報告
せっかく、来たのに。
外に開く長い階段の下、そこにいる誰も乗っていない馬を見て、脱力してしまう。
蟻の入る隙間がないほどに兵士たちが両端にずらりと並ぶ階段の頂上で、私はネチェルと女官数人を後ろに連れて突っ立っていた。
何でも、ファラオが帰った時は、お出迎えをしなければならないらしい。
だから急いで王宮の端っこから正反対の端っこであるこの場所まで走って来たのに、彼はもうさっさと馬を降りて王宮の中に入ってしまったと知らされた。
「……入れ違いになってしまいましたね」
息を切らしてネチェルが苦笑する。
ここまでどんな思いで走って来たと思ってるのだろう。遅かった私も悪いだろうけれど、出迎えが来るはずだと分かっているのだったら、ゆっくり歩いてくれてもいいと思う。考えれば考えるほどに何だか腹が立ってきた。
「おやおや、やはり間に合いませんでしたか」
ナルメルが笑って後ろからやってきた。面白いといように、髭を撫でながら笑っている。間に合わないというのをはじめから分かっていたような雰囲気だ。
宰相は私の隣に立って、階段の下にいる誰も乗っていない馬を見やった。
「あの方は素早く中へ入っておしまいになられる。生前もあなた様はそうやって振り回されていらっしゃいましたが、またやられたわと笑っておられました」
意味ありげな視線にうっと言葉を詰まらせた。
ナルメルは、私にアンケセナーメンがしたように笑えと言っているのだ。記憶を失ったと周りに知られないために。
「ま、またやられましたわ……おほ、ほほほ」
無理に笑ってみせるけれど、絶対引きつっている。
自分でも見たくないほどに凄い顔に違いない。
「……姫!」
私を呼んだセテムは、王宮内へと続く背後の太い廊下を走ってこちらに向ってきていた。
彼の忠犬はそのまま私の足元に跪く。どうしてもその跪かれるのだけは慣れない。
「ファラオが姫君のお部屋にてお待ちしているとのお達しにございます」
「また…!?」
最近、彼は私の部屋に勝手に入って色んな物をあさっているものだから困る。私のここ数日間の悩みだった。
とにかく、彼のお気に入りは携帯。電源は消しているからいいけれど、勝手にバッグから取り出してどんな魔術かと色んな角度から見たり触ったり、挙句には叩いたりするものだから、こっちは気が気じゃない。
あれが私の唯一の希望なのに。壊されたら、何もかもが終わりなのに。
「ああもうっ!!」
長くて歩きにくいスカートをひっつかんで、自分の部屋に向かって一気に走り出した。
「姫様!!」
「そのように急がれずとも!転びますよ!」
止める声が聞こえても構いやしない。大理石のような石で白く加工されたその廊下を我武者羅に走る。神々の壁画に満ち、鮮やか過ぎる古代の宮殿の中を、携帯を救うべく全力で駆け抜け、目的の部屋の前の兵たちを押しのけて扉を押し開く。
「ちょっと!!!」
いくつか部屋が続く中の最も奥に飛び込んだ時、彼は外出用の上着をそこらに脱ぎ捨て、いつものように私の寝台の上でこちらに背を向けて、何やらごそごそしていた。広い褐色の背中がこれでもかというくらい憎らしく見える。
「おお、ヒロコか。待っていたぞ」
一瞬だけ彼は視線をこちらに投げ、それからまたすぐに手元に戻してしまった。
「遅かったな、出迎えにくるのはこの王宮の者の務めだ。何をしていた、のろまめ」
「あのね!勝手に部屋に入らないでって言ってるでしょう!?」
彼の言葉を無視して訴えた。
何度も言ったのに、一度も聞いてくれたためしがない。
「ねえ、聞いてるの!?」
「そうだ、お前の荷物から面白い衣を見つけたのだが、これは何だ」
彼の真後ろに辿り着いた私の方を、ぐるりと振り返って手に握るものを突き出してきた。目の前をゆらゆらと左右に揺れるそれに、私の目が見開く。恥ずかしさというものすべてが血流と共に頭に駆け上がった。
「不思議な物だな。これは衣だろう?お前がここに来た時につけていた。一体どこに身に付けるものなのだ」
水色の。
私の小さな胸にフィットする、あの。
彼はそれを手に取って、色んな角度から見ては楽しそうに笑っている。
「いやああああっ!」
吠えるように叫んで、その手から水色のそれを奪い取った。
カイロの一番大きなショッピングセンターで手に入れた、お得2点セットの一つ。彼氏もいない私にはうってつけの、飾りっ気のない無地の水色下着。
もっと可愛げのあるものならまだしも、まさかこんな。いや、17歳で何の経験もない私には見られるなんて絶対無理。恥ずかしくて堪らない。
水色のそれを握りしめて、慌てて後ろに隠した。
「な、なに、わ、私の、ぶぶぶブラジャー勝手に……!!」
「ぶらじゃー?」
私の顔が真っ赤になるのなんてお構いなしに、彼は悪びれた様子もなく初めて聞く言葉に目を輝かせて身を乗り出した。
「ぶらじゃーとは何だ?お前の時代の物ならば、何か凄い魔術を生み出す道具ではないのか。もう一度貸せ」
伸ばされた彼の手から逃げようと、私は身を遠ざける。
「無理!!絶対無理!!」
顔を真っ赤にさせて喚く私に、彼はため息をついて手を下した。
「ならば答えるだけでよい。それは何だ」
命令するように私が後ろに隠すそれを指差す。
何よ、偉そうに。
どうして下着をこんな人に説明しなくちゃいけないの、と思いつつも、ここで説明しなければ彼が引き下がらないのも十分理解している。挙句の果てには不機嫌になってしまうからもっと厄介。
言ってしまえば、彼は好奇心の塊なのだ。携帯を見せてからというもの、私の荷物すべてに興味があるようで、彼の旺盛な好奇心は止まるところを知らない。
「早く答えろ。待つのは好きではない」
今度は眉間に皺を寄せ、足を組む。
本当に気分屋だと思う。
すぐ喜んだり、怒ったり。怒った時はとにかく怖い。
「……む、」
「む?」
もう一度息を吸ってから、渋々小さな声で呟く。
「……胸当て」
こんな説明でいいのか分からないけれど、私にとっての精一杯だった。
「むね、あて」
彼はその言葉を繰り返して、納得したように頷く。
またこちらに淡褐色を向けて来た。
追加説明を要求しているのが嫌でも分かる。小さくため息をついてから仕方なく口を開いた。
「……私の時代の女の子がほとんどみんなつけているものよ。胸に当てて胸の形を整えたり、胸を支えるのよ。携帯みたいに光ったりはしないの。ただの下着」
私の答えに、彼は「ほう」と頷いた。その姿は有名彫刻、『考える人』を思わせる。それでも束の間ですぐに納得いかぬと首を傾げてしまう。今度は何に納得いかないのかと身構えた。
「ヒロコもつけているのか」
ぼそりと声が落ちる。
「え、そりゃあ」
女の子ですからと言う前に、彼の目が私の胸元に動いたのを見た。じっと、何かを考えるように凝視してくる。
「支えるほどの胸もないのにか」
「わっ、悪う御座いましたね!」
かっと顔に血がめぐって、慌てて胸を隠す。
確かに私の胸は小さいけれど。気にしていたけれど。どうして会って間もないこんな男にそんなこと言われなくちゃいけないの。
意地悪い笑みを浮かべるその顔面に拳をめり込ませたくなる。
真っ赤になっているであろう私の顔を褐色の鼻で笑いながら、彼は再びショルダーの中をごそごそと探り始めた。
「実にヒロコの荷物は面白い。まるで魔術の袋だ」
ナルメルに話してもらった彼の悲劇なんて嘘だったんじゃないかとさえ思う。アンケセナーメンを亡くして泣いたなんて絶対嘘。
「もう!勝手に探らないで!」
彼の手元にある荷物をひっつかんで喚く。
これ以上探られたら一体何されるか分からない。説明だってうんざり。物一つの説明にどれだけ時間がかかることか。
「私はファラオだぞ。反論は許さぬ」
「ファラオでも駄目なものは駄目!!放しなさい!」
ショルダーを無理に彼から引き剥がして胸に抱きしめた。そんな私を見て、彼は高らかに白い歯を見せて笑う。
「ヒロコ、顔が真っ赤だぞ。
指摘されて思わず手が自分の頬に伸びる。
「ぶらじゃー」
言葉の響きが気に入ったのか、もう一度その言葉を繰り返した。
下着の名前を言われているだけなのに、何故こんなに恥ずかしくなるのか分からない。でも何も言い返せなくて、ますます顔に熱が走る。
「面白い言葉を知った。ヒロコを黙らせる良い呪文だな」
ああ、と顔を片手で覆う。
もう、疲れた。
この人と一緒にいると精神が持たない気がする。どっと疲れを感じて、その場に座り込んだ。
「さて」
座り直した彼の目が、眼差しを変えて私へと向いた。
「……冗談はさておき、実は手がかりはないかと思っていたのだ」
「え?」
見上げた先の寝台に座る彼は今度は小さく笑った。
「お前がアンケセナーメンとして頑張っているということはナルメルから聞いている。約束だからな、私も出来る限り色々と探ってみたのだ」
少し嬉しくなる。約束を守ってくれるか正直疑っていたけれど、彼も彼なりに私を帰す方法を探していてくれているのだ。
「それで!?」
結果が気になり、思わず身を乗り出した。
「だが、見つからなかった。だからまずは、お前の持って来た荷物に手がかりでもあるのではないかと思い、ケータイを我慢して他の物を探っていたのだ。まあ、何も見つからなかったがな。まさかぶらじゃーとかいう下着で帰れるわけはないだろう?」
「そう、ね。ブラじゃ無理ね」
小さなため息が自ずと口から漏れた。下着で現代に帰れたのならこんなに苦労はしない。
「で、そっちはどうだった」
肩を落とす私に彼は尋ねる。これが最近毎日のように交わす報告会だ。
「ナルメルに色んな人の名前を教えてもらったけれど、全然覚えられないわ」
「まあ、多いからな」
「あと、アンケセナーメンについても少し聞いたの。私はどんな人だったんですかって」
「それで?」
「まったく私と正反対の人じゃないの。このまま無事に進むか不安だわ」
「それは私も不安だ。いつ露見するかとひやひやしている」
そうでしょうね、とため息をついた。
話を聞いていて、同じなのは顔と花が好きなところだけ。あとは全然違うのだから。
特にナルメル。鋭い眼差しを持つ、彼の左腕。一瞬だけだけど、私に疑いの目を向けたのは間違いない。おそらく彼にはもう──。
「ナルメルには、もう気づかれているような気がするわ」
「だろうな」
「え!?」
彼の当たり前だと言わんばかりの声に素っ頓狂な声を上げてしまった。
「ナルメルはおそらく最初から気づいている。お前がアンケセナーメンではないことぐらい。あの者は私よりずっと鋭いからな。そうでなくては宰相という役職など与えぬ」
「じゃあどうして……」
それを知っていながら私をナルメルに任せたの。
「あの者は王家にとって不利になることはせぬ。ファラオである私が『記憶を失ったアンケセナーメンだ』と言ってお前を紹介すれば、ナルメルはそれを受け入れる。私の言葉通りにすることが、王家にとって有利だとあの者は知っているからだ」
凄い信頼関係だ。
「あまりに無謀だと感じればさすがに反論はするが。まあ、頼りになる奴だ」
世界が違い過ぎる。
私がそこらの普通の家庭で育った女子学生ではなくて、どこかの財閥のお嬢様か何かだったらまだ話についていけたのかもしれない。主従関係だなんて、私の生活からかけ離れている。私にはついていくのが難しい話だ。
「だからナルメルの前では少し気を抜いても大丈夫だぞ」
最近の私の、ナルメルにばれないようにと頑張った努力は意味が無かったということ。あんなに必死になって演じたのに。演じ切れてなかった部分もあったけれど。何故か、倦怠感が背中に伸し掛かってくる。
私、本当に帰れるのかしら。ショルダーを胸に抱きしめながら考える。
この場所に来て、もう3週間になる。あまり両親や良樹のことを考えないようにしているものの、ふとした拍子に思い出してしまう。
あの家族旅行の翌日、お父さんとお母さんと良樹は日本に帰る予定だった。きっと帰っていない。私をずっと探している。
『──みんなお前を探してる』
いつか聞こえた、良樹の言葉が頭の中に甦った。空耳だと思ったその言葉に私は縋りついている。探していてほしいという単なる私の我儘が生み出した声かもしれないのに。
大事だと言われていた学校の試験だって、もうとっくに終わってしまっている。落したら大変よ、と言っていた先生。血管の名前を全部覚えるなんて嫌ね、と笑い合ったメアリー。その記憶がどれも遠い。
顔を上げて目に映るのは、褐色の彼だけだ。聞いたことのない名前を持つ、私の時代から3000年くらい前に生きる黄金のファラオ。
私を呼んだのは紛れもなくこの人だから、帰るためにはこの人の傍にいることが一番先決だと分かっているのだけれど、何も進んでいないことに少し焦りを感じてしまう。
「一度、ヒロコの世界に行ってみたい」
いきなり彼がそんなことを言った。
「私の世界?」
そうだ、と彼は頷く。
頷きながらも楽しそうに、組む足を揺らしている。揺らすたびに、その足にはめられた黄金がきらきらと光を辺りにまき散らした。
「色々とあって楽しそうだ。おそらく魔術で溢れているような世界なのだろう?それを取り入れられれば我が国は他国に負けぬ、より大きく偉大な国となる」
私をおいて、一人で彼は話を進めていく。いつものことだから慣れてしまった。
「お前の帰る方法を見つけたら、私も少し行ってみるとしよう」
「ご勝手にどうぞ」
「案内はヒロコだ」
「了解しました。喜んでご案内します」
適当に頷くと彼は約束だぞ、と笑った。
「……ヒロコは不思議だな。やはり、アンケセナーメンに少し似ている」
突然の言葉にきょとんとした。
相手はとても優しい笑みを私に浮かべている。ただ、私はすぐに「あり得ない」と首を横に振った。
「そう感じるのは顔が一緒だからよ」
ため息交じりの私の返答に、彼はいいやと否定する。
「顔ではない何かが同じだ」
顔を上げると、彼の淡褐色が鋭く光る。その光に思わず息を呑んでしまう。
「上手くは言えないが、同じだ」
同じようなことをナルメルにも言われた。取り巻くものが同じだと。3000年前のエジプト王家の姫君と同じ雰囲気を持っていると。
変な話だ。私は工藤弘子の他の何者でもない。これだけは、この何もかもが意味不明な世界で確かなこと。
「言っておきますが、私はアンケセナーメンじゃないの。アンク、あなたも知っているでしょ」
未だに呼び慣れないその名を呼んでみる。やっぱり名前を呼んだ方が説得力があるものだ。
「まあ、そうだが」
彼は眉間に皺を寄せた。
立ち上がって、私はそんな彼の前に立ち憚る。寝台に座る彼を私が見下ろすような体勢を取った。
「そりゃあ、好きな人と同じ顔を持っていたら、全部同じだって思いたくなる気持ちも分からなくもないけれど、私はあなたが好きだったアンケセナーメンとは全くの別人なの。いい?私は弘子なの」
「好き?」
私が放った言葉に、彼はますます眉間の皺を深くした。
「私がアンケセナーメンを好きだったと?愛情ということか?女としての?」
「違うの?」
間の抜けた私の声に、フンとその人は鼻を鳴らす。
「アンケセナーメンにそのような感情を抱いたことはない」
「でも……とても慕っていたって…それにアンケセナーメンがあなたのお妃になると決まった時、あなた、すごく喜んだって」
今度は彼がため息を漏らした。大きな、深いため息だった。
「ナルメルがお前に何を話したかは知らぬが、アンケセナーメンは私の異母姉、母、そして妻にもなった女だったというだけで、そういう対象として見たことはない。幼い頃から、それこそ赤ん坊の時から傍にいたのだ。子を作れと言われれば作るがそれ以上のことはない」
淡褐色を伏せながら、その人は言い切った。
姉で、母で、妻だったというアンケセナーメン。それでも子供は作れるという。また頭がこんがらかってくる。
アンケセナーメンが彼のお姉さんだということは分かる。結婚するという話もあった訳だから奥さんだという事実もまだ理解できる。
でも、お母さんだなんて。訳が分からなくて、まじまじと彼を見つめた。
「つまり、どういうこと?」
混乱する私に対して、彼の口から出て来たのは深く、長いため息。そんなことも分からないのか、と言っているのが嫌でも分かる。
「確かに、賢いアンケセナーメンは、私が王子の頃から頼りにしていた。父と兄が死に、13の私を王位につかせ、補佐をしていたのがアンケセナーメンだ。そもそも王になれと私の尻を叩いたのも彼女だ。そんな頼りになる女が妃になってくれるなら万々歳だろう。別に、女として好きだったという訳ではない」
「じゅ、13歳!?」
この人の口からは毎回のように思いもよらない言葉ばかりがぽんぽん出てくる。
13歳と言えば、私が友達とキャーキャー言って遊んでいた年頃だ。あの頃の私は、政治になんてこれっぽっちも興味がなかった。
「兄と父が立て続けに他界し、直系である男子が私一人であったために、幼かった私に王位が回って来たのだ。仕方が無い」
「待って。あなた、13歳で王になったの?なれるの?」
「なれるに決まっているだろう。父と兄を亡くして私以外の誰に、ファラオの品格を持つ者がいるというのだ。王家の血筋は絶対なのだぞ」
馬鹿め、と彼は言う。
驚きに埋もれて、反論なんてどこかに吹き飛んでしまう。
「アンケセナーメンは我が父、アクエンアテンの妻でもあった」
思わず、両手を彼の目の前に出して待ったをかけた。
「え、ちょ、ちょっと……意味分かんない」
少し自分を落ち着かせてから、もう一度口を開いてみる。恐る恐る、その褐色の顔を覗いた。
「……アンケセナーメンは、あなたとお父さんが一緒なのよね?ということは、あなたのお父さんの奥さんがアンケセナーメンなら……彼女は自分のお父さんと結婚したことになるんじゃないの?」
彼はまた「呆れた」と声を漏らした。
「もう少し落ち着いて話せないのか、お前は。父と娘など、当たり前のことだろう。王家の理想だ。ちなみに父が亡き後、アンケセナーメンは我が兄、スメンクカーラーの妻にもなったぞ」
もう言葉が出ない。
アンケセナーメンは父親と結婚したものの、他界されて、未亡人になって。兄弟と結婚しても、また未亡人になって。彼の面倒を見つつその年下の彼の妻になるはずだったけれど、その前に死んでしまったってことかしら。
なんて波乱万丈。私ならそんな人生ごめんだわ。カルチャーショックすぎて、頭がだんだん拒否反応を起こし始める。
「まあ、父や兄との間に子が生まれなかったから、結局は私に王位が回って来たのだが。私より年上だった彼女にはよく面倒を見てもらった。王家の品格や意味、国の在り方など、役に立つものばかりだ」
懐かしいというような、穏やかな声を響かせる。
この人、こんな声も出すのね。その遠くを見るような表情を、私は傍で眺めていた。
「夫を失った彼女は、次にファラオとして君臨した私の妻になるはずだった。あれほど威を持ち、王家の誇りに満ちたアンケセナーメンが我が妃となってくれると思うと、未来が明るい気がしていた。まだ13と17の王と王妃だったがな」
若すぎる二人。若すぎる王家。
でも、きっと彼女はとても大人びた女性だったのだろう。こんな彼が、王妃に相応しいと褒め称えるくらいなのだから。
「女として好きだと思ったことはない。しいて言うならば……」
顎に手をやりながら彼は言葉を探る。
「相棒だな」
王家ってそんな感じなのかしら。
まあ、自由に好きな人と一緒になれるわけではないから、そんな関係になるのも仕方がないのかも知れない。男女の愛情で繋がるわけではない。義務的に結婚して、自分の父親や兄弟の子供を産んで終わってしまう。それがこの時代の普通なのだ。
そうと頭では理解しても、やっぱり寂しいと思うし、第一受け入れられない。それが現代人の私の感覚だ。
「よく面倒を見、私に多くのことを教え諭してくれたアンケセナーメンは私の姉であり、母であり、妻という存在だったのだ」
だから、彼女は彼にとって大切だった。家族3人分の役目を負っていた人だったから。唯一の肉親であったから。
「……しかし、アンケセナーメンは私の妻になる前に病で死んだ」
自信に満ちた目が少し寂しげな光を灯す。淡褐色が陰って、その瞳を褐色に変えた。
「他国への遠征とヒッタイトとの同盟を結ぶのに忙しくてな、婚儀を挙げてやることもできずに終わった。名ばかりの夫婦だった」
また知らない地名だ。同盟と言っているのだから、おそらく外国のことだと思う。政治に邪魔されて、結婚どころじゃなかったということ。
「あの病は……治せなかった」
その人は悔しそうに目を細めた。
「死の病だったって聞いたわ」
治らない病の昔からの総称。日本でも、第二次世界大戦中では結核がそう呼ばれていた。
まあな、と呟き、彼は目を閉じて私の寝台に寝転がる。焦げ茶に近い色の短髪が、白さの中に広がった。目を閉じて、片腕を置いて覆うようにその目元に影を作る。
「原因不明、ファラオの権限など、病の前では無力だった」
私も近くにあった椅子に腰をかける。
少し座りにくい、所々が黄金の装飾のある椅子は、脚の部分がライオンの足に象られている。何か言わなければとも思っても、彼の物悲しい雰囲気が私にそれを躊躇わせた。
「アンケセナーメンは死んだ。約束を交わしたというのにも関わらず。私だけを置いて」
「……約束?」
閉じていた目を、ゆっくりと開け、彼はその淡褐色を覗かせた。その色の中に、今度は黄金が走る。本当に色んな色を宿す瞳だ。
「改革をしようと思っていた。いや、しようか悩んでいたのだ。それに一番最初に賛成してくれたのがアンケセナーメンだった。傍にいてやるから頑張りなさいと……改革を最後まで見届けると、約束した」
固く、と彼は付け加える。
そう言えば、私があの黄金の中を流れて、ここへ辿り着いた時も、「約束を果たすために、戻って来てくれたのか」とこの人は私に言ったのだ。
やっぱり、アンケセナーメンはとても大事な人だった。
恋人じゃないにしても、彼にとって、アンケセナーメンは特別な人だった。その悲しそうな、それでいて懐かしそうな声がそう物語っている。
「……駄目だ」
急に、絞り出すような声が宙を横切った。苛立ちが混じっているようにも感じる。
「駄目?何が?」
頭を両手で抱えるようにして、彼はごろりと向きを変える。
「お前といると、アンケセナーメンのことばかり思い出す。いらぬことまで話してしまう」
部屋の静けさが、形の良い唇から落ちるその声を反響させる。
そんなこと言われても、どうしようもない。
「忘れろ」
「……は?」
間の抜けた声を漏らした一瞬、彼はこちらに目を向けた。
「今話したことはすべて忘れろと言っている。アンケセナーメンではないお前には、改革のことも、約束も、関係のない話だ」
そのまま、猫のように転がって、再び私に背中を向けてしまう。さっきより、その背中が何だか小さい。
「未来の民であるお前には関係ない」
そう。私には関係ない。
彼の小さな頃の話も、改革のことも、アンケセナーメンのことも。
王家の事情も。
3000年後に生まれる私には関係ない。
でも、向けられたその褐色の背中が私の中に切なさを生み付ける。
この時代に落とされて、私の立場を分かってくれるのはあなただけなのに。頼ることができるのは、あなたしかいないのに。それなのに、あなたは私のことを未来の民だからと言って、本物のアンケセナーメンではないからと言って、追いやってしまう。
それが私には居場所がないのだという事実を突きつける。
私は独り。この時代で、私は孤独。
未来から来た私に手を差し伸べてくれる人も、この悲しみを分かってくれる人も、ここにはいないのだと、どこにもやり切れない想いに沈んだ。
──帰りたい。
「ファラオ」
セテムの声が扉の外から聞こえた。あの人の声は静かでありながら、時に矢のように周りに存在感を貫く時がある。
「入れ」
身体を起こすことなく、切なさなどない、いつもの威を持った声色で、ファラオの彼が命じた。
「失礼いたします」
命令を受けたセテムは誰かもう一人と共に扉から入って来た。
セテムより頭一個分大きい人が、私の方をじっと見ている。面長で、彼や私より年上、「お兄さん」的な雰囲気を持つ初めて見る人だ。真っ黒な短髪だけど、面白いくらいくるんくるんしている可愛らしい癖っ毛。そのまま丸い目がぼろりと零れてしまうのではと思うくらいに目を見開くと、突然にっと笑った。
「……カーメス、帰ったのか」
カーメス。
彼の声の後追って小さく繰り返してみる。
「ファラオ!我が敬愛するファラオ!!このカーメス、只今我が首都に舞い戻りましたっ!」
素早く、私の寝台に横たわる彼の傍に走り寄り、跪いた。
「ご苦労」
「はい!頑張りましたっ!」
いきなり弾けるような音が部屋中に響き渡ったと思ったら、ぴょんと飛んで今度は私の前に跪いた。驚く私の開いた手を、すばやく握る。
「ああ!アンケセナーメン様!我が主!我が国の誇り!我が光!賢く美しき我がエジプトの女神!そしてそして我が敬愛する……」
まるでマシンガンで撃たれるように、言葉がめまぐるしく私に向かって飛んできた。
目が点になってしまう。
「ああ!なんと素晴らしきことか!なんと偉大なことか!少し背も縮みましたかな?あ、あと御肌の色も御変わりになって、ああ、なんと麗しき尊き御肌!甦りになったと聞き、飛んで帰って参りました!そしてそして……」
「うるさい、やめさせろ」
げんなりしたような彼の声に、セテムが反応し、すぐさま私からその人を離した。
「カーメス!いい加減にしないか!失礼に当たるだろう」
相変わらずセテムは愛想のない声だ。ただいつもより楽しそうな感情が混じっている気がする。
「申し訳ありません、ファラオ。あなた様と姫君にお会いできたことがあまりにも嬉し過ぎたのです。お許しください」
うふふとカーメスという名のその人は首を傾げて笑う。私より年上だろうけれど、可愛らしい、と言う言葉が似合う。
そして再び、少し離れた所でカーメスは頭を下げた。
「アンケセナーメン様、よくぞ、よくぞ、我らが元へお戻りくださいました。記憶を失われていることもセテムから聞いております。いえいえ、記憶などどうでもよいのです」
「は、はあ」
最初は紳士的な雰囲気で話していたのに、どんどん情熱的になっていく。冷血漢なセテムとは正反対だ。
「死の世界を掻い潜り、オシリスの最期の審判を切り抜け、またこの世に帰ってきてくださったことに意義があるのです!!ああ!すごい!ファラオの願いが通じたのですね!凄い!凄いぞ!!だあああっ!すごく嬉しい!」
凄い。そのテンションの高さに、もうついて行けなくる。
ぐおおおおと叫びながら、その人は私たちの目の前で一人、もだえていた。でも、面白い。自然と頬に笑みを浮かべてしまう。
「相変わらずだな」
「ですね」
彼とセテムは苦笑い。
セテムも笑うのね、とその顔をじっと見つめていたけれど、私の視線に気づくとすぐに顔を逸らされてしまった。
「アンケセナーメン、その者はカーメス。我がエジプト将軍の片方だ」
彼は身体を起こして、笑いながら私に紹介してくれた。
「将軍!?」
このテンションの高い人が。てっきり将軍とはもっと堅物で、おじさんがやるものかと思っていた。
「今まで私の命でここを離れていた者だ」
「はい!将軍、カーメス、只今テーベ視察から帰りました!!」
またぴょんと飛んで、姿勢を正す。
テーベ。私が消えたルクソールの呼び名。
そう言えばこの前、彼は首都をテーベに移すと話していたけれど、それ関連かしら。
「よし、」
彼は勢いをつけて、寝台から立ち上がった。ファラオとしての威厳を持って、二人を見やる。
「ではそれについて議会を開くとする。セテム、皆を集めよ」
「はっ」
セテムは頭を下げ、失礼しますとその部屋を出て行った。
「カーメス、お前は持って来た情報を、その小さな頭でまとめておけ」
「はい!頑張ります!」
カーメスというその人も、跳ねるようにして去って行った。
本当に不思議な人だ。あの彼が将軍という役職を与えているのだから、カーメスも優秀な人材なのだと思う。そして明るい。さっきまでのしんみりとした空気がどこかへ吹っ飛んでしまった。
彼も出て行くのだろうと思って、私も椅子から腰を浮かす。見送らないと、また不機嫌になるから。
「ヒロコ、」
呼ばれた瞬間、ぐいと抱き寄せられた。また私の腰を絡め取るように腕を回すから、そこを中心にざわざわと悪寒が走る。
「ちょ、ちょっと!やめて!」
熱の走る顔を隠しながら、相手の胸を押しやる。それでもびくともしないのは、いつのものことだった。
何で、いつもこう強引に引き寄せるのかしら。
「まだ、私に惚れぬのか」
そう言って、私の顎を長い指でなぞる。
「やめて!惚れるはずないでしょ!」
「抱いて欲しければいつでも言え」
「な、何言って…」
目の前に顔が迫ってもっと慌ててしまう。にっと笑った顔が、色気を漂わせるから堪ったものじゃない。
「や、やめて!!」
もう何回、身の危険を感じたか分からない。必死にもがく私に、冗談だと彼はくつくつと笑った。
「ちょっと、離し…」
「冗談だ。近いうちに、本物のアンケセナーメンを見に行くぞ。覚悟を決めておけ」
え?と聞き返した時には、すでに手は離れ、彼はそのまま扉に向かっていた。
ぱたんと扉が閉まって、私一人が静けさの中に取り残された。
さっきまでカーメスの明るさのおかげで盛り上がっていたものだから、世界が一瞬にして変わってしまった錯覚に陥る。
本物の、アンケセナーメン。彼はそう言った。
言われた意味がちゃんと掴めていない。いつものことながら、いきなり理解しがたいことを言うから、その度に四苦八苦してしまう。
椅子の上に置いていたショルダーを胸に抱いて、何気なく携帯を取り出した。
電源を付けて、不在着信やメールが来ていないかを確認する。それが最近の癖になってしまった。
一人になると無意識にやってしまうこと。確認しても意味がないことは分かっているのに、何度も繰り返してしまう。
もう、充電が切れそう。画面を見られるのもこれが最後かも知れない。これがもし、全部切れてしまったら。そう考えたら恐ろしくて、慌てて電源を消して、ショルダーの小さなポケットにしまった。
もう一度、荷物を抱き直し、一人になった部屋の中で寝台に座り、改めて考えを巡らせる。携帯の事を考えていたら、また悲しみに埋もれてしまうから。
確かにアンケセナーメンを見に行くと彼は言った。覚悟を決めておけとも。
本物の彼女はもう死んでしまっているのに。彼女は死んだ人なのに、どうやって──。
そこではっとする。思わずごくりと唾を飲んだ。
「……ミイラ」
アンケセナーメンのミイラが、おそらく残っている。ここは古代なのだから、ミイラにすることは当然だろう。
罪人以外のすべての遺体をミイラにしたのが、古代エジプト最大の特徴。彼女の遺体は、存在する。
それに彼女は王族。遺体はこの上ないほど綺麗にミイラにされているはず。
私の瓜二つの人の遺体。近いうちに、私はその遺体と対面する。
彼の姉であり、母であり、妻ともなった、誇り高き、王家の姫君に。
恐怖に似たものがある中、好奇心のような、区別できない感情が私の胸に蠢いていた。
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