言の葉拾い

札幌埴輪太郎

言の葉拾い

 宿という場所には色々な人間がやってくる。

 わたしの父の、母の、そのまた母の代から続くこの宿の宿帳に連ねられる名前からは色々な土地の香りがするし、父の母……つまりはわたしの祖母から聞く話には面白おかしい、不思議な人が大勢出てくる。宿は当然色々な人間がやってくるものだが、字面だけでなくその本質をわたしはそういった経験から体感していた。

 そんな風に色々な人間がやってくる宿に、ある日一人の男性がやってきた。

 その時はからりとした天気が多いこの街では珍しく、長雨、大雨が続き、客足も遠く閑古鳥が鳴いていた。宿の番をしていたわたしは暇を持て余し、宿帳にある不思議な名前を探して時間を潰しているところだった。

 打ち付けられる雨音を聞きながら鼻歌交じりにぺらぺらと宿帳の頁をめくっていると、不意を突くように入口の扉が開かれたベルが鳴り響いた。わたしは慌てながらもさっと髪を整え、開いた扉の方へ目を遣ってお出迎えの挨拶をする。

「い、いらっしゃいませ、ご宿泊の際はこちらの紙に名前を――」

 言いなれた文言を最後まで唱えることは叶わなかった。入口にはずいぶんと風変わりな、ともすれば怖ろしい姿の人が立っていて、息を飲み込んでしまったからだ。

 真っ黒な外套に、同じく真っ黒な服を一式着こんだ長身の男性。この大雨の中外を歩いていたのだろう、それらはずぶ濡れで、その人の黒い髪も水で潰れぴったりと頬に張り付いている。そのどこを見ても真っ黒な風貌もさることながら、無言でうつむく姿と、背負っている身の丈ほど大きな麻袋が何か不穏な空気を纏っていて、わたしは二階にいる父を呼ぼうとしていた。

 しかし。

「お、お客さん!?」

 ばたんと派手な音を立てて、黒い男性はその大きな体と袋を床に叩きつけた。何事かと近づいて確認してみれば、息はしているようだが体は雨で冷え切っており、ここまで歩いてきた疲労のせいかはたまた空腹が原因か、彼が気を失っていることに気付く。わたしは慌てて上階の父と祖母を呼んで、食堂の暖炉の前まで運んでいったのだった。

 下手をすると命の危険もあるように見えたので、わたしと祖母はとり急いで温かい食事を作り、食堂に運びに行くと丁度その時黒い男性の服を取り換えていた父が暖炉の前で声を上げた。

「どうしたの? お父さん」

「い、いや、この麻袋を開いたらな……」

「なんだい、死体でも入っていたかい?」

 もう何人も不思議なお客さんを見て来たであろう祖母は動じる様子もなく、むしろ茶化しながらテーブルに食事を置いていた。

「母さん、そんな物騒なものじゃないって……でも、なんだろうな、これ」

 勘弁してくれと眉を下げる父は、そういいながらも麻袋を開いて中身を見せてくれた。

 麻袋の中身は紫の泥のようなもので一杯になっていた。しかし、異臭がするわけでもなく、袋の底に張り付いたように微動だにしない。恐る恐る指で触れてみても、わたしの宿のベッドくらいの弾力で弾き返された。

「なんだろうね、これ」

「なに、この人が起きてから訊けばいいさ。ほら、あんまり暖炉に近づけすぎるとお客さんが焦げてしまうよ」

 父の真似をして不思議がるわたしをよそに、祖母は看護しやすいようにてきぱきと食堂のテーブルや椅子を動かしていく。

 確かに祖母の言う通りこの黒い男性に聞けば早いし、そもそもお客さんの荷物を漁るのも本当はやるべきことじゃない。わたしは麻袋の中身のことは頭の隅に追いやり、大人しく祖母の手伝いをすることにした。

 そうして一時間ほど経ったころ、ようやく黒い男性……もう、宿で貸し出している服を着ているので白い男性になってしまったが、ともかくお客さんはむくりと起き上がり、辺りを見回していた。その姿を見てわたしは駆け寄り、声をかける。

「大丈夫ですか! よかった、目が覚めて……」

 ……声をかけたが、男性はこちらを向くだけで、何もことばを返してこない。不思議に思ってわたしは首をかしげながらしばらく様子を見ていたが、彼は懐を探り、周囲を見て、慌てて何か身振り手振りでこちらに訴えかけてきたのだった。

 初めに指先で四角を宙に描き、次に右手の人差し指、中指、親指を合わせて曲線を描くような動きをした。わたしの首の傾きは大きくなるばかりだったが、少し経てばなんとなく彼が言いたいことが見えてきた。

「あ、もしかして何か書くものですか!」

 ぴっと人差し指を立ててそういうと、男性は目を見開き、こくこくと首を縦に振った。ここまで一切声を発していないので、もしかすると話すことが出来ないのかもしれない。それでもこちらの言葉が通じているのは幸いだろう。

 わたしは意思疎通ができた喜びのままに駆け出し、適当な引出しから紙とペンとインクを持ってすぐに男性に渡す。彼はわたしから筆記具を受け取り、早速紙に文字をさらさらと書き出す。

『宿を借りようとしただけなのに、手間取らせてしまってすみません。』

『僕はラルフと申します。声を出すことが出来ないので筆談で失礼します。』

『今からでも一室借りることはできますか?』

 立て続けに三行、紙にペンが走り、インクがその軌跡を描き、文字を為す。それを見てわたしは頷いて大声で祖母を呼ぶ。

「おばあちゃん! お客さん目が覚めたよ、あと、一室借りたいってー!」

 遠くから祖母の「はいよ」という声が聞こえ、伝わったことを確認してから再びラルフさんの方へ向き直る。

「今から手続きしますからね! あ、テーブルの上のシチューは食べても大丈夫なので!」

 ラルフさんはこくこくと頷き、素早くペンを走らせあっという間に会話文を紙に書く。

『すみません、助かります。そして、あなたの名前を教えていただけると、さらに助かります。』

 そういえば、名乗っていなかった。申し訳なさそうな顔をしているラルフさんに、今更ながら名乗りを上げる。

「わたし、リタっていいます! よろしくお願いしますね、ラルフさん!」

 ラルフさんは頷いて理解したことを示す。はじめは俯いていてよく見えなかったが、ふとした瞬間に見える目も綺麗な黒色だった。お互いのことを少しずつ解っていく喜びを感じながら、そんなやり取りをし終えたころ、祖母が食堂に入ってきた。

「おや、体は大丈夫そうかい? シチューもせっかくだから食べていきなさい。ああ、あと宿に泊まるならこっちの宿帳に記名を」

「母さん、そんないっぺんに言ったらお客さん困っちゃうだろ?」

 矢継ぎ早に話を仕掛ける祖母に、わたしたちの分も食事を持ってきた父が緩く釘をさす。そういった会話を聞きながらも、ラルフさんは祖母が持ってきた宿帳にせっせと必要事項を記入していた。

 やがて、記入も終えたころ、四人でテーブルを囲んでの食事が始まった。よほどお腹が空いていたのか、ラルフさんは中々に速くスプーンを口に運んでいる。

「そんなに美味しかったかい?」

 食事風景をほほえまし気に見る祖母がそう問いかけると、ラルフさんは首をかしげる。

『すみません、わからないです』

『おいしい、は、どのような感覚でしょうか』

『せっかく作って頂いたのに、すみません』

「はっはっは、謝ってばっかりだなぁ、お客さん。でも、そうだな……美味しいって、言われてみればどんな風に言えばいいんだろうか」

 謝罪で始まって謝罪に終わるラルフさんのことばに父は笑みをこぼしながらも、普段あまり気にかけないことばの意味に頭をひねっていた。確かに、わたしにも味の好みはあるし、祖母のシチューは美味しいと感じるけれど、どのような感覚かと言われるとすぐに答えられない。

 一方で、祖母は即答する。

「馬鹿だね、美味しいってのは不味いの逆だよ」

 ……そういった途端。「馬鹿」、「不味い」という声が空中でガラス片のように形をもって浮かび上がる。ラルフさんはそうなるのを見るや否や、近くに置いてあったあの大きな麻袋を開き、そのガラス片のようなものをつまんで袋の中へ投げ入れた。

「……驚いた、あたしも長い事宿をやってるけど、あんたみたいな人は初めて見たよ!」

 ガラス片の生みの親である祖母が一番驚いていて、また、好奇心をくすぐられたようで、童心にかえったかのような表情でラルフさんに言った。

『お騒がせして、すみません』

「いやいや、いいんだよ。それよりも聞かせてくれないかい? あんたがどんなことをしている人なのか。そう、すまないと思うならその詫びがてらね」

 いつものだ。いつも祖母は、こうやってお客さんと食卓を囲み、その人の話を時に楽しそうに、時に悲しそうに聞くのだ。ラルフさんは首肯し、紙に文字を書いていく。

『僕は人に刺さることばを拾って集めています。』

「拾って集めるっていうと……」

 先ほどの光景を思い出す。祖母の声が形をもって宙に浮いて、それを麻袋に詰めた。わたしが件の大きな麻袋に視線を向け首をかしげると、ラルフさんは頷いた。そういうことならば、あの袋の中に入っていた紫の泥のようなものは、彼が集めた「人に刺さることば」なのだろうか。

「さっきのあたしみたいな、暴言やら罵倒やらを形にして集めるのがあんたのやっていることっていう考え方で合っているのかい?」

『それに近いです。ともかく、人の心に刺さって残り続け得ることば、というものを拾い集めています。』

 会話の番は祖母に移り、ゆったりとした話調でラルフさんと会話……とはいっても片方から声は出ていないが、意思疎通を行っていた。わたしが話すときよりもいくらか拍子がゆったりしているためか、どことなくラルフさんも話しやすそうではあった。

「なるほどねぇ……その拾った『人に刺さることば』っていうのは、集めたあとはどうするんだい? あんたの袋は大きいけれども無制限に入る程ではないだろう?」

『集めたことばは僕が食べます。そうして空いた袋にまた、新しい言葉を拾って入れていくんです。』

 食べる。きっと、あの泥を口にすることを意味しているのだろう。確かに噛みごたえはありそうだけれど、とても美味しそうには見えない。

「その、集めた言葉は美味し……いですか?」

 一応、ラルフさんの仕事を増やしたくないので「美味しくない」とは言わずに疑問を口にする。

『いいえ、正直不味いです。』

 と、ラルフさんが文字を書いたところで、その紙から再びガラス片が浮かび上がった。彼は慌てた様子でガラス片をつまみ、袋へ放った……自分のことばでも集めなくてはならないとは。

「ははっ、ずいぶん生きにくそうな仕事してるなぁ、あんたも」

 わたしの心は苦笑交じりに父が代弁した。というか、されてしまった。自分のことばは自分で伝えたかったのに、と少しむすっとしながらわたしは少し冷めたシチューを口に運んだ。

『でも、酷いことばは僕が集めなくては、その人の心に刺さったままになってしまうので。』

『刺さった傷はやがて膿んで、心が病に罹ってしまうので、僕が集めなくてはいけないんです。』

 そうやって文字を紙に走らせるラルフさんの表情は、どこか苦しそうだった。それを見て祖母は目をつむりながら話を続ける。

「不思議なことをするものだねぇ……それは何か頼まれての仕事なのかい?」

 ラルフさんはその問いに少し時間をかけてから回答する。

『憶えていません。ただ、小さい頃にそういう事ができることを知って、それからこうやって集め続けているだけなんです。』

『僕のからだは、今までに食べた「死ね」「殺す」「許さない」なんかで構成されています。』

 彼はそう書いて、自分の文字から生まれたガラス片をつまみ、ぺい、と袋に放りながらもう少し文章を付け加える。

『そのせいかもう、自分がどんなものだったかも思い出せないんです。』

『自分の過去を思い返そうとしても、沢山の淀んだ言葉に覆われていて、何も見えないんです。』

 自分が見えない、解らないなんて想像もつかない状況にわたしたち家族は沈黙してしまい、居心地悪そうにラルフさんはもう空になった皿をなぞる。

「……辛くないのかい?」

 こういう時にいつも最初に言葉を発するのは父だ。父は思ったことをそのままラルフさんに投げかける。

『辛いというのは解ります。しかし、この辛さは僕のものなのか、いつか食べた誰かの辛さなのか、それは判りません。』

『食事時に暗い話をしてしまって、すみません。ごちそうさまでした。』

 本当に申し訳なさそうな顔をしながら、ラルフさんは席を立ち、部屋へ向かった。

 三人が残された食堂では何か重い空気が流れており、そのなかで祖母が呟く。

「本当、難儀なものだねぇ。自分が何なのかもわからないで、傷ついちまうかもしれない誰かのために動いちまうなんて」


 ラルフさんの宿泊は一泊のみだったので、翌朝にはもう出立の準備をしており、わたしは昨日よりも弱まった雨音を聞きながら、退室の手続きをする彼を見ていた。相変わらず真っ黒な全身に大きな麻袋を下げており、少しうつむいているからか少し怖いけれど、昨日聞いた話のせいか今はその背中が少し寂しそうに見えた。

『お世話になりました。それでは、失礼します。』

 昨日干した、彼の持ち物だったらしい紙束にそう書き、手続きを行った祖母に挨拶をして、背を向けて宿を出ようとする。

 あの人は、また雨の中歩み始め、誰かも知らない人の吐いた心無い言葉を拾って、誰かが負うはずだった傷を代わりに負っていくのだろうか。その果てに自分の名前もわからなくなってしまうのではないだろうか。昨日はわたしたちの宿に来てくれたからどうにか今も立ち上がって歩いているけれど、今度はどこかで倒れてそのまま冷たくなってしまうのではないだろうか。

 そんな風に不安は募るがわたしにはどうすることもできず、せめて傘を貸そうとしたその時、祖母が頭一つ分上にあるラルフさんの右肩を掴んだ。

「あんた、これからも『人に刺さることば』とやらを拾い集めるつもりかい?」

 ラルフさんは肩を掴まれたまま、振り返り文字を書く。

『そうすると思います。僕にはそれしかできませんから。』

「……そうかい。なら、せめてこれでも盛っていきなさい」

 そういって祖母が差しだしたのは、紙束だ。しかし、白紙ではなく、一枚一枚にことばが書かれている。それを見てラルフさんは目を見開いた。

『ありがとう』、『頑張って』、『美味しい』、『嬉しい』、『笑った』、『楽しい』。幼稚な、しかし、だからこそ邪気の無いことばたち。それらが書かれた紙を受け取ったはいいが、どうしたら良いものかとラルフさんは視線をさまよわせる。それを見て祖母は単純な事じゃないか、と笑った。

「その麻袋にでも詰めてやっておくれ。何も、罵詈雑言だけじゃない。感謝だって、励ましだって、人の心に刺さって響いて、その人を動かせる……あんたが集めている『人のに刺さることば』なんじゃないかい? ……まあ、こういうことばを書いてあんたに渡すっていうのは、息子の発想なんだけれどね」

 そういえば、今日はまだ父は起きてきていない。もしかすると、一晩かけてラルフさんにしてあげられることを考えていたのかもしれない。

 ことばを貰った当の本人は少し迷った後に決心したように袋に紙束を入れる。すると、紫色だった中身の色が少し変わり、少し青みががった色になった。ラルフさんもわたしも驚いて目を見開き、祖母は満足そうに頷いていた。

『気を遣わせてしまって、すみません。』

 目を伏せ、そう書いたラルフさんの背中を祖母が笑いながらばしばしと叩く。

「あんた、ずっと謝ってばかりだねえ。淀んだ言葉の食べ過ぎで礼の仕方も忘れたかい? さっき渡しただろうに、こういう時は『ありがとう』でいいんだよ」

 祖母はラルフさんが持っていた会話用の紙にありがとうと書いたうえで、挙句そんな辛気臭い表情で礼なんてするもんじゃないよと口角を無理くり持ち上げさせ、最後は困ったような、引きつった笑みにされていた。やがて起きてきた父もそんなラルフさんを見てぷっと少し吹き出していたが、満足そうであった。

 ひとしきり笑えば、やがて改めてラルフさんを見送る運びとなる。祖母に『ありがとう』と書かれた紙を大事そうに懐に入れて、再びわたしたちに礼をする。

「あの、傘、貸し出しますよ!」

 父と祖母がことばを渡したのにわたしだけ何もできずに、少し悔しくなって再び傘を持ちだす。しかし、ラルフさんは首を横に振ってそれを拒んだ。

『僕は、この雨を渡るのに傘よりも必要なことばを頂けました。』

『これ以上お世話になるのも忍びないので、遠慮させていただきます。』

『すみま』

 そこまで書いて、はっとして、ラルフさんは急いで文字に打消し線を引く。そして。

『心遣い、ありがとうございます、リタさん。』

 そう「いう」ラルフさんの顔は先ほど祖母に作られた時よりも少々固いが、気持ちのいい笑みを浮かべていて、その笑みを残して宿を去っていった。

 そのあと、あの黒い男性がどのような生活を送ったかはわからない。あの日貰った素直な喜びや感謝のことばをきっかけにそれまでとは違うことばを拾うようになったかもしれないし、結局変わらずに誰かの痛みを引き受けているのかもしれない。もしかしたら、あの後の雨で野垂れ死んでしまった場合も無くはない。

 それでも、雨が降る日に来客を知らせるベルが鳴るたびにもしかしたら、と思い期待してドアの方を見てしまう。笑うのが少し上手になった、あの黒い男性の姿があるのではないかと、わたしは期待してみてしまうのだ。

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