全霊の愛を

札幌埴輪太郎

全霊の愛を

 水の一滴も流れない荒野に、三十も半ばといった歳の女は病で若くして亡くなった夫の遺体を埋葬した。

 海を越えられれば、砂の山を越えられれば、もっと良い場所もあっただろう。それこそ、花の咲き乱れるような。しとりと雨の降ったときはかたつむりとゆったり休めるような。そんな場所があっただろう。

 そうは思うが、この荒野から旅立ち抜け出るための金もない。女は頬に涙を一筋垂らしながら、ごめんなさい、ごめんなさいと一人土を掘り起こし、腐臭のする夫だったものを土に埋めるのだった。

 貧困にあえぐ夫婦で供え物をするような金もなかったが、せめてもの手向けとして女は一輪、枯れかけの赤い花を遺体とともに埋める。葬儀を行うような身内も知人も金もない。自分で掘った穴に夫だったものと花を入れ、その顔が見えなくなるまで土を被せる。夫が使っていたスコップを墓標として被せた土に差し込み、女はたった一人の葬儀を終えた。

 翌日から女は灰色で塗りつぶされたような日々を送った。起きてはぼうっとして、仕方なく出稼ぎへ向かい、帰る前に夫が眠るスコップの前に立ち、さめざめと涙を流す。涙が無名の墓へ染みたころ、からからになって漸く家に帰り、泥のように眠る。

 今日が何日か、飯は食べたのか、今日の稼ぎはいくらか。そんなものはどうでもよく、ただただ亡くした夫の無表情な顔や冷静な声ばかりが脳裏で繰り返し浮かび、それが余計喪失の実感と重みを実感させる。

 そうして女は喪失に蝕まていく。どうでもよくなってしまった食事のせいで頬はこけ、繰り返し涙した顔は赤く腫れており、出稼ぎに向かう街でも通りすがりの者に後ろ指をさされ、嘲られ、忌避されるようになっていく。それでも女の頭の中は夫の喪失ばかりが埋め尽くしており、そんなものは気にならなかった。

 そんな日々を送り、一年も経った頃。荒野では春も夏も秋も冬も感じないため、久々にカレンダーを見て、女はふと気づいたのだった。今日で夫を埋葬してから一年だ、と。醜い顔が故に出稼ぎにもなかなか出られず、ただ無為にする時間も多くなっていたが、その日は昼頃に起床してカレンダーを見てすぐ、夫の墓に向かったのだった。

 どんな日でも通い詰めた、歩き慣れた墓への道。それを辿るだけでも涙が湧き出てくる。自分のどこからそんな水分が出てくるのか不思議なくらいだ。

 荒野を往く人々に奇異の眼、嘲りを向けられながら、女は墓標の前に立つ。一年経ってもいつもの通り、じわりと流れた涙が地に落ち――なかった。正確に言えば、直接地面へと落ちなかったのだ。

 女は目を見張り、涙が落下したはずの場所を注視する。いつもなら音もたてず荒れた大地に吸い込まれるはずが、今は水滴が跳ねた。見れば、その落下点に当たるはずの場所には緑の小さな楕円が二つ連なっている……これは、芽だ。何かの植物の芽……まさか、埋葬時に夫へ手向けた花の種が、荒野を突き抜けて地表に出てきたというのだろうか。

 しかし、水も養分もないであろうこの場所に、なぜ植物が。かすむ視界でじっと芽を見つめていると、一つの可能性に至る。女の涙が地を潤し、夫の遺体を養分として育ったのではないか。私たちの命が繋げた、いわば我が子のような存在なのではないか、と。

 女は久方ぶりに悲しみではない涙を流した。自分とあの人の繋げた命がここにあると。抱くことは出来ないし、信じる神も居ないが、生命をはぐくむ大きな流れに感謝をささげたのだった。

 その日から女の生活は少しずつ変わっていった。

 あの芽を開花させるには金が必要だから、出稼ぎに向かう。そのために、最低限の見た目を保つための化粧もする。そうして稼いだ金で水や肥やしを買い、帰りには墓へ向かい、芽を育てる。そして夜になれば明日に備えるためにと眠りにつく。そんな、喪失を乗り越えようとする日々が始まったのだった。

 もちろん、あの荒野で植物を育てるのは容易な事ではなかった。雨の心配はなくとも、あらゆる環境的要素が植物を排そうと襲い掛かってくる。女はそれこそ子を育てるように、丁寧に芽を扱い、成長を見届け、ついには花を咲かせ、喜びの涙を流した。そのころには既に女を侮蔑するような者もおらず、漸く夫の死を乗り越えようか、という具合になっていたのであった。

 しかし、夫が若くして亡くなったように、幸せとは長続きしないものだ。

 花が咲いて二月も経ったころ、その植物は枯れてしまったのだ。生物である以上当然の摂理ではあるが、一年もの間変動のない日々を送っていた女の心に対して、唐突な別れは大きく爪痕を残した。それこそ子のように可愛がっていた花が、死んでしまったのだから。

 萎れた茎に手を添えればくたりと力なく手にもたれかかる花を見て、女は一年前に逆行するように悲しみの涙をあふれさせた。喪失を埋めてくれた自己の半身のような存在をも喪い、女は再び醜く濁った日々を送る事となる。

 寄せては引き、波のような女の人生の起伏は、それから半年もしたころ、再び上向きに変わる。

 季節感のない荒野ではわかりにくいが、出稼ぎへ向かった先では春めいた風が吹いていたころだ。夫を亡くした時と同じく、どうにかありつけた仕事を終えてその帰り道で墓に寄る。そしてさめざめと喪ったものを想って涙を流す。

 その時また気づくのだった。地に緑色の楕円が、幾つも。以前そうしたように目を見張れば、半年前に枯れた植物と同じ芽が一、二……八つ、そこに生えていた。あの花が枯れるときに、落ちた実が再び命を繋げたのだ。

 解りやすいほど同じように、女の生活は再び日常へと帰っていった。今度は子の子、孫が八つも。変わったことと言えば、花一輪育てるのに人ひとり育てるのと同じくらいの苦労があるあの荒野で、八輪……八人も育てるとなると、女の体力もじわりじわりと今まで以上に削られていくことであった。

 しかし、それでも。女は八つの芽に愛情を注ぐ。元をたどれば夫が繋いだ命だから。途切れさせないのは自分の使命だから。亡き者を想って女は身を粉にして、愛を向けて花を育てる。

 芽に虫が集ればそれを潰し、葉を喰らう昆虫は暖炉へ放り、実が鳥に啄まれれば矢で射殺す。「全霊をかけて育てる」というのは、女にとってそういうことであった。この植物たちが無事に育ち、後の世につながるならば、邪魔なものは殺してでも除ける。

 植物が生まれた影響で増えた動物や虫を殺し続けているうちに、やがて女は出稼ぎに行く時間も無くなる。仕方がないので殺したものを喰らい、その血で喉を潤した。そして血に濡れた口元を上げ、家族のような植物を慈しむ母親のような笑みを浮かべるのだった。


 それから十数年、殺した鳥の糞や潰した虫の持ってきた花粉により、元は墓だった場所も花園のようになっていた。小さな木までもが根付き水を寄せ、虫によって交配された新たな植物が芽吹く。やってきた鳥はその身を啄み、種を広げる。羽虫はさらに草木を増やす。枯れた葉が降り積もり、それが次の世代を育むための力となる。

 それまでの渇いた大地からは想像もできない程の、生命にあふれた大地になっていた。

 しかし、その楽園のような場所には邪魔者が一つだけあった。

 もう自分が人なのか獣なのか植物なのかも分からなくなった、狂った女だ。ただ我が子を慈しむことだけを憶えている女だ。これまで通り身を啄む鳥は射殺し、花にまとわりつく虫は潰す。木の根が引いてくれた水を飲み、いい子だと樹皮を撫で、ご飯だよ、と殺した鳥を地に放る。

 ただこれまでと違うのは、水、植物、動物の円環が形成されたその地において、愛ゆえに行う女の行為はその命の流れを阻害するものでしかなかった、ということだ。女は今ではただの害獣となり果ててしまったのだ。

 やがて、その地にしか生えていない植物を求め、ある若者が女の領域に足を踏み入れる。

 目当ての植物を採取――つまりはその命を絶たせた若者を見て、女は激憤した。その怒りのままに我が子を守ろうと、若者に鉈を振るう。

 若者は鉈を振るう女の姿を見て悲鳴を上げた。辛うじて二つの足で歩くことは憶えているが、草木や泥に塗れた、そして殺したばかりの鳥を食った後にぬらりと赤く光る口元は、どうあっても女を人間には見せようとしていなかったからだ。

 悲鳴を上げた若者はこれを間一髪で除け、とても人間には見えない女を護身用の剣で一突きして、刺した剣はそのままに植物を持って逃げたのだった。

 女は人間らしい生活は送れておらず、年のせいもあり体力などとうに尽きていた。かつて自分が殺してきた動物たちのように、傷口からごぼごぼと血を流しながら、憎々し気に若者の背中を睨む。その姿が見え無くなれば、大丈夫よ、大丈夫よ、と植物たちに優しい声で語り掛けるのだった。

 数分、そうして若者の行く先を睨み続けていたが、死期を悟り女は仰向けに倒れ込んだ。空を見れば樹木が顔を出しており、風が鼻をかすめ、草花が皮膚を撫でる。彼女が人間を捨ててまで愛したものたちだ。そのものたちの下で死ねるならば、後悔もない――いや。

 女は、はたと思った。

 こちらから声はかけれども、向こうの声は聞いたことのない植物たち。私はそれらに全霊をかけて愛した。

 今でも忘れない、あの冷静沈着で表情の変わらない夫。私は彼に全霊をかけて愛した。

 しかし、私の愛したものたちは、私を愛していたのだろうか。

 屍をむさぼろうとする猛禽と目が合ったのが、彼女が最後に見た光景。その疑問の答えは誰も知らない。

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