた理由の一つかもしれない。研究という面から医学の道を切り開きたかったのだ。
「そういや、ナカムラは今日もすぐ帰るのか?」
机にあるものに手を伸ばし、整理し始める俺を見て、相手が尋ねてきた。
「ええ」
「お前ってさあ、勤務時間終わるとすぐに帰るよな。研究やるならこれからだってのに。何か用事でもあんの?」
「用事が無ければ帰りませんよ」
カルテを机の上に置いて、小さくメモを取りながら大雑把に答える。必要最低限のことしか話さない。
「お前みたいなエリートがこの国の病院に埋もれてるなんて、変な話だよなあ。なんだっけ、行方不明の恋人を探してるんだって?そのためにエジプトにいるとか?」
白衣を脱ぐ俺に、相手は楽しげにニヤニヤして身を乗り出した。
「恋人って訳じゃないですけどね」
弘子。
何度、その名を想ってきたか。
「何だ、恋人じゃないのか!噂じゃ、恋人ってなってたぞ。看護師がそれ聞いて残念がってた」
「……まあ、恋人って言えば、恋人みたいなものかも知れないですね」
我ながら愛想のない言い分で笑ってしまう。
「何だよそれ!恋人じゃない恋人って!ますますお前の謎が深まったぞ!」
恋人だと思ってなかったら、わざわざ日本の病院を蹴ってまでエジプトに留まったりしない。身体に合わない気候に覆われ、一年中雨の降らない砂漠の国なんかに住みつこうなど思うはずがない。
「幼馴染ってやつです。そいつが生まれた時から一緒にいて……まあ家族みたいなものです」
「なるほどね!幼馴染は恋に落ちやすいしな!」
この人は少女漫画の読みすぎではないだろうかと勘繰りながらも、資料を鞄にしまい込み、忘れ物が無いかを確認する。机に置かれた時計が17時を回り、勤務時間終了を告げていた。
「じゃあ、お先に。何かあったら連絡入れてください。駆けつけます」
アメリカにいた時から慣れ親しんだ鞄を肩に掛ける。よくサラリーマンが持っているような黒い長方形の鞄、所謂ドクターバッグだ。
「おう、明日!恋人、見つかるといいな!」
ええ、と愛想笑いを浮かべ、軽快に笑う名前も知らないその医師の脇をすり抜けて診療室を出た。
無神経だな。行方不明だって言ってるのに、何であんなに笑ってその話に触れられるのか。
いや。その陽気さもこの国の色なのかもしれない。最近はそう思う。
タイムカードを通し、擦れ違う看護師や技師、他の医師に会釈をしながら病院を出る。カイロでも一番大きな病院。ここが今の俺の勤め先だった。
駐車場に停めていた車に乗り込み、エンジンをかけてエジプトの道路を走り出した。
ツタンカーメン王墓KV62の事件から、もう半年になる。
あの言葉を叫び、黄金色の光に包まれるようにして消えた弘子。助けて、と俺の名を呼んで手を伸ばしたのに、その手を掴んでやれなかったことを今まで何度悔やんできただろう。
警察にも話した。大使館にも連絡をした。どんなに事情を説明しても、目の前で消えたのだと言って信じてくれる人などいない。
『ファラオの呪いじゃあるまいし』と呆れられてしまうのが落ちで、最終的には行方不明と片づけられてしまった。今は何らかの事件に巻き込まれて誘拐されたのではないかと見て、捜査が続けられている。
信じてくれないだろうということは百も承知だった。覚悟はしていた。
何せ、あんなことが起こったなんて俺自身も、信じられないでいるのだから。あまりに非現実的すぎる。
街の所々に飾られた同じ文字たちが視界を横切って行くのを見た。今の西暦、2012。
弘子がいないまま、ついこの前に年を越してしまった。
ハンドルを回しながら窓をちらと見やれば、視界を満たすのはカイロの街並み。案外店が盛んに商売をして、道路もコンクリートで舗装されている。
青やら黄色に塗りたくられた電車。アラビア文字の洒落た時計。煙草から煙を空に伸ばすターバン姿の男性に、全身を布で覆い、荷物を自分の頭の上に置いて笑いながら歩く女性。きゃっきゃっと笑い声を響かせ道路を横切る、人懐こい子供たち。
華やかさには欠けるが、カイロの街は自分が思っていたより栄えていた。日本食が置いてあるスーパーがあるくらいだ。回ってみるとなかなか興味深いもので溢れている。
交差点に出ると、銃を持った鋭い目つきの警察官が立っている。彼らが持っているのは銃と言っても、日本警官が持つような小型ではない。狩猟用といえるくらい、長い立派な銃だ。
これもいつもの光景。どこの交差点にもいるから最初の頃は奇妙だったが、今は随分と慣れた。あんな長い銃をどういう場合に使うのかと、未だに腑に落ちない点も多いけれども。
病院から車で20分ほど走っていると、裕福な家庭が揃う住宅街がある。そこにある家の一つが、弘子が生活していた工藤家だ。
裕福と言っても、日本でよくある2階建ての普通の家ではあるが、これくらいの家を持っている家庭を、この国では裕福と言う。
車庫に車を止め、荷物を持って出る。ロックしたのを確認してから、鍵を手に玄関の方まで足を進める。
ふと、自分が鼻歌を鳴らしているのに気付いた。この曲は何という題名だったか。自然に鼻をついて流れる曲に首を傾げてから、ああと思い出す。
イングランド民謡の『グリーンスリーブス』。
歌の意味を思い出して、何でこんな曲を歌っていたのだろうと首を傾げながら、持っていた鍵で家のドアを開けた。
「ただいま」
靴を脱いで玄関に上がる。工藤家の家は、中に入れば日本だ。まだアラビア語に慣れていない自分からしてみれば、母語で話せるこの家はこの上なく安堵できる場所だった。咄嗟に慣れた英語で話してしまっても、優しく合わせてくれるのが有難い。
「お帰りなさい、良樹」
玄関で靴を脱いでいると、弘子の母親が薄い黄色のエプロンをつけて声を掛けてくれた。弘子とそっくりの二重の瞳を細め、皿を手にして笑いかけてくれている。その姿を見て、ほっと息を漏らした。
いつも勤務時間が終わるとすぐに帰るのは、この人が心配だからというのが理由の一つ。
「病院、慣れた?」
「ええ。俺、適応能力半端ないですから」
俺の笑いに、優しく頷いてくれる。
「……弘子のために、ありがとう」
弘子のため。
目の前でいなくなった彼女を探すために俺は、エジプトに残ることを決めた。あの病院に勤めながら、この家の一室を使わせてもらって生活している。
「弘子は俺にとっても大事な存在ですから。残らないって選択肢はないですよ」
悲しみやら不安を薙ぎ払い、笑顔で答える。
「ありがとう……あ、そうだ、今夜は良樹の好きなシチューよ」
「やった」
俺の反応にふと笑顔を見せるが、やはり暗い何かがおばさんの顔を陰らせる。
弘子がいなくなってから、やつれてしまっていた。やつれながらも精一杯の笑みを浮かべて迎えてくれる姿には、毎日感服してしまう。
あれだけ大事にしていた一人娘が目の前で行方知れずになって、しっかりと自分を保って家事をこなしているこの人は強い。普通なら精神を病んで寝込んでしまってもおかしくないだろうに。
「夕飯、お父さんが帰って来てからでもいいかしら。先にお風呂入っちゃっていいから」
「ええ、じゃあ風呂、頂きます」
「用意しておくわね」
おばさんの背中を見送ってから、自分の部屋と化した2階の一室に向かう。鞄を置いて、ぐちゃぐちゃに山積みになった洗濯物の中から着替えを適当に引っ張り出した。
散らかった部屋を見回して、学生時代を思い出す。これ以上に汚かった。ノートやら専門書やらが床に広がって、足の踏み場が全くと言っていいほど無かった。
髭だって剃らない日が続いたし、洗濯に至っては2週間に1回すればいい方。過去の自分に対して苦笑してしまう。
「ただいまー」
着替えを持って部屋から出ると、下から声が聞こえてきた。弘子の父親が帰ってきたのだ。
「あら、お帰りなさい。早かったのね」
階段を降りると、風呂場から戻ってきたおばさんが少し驚いたように目を瞬かせている。
「うん、そうだな。早かった」
「なら、夕ご飯食べちゃいましょうか。……あ、良樹」
おじさんから鞄を受け取ったおばさんが、階段の上にいる俺を振り返った。
「お風呂後にして、一緒に食べちゃわない?」
その二人に俺はまた、笑顔を作る。
「食べちゃいましょう」
スプーンが三人の手元で鳴っている。皿に当たって高い音を響かせる。シチューの熱が口から喉を通って、身体の中に溶け込んでいった。
以前は冗談や弾けるような笑い声が飛び交っていたものだが、今は食器があたる音しかない。陶器を金属が走る音は、思いもしないほど悲しい響きを紡ぎ出す。
隣におじさん、その向かい側におばさん。そして俺の向かい側は、空席。半年前、弘子はそこにいた。そこでおいしそうにアエーシを食べていた。なのに、いない。
「良樹」
呼ばれてはっと我に返って顔を上げた。おじさんがこちらを見つめている。何度か繰り返し呼んでいたのかもしれない。
「ご両親にはちゃんと連絡とったのか?」
こちらの両親とは、アメリカに住む俺の両親のことだ。この前、日本に戻らないという決意を伝えるために久しぶりに電話をした。エジプトとアメリカでは時差がありすぎて、電話する時間帯を見計るのに苦労したのを思い出す。
「ええ。弘子を探してほしいと、母に言いつけられています」
弘子の行方不明の知らせを聞いた途端、母は失神を起こしてしまったという。我が子同然に可愛がっていたのだから仕方ない。弘子を見るたびに娘も欲しかったというのが母の口癖だった。
「そうか……すまないな」
手元の残りわずかのシチューに目を戻し、おじさんは呟く。
「そんなこと言わないでくださいよ。俺は残りたくて残ってるんですから」
「だが日本の有名病院じゃないか……それを蹴ってまで」
「いいんですって。医師免許があれば生きていけるんですから。案外引く手数多なんです。だからその話は止しましょう。ね?」
何度、このやりとりを繰り返してきただろう。
この人も外見では分からないが、おそらく相当疲労がたまっているはずだ。一度精神科あたりに行かないと重度の鬱病になってしまうのではないかと心配しているのだが、なかなか病院に行ってくれない。日本への帰国を取りやめ、カイロ博物館の学芸員を続けながら、弘子の情報を求め、日本大使館や警察へ毎日のように赴いているのだ。
「弘子……ちゃんと食べてるかしら」
おばさんはスプーンを置いて、俯いている。
「泣いて、ないかしら」
独り言を思わせるくらいの小さな声。
「おばさん」
周りを囲む雰囲気に遣り切れなくなって、斜め向かいに座るおばさんに声をかけた。
「時々、聞こえる気がするの。あの子がお母さんって呼んでいるのが」
ほろりと零れた涙は、ゆっくりと、少しばかりこけてしまった頬を流れ落ちる。堪え切れずに溢れたという感じだった。おばさんは両手で顔を覆った。
「辛い目に遭っていたらどうしよう。酷い目に遭っていたらどうしよう……あの時手を掴んであげていれば……あの子、呼んでたのよ。あの、変な光に呑みこまれる時。お父さん、お母さんって……なのに」
おじさんもおばさんも、そして俺も。同じことを後悔している。あの時、助けを求める彼女の手を掴んでやれなかったことを。ずっと。
小さく肩を揺らして涙を零すおばさんを、席を立ったおじさんが抱き寄せて大丈夫だ、と慰める。
「弘子は強い子だよ。大丈夫だ、きっと無事にどこかにいる。また戻ってくる」
その言葉におばさんは頭を僅かに上下させ、ティッシュで涙を拭う。
「……泣いちゃ駄目よね。ごめんなさい」
赤い目元に今にも消えてしまいそうな笑みを浮かべて、空になった3人の食器を重ね始めた。
「明日も良樹とお父さんは仕事ね。良樹がバテないくらいの気温だといいんだけれど」
さっきの重い雰囲気を消して、おばさんは笑う。そうですね、と頷くとおじさんも笑ってくれた。前のように陽気に笑わないものの、浮かべてくれる小さな笑みがせめてものの救いだと思える。
食後はシンクで食器を洗う音に何となく耳を傾けていた。皿が水を弾く音。水が排水溝へ流れる音。それらを遠くに聞きながら、自分の着替えがソファーの上にあるのを思い出す。
「あ、おじさん先に風呂入ります?」
リビングにいるその人はパソコンを開いていた。おそらく弘子の手がかりを探そうとしているのだろう。
「良樹が入るといい。最初に入る予定だったんだからね。ゆっくり浸かってきなさい」
目を凝らして見れば、パソコンが映し出しているのは寂しい茶色だった。引き寄せられるように歩み寄り、その画面を覗き込む。
「……KV62、ですか」
周りの説明文の全部はまだ読み慣れないアラビア語。だが、あの墓を見間違えるはずがない。
薄い茶色に覆われた谷の、20世紀最大の発見。弘子が消えた場所、ツタンカーメン王墓だ。
「このページ、何度見たか分からないな」
弱々しい笑いがおじさんの口から漏れる。
調べられるものは調べ尽くした。あとは手がかりが見つかっただとか、弘子が保護されたという連絡を待つだけ。それだけしかできない。
「手がかりなんてないと分かってるのに、何度も見てしまう……あの時、こんな場所に行くなんて言わなければ」
おじさんもまた別の後悔に埋もれている。
でも違う。ここに行く根本的な原因を作ったのは俺なのだ。俺がここに行きたいと言わなければ、おじさんだって行こうと提案しなかった。
「おじさん、後悔先に立たずですよ」
責任の被り合いなんてしていても仕方がないから、そんな言葉を吐いてその肩をポンと叩く。
「それから俺、週末にまた行ってきます」
王家の谷へ。
僅かな手がかりでも掴むために。
「……俺も行こう」
「いいえ、おじさんは体調を崩しすぎてます。身体に負担がかかってしまいますよ、やめた方がいい。それにこういうのは若い奴に任せておくのが一番です。俺に一任してください」
おじさんは俺の申し出に小さく肩を落としたものの、大使館の方に行ってみると頷いてくれた。
最初の数カ月はおじさんと一緒に弘子を探すために、何度もルクソール西岸、王家の谷まで行っていたが、最近は俺一人で行くようになっていた。精神的に衰弱している人を、4時間も離れているその場所に連れて行くのはやはり無理がある。
弘子がいない間、この人たちを支えられるのは俺しかいない。俺が守らなければ。
すると、テーブルの上の携帯が鳴り響いた。
ブーンとバイブレータを響かせ、微妙に動く。俺の黒の携帯が、青いランプをチカチカさせていた。救急の患者でも運ばれたのだろうかと手に取って、通話ボタンを押す。出た声は、最近よく話す声の持ち主だった。
『……ああ、ヨシキ?』
「メアリー?」
『うん』
電話の向こうにいるのは、弘子のエジプトでの親友だ。結構良い家のお嬢さんで、家もかなり大きく入り口には門が聳そびえ立っている。
彼女とは弘子がいなくなってから弘子の両親を通じて知り合い、連絡を取り合っていた。
「どうした?」
『今週末も、王家の谷に行く?』
「ああ、行くよ」
最近はこのメアリーと一緒に弘子の行方を捜しに行っていた。
本気で心配してくれているようで、時々弘子の母親の手伝いをしに来てくれたりもする。
『私も課題全部終わらせたから行こうかと思って』
「よく終わらせたなあ。大変だったろう」
医学部となるとレポートや課題は津波のように襲ってくる。学生時代、あれにはよく苦しめられた。
『根性でね』
「根性?」
『弘子がよく根性だって言って終わらせていたから、その真似』
電話の向こうの声が少し笑う。弘子は行き詰ると「根性だ!」と叫んで勢いでやり抜くという癖があるのだ。やり抜いたと言っても、少々大雑把なところもあるのは確かだが。
『……じゃあ、週末。いつも通り朝6時、工藤家に集合でいい?』
「分かったよ、待ってる。じゃあ」
『バイバイ』
電話を切って、黒いそれを右手に握りしめた。パソコンの液晶に映る茶色の土地を見つめ、目を細める。
吸い込まれそうな砂漠の大地。俺はまたそこへ行くのだ。
エジプト王家が眠る、あの谷へ。
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