ラルゴ

札幌埴輪太郎

ラルゴ

 とかく日々が流れるのは早いもので。しかしながら代わり映えのしない毎日で。私はカーテンの隙間から差す陽光に照らされて朝を知った。

 齢四十の体は重く感じるが、これもまた、いつも通りの朝だ。昨日も目まぐるしく日が昇り日が落ち、月もまた同じように目まぐるしく動いていたはずなのだが、その動きの早さとは不釣り合いな、飽きがくるほど日常的な眠気と怠さを朝陽が運んできている。

 ぼさっとしたまま洗面所で顔を洗い、歯を磨き、居間へ向かう。居間では一足先に起きていた妻が朝食を用意してくれていたらしく、程よく焦げたパンとバターの香りで満ちていた。

「おはよう」

「はい、おはよう」

 またいつも通り、短い挨拶を交わしながら、私は食卓に着き、妻と対面する。

 朝食はトーストに目玉焼き、サラダ……。結婚して一年経つか経たないか、という頃は毎朝必ず違う品目だったが、二年目から十二年目になる今年まで、この三品が週五回は出てくる。作ってもらっているのだから文句はないが、静かな食卓で食むパンはどうにも味気がないというは思う。けれどそれもまたいつも通り、と言える。

 今日はやけにいつも通りが目立つ日だ。昨日と同じ今日が来て、きっと今日と同じ明日が来て、このまま先細りに老いて、やがては死んでいくのだろうか。ふつと、そんな事が脳裏に浮かんでしまう。

「あなた、どうしたの? いつもよりぼけっとしちゃって」

「風邪でも引いちゃった?」と私の顔を覗き込む妻に、ぽつりとつぶやく。

「いや、何か。毎日毎日変わらないなって思ったんだ」

「……朝ごはん、作るの結構大変なのよ?」

 無神経だった。流石にトーストをほおばりながらそんなことを言えば、そういった意味に捉えられるに決まっている。私はあわてて口の中で弄んでいたパンを数度噛み、飲み込んでから弁明をはかる。

「別に朝食に文句があるわけじゃないさ。けど、毎日朝起きて、朝食を食べて、会社に行って、帰ってきて、眠って……また朝に起きて。繰り返してばっかりだなってぼんやり考えてただけだよ」

「何か変わったことをしたいの?」

 そういわれると、どうなのだろうか。変わらないな、とは思っていたが、変わって欲しい、とは思っていなかったような気もする。しかし、変わらない毎日に「飽き」のようなものは感じたと思う。それなら、本心では変化を望んでいるのかもしれない……?

 曖昧に思っていただけの事なので結論もまたぼやけている。私は煮え切らない頷きを返答として妻に送った。

「じゃあ、ちょっと変わったことしてみよっか」

 私の煮え切らない解答に対して、妻の返事はすぱりと明快だった。とはいえ。

「変わったことって言っても、何をするんだ?」

「そうねぇ……例えば」

 数秒思案した後、妻はぴっと人差し指を立てながら真面目な顔で提案する。

「会社に蝶ネクタイでもしていきましょうか! 赤い、子供用の」

「あるのか? うちに」

「あるわよ? 私が子供の頃使っていたやつ」

 あるのか。妻の物持ちの良さに少し驚くが。いやそうじゃない。

「俺の首が締まってろくに仕事ができなくなりそうだ、止めておく」

「いつもできた仕事ができなくなるのも変化と呼べるんじゃないかしら」

「どちらかというとそれは悪化だな。他の案にしよう」

 別に深く会話するつもりは無かったのだが、流れに任せて思わず、「他の案」などと言ってしまった。それを受けて妻はまた数秒考え、また真面目な顔で。

「今日、雨は降らないらしいわ」

「そうだろうな。朝日を遮る雲も見当たらない」

「だから傘を持って会社に行きましょう」

「それは変化っていうのか?」

「……そうね、これじゃ単純に雨降りに備えている人だわ」

 間違いなく晴れの日に雨に備えるというのはあまりしたことはない。確かに変化と言えば変化かもしれないが、どこか無駄な気がする。

 そんな事を思っていると、今度は二秒ほどで妻は口を開く。

「じゃあ大根を持って会社に行きましょう」

「それは単純に『変』なだけだな……」

 じゃあの意味が全く分からなかったが、脈絡の無さは図抜けていると思った。しかし、これも「いつもどおり」ではないにせよ、何か求めている変化とは違う気がする。

 そんな突飛な事を次々言い出すものだから、次もまた妙なことを言い出すのでは、と思ったが。

「ええ? それならたまには私にプレゼントでも買ってくるとか?」

 妻は思ったよりもまともな提案をした。いや、ここまで真面目な顔であんな提案をしていたのがおかしかったのだが。

「プレゼントか。どんな品がいい?」

「プレゼントって事前に何をくれるか教えないものじゃないの?」

「ええ、でもあんまり要らない物を寄越されても嫌だろ? だからさ」

「それなら……そう、玉ねぎが切れたから四玉買ってきてほしいわ」

 それはただのお使いではないだろうか。けれど一応。

「……わかった。帰りに買っておこう」

「助かるわ、玉ねぎだけ買うのにわざわざ出かけるのも面倒だったから」

 その時。言いながらにこやかに、目元に皺を浮かべ笑う妻に何か「違うもの」を感じた。まだ少し眠気が残っていた目が自然と大きく開く。

「……ん? どうしたの?」

「い、いや。別に。他に何か変わったことはしないのかな、と」

 再度口を開くころには、その「違うもの」の影は見当たらなかった。瞬きを数度しても、ここの十二年毎日見てきた妻だ。変わりはどこにもない。

「ううん、なら逆に聞くけれど。あなたの言う変わったことってどんなこと? 単に突飛な事をするっていう訳でもなさそうだし」

「それは……なんて言ったらいいんだろうか。何だか最近は毎日が滑らかに進み過ぎている気がして……」

 具体的な言葉で言わなくては、とは思うが、先ほどまでただぼんやりとだけ思っていたことだ。いざ説明するとなると中々言葉が出てこない。

 妻が突飛な提案をするより何倍も時間をかけて、ようやく私の頭の中でこういったものかもしれない、という説明がある程度まとまる。沈黙した時間を巻き返すように少し早口で言葉が飛び出た。

「子供の時、一月ごとにどれだけ身長が伸びたか、とか。柱に線を引いて比べたりしなかったか? ああいう、小刻みに成長している実感を得られる物というか、そんなものが」

「成長かぁ……もう一回成長期が来ないことにはねぇ」

「あくまでそれと似たような事、似たような体験ができるならいいんだ」

 私の言葉に、再度妻は思案顔になる。会話の隙間に食を進めようとフォークを動かせば、かちゃ、という音がいつも通りの音量で響いた。そのフォークで目玉焼きを刺して、口元に運び、咀嚼。頭蓋に反響する咀嚼音まで昨日と同じ気がしてくる。

「私たち、もう成長はしないけれど、老いていけば身長は縮むわよね」

「ん」

 飲み込みながらの返事だったため、気の抜けた声になってしまう。それを特に気にすることもなく、妻は勢いよく言った。

「一月にどれだけ背丈が縮んだか、柱に記録しましょう!」

「何か行き先が暗いなそれ……そもそも一月あたりの変化も少ないだろうさ」

「じゃあ一月ごとの体重にしておく?」

「生活習慣病には十分気を付けるよ……」

 中々のブラックジョークだ。思わず苦い顔になる私とは逆に、妻はくすくすと笑っていた。やはり、その笑みはどこか、何か違う気がする。その煮え切らない違和感が胃の奥でもやもやと広がっているように感じた。

「ねえ、あなた」

 まだうっすらと笑みを浮かべた妻が、穏やかな声で告げる。

「私は、いつもと違うなって、今日思ったわ」

「それは、どういう――」

「さ、早く食べないと会社遅れちゃうわよ。急いで急いで!」

 訊き返せば、快活な調子で食事を急かされてしまい、解答はぼかされてしまった。けれど、確かに妻の言う通り、もういつもなら家を出る時間になっていた。私は急いで口を動かし、食卓を片付けていく。黙々と食を進める中、やはりいつも通り音量で食器が鳴った。

 そうして全ての食事を飲み込み、私はさっさと家を出て見慣れた道を歩き、会社へ向かうのだった。



 朝もいつも通り。会社でもいつも通り。帰り道もいつも通り。しいて言えば、帰りに約束通り商店街で玉ねぎを買いに行ったことが違うくらいだろうか。

「いらっしゃい! おっと、今日は旦那さんかい、珍しいね!」

「ははは、妻にお使いを頼まれてしまって。子供に戻った気分ですよ」

 何年も贔屓にしている八百屋だったため、店主に顔を憶えられていたようだ。とはいっても、妻と二人でよく来ていたのはもう八年ほど前、仕事が忙しくなった今では妻一人が通っている状態だった。

 つつがなく玉ねぎ四玉の会計を済ませ、袋に詰める傍ら、店主は言う。

「いやぁ、でも本当に久しぶりで。ちょっと老けたかい? なんて、失礼か!」

 がはは、と豪快に笑う店主に釣られて、私も笑む。別に悪い気はしなかった。八年も経ったのだ、私だって老けるに決まっている。

 ……私だって?

「毎度! 奥さんによろしく言っといてくださいな!」

 威勢のいい店主の声に私は会釈だけをして、朝の事を思い返す。そして、急ぎ足で家に向かう。

 私が妻に感じた違和感。その正体は「皺」だ。

 元々笑顔を浮かべたときにできる目元の皺が可愛らしかったが、今日見た笑顔には深い深い皺が刻まれていた。

「……俺だって老けたんだ」

 妻も老けたに決まっている。けれど、それだけじゃない。その経年による笑顔の変化に気付くことができなかったのは、この何年も妻の笑顔を見ていなかったからだ。

 食卓に沈黙が降りた時に「いつも通り」の食器の音が響いたのは、「いつも通り」の食卓には会話が無かったからだ。

 普段は無言で食べ終えてしまう食事に、今日は会話があったから、いつもより家を出る時間が遅れた。

 妻の言う「いつもと違う」事とは、朝食時に会話があった事だったのだ。

 緩やかに老けて、緩やかに会話も無くなり、緩やかに笑顔も無くなった。私はそれを「いつも通り」として生きていたのだった。

 その緩やかで大きな変化に、私は気付けなかったのだ。



 家に帰って、ただいま、おかえりなさい、という短い会話のあと。私は妻の居る台所へ向かった。

「これ、朝頼まれたお使い」

「あら、ありがとう! 割と冗談だったんだけど、助かるわ」

「冗談だったのか……」

 けれど、骨折り損とは思わない。私はもう一度口を開く。

「あのな、今日……」

 何か、話をしよう。いつもと違うことをしよう。しなくてはならない。そう思う度に、言葉は詰まり、文章は脳内で霧散していく。一筋、ひやりと冷や汗が垂れたところで。

「あなた」

 妻は、昔と比べて深くなった皺を刻みながら笑顔で、優しく言う。

「ゆっくりでいいのよ」

「……ああ」

 先ほど気付いた大きな変化だって、緩やかなものだった。なら、それを修復するのに急な変化を求めたって、結局はぎくしゃくしてして、破綻してしまうのだろう。だから修復もまた、緩やかな変化で良い。

 会話や笑顔の消失が緩やかな変化だったせいで「いつも通り」と感じてしまっていたなら。それらを緩やかに変化させて取り戻していけばいい。そうして、新しい「いつも通り」にしてしまおう。

 今日の夕食は、フォークの音がいつもより少しだけ小さかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ラルゴ 札幌埴輪太郎 @HaniwaSafari

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る