1章 黄金と茶色 

Prologue

「はい、今日の講義はこれで終わり。次の試験は大事よ!単位は落とさないようにね!」


 その甲高い言葉で、今日最後の授業が終わる。

 先生が言い終える前に教科書を閉じる音がぱらぱらと聞こえ始め、言い終えた瞬間にすでに立ちあがって真っ先に教室を出ていく同じ学部生の姿があった。

 アラビア語に混じって英語も聞こえる。考古学科に行けば、もっと沢山の言語が聞こえるのだろうとぼんやりと考えた。


 ふうと息をついて手元にある教科書の脳の血管に視線を落とす。

 今日の内容は脳から頸部にかけての血管、主にウィリス動脈輪について。このあたりの血管はぐじゃぐじゃして入り組んで、それも一つ一つに細かく名前があり、その名前もまた似ているからややこしい。


 試験のことを思いながら溜息をつき、ふと窓の外に視線を流せば、焼きつける太陽光が目についた。──45度くらいだろうか。今日も暑そうだ。


「ヒロコ!……ヒロコ!!」


 弾けるような声に顔を上げると、てっきり教室を出て行ったと思っていた先生が教壇から私に手招きしていた。教科書とノートを閉じて呼ばれた方へ向かうと、心配そうな顔がぐっと近づいて思わず仰け反る。


「ヒロコ、聞いたわよ。日本に帰るんですって?」


 驚愕を浮かべた褐色の顔が更に近づいた。


「いえ、それは父と母だけなんです。私は残ることになってて」


 工藤弘子くどうひろこ。それが私の名前。

 医学を学び始めて数ヶ月。あと少しで17歳。


「父の博物館での任期が一旦切れるので、一度日本に帰ることになったんです」


 父が博物館の学芸員兼研究員としてエジプトのカイロ博物館に勤めることになって、6歳の頃から家族と一緒にこのエジプトの首都カイロで暮らしている。

 日本とは違い、飛び級制度があるエジプトで、ひょいひょい飛んで大学に通っていた。ここではそれほど珍しいことでもない。それよりも珍しいのは私が東洋人、それも日本人だということだ。この大学にも多くの国籍の学生が通っているが、それでも東洋人は少数だった。だから良い意味でも悪い意味でも目立ってしまう。


「あら、そうだったのね。日本じゃ、あなたの年では大学入れないんでしょう?飛び級制度無いものねえ。どうするのかしらって心配したのよ」


 先生は小首を傾げて微笑む。


「私だけ寮に入って、エジプトに残る予定でいるので大丈夫です。両親も一時帰国するだけで、日本に戻るのは1年間だけなんです。父もエジプトでの研究を続けたいって言っていましたし」


 少し笑って見せた。


「安心したわ。このまま頑張るのよ。あなたには期待しているのだから」

「ありがとうございます」


 先生が去って行くのを見てから、荷物を詰めた鞄を持って歩き出した。


「弘子、お疲れ!」


 机から離れた頃、次に呼びかけてきたのは同じ学部のメアリーだった。

 家がキリスト教のため欧米風の名前を持っているだけで、心も外見もれっきとしたエジプト人だ。いつも一緒にいる、エジプトに来て以来の親友でもある。そのおかげか『弘子』の発音に不自然さがない。


「さっきの授業で頭パンパンよ!名前はまだいいとして血管ひとつひとつに略称があるのも面倒。溜息しかでないわ」

「覚えると思うと気が遠くなっちゃう」


 もう嫌だと、笑ってみせる彼女に、わざとらしく肩を竦めて見せたら、だよね、と返ってくる。


「あれって全部覚えなくちゃいけないのよねえ」

「残念ながら」


  二人で途方に暮れてしまう。教科書にある、あんな蜘蛛の巣みたいな血管を略称も含め全部覚えなくてはならないとなると、どっと疲れのようなものがのしかかってきた。


「ま、これくらいのことで弱音も吐いていられないんだよねえ。まだ初歩の初歩だもの」


 しぶしぶと受け入れるようにメアリーは何度が小さく頷いた。それに対して私はぼんやりと「そうだね」と返事をした。


 私は、自分が本当に医者になりたいのか正直分かっていない。知り合いも医学の研究をしているし、人のためになれる仕事だからということで親の勧めもあってこの学問にしたものの、彼女のように本気で目指している人を見ていると、自分の浅はかな考えが申し訳ないように感じる。


「でも弘子が残ってくれるの、私すごくうれしいよ。日本に帰るって聞いた時、どうしようって心配してたの」


 メアリーは丸い目を私に向け、顔をくにゃりと崩して笑った。


「私、弘子と一緒に医師になりたいって思ってるんだから。職場も一緒だったらいいなって」


 素直で明るくて、とても綺麗。そんな彼女の笑顔は何より私をほっとさせる。


「ずっと一緒だったんだもの、今更離れる想像もできないわ」

「よし、医師になって一緒に世界を回ろう。国境なき医師団とかいいよね」

「いいね、是非お供しましょう」


 日課のような冗談を交わしていた時、私のポケットから軽やかな呼び出し音が響き出した。


「弘子、携帯鳴ってる」


 携帯を取り出すと、父の名が表示されていた。


「お父さんだ」


 どうしたのだろう、と首を傾げつつ、通話ボタンを押して耳に当ててみる。


「もしもし、お父さん?」

『あ、弘子か?今、学校?』


 聞きなれた父の声は、何か切羽詰っているように感じられた。


「うん、そう、学校。授業が終わって帰るところ」


 ちょっと、嫌な予感がする。


『まっすぐ博物館まで来てくれないか?荷物をまとめるの、手伝ってほしいんだ』


 ――ああ、やっぱり。


 この暑さの中、あの博物館まで行くと思うとげっそりとしてしまう。今から出れば、博物館に着くのは午後2時ごろ。一日で一番気温の高い時間帯だった。


「お母さんが前もってやっておきなさいって言ってたじゃない。どうせ時間かかるんだからって。やってなかったの?」

『……うん』


 しょんぼりとした声に私も肩を竦めた。きっと、電話の向こうの父も同じように肩を落としているのだろう。


『弘子、頼むよ。父さんとはもうしばらく会えなくなるんだから、少しくらい親孝行してくれよ』


 全くもう。


「仕方ないなあ。わかりました、あなたの可愛い一人娘が今から向かって差し上げます」


 一人娘の私を大切にしてくれているのは嫌というほど分かっている。これから随分と長い時間離れ離れになるのだから、今の内に親孝行はしておきたいという気持ちもあった。


『良かった、本当にありがとう!じゃあ、冷たいもの用意して待ってるよ!水でいいな!それしかない!』

「はいはい、じゃあ後でね」


 ため息をついて電話を切った。


「これから博物館?」


 メアリーが私の顔を覗いて首をかしげている。


「うん、すっごく面倒なことに巻き込まれそう。メアリーは先帰ってていいよ」

「手伝いに行こうか?」

「ううん、大丈夫。私とお父さんがいればすぐに片付くだろうから。メアリー君は試験勉強でもしたまえ」


 少しふざけて笑ってみる。


「うん、じゃあ、そうさせていただくよ、弘子君」


 ふざけて彼女も変な口調で答えた。


「じゃあ、明日ね」

「うん、明日」


 手を振って、彼女の後姿を見送った。

 私も学校の屋根からゆっくりと太陽の下に足を踏み出す。今日も陽光は変わらず強い。

 はあ、息をついて、鞄を頭に乗せて陽を遮りながら、暑い灼熱太陽の下を走り出した。


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