儀式

 四つの火が四角の空間の隅で大きく燃えている。その煙が薄く空間の中に充満して、霧の中にいるような世界を作り出す。

 丸坊主の神官たちが三十人ほど、神殿の奥にある巨大な神の像に祈りを捧げていた。その中心にいるのがアイ。さすがは最高神官だ。豪華な服装で神官の誰よりも目立っている。

 私は彼の隣、神殿の中央にある棺から少し離れた所に立って、その様子を眺めていた。後ろにはカーメスやセテム、ナルメルが控えている。神殿の中をぐるりと囲むのは兵士たちだ。


 もう何時間、こうしているのか分からない。厳かな雰囲気で息が詰まってしまいそう。もし叶うのならば、この重い冠を脱ぎ捨てて、思いっきり外に飛び出したい気分だ。そして何よりも嫌なのが、目の前にある鮮やかな人型棺だった。アンケセナーメンが眠る棺をこの数時間どうしても直視できないでいる。ずっと俯いてもぞもぞしている私を、儀式に慣れているのであろう彼が鼻で笑ってくるのには少々腹が立った。


「さあ、ファラオ」


 長ったらしい祈りがやっと終わったのか、アイが振り返って彼の方に歩んできた。


「神に、生贄を献上致します」


 生贄。古代を描いた映画で生贄なんてシーンは結構ある。生贄の対象は動物だろう。


「どうぞあなた様の御手で神に御捧げ下さい」


 アイがしずしずと階段を降り、彼に差し出したのは鋭いナイフだった。霧のように舞う煙の中に、彼の手元に銀の光が走る。


「生贄をこれへ」


 声を神殿中に響かせ、彼はナイフを手に棺の前に進み出た。神の像、棺、そして祭壇のような台と彼が一直線上に並び、綺麗な列を成す。私はその後ろで彼を見守り、棺が彼に隠れたことにほっと胸を撫で下ろした。


 ところで、この時代では一体何の動物が神に捧げられていたのだろう。目の前で動物が殺される所はあまり見たくないが、文化の問題だから殺すなと言って儀式を止めることになればそれこそ大変なことになる。何と言っても、『その国の文化を尊重する』ことは文化の違う国に旅行をする上で最も重要な心得。タイムスリップと旅行は決して同じではなくとも、文化の違いが確かに存在することを思えば当てはまる。私もこの時代の文化を尊重しなければ。それにアイもいるから変な行動を起こすわけにはいかない。尊重、尊重、と小さく呟きながら、自分を落ち着かせようと胸に手を置いた──その時。


「あああーっっ!」


 耳を塞ぎたくなるほどの悲鳴が、その空間を揺るがした。悍ましい声に心臓が飛び跳ねる。


「やめてくれ!頼む!!頼むっ!!」


 神殿の中にずるずると二人の兵士に引きずられるようにして現れたのは、腰巻しか身に付けていない長い髪の男性。幽霊の如く髪が乱れ、肌は泥まみれ、手首を鎖で固定されている姿はまるで罪人だ。


「嫌だ!国に帰らせてくれ!頼む!」


 その人が棺の前の祭壇に無理に乗せられるのを、私は唖然と見つめていた。


「我が国で罪を成したのだ、その償いとして我が王家の生贄となれ」


 彼の声が冷たい。身を凍らせてしまうほどに冷酷な色を宿している。


「嫌だあああっ!やめてくれ!やめてくれえ!」


 まさか。

 まさか、生贄というのは。


 慌てて後ろの人たちの様子を窺う。後ろにいるナルメルは髭を撫でながら目の前で繰り広げられる光景を静観し、セテムも当たり前だと言わんばかりの無表情。カーメスに至っては私ににっこりと笑顔を向けている。

 

 ああ、そうか。


 この時代の人々にとって、生贄が人間であることは、目の前で人が生贄として殺されることは、ごく普通のこと。あの割れんばかりの悲鳴を聞いて、何も思わず平然としているのが当たり前なのだ。


「何でもする!何でもするからっ!!」


 悲鳴に注意が引き戻され、祭壇の方に視線を戻す。


「罪人であるお前が、神への捧げものとされるのだ。喜べ」


 彼は押さえつけられる男性の胸を長い指でなぞっていた。震える肌の上を、そろりと何かを探すように。そして丁度、胸の少し左側でぴたりと止める。医学をかじった程度の私にだって分かる。彼の指先にあるのは心臓だ。確かに心臓は古くから特別なものとされていた。人間の理性を司る大切な組織だと。心が宿る部分だと。でもまさか、生きたまま──。


「ああ!ああ!!」


 祭壇に押さえつけられていた人が恐怖のために気を失ったのか、動かなくなった。それを機とし、彼はその黒いナイフを高々と振り上げる。


「だ、だめ……」


 声が漏れた。自分の声だというのに、自分にさえ微かにしか聞こえなかった。彼の掲げる銀の光が私の視界に鋭く差し込む。


「やめてっ!」


 力いっぱいに床を蹴る。尊重なんて唱えている場合ではない。冠が落ちて、黄金が床に叩きつけられる音。それに構わず、今にも振り落とされようとしている褐色の腕に手を伸ばす。


 ──ああ、間に合って。


 銀がその人の胸に向って光ったのを見て、力の限り目を閉じた。手が何かに触れたのを感じ、そのままそれにしがみ付く。

 分からなかった。自分が掴んでいるそれが、彼の腕なのかも。彼の行為を止めることができたのかも。緊張と恐怖に目が開けられなかった。


「アンケセナーメン」


 戸惑いながら誰かが私を呼んだ。恐る恐る目を開けると、男の人の胸から二十センチほど離れた所でナイフは止まっていた。


「一体、どうした」


 視線を上げれば、驚いたように僅かに揺れる淡褐色が私の視界に映った。


「アンク、駄目よ」


 悲鳴に似た声で訴えた。さっきの恐怖の余韻で少し震えていたかもしれない。


「駄目?何が」


 私の訴えに彼は小首を傾げた。


「人を殺してはいけない!生贄で生きている人の心臓を差し出すなんて、間違ってるわ」


 必死に喚く。もしここで止めることができていなかったら。想像するだけでも怖くて、頭をぶんぶんと横に振った。


「駄目よ、これだけのために奪うなんて……それも生きたままだなんて」

「……何を、言っている」


 意味が分からぬ、と彼は言う。その瞳が私に知らしめる。この人は、命を奪うことに対して何も感じていないのだと。人を殺そうとしているのに何の罪悪感もないのだと。儀式の上で神へ捧げるものであるから、殺すという概念さえ彼にはない。


「人の命は神が作りし物。ファラオは神の化身、何故私の自由にしてはならぬのだ」


 神が創ったものは、ファラオが作ったもの。だから奪うも自由。それがこの時代の文化なのだ。


「この人にだって、お父さんやお母さんがいて!奥さんや赤ちゃんもいるかもしれないじゃないの。それなのに」


 納得できずに叫ぶ私に苛立ったのか、彼も顔を険しくして口を開いた。


「この者は罪人だ。商人として我が国に侵入、揉め事を起こし、我が民に怪我を負わせた男だ。傷害の罪を背負う男を殺して、何故いけないと言うのか」


 相手の声は徐々に語尾を強めた。


「怪我をさせただけなら軽い償いでいいじゃないの!働かせるなり、閉じ込めるなりすればいいわ!でも殺す理由なんてない!」

「神を宥めるためだ。これにより飢餓も災害もなくなる。この男も神への捧げものにされることを心から喜んでいるはずだ」

「どこをどう見て喜んでるって言えるの!ショックで気絶しているのに!生贄なんかで神様が喜んだり、天災が治まると思ったら大間違いよ!」


 もう一度深く息を吸って、彼を睨みつけた。


「ここでこの人を殺したら、あなたはただの人殺しだわ!私はあなたを軽蔑する!」


 私の喚きに、彼がますます目を丸くする。


「軽蔑、だと?」


 現代人の言い訳なんてきっと通じない。ならばと、我武者羅にその腕にしがみ付く。


「殺してはいけない!」


 失望したというように彼は私から目を逸らし、私を振り払おうと強く腕を動かした。


「……離せ。儀式が終わらぬ。お前のくだらぬ愚考に付き合っている暇はない」

「駄目だって言ってるでしょう!」


 振り払おうと動く腕を引っ掴み、その先に握られているナイフを奪おうと躍起になる。鋭く彼の目が私を捉えた。


「神聖な場にお前如きが口出しするな!」


 地鳴りのような怒声。怯むものかと、床を踏みしめて言い返す。


「何度だって言う!やめなさい!」


 これでもかと目を見開き、彼は呼吸を荒くする。闘牛のようだと思った。


「これ以上逆らえばお前もただでは済まぬぞ」


 瞳に赤が走る。怒りの色だ。身の毛が弥立つような恐怖を感じながらも、負けるわけにはいかないと私も睨み返した。

 確かに、大切な人のミイラを流す儀式に他人がしゃしゃり出て邪魔をすることほど腹正しいことはない。この儀式がどれだけ重要であるかを知りながら、古代の決まりに口をはさむ私もどうかと思う。葬式をやめろと遺族に言っているようなものだろう。だが目の前で人が殺されるのを黙って見ていることは出来ない。


「やめて!」


 絶対に殺させやしないと腕を必死になって抱きしめた。


「ファラオ!」

「なりませぬ!」


 声が聞こえた瞬間、私は無理に彼から引き剥がされた。何が起こったか分からず、咄嗟に目を閉じる。


「……大丈夫ですか、アンケセナーメン様」


 カーメスの声が耳元に囁かれた。いつものお茶らけた声ではなく、初めて聞く真面目な低いものだった。目を開けてみれば、私はカーメスに、彼はセテムに抑えられていた。


「だ、大丈夫……」

「何故このような無茶を」


 カーメスの問いに答えず、向かい側にいる彼を見やった。彼は私を睨みつけている。最初に会った時と同じ瞳はまるで猛獣のようだ。


「ファラオ、落ち着きなされ。姫君も何かあの世で学ばれたのかも知れませぬ。姫の言い分も聞くというのが道理で御座いましょう」


 ナルメルが告げて恭しく頭を下げると、私を庇うように彼と私の間に入った。


「姫君も王族。それも甦ってきてくださった。あなた様にとっても大切な御身。殺めることなど決してあってはなりませぬ」


 彼はセテムの腕を振り払い、ナイフを持ちながら腕を組んだ。宰相の諭すような言葉に、怒りが僅からながらに鎮まったようだ。


「姫、あの世にいらっしゃった時、神に何か申し付けられたのではありませんか」


 周りを見渡して、奇妙なものを見るような視線が私に向けられているのに気付く。あたりは騒然としていた。その中にいたアイが何かを探ろうと目を光らせ、私の方へ歩み寄ってくる。私の全身を下から舐めまわすように見つめ、顔を覗かせる。気味の悪い瞳だ。この人は、いつ見ても好きになれない。


「アンケセナーメン様、何故あなた様の御身体を慰める神聖な儀式をご自分でお止めになられたのか……もしや、あなた様はただ似ているだけの、偽物……」


 アイの問いに、ざわざわと神官や兵士たちの間に動揺が広がる。


「無礼な!」


 私を遮ってのカーメスの反論に、アイは嫌らしい笑みを浮かべた。


「ご本人ならば、ご自分のお身体のために生贄を捧げようとするファラオをお止めになるはずがない……そうではありませぬか」


 アイはここぞとばかりに攻めてくる。私の化けの皮を剥そうとしている。そう簡単に引き剥がさせるものかと、鈍く光る目を真っ直ぐ見据えた。


「いいえ」

「ならば何故このようなことを」


 次の言葉を待つ、周りの人々が息を呑む音が聞こえる。やはり偽物なのか、と疑う声だった。広い空間のせいでそれが耳にまとわりついてこだまする。

 何か相応しい言い訳を。この場にいる古代人全員が納得する、私が神聖な儀式を中断させた理由を。もし、ここで私がアンケセナーメンではないと知れてしまえばどうなるか分からない。嘘をついたと、罰せられるかも知れない。生贄として殺されるかも知れない。


「……神は」


 ぽつりと私の声が響く。

 この時代について素人の私でも唯一分かったのは、私の周りを囲むすべての人々にとって、神の存在は絶対的だということだ。ならば、神の言葉として私が決まりを作ってしまえばいい。生贄として人間を捧げる決まりを失くしてしまえばいい。何せ、私は神のもとから甦ってきた人間だと思われているのだから。心を落ち着かせ、姫君らしい玲瓏な声を。澄ました、威を持った声を。深く息を吸って口を開く。


「神は仰せになられました。生贄で人を殺してはいけないと」


 その言葉を言い終るか否やで騒ぐ声が増す。納得いかない、そう言っているのが分かる。目の前のアイも鼻で笑っていた。拳を握りしめる。きっと私の意志が弱いからだ。説得力のない、王族の声ではないから。彼の声とは全く違う。

 もう一度、深呼吸をする。どうにか信じてもらわなければ。今回は、私を怒っている彼が助けの手を伸ばしてくれるはずがない。ちらと見やった彼は、私がどんな言い訳をするのかと、眉を顰めて睨むように遠くから眺めていた。視線を元に戻して静かに目を閉じる。

 演じればいい。威厳に満ちたエジプトの王族を。私は王女。王家の姫君。私は、アンケセナーメン。心を決めて瞼を開いた時、真っ白な閃光が私の中を走って行った。


「──耳を傾けよ!」


 神殿に共鳴した声に、騒がしかった人々の全員がぴたりと動きを止めた。突風のように舞い込んだそれに圧倒され、声を発することもなく、不意を突かれたかのような顔で私を見つめている。それは私も同じだった。突然降って湧いたかのような芯のある声に身体の奥が震えた。一瞬、誰が発した声なのか分からなかった。


「私の言葉に疑いを持つならばこの場から去るが良い!」


 自分の口から飛び出た言葉に、思わず息を呑む。私の声だ。他の誰かの声ではなく、紛れもない自分の喉が振るわせて出した声。言おうと思っていた言葉に、声に、自然と王家の威厳のようなものが着き従ってくる。


「誇り高き王家の血を継ぐ、アンケセナーメン私の言葉ぞ!」


 今まで出したことのない声色だった。それよりも、私の声ではないかのようだ。深く威を含んで、何よりも澄んで、貫くように大きな、彼がよく出すファラオとしての声の響きによく似ていた。

 アイが化け物にでも遭遇したかのように、大きく目を見開き、よろよろと私から離れて行く。


「口答えは許さぬ!」


 発せられる聞いたこともない声に、そこにいる誰もが虚を突かれたように私を見つめている。神官や兵士は言うまでもなく、カーメスもセテムもナルメルも、そして彼も。目を見開いて、信じ難いと訴えている。

 自分の変化を感じながらも、声をより大きくして私は再び言葉を放つ。壮麗に。威を放って。


「冥界で私が承った神の御意志により、生贄に人間を供えることをこれより一切禁じる!これを神からの言葉とし、しかとその胸に刻め!」


 静寂を貫いた私のものとは思えぬその声に、周りにいた神官や、兵士、彼以外のすべての人々が次々と膝を折って平伏した。


「──甦りし王家の姫君よ」


 誰かが息を吐き出すように呟く。皆の頭が床に垂れた世界で、彼の大きく見開かれた切れ長の瞳だけが私の視界に鮮明に残っていた。


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