わらい、こだまする静寂

札幌埴輪太郎

わらい、こだまする静寂

 十歳も半ばの少年が自らの母親を「邪魔で口うるさかったから」という理由で、包丁で殺害した。娯楽として与えられた新聞に掲載されたそんな報道を流しで読んでいると、がくりと唐突に身体が揺れた。

 あたりを見回せば、先ほどまでと同じ馬車内の光景だ。しかし、窓の外に見える景色は新聞に視線を落としたときよりも、ずいぶんと違っている。数秒考えてから、どうやら目的地へ向け僕と母を乗せて走っていたこの馬車が動きを止めたようだ、と理解することができた。

『医院に着いたわよ。』

 僕の横に座っていた母が、馬車賃を支払いながら紙にそう書いて教えてくれる。書かれた文字と連動させて、少し笑んだ口元を動かしながら。片手間に筆談するのもずいぶん慣れている様子だ。僕は母のことばにうん、と頷き、やがて支払いを終えた母に手を引かれて車外へと踏み出した。

 僕が生まれ育ったレンガ造りの街並みを抜けて――どれほど馬車が走ったのかは分からないが――車外の風景はずいぶんと青々としたものが広がっていた。空は快晴とまでは言わないまでもそこそこに晴れていて、草花の茂る広い庭では花弁が風と踊っていた。遠くでは駆け回る小さな人影も見える。

 そういった自然を体現したような空間に、ぽつんと角砂糖が並んだような建造物が在る。僕の肩を叩いてから、それを指さして母は文字を書いて、言う。

『あそこの病院の先生が、あなたの耳を治してくれるのよ。』

 僕は先ほどと同じくうん、とだけ頷く。そう、僕の生活はこれからしばらくあの角砂糖の中で送られることとなるのだ。

 この話が出てきたのは二年ほど前だっただろうか。産まれた時から聴力を失っていた僕と、そのまま八年を共に過ごした父と母。僕も両親も文字を読み書きすることで意思疎通を図り、始めは苦労していたらしい僕との生活も何とか慣れてきた、という頃合いだった。

 聴覚の無い状態で一人外へ出るのも危ないので、家に籠って本や新聞を読む日々。そんな折に、父がこの角砂糖のような医院の話を職場で耳にしたのだった。

『腕の良い、学を積んだ医者が居るらしい。』

『彼の手術を受ければ、お前の病気も治せないものじゃないんだ。』

『一度診てもらわないか?』

 そんな風に、夕飯時に嬉しそうに教えてくれたのだった。僕はもちろん笑顔で頷いた。

 沈黙だとか静寂と呼ばれる無音の空間が僕にとっての日常だったけれど、父や母が感じている世界はどのようなものだろうか。雨が降るのは本当に「しとしと」なのだろうか。涙を流すのは本当に「しくしく」なのだろうか。太陽の光は「さんさん」と音を立てているのだろうか。それらは僕にとって疑念の余地がある物だったから、その真相を確かめたくもあって、僕は父の提案に乗った。

 それから実際に医院へ向かうまでに二年かかったのは、費用の貯蓄のためだ。父はこれまで以上に気合を入れて働き、母も家事の合間を縫って、手編みものを作って売っていた。少しでも両親が楽になるように何か手伝おうと思っても、僕が一人で動くのはどうしても危険が伴うので、『耳が治ったらいっぱい親孝行してもらうからね』と保留を喰らったものだった。

 歯がゆくも感じていたが、それから二年、十歳になった僕はようやく今こうして、医院の前に立っている。あの角砂糖の中に入って、治療を受けて、入院をして。そうすれば僕はやっと知らない世界を知ることができるし、今まで迷惑をかけてしまった両親に恩返しできる。そう思うと嬉しくなってきて、頬を撫でる風につられるように口角が自然と上がる。

『病院には同じ年ごろの子も多いみたいだから、友だちができるといいわね』

 母は笑みを浮かべながらそう書いてから、僕の手を引いて、背の高い青草が壁のように両脇に伸びている医院への道を歩くのだった。時折細長い葉がたわみ、肌に触れてこそばゆい。が、それは久々に屋外に出られたという感覚を一層強めた。

 少し歩けば、白い医院はもう目前になる。今更躊躇することもなく、むしろ無かったはずの聴覚が戻る期待を目一杯含めて母は医院の戸を開く。医院の中は外観よりも広く、白を基調とした空間にコバルトのソファが幾つもある、いかにも病院の待合室という風貌だった。

 母は受け付けで手続きを済ませてからこちらに戻ってきて、再び僕の手を引いてコバルトのソファに就く。待合室には窓が少ししかなく、天井から下がる照明や壁に付けられたランプが足元や頭上を照らしており、どこか夜の街に似た落ち着いた雰囲気を醸し出していた。

 その落ち着いた雰囲気の中では、遠くに見える窓の外で駆けまわる人影が一層眩しく見える。影しか見えないので年齢は解らない。けれど、先ほどの母のことばからすると、この夜のような空間の外に居る彼らは、僕と似た年ごろなのかもしれない。

 これまでなかなか外に出る機会もなかった、だから同世代の人間と触れ合うこともなかったのだが……僕も、彼らと同じように外を駆け回ることができるのだろうか。母や父以外の人はどんな事を考えているのだろうか。どんな風に物事を捉えるのだろうか。そんな風に好奇心を躍らせていると、安息にも似た仄暗さが包むこの待合室より、あの窓の外の風景の方に心が惹かれていく。自分も、彼らと同じく外の世界を感じ、彼らと同じく外の世界を駆け回りたい。そんな風に思った。

 そうやって明るい世界に思いを馳せながらも、しばらく経てば僕はまた母に手を引かれて、今度は診察室へ赴く。問診表に記述したり、どんな意味があるのかさっぱりわからない診察を受けた後に、話はもちろん聞き取れないが何か医者が一言母に話すと、母の表情は明るいものに変わる。きっと僕の病に関するいい知らせなのだろう。少なくとも悪くはないであろう空気に僕も少し浮ついた気分になったまま、診察は終わった。

『入院して、今日から四日後には手術ができるそうよ。』

『手術を終えたら、段々と耳が聞こえる状態を慣らしていくらしいわ。』

『それが終わったら、退院してまたあの街で暮らせるわよ。』

 診察の後も色々な手続きや病床の準備に時間がかかり、母と二人で話すのは夕方になってしまった。ベッドで横になる僕に、母は嬉々として先ほど医者から聞いた話を口を動かしながら紙に書いて「聞かせて」くれた。どうやら僕達の住んでいた街が遅れていただけで、最先端の医学分野ではそう治すに難くない病だったそうだ。

 僕はずっと無音の世界に居るので感覚が解らなかったが、母は僕が音のある世界へ立つことができるのがよほど嬉しかったのか、話の終わりの方では涙まで浮かべていた。それを見て一層、僕にとっての非日常である音のある世界へ興味が湧いてきた。

 そうやって母は僕に必要な情報を伝え、病室を後にした。母もずっとこちらに居るわけにもいかないし、馬車賃だって馬鹿にはならない。今日は一度街へ帰って、次は手術の日にこちらへ来るそうだ。嬉しそうではあるけれど、僕をひとりだけ残すことは少し不安なようだった母に小さく手を振って別れを告げ、僕は生まれて初めて一人の部屋というものに寝そべった。


 翌日から始まった病院での日々は、さほど苦労はしなかった。字は読めるが書けない僕を思って母が指示してくれたらしく、医者をはじめとした病院の職員の方々は紙に字を書いて僕に意志を表示してくれたし、その問いかけも「はい」か「いいえ」、つまりは首を縦に振るか横に振るかで答えられる簡潔な物だった……ので、「苦労しなかった」ではなく「周りに苦労をかけた」が正確かもしれない。

 しかし、仮にコミュニケーションにおいて「苦労をかけた」のだとしても、医院内の移動に関して、こちらは苦労しなかった、と言っても良いだろう。院内の廊下は区画整備がしっかり施されており、右側通行、曲がり角の鏡。歩きまわる患者もそこそこ居たが、それらのおかげで聴覚がなくとも、視覚で衝突を回避することができたのだ。

 そうして、入院一日目にして、わりと自由に医院内を歩くことができると知った僕は、嬉しくなって一人で色々なところで出向こうとした。並ぶ病室も、薄暗い廊下も、窓から差す光も、そう珍しくはない光景だとは思うが、母に手を引かれていない、自らの脚でその風景の中を歩むことが楽しかったのだ。

 街には人も馬車も多く通っていたから、安全のためにずっと手を引かれていた。今までは何ら疑問も抱かなかったが、今では僕の手を引いていた母の手が一種、手綱のようなものだったようにすら思える。僕は手術で聴覚が戻る事よりも先に、初めて自分の脚で路を歩める自由のようなものに心躍らせていた。

 ……しかし、少し調子に乗り過ぎたようだ。一日に何時間も自由時間を取れるわけではないので、せめて時間内に目一杯歩くことのできる場所を回ろうと思い、手当たり次第に病院を徘徊する二日目。僕は院内で、自分の病室への戻り方がわからなくなった……つまりは、迷子になったのだった。

 見知らぬ場所で帰り道を見失うと、途端に不安が押し寄せてくる。並ぶ病室からは刃物を持った狂人が飛び出てくるかもしれないし、薄暗い廊下は異界に続いているかもしれないし、窓の外の光景は絵画でここは密室なのかもしれない。先ほどまで普通に見えた風景をそんな風に捉えてしまう。僕はどうにか帰り道を見つけようと、不安を抑えて確かに自分がここに在ることを確かめるように、壁に手を這わせながら一歩一歩、歩んでいく。すると。

「――――」

「――。――――、――」

「……――。――。―――」

 何か話している、自分と同じくらい……十歳前後の少年が三人、薄暗い廊下を照らすランプの下で談笑していた。音声など聞こえはしないが、弛緩した表情や口の動きから、その会話は急かず、しかし落ち着いてもいない、楽し気な物だと察することができる。

 再び僕が一歩踏み出すとその三人の、六つの目が一斉にこちらを向いた。その動きがあまりにそろっていて話の邪魔をしたような気分になったもので、僕は何だか泥棒のような気持ちになって焦り、しりもちをついた。

「―――?」

 少年の一人、くせ毛を持つ人がきょとんとして、こちらを見て何かを言う。他の二人も同様だ。僕に向かって何か問いかけているようだが、何を言っているのか解らない。首を縦か横に振る問題なのかも、解らない。

「――。―――――」

「―――……――」

 見慣れぬ景色、知らない人、解らない音、その全てが僕の心拍を早めていくが、それでも考える。向こうは少なくともこちらに敵意はないようで、どうしてここに居るのか、何をしているのかを尋ねているのだろうか。ならば、何とかして自分が何者であるか、また部屋に戻りたいが迷ってしまったことを伝えなくては。でも、どうやって。

「―――、――――――――」

 奥で腕を組む短髪の少年を見てはっと気づく。そうだ、彼が今震わせている器官と同じもの……喉をきちんと僕も持っているじゃないか。なら、自分が音を聞くことがかなわないとしても、相手に音を伝えることは出来るはずだ。僕は母の口の動かし方を真似して、喉に手を当てながら短く伝える。

 迷った。部屋。戻りたい。吐く息に合わせて声帯が震え、思ったことが音になるのを感じた。

「―――!」

 それを聞いて、少しの間のあと、三人の顔はぱっと笑みに変わる。にこにこしながら、三人は何やら話した後に、最初に僕に声をかけたくせ毛の少年が、未だしりもちをついたままだった僕の手を取り起こし、また僕を引っ張りながら廊下を歩いた。

 どこに連れていかれるのかと冷や冷やしたが、歩く次第に見たことのある場所に変わっていく。そして、最後は僕の病室についた。向こうは僕の事を知っていたのだろうか?

 部屋についてから三人の少年にぺこりと礼をすると、眼鏡をかけた少年が僕の部屋にそなえてある筆談具を手に、ささ、と文字を書く。

『先生や看護師さんから聞いていたよ。同じ年ごろの、耳が不自由な子が来るって。』

『さっき話しかけた時の様子からもしかしてと思っていたけれど、当人でよかった。』

『間違った病室に連れて行っていたら申し訳ないからね。』

 なるほど、病院の人から事前に聞いていたのか。詳しい説明をせずともこちらの事情を知っていてくれたようで、しかも部屋まで連れて行ってくれて。謝意を込めて僕はもう一度礼をした。

 礼から顔を上げると、今度はくせ毛の少年が眼鏡の少年から筆記具を奪い取り、何か文字を書く。

『せっかくだから、ちょっと喋っていこうぜ。一人部屋で退屈だろ?』

 その言葉に僕は少し驚いた。人とあまり交流が出来ていなかったために、こんな提案をされたのは初めてだ。けれど。

 僕。何。話す。わからない。咄嗟に流暢な文章が出てこず、短い単語の羅列になってしまう。それを聞いて、くせ毛の少年はわらいながら書く。

『じゃあ喋る練習って言うのはどうだ?』

『俺はお前と話すの、面白いからさ。』


 その日から、自分の病室で彼らと話すようになった。

 話すようになったと言っても、内容は彼らが書いた言葉を僕が読み上げる、というものだ。そうすればきちんとまとまった文章で話せるようになると言われ、今後聴力が戻れば人と会話することもあるだろうと、彼らの厚意を僕は受け取ることにしたのだった。

 僕のためにしてくれている事のようだが、僕が声を発すれば、彼らは楽しそうに笑った。世話になってばかりだと思っていたが、向こうも楽しそうなら、気を負わずに済む。僕も彼らのわらいに釣られるように、珍しく笑っていた。口角が上がれば、目尻が下がれば、自然と幸せな気持ちになれた。

 そうして初めの数日が過ぎ、いよいよ手術の前になって再び医院を訪れた母に友達が出来たと言えば、母もまた笑ってくれた。しかし僕はそこで母の笑みに違和感を感じた。見慣れた、もう十年は見ているであろうそれは、どうにもあの三人の少年の笑いとは違うようだった。

 何が違うか、その正体にたどり着けないまま手術当日となり、麻酔で眠っているうちに全て事は済んでいて、目まぐるしく身辺は変化していく。

「本当に、本当によかったわ……」

 手術後、目を覚ましてからは医者や看護師の声、周囲の計器の駆動音などの音も混ざっていたため、あまりの情報量の多さに脳が破裂しそうだったが、術後の体調の確認を終え、ようやく母と二人になって初めて、自分の親の声というものを認識した。何も知らない、声だけが他人のような妙な気分で僕は涙を流す母を見ていた。

 聴覚を得てからは世界が変わって見えた。病室は計器や開いた窓から吹く風の音、自分が動くたびに布がこすれベッドが軋む。廊下は声や足音であふれていて立っているだけでどっと疲れた。

「よう、手術成功したってな!」

 そういうわけで、せめて最小限の音量の中で生活できる病室に籠りがちになっていたが、術後三日もしたころに面会も解禁され、あの三人組の少年がやってきた。言葉……音声の意味は解らない、けれどどこか嬉しそうに僕に声をかけてくれたので、術後初めて声を出して僕も挨拶をしようとする。こんにちは。

「おmい・あ」

 耳に入った音に、僕は愕然とした。自分が想像した、ここ数日で聞いたことのある単語と全く違う、言語の体を為していないような音の粒。それが出たのはどこからだ?

 他でもない、自分の喉からだ。

「……どうした? ぼけっとして」

 短髪の少年が口元を緩めながら訪ねる。彼の言うことは解らないが、きっと僕の表情を見て不思議に思っているのだろう。僕は深呼吸をして、息を落ち着けてからふるりと首を横に振った。何でもない、と。

 そうして落ち着いたのを確認すれば、手術前と同じように、僕の会話練習を彼らは手伝ってくれる。彼らが紙に書くどんな文字も、言葉も、僕は上手く発音できなかったが、そのたびに三人は愉快そうにわらっていた。上手く喋る事が出来ないのを責めるでもなく、ただわらうだけで、練習は続く。日が暮れる頃にそれが終わり一人になると、うまく喋る事の出来ない自分でも彼らには受け入れられたのだと、安息感に包まれて僕も笑いながら、泣いた。


 それから数か月、僕は音のある世界であの三人の少年と言葉の練習をしながら、入院生活を送った。音のある世界は始めのうち、期待していたものとは全く違う騒々しさを纏った居るだけで疲弊するものだったが、それにも次第に慣れていった。上手く言葉が発音できない事も辛くはあったが、三人にわらって受け入れてもらえていたので、心を蝕むような辛さはではなかった。

 やがて以前よりも聞き取れるように喋ることができるようになったころ、いよいよ僕の退院の日がやってきた。

「お父さんも稼ぎ先からやっと帰って来れるみたいだから、会うのが楽しみね」

 音のある世界に幾分か慣れて、人が話している言葉も理解できるようになった。林檎を剥きながら言う母の言葉を聞いてから、理解して頷く。「楽しみ」と言う通り、母の口元には笑みが浮かんでいたが、どうにもやはりそこには違和感を覚えてしまう。あの少年たちと、何が違うのだろうか。

「お母さん、先生に挨拶してくるから。少し外すわね」

 くるりと林檎の皮を剥き切り分け終えると、僕のベッドサイドに包丁とまな板を置いて母は病室を出た。

 ……そうして一人になって、改めて落ち着いて辺りを見回せば、自分一人の病室は少し寂しいものだ。入院した直後からあの三人が部屋に来てくれていたからだろうか。僕も彼らには随分世話になったのだから、挨拶をしてこようか。そう思うなり、僕は部屋を抜け出した。

 いつも彼らが僕の部屋へやってきていたので、僕は彼らの病室は知らないが、一つ思い当たる場所があるのでそこへ向かう。初めて僕たちが会った場所だ。僕はあの時と同じように、薄暗い廊下の壁に手をぺたぺたと這わせ、歩く。

「いいの? 見納めにいかなくて」

 廊下の奥から声が聞こえて、予想は的中したと確信する。これは眼鏡の少年の声だ。僕はもう一歩踏み出して、声の発生源へとさらに距離を詰めようとした。

 しかし。

「必要ねえよ。あいつ、もうそんなに面白くねえし」

「最近は普通に喋るようになっちゃったしな。もう玩具にもしにくい」

「いっそ、耳が飾りのままならもっとあいつで遊べたのにな」

「あの、動物みてえな喋り方に戻ってくれりゃあいいのにな!」

 体が凍り付く。言っている意味の理解を拒む。しかし、続いて聞こえるのは、短髪の少年が発するいつか耳にした言語の体を為していないような音の粒の真似。つまりは、かつての僕の真似。それを聞いて、他の二人もわらう……嗤う。

 誰が玩具だ? 誰と遊んでいた、ではなく、誰で遊んでいた?

「ぼ、く……が……」

 冷え切った頭でようやく、母の笑みに抱いていた違和感の正体を知る。母の笑みは何もおかしくなかった。おかしいのは、彼らの笑みの方だ。彼らは笑うのではなく、僕を侮り、蔑み、嘲り、嗤っていたのだ。

 愉快そうに嗤っていたのは、耳の聞こえない僕が発する言葉とも呼べない言葉を嘲っていたのだ。

 部屋で一人になって笑いながら泣いていたのは本当はそのことに気が付いていたから。母の笑みがおかしくて、彼らの笑みが愉快そうだと思っていたのは、自分を玩具に遊んでいる事を理解することを拒んでいたから。

 結局は、彼らに受け入れられたと錯覚したのも全て、音のない世界から続く夢幻に過ぎなかったのだ。

 僕はゆっくりとその場から引き返す。靴の音、嘲り、車輪の転がる音、嘲り、患者の話し声、嘲り。自分を侮蔑する者の真実を突きつけられ夢の剥がれた世界では、あらゆる音が僕を嘲笑しているような気さえした。慣れたと思っていた音のある世界は、かつての騒々しさを取り戻しているようだ。

 ゆらり、ふらりと自分の病室に戻る。自分の足音や生活音、それらですら耳に入るのも鬱陶しい。僕は頭を掻きむしり、獣のような鳴き声を上げる。邪魔な音を消し去るように、だ。

 ……ひとしきり叫んでから、そうか、と気が付く。全て音があるために知ってしまったことだ。自分の言葉があんなに不自由なものだということも、捉えてしまう笑い声も、友人と思っていた者の真意も。声がなければ。音がなければそうはならなかったはずだ。

 不意に、この医院へ向かう途中に読んでいた新聞の記事が脳裏によぎる。「十歳も半ばの少年が自らの母親を『邪魔で口うるさかったから』という理由で、包丁で殺害した」。ああ、今ならわかる。邪魔だ、五月蠅い、こいつさえいなければ。僕の視線の先には、母が林檎を剥いていた包丁がその銀の刃先に西日を帯びてぼんやりと光りたたずんでいた。

 邪魔な物は取り除いてしまおう。そうしてまたあの安息が得られる世界で過ごそう。僕は包丁を手に取り――自分の耳に刃を立てた。


 あの時の音のある世界が現実で、この音のない世界が無知で居られる幸せな夢なのか。それとも音のない世界が僕にとっての現実で、音のある世界で知ってしまった真実が悪夢だったのか。今となってはどちらでもいい。

 僕は赤く染まった包丁と、切り落とされた僕の耳と、懐かしい静寂に笑みを浮かべて、ゆっくりと意識を手放していく。

 ああ、それでも。一度聞いてしまった物は離れないものだ。もう音など捉えれるはずもないのに、僕の静寂の中を、三人の少年の嘲笑が最後の一瞬までこだまし続けていた。

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