眠り

 さっきよりもいくつか灯りの増えた広めの部屋の寝台に、私は半分身体を埋めて座っていた。先程自分の身に起きたことを振り返りながら、隣でネチェルの啜り泣く声をぼんやりと聞いている。


「侍医殿、姫様のご容体は……」


 私の絞められた首元を暖かい手で触りながら、前にもお世話になった侍医は頷く。


「皮膚の下に血が滲んでいらっしゃいますが、心配するほどのことでは御座いません。数日間痕が残っても、少し経てば元通りになりましょう」


 私も自分の首元に手をやって触れてみる。皮膚の下に血が滲む──首の毛細血管が圧迫されたことで破裂して、内出血を起こしているのだと思う。どれだけ強く、絞められたのかしら。


「危ない所でした。侍女の異変に気付いたファラオの御機転には感服いたします」


 私の部屋に入って行った侍女の様子に異変を感じた彼が、なかなか出てこないのを不審に思って部屋を覗き、私を助けてくれたのだという。

 助けられたものの大きく取り乱した私は、一番安全だと言う彼の部屋に連れてこられて侍医の診察を受けていた。


 膝に手を置いて、まだ暗い辺りを茫然と眺める。こうしていても兵たちの足音がいくつも扉の向こうを行き来しているのが分かった。


 私の部屋は血まみれだろう。せっかく馴染んだ部屋だったけれど、あんな場所に戻りたいとは思わない。


「だがしかし、何故今回このようなことが……これは一大事ですぞ。姫君付の侍女の一人が主を殺めようとするなど……決してあってはならぬこと」


 侍医が唸って、顔を顰めた。優しい顔に黒い影が生まれる。侍医の言葉を受けたネチェルは啜り泣く声を大きくした。


「あの子は、姫様が甦られたと同時期に恋人を失くしておりました……ファラオは、あの子が誰かに『姫様を殺せば代わりに恋人が甦るとでも言われたのだろう』と仰せになられて……それを信じてあの子は姫様を…」


 その証言で初めて知る。私を殺そうとしたあの人は恋人を亡くしていたのだ。


『──あなたのせいで私の恋人は甦ることが出来なかった』


 身を竦めてしまうほどの、彼女の声が耳の奥に甦る。


「あれだけ真面目だったあの子に吹き込み、姫様を殺めようとした者……おそらくファラオもご見当がついていらっしゃるのでしょう」

「……もしや、その吹き込んだ相手とは」


 侍医はごくりと唾を呑み込み、緊張をその顔に走らせた。


「やめて」


 私は耳を塞いで、侍医の声を遮った。


 聞きたくなかった。分かり切った、そんな恐ろしいことなど耳にしたくなかった。

 皆、勘付いている。犯人が誰であるのか。けれど、あまりに高貴な人であるために容易に捕まえることも出来ない。


「姫様…!」


 ネチェルが寝台の下に平伏した。


「どうかお許しください…!私めの監督が行き届きませんでしたのが原因に御座います…!あの者の様子をもっとしっかりと見ていれば姫様の御傍になど仕えさせなかったものを…!どうか、どうか…!」

「あなたのせいじゃないわ……」


 声は思った以上に擦れていた。


「誰のせいでもない……」


 強いて言うのなら、私のせい。

 私なんかがこの時代に来たから、アイは私を消そうと躍起になった。躍起になって、色んな人の手を汚させて命を奪った。


 あの侍女が死んだのは、彼に殺されなければならないほど狂っていたのは、私の存在を恨むアイに嘘を吹きこまれたから。

 アイは、私がその恋人の甦る機会を盗んで甦ってきたとでも彼女に教えたのだろう。自分の愛する人の機会を奪ってこの世に戻ったのが私だと神官から聞けば、それを信じて私を恨むのがこの時代では当然のことだ。


 神に仕える神官の言葉は絶大なる権力を誇る。その人が発した言葉が、神の言葉に違いなかった。

 そして私は殺されかけた。

 多分、毒草の男の人もそう。さっきの侍女と同じようなことを吹きこまれ、私を殺そうとした。そして死んでしまった。


 私が来なければ、起きなかったことばかり。彼らが死ぬことなどなかったかもしれない。全部、自業自得と言われても仕方がない。


「……お願い、一人にして」


 どうしようもなく、部屋から持って来たショルダーを抱いて、そこに顔を埋めた。


「……お願い」


 おじさんとネチェルが「失礼いたします」言って去って行く音を聞きながら、自分の頬を伝う涙を感じていた。



 きっと、これからも私は命を狙われ続けるのだろう。何をしたわけでもないのに、存在自体を疎まれ、消そうとまでされてしまう。

 毒を盛られた時点で、この恐ろしい事態にもっと警戒するべきだった。何故私はあんなに飄々としていられたの。どうして、笑っていられたの。安心を感じていられたの。


 首を絞められてやっと自分の立場を理解する。

 このままでは殺されてしまう。現代に帰ることなく、ここで殺されてしまうかも知れない。

 お父さんともお母さんとも、これから一生会うこと叶わず、私はこの時代で短い生涯を終えるのかも知れない。


 ──嫌だ。


 そんなの嫌だ。

 涙の量が増し、息が乱れる。


 どうしたらいい。どうしたらいいの。


 ショルダーから携帯を探し出し、震える手で開いた。どのボタンを押しても反応しないそれに、頭に浮かぶ電話番号を一つ一つ押していく。

 悩んでいる時、いつも相談に乗ってくれた人。優しく、時には厳しく、私を見守っていてくれた人。その声を、どうしても聴きたかった。


「……おかあ、さん」


 黒い画面を見つめながら番号を押し終え、耳に押し付けた。


「お母さん…!…お母さん!!」


 ねえ、どうしたらいい?

 会いたいよ、お母さん。

 私、殺されそうなの。命を狙われているの。助けて。


 母を求めて泣く小さな子供のように、私の目からはぼろぼろと涙が零れ落ち、膝の上のショルダーと麻布を濡らしていく。携帯を握る手が、小刻みに震え出す。繋がらないと、電源さえつくことはないと分かっているのに、私は涙を散らして会いたくて堪らない人を呼び続けた。


「お母さん…!!」


 また抱き締めてもらいたい。冗談を言って、馬鹿ねと笑ってもらいたい。恋の話だってしたいし、料理やお裁縫や教えてもらいたいことが山ほどある。

 お母さんとお父さんの間に守られて、ケラケラと笑っていた時に戻りたい。

 不安で怖くて、壊れてしまいそう。変になってしまいそうだ。


「お母さん…っ!!!」


 何度呼んでも、求めている声は聞こえない。弘子と呼んでくれない。私の声を聴いてはくれない。


「──魔術は切れたのではなかったのか」


 お母さんの代わりに響いたのは、まっすぐと貫く声だった。

 扉の方に視線をやると滲んだ視界に彼が映り、腕を組んでこちらに歩んでくるのが見えた。


「魔術が切れてもう何も出来ぬと言っていたが、まだ使えたのか?」


 平然と、私の足元の空間に腰を下ろして足を組む。何事も無かったかのように、切れ長の瞳をいつものように光らせて不思議そうに私を見ている。その平然さに怒りのようなものが込み上げてくるのを感じた。


 彼に構わず、もう一度携帯を耳に押し付ける。


「お母さん…!弘子よ…!!お父さん!!」

「ヒロコ」


 彼が私の顔を覗く。褐色の顔が、近くの小さな光に照らされる。


「ヒロコ、先程から何を叫んでいる」


 私が電話に向かって叫んでいるのは日本語だから彼には分からない。私の母語。もう半年も使っていない言語だった。


「お母さん!!お父さん!!」

「どうした…」


 違う。その声じゃない。私が求めているのは、あなたの声なんかじゃない。私を生んで、育ててくれた、ずっと大切に見守ってくれていた、私の両親。私の家族。古代人のあなたじゃない。


「お母さんっ!!!」

「ヒロコ!!」


 いきなり両腕を掴まれて、私の手から携帯が小さな弧を描いて落ちた。

 私の声の余韻が消えて、静けさが取り囲む。寂しいほどの夜の静寂に包まれ、膝の上に落ちた携帯を見て、彼を睨みつけた。


「……何、するのよ!」


 一度唇を噛んでから、私は目の前に迫る淡褐色に吠えた。


「しっかりしろ」

「離して」


 腕を振りほどこうとしながら言い返した私に、彼は眉を顰めた。飄々とした雰囲気を消して、低い声で唱える。


「自分を保てと言っている。いつものお前ではないぞ」

「離してって言ってるの!」


 まとわりつく手を振り払おうとするのに、びくともしない。鋼で作られた手錠のようだ。


「アンケセナーメンを名乗るならば、それくらいで取り乱すな。たかが毒草を盛られ、首を絞められただけだろう」


 たかが、だなんて。


「取り乱すなって言う方がどうかしてる!!殺されかけたのよ!?毒も盛られて、首を絞められて…!平然と笑っていられるあなたの気を疑うわ!」


 泣くまいと思うのに、目の両端から涙が零れ落ちる。止めどなく、膝の上を濡らしていく。


「あなたは何度も殺されそうになったから…古代人だから…平気かも知れない!でも私はこんな危険を身近にしたことがないの!平気じゃないのよ!!狂いそうなの!」


 彼は私を助けてくれた人だ。本当ならお礼を言わなくちゃいけないということくらい分かってる。でも、怒鳴り散らしてしまう。怒鳴り散らさないと、もう一生現代に帰れないという絶望に投げ込まれてしまいそうだった。


 嫌に乱れた呼吸がその世界の一帯を満たし、堪らなくなった。今まで出すまいとしてきたものが、吹きこぼれた鍋のようになっている。抑え込められなかった。


「……どうして」


 膝に落ちている白い携帯を視界の端に、震える唇を開いた。

 彼は何も言わず、私の両の手首を掴んだまま、じっとこちらを瞳に映している。


「どうして、呼んだのよ」


 嗚咽と共に漏れた訴えだった。顔を上げて、涙に霞む相手の顔を見て、遣り切れなくなって泣き喚く。


「どうして私を呼んだのよ!!」


 彼だけが悪いのではない。それだけは十分すぎるほどに分かっている。

 彼だって、まさか3000年も未来の私に声が届くと思っていたわけでもないだろうし、そもそも彼が呼んでいたのは、すでにこの世を去った姉母妻を担ったアンケセナーメン。私ではなかった。


 それに、彼の声に応えた私にも原因がある。あの時、舌を噛み切ってでも叫ぶべきではなかった。私がここへ来たのは、彼の声に反応して私も叫んだからなのだ。

 呼応するように言葉を発しさえしなければ、時代を越えることなんて無かった。


「私はこんな世界になんて来たくなかった!!何も進んでなくて、電車も紙も本も、何もなくて、神様がすべてで、毒は簡単に盛られるし、首だって絞められて…!!私が何したって言うのよ!ねえ!何かした覚えなんてこれっぽっちもないのに!!」


 ここに落とされただけならまだいい。現代に帰れる時を窺いながら、古代の色に染まって生きていればいい。でも、命を狙われるとなると話は別だった。

 いつどんな方法で襲ってくるか分からない魔の手が私を待ち構えていると思うと、恐怖に侵されて狂いそうになる。


「何もない日常だったけれど、つまらないと感じる時もあったけれど、それが幸せだった!何よりの幸せだったの!!」


 何もない日常。学校に行って、勉強して、少し遊んで。嫌なテストの後は疲れたなんて言いながら家に帰ると、夕飯が待っていて、お風呂に入って、ふかふかのベッドで眠る。その単調な生活が、どれだけ幸福だったか。家族の優しい微笑みに見守れていた日常が、どれだけ愛おしいものだったか。


 なのに、今の私は──。


「あのままで私は幸せだった!!」


 自重なんてものが崩壊してしまう。私をここに呼び出した目の前の人が、憎くて堪らなくなる。当たってはいけないと思うのに、止まらない。


「その幸せをあなたが壊した!家族からも、友達からも引き離してこんな世界に、こんな最悪な世界に、私を引きこんだの!!大嫌いよ!」


 自分の勢いに咽って、小さく咳き込んだ。


 お父さん。お母さん。

 コンクリートの上を走る車に、空を覆う電線。ボールペンに、白い紙に、棚にずらりと並ぶ沢山の本。

 気にも止めなかった何もかもが懐かしい。嗚咽が止まらなくなるほど、あの当たり前が恋しい。


「……帰りたい」


 喚き疲れて、口から出てくる声は掠れていた。私の頬を伝って落ちる涙と一緒に膝の上に降り注ぐ。


「あの世界に、帰りたい」


 掴まれた手首が痛い。でもその痛みに気を止めなくなる程、今の私は絶望に沈んでいる。古代の夜に響くのは、私の不規則な呼吸だけだ。


「──ヒロコ」


 呼ばれた名前に、顔を上げる気にもなれなかった。涙の向こうに浮かぶ携帯の白さに、嗚咽を堪えるので限界だった。


「ヒロコ」


 手首に加わる彼の力が弱まるのを感じたのと同時に、突然ぐいと引き寄せられ、気づけば目の前に彼の顔が浮かんでいた。褐色の頬が、目の前で滑らかに光りを宿す。


 そして唇を伝う感触。ほんのりと熱を帯びた、私の唇に重なった、それ。

 微かに動いて、小さく角度を変える。


 状況が把握できなくて、頭の思考回路と言うもののすべてが真っ白に停止していた。

 唇を伝う柔らかさに、目の前に映る彼の頬。彼の高い鼻が、私の頬に僅かに擦れる。


 キスを、されている。


 出てきたたった二文字の単語に、身体中が燃え上がるのを感じて、両手で彼の胸を思いっきり押しやった。

 唇が離れて、再び彼の顔の全体が視界に戻る。


 驚いて言葉も出ない。怒るどころか、唖然。

 何で。どうして。疑問しか出てこない。


「泣き止んだな」


 私の間抜けであろう顔を見て、目の前の顔は笑う。


「泣かれるのは好きでないと何度言ったら分かる。学習能力が全く無い。お前は馬鹿か」


 馬鹿って。

 理解しがたい彼の行動に、頭がぐるぐると回り始めている。胸の動悸が煩い。


「だがやはりヒロコも女だな。女は大概誰でもこれで黙るのだ」


 彼はうんうんと首を振った。


「……あ、あなた、私を黙らせるために、したの…!?」


 確かにそれどころではなくなってしまったから涙は綺麗に引っ込んだ。


「何を」

「何って……き、き、……キス」


 この言葉を口にするだけで、恥ずかしくなり、声が自然と萎んでしまう。


「きす?……ああ、口付けか。ヒロコの時代ではそう言うのか」


 興味深そうに彼は頷く。


「そのキスを、黙らせる他の何に使うと言うのだ」


 けろりとした答えが戸惑う私に返ってくる。


「ファラオである私の唇をもらえたのだ、もっと有難く思え」


 今までだってアメリカ育ちの良樹に、頬になら何度もされてきたけれど、唇に直接だなんて。

 ファーストキスだった。

 咄嗟に手で口元を覆う。柔らかい感触が残っていて、違和感で溢れかえっていた。

 ショックというか何というか。言葉に出来ない。なんて複雑な。


「寝ろ」


 困惑している私の肩を押して、寝具へ押し倒す。ふわりとした、私のものよりずっと柔らかな寝台が突然背中に広がった。彼の顔が視界いっぱいを覆う。


「……なっ、何するの!やめて!」


 先の読める展開に、慌てて抵抗した。私の顔から火傷しそうなほどの熱が噴き出している。


「わ、私にはまだ早いって言ってるでしょ!それにあなたなんて」

「襲いはせぬ。そのようなことをすればまた泣くだろう。そういう事しか頭にないのか、嫌らしい女だな」

「は!?」


 やれやれと呆れ顔をする彼に、目を丸くする。それはこの人に言われたくない台詞ランキングトップのものだ。


「今日は私の寝台で寝ろと言っている。動転している時は寝た方が賢明だ」


 起き上ろうとしている私を強引に押して、寝ろと促す。


「それとも、まだ血まみれのあの部屋に戻りたいか?また襲われるやもしれぬぞ?」


 意地悪く口端を上げて脅す言葉に、私は勢いよくぶんぶんと首を横に振った。さっきのことを思い出すと身が強張る。


「ならば寝ろ」


 仕方なく横たわると、寝具から彼の香油の匂いが私を包んだ。ふわりとした、独特の甘い香り。いつも何となくとしか感じていなかった香りを、実はこんな香りだったのかと知る。

 現代で言えば、香水のようなもの。宗教的な意味もあるのだろうけれど、古代人は男女問わず想像以上にお洒落だ。


「今夜だけは私の寝具を貸してやる、いつも借りているからな」


 言われてみればそう。彼はいつも、私の寝台に寝転がる。毎日のことで貸しているという自覚さえなくなっていたけれど。


「命を狙われるなど、私は日常茶飯だぞ。これくらいでピーピー泣くとは、未来の民とは何と弱いのか……まあ、先ほどはかなり危うかったが、生きているのだから良しとしよう」


 私に麻布をかけながらまた笑う。

 未来人が弱いんじゃなくて、あなたが強いのよ。殺されそうになって、平然として笑っているあなたがおかしいの。


 麻布を引き寄せて、警戒するように彼を見つめた。

 本当に襲って来ないかしら。

 少しでも襲う素振り見せたら、急所を蹴り上げて逃げてやろう、と目論んでいる間、彼は腰をかがめてごそごそしていた。床に落ちた何かを拾おうとしているよう。拾うと姿勢を戻して、私にゆっくりと右手を差し出した。


「……これはいいのか?」

「え?」


 きょとんとした私の目の前に差し出されたのは、白い携帯。彼の手の中に軽く握られている。


「私を押しやった時に落としたのだろう」


 全く、気づいてなかった。


「……あ、ありがとう」


 受け取って、胸に抱く。冷たい感触が指を伝わって、熱くなった身体を巡っていく。それを感じたら、また目頭が熱を持った。

 いきなりキスされて、驚きで悲しみやら不安やらが吹っ飛んだけれど、この現代のものを抱くと最初の感情の中に引き戻されてしまう。


「ほら、また泣く」

「……しょうがないでしょ」


 泣き顔をこれ以上見られたくなくて、うつ伏せに寝具に顔を埋める。泣き顔を見せないことだけが、私にできる小さな抵抗。傍から見れば、歯医者に行きたくないとベッドに縋る子供のような体勢だった。


 小さく息をつく音が聞こえたと思ったら、額にそっとぬくもりが走った。前髪を掻き上げるように、ゆっくりと動く。


「……何してるの」


 そろりと顔を動かし、私の額に手を伸ばす彼に視線を向けてみる。


「撫でてやっている」

「どうして」

「さあ」


 これ以上聞いても無駄だと思って、再び身体を寝具に任せた。彼が恍けたら何を言っても答えてくれないのは、もう承知の上。



 大きな手と長い指が、額からこめかみに向かって髪を梳いていく。何回も。何回も。時間を忘れさせるほど、滑らかに。眠気が包むように現れて、瞼がゆっくりと落ちていく。

 その中で、私の髪を撫でるそのぬくもりがお母さんの手に重なった。エジプトに引っ越して環境の変化に体調を崩していた6歳の私に、お母さんはずっとこうしてくれていた。熱で汗ばんだ私の額を、優しく。

 手があると安心して、それにしがみ付いて眠るのが本当に好きだった。11年も前の懐かしい記憶。


 離れて初めて分かる。両親の愛をどれだけ一身に受けて、私は生きてきたのか。その存在を失った今の私は、どれだけ弱いのか。


「……帰してやる」


 夜の静寂に響いた静かな彼の声に、目を開けて視線を動かす。


「必ず、未来に帰す」


 薄い唇に笑みを浮かべ、淡褐色の優しい眼差しを少しばかり伏せて、そう言った。


「お前が帰るまで、私が守ってやる。アイの陰謀のまま無闇に殺させたりはさせぬ。生きて、未来に帰そう。約束だ」

「出来るの?」


 思わず笑みを漏らして問うと、彼もまた、弧を描いた口を開いた。


「偉大なるファラオに不可能なことなどありはせぬ」


 闇に光る澄んだ瞳。月や星や、太陽だけでなく、あなたも澄んでいる。

 最初見た時も思った。本当に綺麗な瞳なのだ。まるで太陽のような色を宿している。


 穏やかな彼の温もりを帯びた声に、ただただ私は頷いた。


「だから今夜は眠れ。何が起ころうと心配はない。私が傍にいる」


 傍にいる。たったそれだけの短い言葉なのに、聞いて安心してしまう私は無謀かしら。

 額に流れる春の風のようなぬくもりが安らぎを生み、眠れと促す。それに抗うことなく、夜の闇に吸い込まれるように、目尻に伝う雫を感じながら瞼を閉じる。

 3000年後にいるだろう両親の顔が瞼の裏に浮かんで、消えていった。



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