ミイラ
奥の廊下を出ると、中庭のような開けた空間がある。
外に出ていきなり注いできたその太陽の光に、思わず目を細めた。
空間と言っても、宮殿と大神殿を繋ぐ屋根のない廊下。その両端には宮殿の傍を流れるナイルの水がたまっていて、水面にハスの花がいくつも浮かび、まるで湖に浮く廊下だ。廊下自体も、白い石で平らに加工されていて、眩しく光を反射させている。
こんな素晴らしい場所も3000年後にはこの白い石も剥がれて、茶色で水もない、寂しい場所になってしまう。そう思うと寂しいものがある。
「何をしている、早く来い」
苛立ちを含んだ彼の声が前から投げられた。私が行く先、廊下の向こうにセテムを従えた彼が立っている。
「遅いぞ」
「セテムと先に行ったらいいでしょ」
少し声を張り上げて言い返す。
私は普通に歩いているだけで、スタスタと先に行ってしまうのは彼の方だ。とにかく彼の歩幅は大きいし、歩くのが早いから、後を行く私はどうしても小走りになる。
最初は後ろのネチェルと一緒に走っていたけれど、今は諦めてゆっくり景色を堪能しながら歩いていた。
「のろまめ」
「だからアンクは先に行っててと言ってるの。ネチェルも侍女の皆もいるから迷わないわ、大丈夫よ」
強気に話す私の肩に、後ろからネチェルがそっと手を添えた。
「姫様、私が申し上げることではないのですが、ファラオはすぐにお怒りに…」
「あの人は怒りすぎなのよ。それに我儘も混じってるから性質たちが悪い。これくらい我慢させなくちゃ駄目」
それを聞くなりネチェルはくすくすと肩を揺らした。
「姫様も生前に戻りはじめましたわね。生前もよくそのように仰せになっておられましたもの」
近頃、同じようなことを言われる。生前の頃に戻りはじめたと。
変な話。この場所に慣れ始めただけなのに。ただ、何故かこの時代に慣れるのが早いようにも感じられた。
私自身では戸惑うことばかりでも、毎日の現代と全く違う食事や着替えなども身体が覚えていたかのようにすんなりと進んでしまう。侍女にやってもらうことも戸惑うことなく、まるでそれが当然というような時があるのだ。
人とは、そんなに適応能力が優れているものなのだろうか。
「ならば、先に行っているぞ」
前を行くファラオはセテムを連れて、先にすたすたと歩き始めた。両端に大きな柱があるその空間の中に、二人の姿が消えていく。
「先に行ってしまわれましたね」
「後から追いつけばいいのよ。ゆっくり行きましょ」
ふとナイルに浮かぶハスを見つめた。
白い、ふわりとした美しいこの花は時々私の衣服に装飾として使われることがある。
「……綺麗な花ね」
「ええ、ハスは我が国で最も美しいとされている花に御座いますから」
思い返せば、ハスなんて近くで見たことがなかった。屈んで、足元に寄っていた一つを覗いてみる。
水の中に長い茎があって、大きな葉と共に花をこちらに向いていた。茎は意外に太く立派だ。葉も丸くて大きい。白い花びらはまるで綿のよう。
「生前の姫様も、ハスをよく愛でていらっしゃいました」
「そうなの……」
花が好きなところは相変わらず一緒だ。
王女であり、父親や兄弟と結婚した、私とはかけ離れた人生を歩んだ人でも、これだけは共感できる。きっと、彼女が生きていたら花の話で盛り上がれた。
ハスの白さが太陽の光を反射して、したたかに輝きを散らす。その輝きに触れるように、私もその花びらに手を伸ばした。指先にから伝わる柔らかさが心地よい。自然と心が和いでいく。
「ハスはよく美しいものの比喩として使われます。例えば……あなたの唇はハスのように柔らかだと言われればそれはもう、この上ない褒め言葉ですわ」
「く、唇?」
「ええ、口付けのあとに男性がよく言う言葉に御座います」
彼女はぽっと顔を赤くして、はにかんだ。
記憶を失っているということで、彼女も機会があるごとに私にいろんなことを教えてくれる。
確かに、「君はハスの花だ」なんて言われたら嬉しいかもしれない。
言われてみれば、お父さんが見せてくれた古代の壁画の中で、男性が女性にハスを贈っているものを見たことがある。それは、男性がその女性を愛しているという意味。なるほど、と心の中で頷く。女性に贈られたハスは愛の証と言う訳ね。
「……ハスを貰って行ってもかまわないかしら」
尋ねると、ネチェルが首を傾げる。
「これから亡くなった方に会いに行くんだもの、やっぱり花は欠かせないでしょう?」
「ご自分の御身体、ですのに?」
あ、と思わず顔を反らした。自分の遺体に会いに行くのに「亡くなられた方」なんておかしな言い方だ。
「え、いや……あ、あの、お世話になった身体だし、やっぱり敬意を払わないと」
私の必死な弁解にネチェルは、なるほどと大きく頷いた。
「さすが賢きアンケセナーメン様でいらっしゃいますわね!!その通りに御座います!24年間、その御霊を宿して下さった御身体を無下にはできませんものね」
彼女の反応に、良かったと安堵の息を漏らす。
我ながら結構いい感じの言い訳だった気がする。私も意外にやるものだ。
「さ、姫様の御命令通りに」
後ろに控えていた侍女の一人がナイフを使い、一番近くにあったハスを3本もとって跪きながら渡してくれた。
「あ、ありがとう…」
ございます、とつけないように気をつける。
最近、目下の人に対して敬語をやめるようにとナルメルや彼から一層強く注意を受けていた。ネチェルのことだってそう。王族の自覚を持ち接するようにと耳にタコができるほど言われているから、頼み事をするのにも上からだ。
もう、アンケセナーメンだと嘘をついていることが申し訳なくて仕方なくなってくる。
「姫様、そろそろ参りましょう。あまりにも遅いとファラオがお怒りになってしまわれますわ」
「そうね」
3本の白い花を抱いて、私は大神殿に繋がる廊下を歩き出した。
大神殿の入り口に着くと、ネチェルや他の侍女たちは「ここでお待ちしております」と言って頭を下げた。
話を聞けば、ここは聖域であり、侍女たちは入ることを許されないのだと言う。
身分で立ちいれたり立ち入れなかったりする場所があるらしい。
ハスの花を胸に抱いて、神殿の入り口に繋がる階段に足を乗せた。
大きな柱の向こうには四角で囲まれた入り口。現代では壁画の色も落ちて、神像自体も破壊されたり、盗まれてしまっていたりしてとても寂しい。
それでも今私の目の前に映るそれは、壁画の色が冴え、像も本来の神々しさと力強さを際立たせていた。
神秘と、威厳と、美しさ。
古代エジプトの美術は、こんなに美しいものだったのだ。
遺跡は小さい頃から何度か見学して来て凄いとは感じていたものの、今私が見ているものは現代とは比較にならないほどの威厳に満ちている。今から現代へと流れる月日が、その威厳さえ消してしまう。
3000年とはどれだけ長い時間なのか。
四角く切り抜かれたような入り口をくぐって、神殿の中に入った途端、足が止まってしまった。目の前に広がる光景に、思わず息を呑む。
神殿の中央。
茶色の立派な装飾の成されている木製の祭壇の上にある、女の人が描かれた棺。その棺に覆いかぶさるように、浮かぶ影。
彼。この国のファラオ。
その黄金を持つ人が棺の顔が描かれた部分に優しく触れていた。
愛おしそうに、それでいても悲しそうに。
長い睫毛がその褐色の頬に影を落として、何とも言い難い哀愁を漂わせている。いつもの勝気な雰囲気を消して、ただ憂いをその場に落とす。でも、幻想的で惹かれてしまう。それほど綺麗な光景だった。
本当に、好きだったのね。
向こうに浮かぶ光景に見惚れながらそう思う。
お姉さんでもあって、お母さんでもあって、奥さんでもあったから当たり前だろうけれど、彼はとても彼女を愛していたのだ。彼の言葉に出来ない表情が、私に強くそれを言葉なしに教えてくれる。
美しい光景。人の愛をそこに見た気がした。
彼の表情から、視界に浮かぶ光景から、目が離せない。声もかけられない。それと同時に何故か、懐かしさが私に巣食った。嬉しいような、悲しいような。その背中にしがみ付いて泣いてしまいたいほどの懐かしさが。
何故だろう。分からない。でも私はあの顔を昔から知っていた。そんな気がする。
ずっと、ずっと、昔から。
私の中の何かがそう訴えている。
それを感じたら、理由も分からないのに泣き出しそうになって、唇を強く噛んだ。
「……ファラオ、姫がご到着です」
神殿の隅に控えていたセテムの声が、広い神殿の中に響いた。それを合図に、彼も身体を起こして私へ視線を投げる。
「やっと来たか、のろまめ」
哀愁を消し、馬鹿にするような笑いを浮かべてその人は私を嘲った。
「芋虫のようにのろまだな」
ああ、涙が引っ込んだ。
「芋虫で悪かったわね。せっかく供えようと思ってハスを持って来たのに」
棺の方に歩み寄りながら言い返えしてやる。
彼も腕を組んで、私に口端をあげて笑って見せた。
「セテム、お前はもう良い。下がっていろ」
「御意」
彼の命令で、セテムは頭を下げて神殿の外へと出て行った。
改めて、その神殿をぐるりと見渡す。天井がとても高くて、沢山の壁画が描かれている。白や黒はもちろん、黄色に赤、緑。
奥には大きな神の像。全長20メートルくらいはある。なんて凄い威を放つのかしら。ついお辞儀でもしてしまいそう。
「覚えているか?」
立ち止っていた私の隣に立って、彼が問いを投げてきた。
「ヒロコが落ちてきた場所だ」
「私が?」
言われて、なんとなく思い出す。
黄金から飛び出して、彼の上に伸し掛かった記憶。でもあの時は本当に混乱していて、彼の顔を見て狂ったように叫んだ記憶しかない。そもそもたくさんの兵士と神官があたりを埋め尽くしていて、何も見えなかったに等しい状態だったと思う。
「今までここに何か手がかりがあるのではないかと思い、ここを中心に探していたのだが、何も見当たらぬ。……だが、お前が来ればまた違ったものが見つかるかもしれぬと思った」
「なるほど。あなたにしては良い考えね」
ふざけて彼の肩をポンと叩いてみたら、彼は顔をしかめた。今にも怒り出してしまいそう。
「はいはい、怒っちゃ駄目よ。すぐ怒る癖、直した方がいいわ」
笑って、またその肩をぽんぽんと叩く。冗談が言えるようになってきたのは少し嬉しい。良樹と話しているみたいだ。
全く、とため息を小さくついてから彼は気を取り直して歩き出す。
棺が置いてある向こうへ。彼が行き着くのは巨大な神の像の前。
「ある人間が死に、その遺体をミイラにする。それは死後ちょうど70日で終わらせるのが決まりだ。それは分かるな?」
「……初めて聞いたわ」
ミイラの造り方は知ってはいても、結構な時間がかかることは知らなかった。人の身体の六割を構成する水を抜くのだから当然と言えば当然かもしれない。
「ヒロコの国ではミイラは作らぬのか?」
少し驚いた様子で、私に目を向ける。
「私の時代ではミイラにするという埋葬の概念がないのよ」
生きている間に飲食を立って餓死をしてミイラを作る即身仏や、遺体を残す土葬はあっても、エジプトのミイラのように内臓を取り出してわざわざ別の壺に入れて埋葬はしない。その前にミイラ造りの技術を持っている人がいないのだから造れるはずがない。
「では死んだらどうする」
「私の母国は火葬よ。遺体を焼いて、骨を大切に埋葬するの」
私の答えに、彼はぎょっとして顔を顰めた。きっと、彼にとってのカルチャーショック。その顔が面白くて笑ってしまう。
「身体を燃やしてしまったら、甦りを許された魂はどこへ帰るのだ」
「魂は空に帰って、今生きる私たちを見守るの。……見えないけれど傍にいるって感覚かしら」
納得できないという顔は変化を見せない。仕方ないと思って、私も頭を捻り、説明の言葉を探した。
「そうね……まず、気候が全く違うのよ」
「気候?」
そう、と頷く。
「私の母国の日本はとても湿気の多い国で、どこにいっても緑が絶えない場所なの。だからミイラを作ろうとしても、乾燥させる前に遺体が腐って終わってしまう。腐った遺体に、あなただったら戻りたい?」
彼は想像したのか、直ぐに小さな子供のようにぶんぶんと首を横に振った。
「でしょ?自分の腐った姿なんて見たくないものね。だから、日本人は土葬や火葬という形式を古くから採用していたの」
私もなかなか説明が上手くなったものね、と胸の中で自画自賛する。ここに来てから色んなことを説明してきた成果がようやく実ってきたよう。
顎を掴んで首を傾げていた彼も、やがて納得したようにその首を縦に振ってくれた。
「ニホンという国は変わっているのだな……まあ、良い。話を戻そう」
その人は威厳溢れる足音を鳴らしながら、一歩前に出る。
「死後70日目になると、我らは神殿で死者への敬意を込め、永遠を神に祈り、その後に墓への埋葬を行う。その祈りの間に、現れたのがヒロコだ」
ちょうどこの辺だ、と彼は頭上を指差す。
「祈りで皆が神の声に耳を傾けようとしていた時、私が『甦れ』と祈っていたらいきなり光り出し、そこからお前が落ちて来たのだ。それも私の上に」
私はそんな大事な儀式の最中にお邪魔したということ。今思い返すと少し恥ずかしい。
「ここがお前の現れた場所。そう考えると、一番帰れる可能性が高いのはここだ。ここにお前が立ち、私が帰れと唱えれば戻ることができるのではないかと思った……だが、成功するとは思えぬ。あの時は…」
「それすごくいいアイディア!やってみましょ!」
彼の声を遮って前に出た。
彼の言った通り、私が現れた場所で、帰れるかどうかを探すのが一番賢いやり方だろう。
「あ、あい…あい…何だそれはニホン語というやつか」
「考えって意味よ。いいアイディアで、いい考えねって意味」
帰れるかもしれないという希望が私の中に咲いて、嬉しさが満ちる。
きっと、古代のこの場所と未来のルクソールは繋がっていて、彼の声という条件が揃えば私は時空を移動できる。そうであることを、ひたすらに願う。
「ここに立つから、あなたは帰れと言ってみて。祈るみたいに。私を呼んだ時と同じ要領で」
でも目の前の人は面倒くさそうに顔を顰めた。
「はい、どうぞ!」
彼は乗り気ではないようだったけれど、ゴホンと咳払いをして言う準備をしてくれる。
私も身構え、足下に力を入れた。
嫌になるほどの静けさの中、ごくりと唾を呑み込む音が私の喉から響く。
もう、一か八か。
「……帰れ」
呟く声が反響したと同時に、両足で床を踏ん張って、固く目を閉じる。
さあ、黄金よ来い。
私を現代に連れて行って。
と、ハスを抱いて神様に縋る思いで祈った。
でも。何も。
「……ヒロコ、」
ぽつりとした声に、固く閉じていた目を開く。
「何も起きぬぞ」
目を開いても、彼は目の前に立っている。
周りも古代のまま。
がっくりと肩を落としてしまった。
やっぱり駄目なのかしら。ううん、叫び方が駄目だったのかも知れないじゃない。
「……も、もう一度」
「何度やっても無駄だ。あの時はもっと何か特別な物を感じた。神が傍にいるような力が漲って、何でも出来るような……だが今はそれが感じられぬ。時間の無駄だ」
そのまま、彼は手前にあるアンケセナーメンの棺の方に歩き出す。
「たった一言、帰れって言ってくれればいいの!お願い、もう一回言ってみて!」
彼の傍に駆け寄って腕を掴んだ。
私は帰りたい。1パーセントでも、その可能性があるのなら何百回でも試したい。
「無理だ。今はそんなことをする気分ではない」
やめてくれと彼は私の手を振り払った。
「大丈夫よ!あなたなら大丈夫!絶対やれる!自信持って!アンク!」
根拠のない言葉ばかり。
帰りたくて堪らなかった。
家族や現代を思い出すだけで、今にも泣いてしまいそうになる。
そんな私に、彼は褐色に光る瞳を向けた。その目がとても悲しそうで、こちらが思わず口を噤んだ。
「……その話はまた今度だ」
私を諭すように、言葉を紡ぐ。
「お前の帰る方法は、必ず探してやる。今日は、待て」
なんて憂いを漂わせるのだろう。耳から頭に響くその声に、言葉というものを失くしてしまう。
「言っただろう、本物に会わせると」
目の前にあるのはあの棺。
彼がさっき愛おしげに触れていた女の人の人型棺。
それを目の前にして、私が黄金から飛び出して、初めてここに来た時に見た棺だということに気づく。
「アンケセナーメンだ」
私の腕を掴んで、引き寄せる。その反動で、腕に抱いていた3本のハスがはらはらと床に落ちて行った。
「あ、あの…」
目の前に彼の瞳孔が迫って、その中に私が映る。
なのに、逸らせない。強い何かが、私を捕えてしまう。
彼は私から視線を離して、私を掴んでいる手とは反対の手を、その棺に伸ばした。
褐色の大きな手が置くように触れるのは、よく博物館で見る女性用の棺。様々な色が走って、とても美しい。古代のものはこれほどまでに鮮麗。
「事実を知らぬ者たちにはこのミイラはもう、用済みだ」
声をどこかに置いてきたかのような私に、彼は静かに続ける。
「ヒロコが現れ、アンケセナーメンと名乗った時点で、周りの者たちにはアンケセナーメンの魂はヒロコという器に宿ったことになっている」
古代エジプト人独特の思考を彼は言っている。
亡くなった人の魂は元の身体を離れ、神のいるあの世へ行ってから、また地上に戻ってきて、残されている自分のミイラに宿り、甦る。
でも彼以外の人々は、そのアンケセナーメンの魂が棺の中のミイラに戻らずに、私の身体に戻って来たのだと信じている。それほど、私は彼女に似ているから。そして何より、ファラオである彼が私をアンケセナーメンだと公言したから。
「宿る魂がなくなったミイラは最早用無し。いらない存在となる。墓に埋葬されることもなく、ナイルに流される」
長い指が、棺の上に描かれる女性の頬をそっと撫でた。
優しく、滑らかに。
「本来ならば、本物の彼女の魂がこの中に戻り、生き返るはずだった」
周りの人たちは、私にアンケセナーメンの魂が入ってしまったと思っている訳だから、このミイラはもういらない存在。
何でもないただの器。だからナイルに流す。
でも、真実を知っている彼にとっては、また魂が宿り、甦るはずのミイラを川に捨てることと同じ。
それは彼女をもう甦ることのない存在にすることに繋がり、彼が愛した彼女の永遠の死を意味する。瓜二つの私が、アンケセナーメンの魂が宿った存在と偽っているせいで。
「だが、エジプトを守るために私はこの遺体を流すことに決めた。ヒロコがアンケセナーメンとして私の隣にいなければ、王家は駄目になる。これが私の務めだ、アンケセナーメンも分かってくれるだろう。己の命を懸けてまでこの国を守ろうとした女だったのだから」
私をアンケセナーメンだと偽ることで、王位を、最高神官であるアイから守ることができる。
彼の一言一言が、悲しみをより濃くしていく。
「故に今日、アンケセナーメンにお前を対面させ、アンケセナーメンとして生かすことを報告するためにお前をここに連れて来た。未来に帰る方法はまた今度考えよう。…今はそれを考えられる余裕が、私にはない」
彼の視線が棺の絵から、私の目に戻る。淡褐色が黄金になる。決意を秘めた、その瞳。
彼が私をここに連れて来たのは、私の帰る手がかりを掴むためではなく、本物ではない私が存在を偽ることを、そして彼女のミイラをナイルに流すという彼の決心を伝えるため。
それがどれだけ彼にとって辛いことか。悲しいことか。彼の気持ちを考えたら何も言えなくなる。
帰れるかもしれないとはしゃいでいたさっきの自分の態度が、あまりにも申し訳ない。
私は身勝手だ。この時代に私という存在が来て、悲しんで困っているのは私だけではない。彼も一緒だったということに今更気づく。
小さく笑みを浮かべる、その横顔を見つめた。いつもと様子が違う。我儘でも強気でもなくて、優しくて、弱い。
「まあ、案ずるな。方法が見つかり次第、何かうまい言い訳でもつくって、お前が気兼ねなく元の世界に帰れる環境にしてやる」
笑ってはいても、やはり哀愁が混じっている。こんな時まで、私のことを忘れないでいてくれている。彼なりに、呼んでしまった責任でも感じているのだろうか。私が来たせいで、大切な人の遺体をナイルに流すことになってしまったのに。
「さあ、瓜二つの者同士の対面だ」
褐色の指が動いて、人型棺の蓋にかかる。
腕に力が入り、木製のはずなのに石と石が擦れるような音を立てて蓋が動き出した。蓋がずれ、棺の中が黒く覗き始める。
一瞬恐怖が走って、思わず彼の方に身を寄せた。
鼓動が早くなる。
怖い。自分と同じ顔の遺体を見るのが、怖い。
もう一度、力が加わったと感じた途端、蓋が勢いよく滑るように反対側の床に落ちた。
怖いほどの、ガタンという音を神殿という空間に響かせ、蓋の下に隠れていた、本物のアンケセナーメンが私たちの目の前に姿を現した。
棺の蓋が落ちた音が、辺りに音の輪を成して広がって行く。怖いくらいの共鳴が私の脳裏を揺さぶる。
反射的に後ずさった。
表現しにくい、恐怖に似た感情が走り抜けていく。
「──アンケセナーメン」
彼が呼んだ。
その人の名を、大切な言葉を発するように。
後ずさった私になど気にも止めずに。
「誇り高き、神に愛されし王家の娘」
彼は私の腕を離し、引き寄せられるようにもう一歩棺に歩み寄った。
「我が、姉妹」
私はその背中を少し離れた所で見つめている。
自分という存在が消えて、そのミイラと彼だけの空間と化していく。
胸の中の鼓動だけが徐々に大きくなって、私の世界をそれだけにしてしまう。
「アンケセナーメン、私は決めた……決めたのだ」
静かに言葉を落していく。
それほど大きいわけではないのに、神殿中に響き渡って私の耳にこだまする。
「お前を流す。我が国のために。王家のために」
彼の声が、徐々に小刻みに震え始める。泣くのを必死に堪えているようだった。いつもの意気揚々とした声色からは想像も出来ない響きだ。
「許せ」
どうしても、その棺の中を見ることができない。
彼の声の一つ一つが宙に舞うたび、私の足が一歩一歩後ろに下がっていく。
昔からミイラは怖くて、カイロ博物館に展示されているものさえまともに見たことがない。
でも、それだけが理由ではない。棺の中にあるものに、何かを感じる。無理に言葉にするのなら、懐かしさ。
泣き叫びたいくらいの、懐かしさを私は感じている。
それと同時に恐怖が襲う。理由なんて、分からない。
「ヒロコ」
はっとして顔をあげた時には、彼が私の腕を掴んでいた。
「アンケセナーメンだ」
抗う力もわかず、私は引き寄せられて、気づいた時には棺の中を覗き込んでいた。
目の前に浮かんだのは、少し黄色がかった白い麻の布だった。
それに包まれる、長身の身体。何センチかは分からないものの、私よりは確実に大きいのは分かる。
徐々に視線をミイラの上半身へと移動させていく。
次は水分を失った棒のように細い褐色の腕。右手は胸に、左手は身体の横に添えてある。お父さんの持っている資料で見た、王家の女性独特のミイラのポーズ。
所々には人差し指ほどの大きさの神々の像が顔を出し、赤や青の様々な宝石や、禿鷹を象った首飾りがその色を放っていた。
ゆっくりと顔の方へ、視線を動かす。
怖い気持ちがありながら、自然と吸い込まれるように首が動いた。
鼓動が煩い。
唾が喉に通る音まで、私の耳を突く。
その瞬間。
自分の目に映ったそれを疑う。
信じられなくて、ただ見つめる。
瞬きさえも忘れてしまうほどだった。
長い黒髪が棺の上半分に波打っている。
こけた褐色の頬。引いた細い顎。しっかりと閉ざされた、緑のアイラインが流れる瞼。水分を失い、皺が寄って、少しだけ開いた薄い唇。
これが安らかに眠る、私と瓜二つだと言われた王家の姫君。
これが、アンケセナーメン。
「こ、この人…」
唇が震える。
見れば見るほど、私の中で何かが騒ぎ出す。
「美しいだろう。最高のミイラ職人の手で作らせたのだ。魂が戻ってきても困らぬように」
彼は私の耳元で、穏やかにそんなことを言う。
確かに綺麗だ。
生きていたらもっと綺麗だったのだろう。顔は同じなのに、醸し出す何かが私とは比べ物にならないほど違う。
でも、今はそれを考えていられる状態ではなかった。自分の中から聞こえる、声にならない悲鳴を受け止めることでいっぱいだった。
身体ががたがたと震え始めて、言葉にできない感情が溢れ出す。溢れ出して、私を呑み込んでいく。
「本当に生き写しだ。おそらくあの世のアンケセナーメンも驚いているぞ」
生き写し。
その言葉が一番相応しいと思えるほど、私とそのミイラは似ている。私と彼女は、話に聞いていた以上に、この上なく、瓜二つ。
「私、だわ…」
絞り出したような声に、彼がこちらを覗いた。
「そうだな、ヒロコにそっくりだ。自分自身でもどちらが本物か分からなくなるのではないか?」
相手の声はずっと遠く。
もう、自分の荒くなっていく息遣いしか聞こえない。
一気に涙が溢れて、彼の言葉を無視して、ぬくもりを持たない彼女の頬を両手で包んだ。鼻がついてしまうほど、ミイラとの顔を近づける。柔らかさもなく、かさかさしていて木片のような手触りだった。
「私だわ…!」
ミイラの顔を目の前に、私は叫んでいた。
違う。私ではないのに。
この人はアンケセナーメンで、私は弘子で、別人のはずなのに。
「私…!これは私っ!!!」
自分でも、何を言っているのか分からなかった。
まるで、私の中にもう一人の人間がいて、私の身体を乗っ取って言葉を発しているよう。
「別人なんかじゃない!!この人は私なの!!」
「ヒロコ?」
ますます息が乱れて、そのミイラにしがみつく。
ミイラの胸の上の宝石が石の音を立てる。布同士が擦れる音。ミイラに塗られた香油の匂いが、私を包む。鼻をついて、私の喉を咽び返す。
「これは私なの…!!」
狂ったように飛び出す声も。震えだすこの身体も。溢れて止まらないこの感情も。込み上げるこの涙の意味さえも。私には、何も分からなかった。
「私の…身体っ!!!」
アンケセナーメンのミイラに縋りついて。床に落ちた、白いハスを踏みつけて。
ヒロコと呼び、彼が私の肩を抑えた手を振り払って私は泣き喚いた。
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