おまけ 約束を果たす時まで1

ちょっと重たい話


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 隠居の身となり、この地に居を移してもうじき5年になる。夜明けとともに起きだす長年の習慣は変えられず、それでいてすることなど特にないので朝の散歩が日課となっていた。

「やれ、一休みするかな」

 近頃は歩くのに杖が手放せなくなっていた。長い時間歩くこともできなくなり、いくらも歩かないうちに腰を下ろして一休みする。これでは散歩をしているのか外で休んでいるのか区別がつかんな。だが、隠居した身には時間に追われることなどない。春分節が過ぎたばかりで吹き抜ける風はまだ冷たいが、のんびりと眼下に広がる田舎の景色を眺めた。

「おおう、もう芽が出ておる」

 今いるのは館が再建された後に作られたバラの庭園。以前の館の主がこよなく愛したバラを集めて植えられている。秋に短く刈り込まれていたが、目の前にあるバラには若芽が顔をのぞかせていた。

 こちらに居を移した当初はまだ手も足も思うように動かせており、バラの世話も率先して行っていたが、今は歩くのだけでなくはさみを長時間握るのも難しい。世話は園丁に全てを任せているが、朝の散歩の折に日々の変化を見付けるのは楽しいものだ。


チチチチ……


 どこかで鳥が鳴いている。見上げると雲一つない空が広がっていた。こんな空を見るとあの日を思い出す。あの方と始めて出会った日の事を……。



 もう何十年も前になる。今日と同じ、早春の晴れた日にあの方は輿入れの為にフォルビア城に参られた。唯一の身内となってしまった年若い陛下の後ろ盾となって頂くために、あの方は20も年の離れた旦那様に嫁がれたのだ。

 婚礼衣装に身を包み、美しいプラチナブロンドを結い上げた姿は凛としており、私は一目で魅入られた。だが、当時の私は城に上がって間もない一介の使用人でしかない。当然、あの方は私の存在など知りもしなかっただろう。

 何分、当時の私の身分では遠目にお見掛けするのが精いっぱいだった。それでもあの方のお役に立ちたいという一心で、がむしゃらに働いた。すると、職務を真面目にこなす私を当時の家令が認めてくださり、そして見込みがあると言って厳しいながらも様々なことを教えてくださった。

「君は全てを大公家に捧げる覚悟はあるかね?」

 ある日、師と仰ぐ家令からこんな質問をされた。私が迷いなくその決意を伝えると、彼は一瞬だけ顔をほころばせた。そして……私への指導は一層厳しさを増した。時には涙をこらえながら、無茶だと思えるような要求に応えていた。


 月日は流れ、あの方がフォルビアに嫁がれて10年たった。その年の冬に旦那様が病に倒れられ、治療の甲斐なくあっけなく亡くなられてしまった。葬儀を1人で取り仕切られたあの方は、表では気丈に振る舞われておられたが、陰でひっそりと涙を流しておられるのを偶然にも私は見かけ、胸が痛んだ。

 残念ながらご夫婦はお子に恵まれなかった。後継を誰にするかでもめそうになったが、旦那様の遺言によりあの方がフォルビア公となられた。異論はあったが、旦那様を支えられた実績がそれらを沈黙させた。旦那様を亡くされた悲しみを振り切るようにあの方は精力的に働き続けた。

「そなたがオルティスか? よく仕えてくれていると聞く。これからもよろしく頼むぞ」

 始めてお声をかけていただいたのはちょうどその頃だった。フォルビアの城にお見えになられたあの方は、すれ違いざまに頭を下げる私にそうお声をかけてくださった。名前を憶えてくださった喜びに興奮しすぎ、その後何を話したのかさっぱり覚えていないのが残念でならない。


 精力的に動かれるあの方に対し、老境に差し掛かっていた家令はその望みについていけなくなっていた。その彼を支えていた私はいつしか彼の右腕と目されるまでになっていた。やがて己の限界を悟ったのか、師匠は後事を私に託し、家令の職を辞して城を後にした。

 それからさらに月日は流れ、私が城に奉公に上がってから30年近い年月が経っていた。フォルビア大公家の当主として、国の重鎮として常に第一線を走ってこられたあの方が病に倒れられた。持病を抱えることになったあの方は国政から手を引き、療養を兼ねて領内の別荘に居を移された。この頃はまだ良好な関係を築いていたご一族方の協力を得ながら、フォルビアの運営に専念することに決められたのだ。城の事は同僚に任せ、あの方のお傍に仕えるために私も別荘へ移った。

「このまま穏やかに余生を過ごすのも悪くはない」

 執務の合間に私が淹れたお茶を飲まれながら、そう穏やかにあの方は微笑まれていた。


 隠棲して5年後、事態が大きく変わった。あの方がひそかに後継にと望まれておられたクラウディア様と皇家の末の皇子、エドワルド殿下がご結婚された。ほどなくして懐妊の知らせを受け、喜びに沸いたのもつかの間、皇女誕生と共にクラウディア様ご逝去の知らせを受けた。

 ロベリア総督就任のあいさつに来られたのだが、元来明るく快活な殿下はすっかり様変わりし、明らかに酔っておられた。副官のアスター卿の話では夜もろくに眠れず、お酒が手放せないらしい。

「今のそなたに親の資格はありません。小姫ちいひめは妾が育てます!」

 そんな殿下のお姿を見たあの方は到底黙ってなどおれず、殿下に喝を入れると生まれたばかりの姫様を引き取られた。病に倒れられてからどことなく気弱になっておられたが、かつての迫力を取り戻されたようなあの方に殿下はタジタジとなっておられた。


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