甘酸っぱい笑顔

三砂理子@短編書き

甘酸っぱい笑顔

会場内のBGMと照明が同時に消える。途端に観客の湧く声。ポップなイントロが流れ出すと、その声はいっそう大きくなる。

OVERTUREと呼ばれる、それは夢の世界の始まりの合図。

暗転の中、舞台に人影が見えた。最前列の客がそれに気づいてきゃあきゃあと甲高い声を出す。

曲の終わりと同時に、明転。

舞台上、真っ白いスポットライトの下に現れたのは十五人の少女たち。

その姿に、会場全体からうねりのような、雄叫びのような、歓声。

キラキラした素材の衣装がスポットライトの光でいっそう輝いて見える。まだ汗を一つもかいていない少女たちの肌は照明の光を反射する白。

歓声が収まる、一瞬の間。舞台のセンターに立つ二人の少女――高矢美子と朱堀小春がふっと目を合わせた。ぴったり息のあったタイミングでマイクを口元に寄せ、二人のハーモニーからライブは始まった。


チェリースフレは『常に進化し続けるアイドル』を掲げるグループで、二十八年前の結成からこれまで、メンバーの加入と卒業を繰り返して大きくなってきた。

一期生は八人。結成二周年目、インディーズデビューの直前に五人の二期生を加えて十三人のストーリーが始まった。

王道と呼ばれる所以、その絶対的な『可愛らしさ』はビジュアルだけを指すものではない。楽曲、振り付け、衣装、ライブ演出といった舞台装置に始まり、なにより魅力とされるのはメンバーの『ひたむきさ』。驕らず、卑屈にもならず、何事にも真っ直ぐに取り組むのは、この二十八年間メンバーが変わっても続いてきたグループの伝統だ。

たくさんの汗と涙と努力と笑顔。それを越えてステージに立つ彼女たちに、憧れる女性ファンは多い。

高矢美子もそんな先輩たちに憧れて入ったメンバーの一人だった。

十歳で初めて受けたオーディションでは、二次選考で落選だったらしい。その二年後、再び臨んだオーディションでは「見違えるほど良かった」と審査員兼グループマネージャーに言わしめた逸話があるくらい、当時から努力の人だ。

二十周年の節目の年に加入した十五期の高矢美子と朱堀小春は、今や誰もが認めるWエースである。



この日は新年最初のライブのであり、同時に二十期メンバーのお披露目ライブだった。

半年前に明美ちゃん、一ヶ月前に雛奈ちゃんと、続けて十四期メンバーが卒業したばかり。新体制の勢いと実力を見せつけようと、チームは燃え上がっていた。

その一つが、あの一曲目だ。

私と小春のハモから始まり、私と小春が手を繋いで終わるあの曲は、私たち二人にとって特別な曲だ。先輩たちから受け継いだたくさんの曲やパートはもちろん大切なのだけれど。それでも、私たちのために書かれた、『私たちが初代』になる曲は特別で格別だ。

アイドルらしい可愛らしさと疾走感のあるメロディ、青春の淡い恋を歌った歌詞はファン人気も高く、ライブで歌えば必ず盛り上がる。

明美ちゃんと雛奈ちゃんのパートは二十期メンバーが受け継いだ。まだつたない歌い方も、これから彼女たちの個性に染まっていくだろうという成長を予感させた。


ライブの翌日はオフだった。

ライブ翌日のオフだけは私の中で、『寝坊しても良い日』と決めていて、この日も私は十二時前にゆっくり目を覚ました。

「あら、美子。おはよう」

「おはよ。お昼ご飯、なに?」

人の気配がしてキッチンにひょっこり顔を出すと、母が冷蔵庫からキャベツを取り出しているところだった。

「今から焼きそば作ろうと思ってるんだけど。二十分くらいかかるから、ゲンタの散歩行ってきてくれない?」

「はぁーい」

リビングでは犬のゲンタが猫のように丸くなっていた。私がリードを持って近づくと、散歩に行くと分かったらしくぴょんっと起きあがり玄関へ駆けていく。

今にも飛び出そうとするゲンタに首輪とリードを付けて、玄関を開けてやる。案の定、ゲンタは走り出すけれど、リードに引っ張られてすぐに制止する。それを無理に振り払ったりはしないから、やんちゃだけれど賢い子だなと感心する。

田舎とも都会とも呼べないような、中途半端な都下の住宅地。このほど良い緑に囲まれた町が私は好きで、そんな町をゲンタと散歩するのは大好きな日課だ。

今日は二十分だけだから、短めのコース。公園の近くに行くとゲンタがまた興奮して帰らなくなるから、反対方面をぐるっと一周しておしまい。

家に帰ってくると、ソースの甘くて美味しそうなにおいが漂ってきてお腹がグゥウとうなった。

「おかえり、焼きそばできてるわよ」

「やった。おなかぺこぺこだよー」

具だくさんの焼きそばを見ると空腹はいっそう強まった。

私は焼きそば、ゲンタはジャーキーをお昼に食べた。


午後はのんびり身体を休めた。ベッドに寝転がって、ふっと昨日のライブを思い返したり、ミスしたダンスを腕の動きだけおさらいしたり。

失敗はもちろんない方がいいけれど、完璧さだけが全てでないことを、アイドル八年生の私はもう知っている。

過去の自分を越えていくこと。成長し続けること。昨日よりも、少しでも、成長した姿を魅せること。進化し続けること。

それがチェリーらしさであり、アイドルらしさだ。

私たちアイドルに求められるのは、完璧さよりもむしろ、そういったことだった。


日が落ちかけた頃、スマホが鳴った。

「はーい。もしもし」

「もしもしー。昨日はお疲れ」

「うん、お疲れ」

それは小春からの電話だった。

「今なにしてた?」

「布団でごろごろ。あと、昨日間違えたとこ、考えたりとか」

「運命じゃん。私も、一人反省会してた。それで、みぃことも話したくなっちゃって」

運命、なんて。小春はいつも言葉が大げさだ。たぶん、私たちだけじゃなく、他の子たちだって今日は大なり小なり、自己練習をしているだろう。

「それで、小春はどんなこと反省したの?」

「うん。昨日のライブ、めっちゃ良かったなって。新しいフォーメーション、新しい歌割り、どれも良かったし、あずもかの二人もすごく良かったし。あと、自画自賛だけど一曲目、バッチリだったね」

「それ、反省じゃないじゃん。褒めるしかしてないじゃん」

あずもか、は新しく入った二十期の二人の愛称だ。梓ちゃんともかちゃんだから、あずもか。

私たちも加入当時に付けられた『みこはる』という愛称がある。

「まあそりゃあね、細かいミスとかはたくさんあるけど。そこはまた明日からのレッスンでもやってくし、でも新チーム一発目としては良いライブになったなってさ」

新体制の最初のライブは、いつも特別だ。これまでは先輩やリーダーについていけば何とかなる部分もあったけれど、これからは私たちが最年長。小春がリーダーで、私はがサブリーダー。気負うなという方が無理な話だった。

「良いグループにしたいな。ね、リーダー」

「みぃこが一緒なら、大丈夫だよ」

「なにそれ。根拠になってないよ」

「そんなことないよ。みぃことだから、大丈夫って、ほんとにそう思うから」

やっぱり小春はいつだって大袈裟だ。でも、そんな小春の大らかな性格に私は救われているのだった。

私たちはそれから二時間もの間、電話でライブの反省やメンバーの話や全然関係ない雑談に花を咲かせた。



一月のライブが終わるとすぐに新体制ファーストシングルがリリースされた。それは同時にリリースツアーと全国握手会の開催でもあった。通常のメディア露出や動画サイトでの配信も多数あり、チェリーの公式HPには過密とも言えるようなスケジュールがずらりと並んだ。

「こんにちはー。僕ねえ、梓ちゃんが生まれる前からチェリーのファンなんだよね。やばくない?」

「すごーい! 大先輩、もかのこともよろしくお願いしますっ」

お披露目ライブが好評だったこともあり、『あずもか』の握手会レーンは大盛況だった。新メンバーを一目見たい、一言を交わしたいというファンが長蛇の列に並んだ。

「こんにちはー。梓ちゃん、初めての握手会楽しい?」

「はいっ! チェリーファンの皆さん、優しくって楽しいです!」

杉本梓は十四歳、中野もかに至っては十二歳、小学六年生だ。それにも関わらず、二人は一日中笑顔で大勢のファンとの握手会を捌ききった。

その『神対応』ぶりはさらに話題を呼んで、全国握手会が進むにつれてレーンの列は伸びていった。



リリースイベントと握手会を繰り返し、季節はあっという間に春になった。

最新シングルは握手会の盛り上がりの成果もあってか、デイリーチャートとウィークリーチャートが共に二位という結果になった。それは正真正銘、新メンバーがグループに受け入れられたことの証であった。

その結果に誰よりも喜ぶあずもかの二人は十五期の初シングルを出した八年前を彷彿とさせ、なんだかキュンと懐かしい気持ちになった。

リリースイベントの最後は、お台場ガンダム前広場で行われた。

「あずもかが入ってきてくれて、こうしてシングルチャートで素敵な順位を頂けて。ファンの皆さんが二人を受け入れてくれたことが嬉しいです。ありがとうございます。そしてそれはあずもか二人の努力の結果でもあると思います。二人はこれからのチェリーを引っ張っていってくれる、大切な二人です。私もリーダーとして、そして私たちメンバー全員、二人に負けないように頑張っていきたいと思います」

広場には大勢のファンと、そして通りがかりに立ち止まってくれた一般の人々。それらの群衆を前に、小春は演説のように堂々と話す。小春はこれまでどちらかと言えばパフォーマンスで引っ張るタイプだったけれど、リーダーとなってからはファンの前で話す機会が増えた。台本には「朱堀:話す」とだけ。完全なフリー。それは信頼の証であり、責任でもある。

小春が深くお辞儀すると、たくさんの歓声と拍手が降り注がれた。吐息を一つ、胸が上下するのが見えた。ああ、と私はまるで自分自身のことのように安堵した。

「ありがとうございます。これからも、私たちチェリースフレについてきてください」

「それじゃ、最後はもちろん、この曲です!」

「みんな、待ってたよね? お待たせしました!」

小春のトークをMCの私が引き継いで、お礼を重ねる。直後、私たちの両脇から二人の天使が跳ねるように飛び出してきて、元気よくイベントラストの曲の名を告げた。

最後にとっておいた、シングル表題曲。梓ともかのデュエットから始まる、二十期のための曲だ。

若いというよりもむしろ幼い二人が歌う、恋の歌。背伸びした歌詞だけれど、それは期待の裏返しでもある。

「いつか、歌いこなせる二人になってほしい」。

かつての私たちが、過去の先輩たちがそうであったように。

そんな思いを知ってか知らずか、あずもかは縦横無尽にステージを跳ねまわっていて、私たちも二人に負けじと駆けまわった。



シングルのキャンペーンが終わるとすぐ夏がやってきた。

夏のチェリースフレは様々な音楽フェスに参加した。アイドルフェスではメインステージのトリも務め、貫禄のステージを見せつけた。

それと同時にソロの仕事も多彩かつ活発だった。

十五期の高矢美子はアイドルフェス出場をかけた新人アイドルたちの全国オーディションのMC兼特別審査員として全国を飛び回った。同じく十五期の朱堀小春は秋の月九ヒロインが決まり、番宣のバラエティ出演を中心にテレビで見ない日はないほどだった。

十六期の原田笑美はチェリースフレ加入前から続けているファッションモデルとしてファッションショーに出演した。十七期の星乃ゆきは池袋のサンシャイン劇場で行われた舞台にオーディションで勝ち上がり、主演女優として一定の反響を呼んだ。

十八期の四人は同期ユニット『アメリカンチェリー』として五つの音楽フェスに計七日間出演する武者修行の夏だった。

十九期の秋山花凛と菱川綾は雑誌のグラビアに出演し、ツーショットで雑誌の表紙を飾った。

二十期のあずもかはソロの仕事はなくグループとしての活動に専念したが、その甲斐あってかデビューからたった半年とは思えないほど歌唱・ダンス・フォーメーションどれを取っても成長著しいパフォーマンスだった。



夏の締めは単独野外ライブだった。

千葉の海の近くの芝生があるだけのだだっ広い公園にステージを組み、約二万人のファンを迎えた。

この夏ライブのために作られた新曲と新衣装。浴衣モチーフの衣装はメンバーによって少しずつデザインが違う。

私の衣装にはヘアアクセサリーやスカートの裾にピンクのリボンがふんだんにあしらわれていた。小春の衣装にはひまわりがあしらわれていて、夏の太陽によく映えて素敵だった。

ライブは春夏の新曲に歴代の曲から選りすぐられた夏曲、ライブ定番のアッパーチューンの曲、そして日暮れに似合う優しいバラードで『ハズレ無し』のセトリ。

最初から最後まで、メンバーもファンもハイテンションのまま駆け抜けた。ウォーターキャノンの演出に使われた水は十トンを超えたらしかった。

ライブが終わる頃には肌が真っ赤でヒリヒリと痛んだ。しっかりと日焼け止めクリームを塗ったはずが、大量の汗とウォーターキャノンで全て流されてしまったらしかった。周囲を見渡すと他のメンバーも全身真っ赤っかで可笑しかった。

「これじゃあ明日からガングロアイドルグループだね」

「スフレだけに、こんがり焼けちゃったねー」

「おっ、うまい!」

「やだあ、真っ黒なアイドルなんて可愛くなーい!」

アンコール後のMCで私とゆきちゃんがケラケラと笑う横で、本気でショックを受ける笑美ちゃんがとても可愛らしくて、前髪が額にへばりついた横顔が美しかった。

大丈夫、日焼けした笑美ちゃんも可愛いよ、ってライブが終わったら言ってあげようと思った。

私たちの、充実の夏が終わった。


夏のライブの一週間後、九月の初週にマネージャーに呼び出されて事務所に行った。

会議室に集められたのは私と小春、そしてゆきちゃんという不思議なメンバーだった。

そして会議室に入ってきたのはマネージャーの大池さんと若木さん、ライブ演出の三代さん。

そのメンツを見て、私と小春はハッと状況を理解してしまった。

「今日来てもらったのは……もう、分かってるみたいだけど。星乃から、二人に伝えることがあります」

「はい。……はるちゃん、みぃちゃん。私、星乃ゆきは今年いっぱいで、チェリースフレを卒業させてもらいます。相談もせず決めてしまってごめんなさい。この夏、舞台の稽古をする中で、前々から舞台は出させてもらう度に好きだなって思っていたけど、それが今年はより強く、ここで戦いたいって、そう感じるようになりました。それで、この間のライブリハ前に大池さんと若ちゃんに相談して、今年いっぱい、ということで決めました」

孤高の十七期。複数人の加入が常であったチェリースフレにおいて、一人加入は四期と十七期の二度しかない。

ゆきちゃんは加入当初から自分の世界が確立していて表現力がピカイチだった。二年前に演技の仕事をもらうようになってからはいっそう磨きがかかっていて、それはゆきちゃんにとって強みであるのと同時に今のチェリーにとっても武器だった。

ゆきちゃんがいなくなるのは、グループにとって大きな損失だ。

「それは……もう、決定なんですね」

私が尋ねたのは、ゆきちゃんではなく、その横。マネージャーの二人にだった。

「残念ながら、そうだ。本人の強い意思もあるし……星乃には卒業後、来年からうちの女優部門に移ってもらうことが決まっている」

「秋ツアーの千秋楽がゆきの最後のコンサート、卒業公演になります。来週、ファン向けにも発表して、その前日には他のメンバーにも伝えます。三代さんには既に、ツアーから卒業公演までの一連の演出をお願いして、準備がスタートしています」

すべてはもう動き始めていた。

先輩たちが卒業ときはそれが当然と思っていたけれど、いざ自分より後輩が先に卒業するとなると、えも言われぬショックがあった。

「二人には、ゆきの卒業後のチェリーのことと、初めてメンバーの卒業を間近で体感するあずもかのフォローの話をしたくて今日先に二人を呼びました」

前回、私と小春がこの会議室に呼ばれたのは約一年前、十四期の雛奈ちゃんが卒業するときだった。

「次は十五期の時代だよ」と雛奈ちゃんは私たちに微笑んだ。そして「次のリーダーは小春に、サブリーダーはみぃちゃんに。チェリーを十五期の二人に、任せたい」と前リーダー・雛奈ちゃん直々の指名を受けた、その日のことを思い出す。

あの日決めた、覚悟のことを思い出す。

「……はい。分かりました」

大池さん年内のスケジュールを取り出し、私たちに説明を始めた。現体制の終わりと新体制の始動、そのカウントダウンはもう始まってしまった。

私はひとつ息を大きく吸い込んで、飲み込んだ。よし、と心の中で気合を入れてスケジュールと向き合った。

けれどそのとき私は、自分の気持ちでいっぱいいっぱいで隣の小春の表情を伺うことができていなかったことに、後になって気づいた。



星乃ゆき、卒業後は舞台女優へ。

そのニュースはファンにとって、驚きよりも納得の方が大きかった。星乃ゆきは近年女優業、特に舞台での仕事が増えており、いつかこの日が来るだろうという予感は以前からあったものだった。

チェリースフレの事務所には女優部門があるが、そちらはアイドル部門に比べてあまりパッとしない。まだ十七歳という若さ、華も十分ある星乃ゆきがアイドルを辞めるのは惜しくもあるが、ここで本人の意向を汲むことで他の事務所に出ていかれることなく、新たに女優部門の顔としたいのでは――。

そんな怪しい業界の噂話も聞こえてきた。

それでも、チェリースフレは卒業発表にも悪い噂にも動じず、『卒業興行』とも呼ばれる全国握手会・全国ライブツアーを完遂した。


ライブツアーの千秋楽は埼玉のアリーナステージだった。

一万五千席は即完売。ライブビューイングも全国で開催された。

星乃ゆきが自ら選定に携わったというセットリストはファンの予想を大きく裏切るものだった。自身のソロ曲は歌わず、センター曲も八曲あるうちの二曲のみ。一方でこの一年間で一度も披露されてこなかった所謂『干され曲』がいくつも選曲された。

予想外のセットリストにファンは驚かされたが、ライブは期待以上のものだった。

『干され曲』の卒業生パートの多くは星乃ゆきに割り当てられており、そのどれもが彼女の魅力が存分に発揮された『神曲』となっていたことが要因としては大きかった。

十七期加入当時にリリースされた楽曲によって五年間の成長を伝えるだけでなく、最後の最後に新たな輝きを見せつける。

これまで『チェリーの女優』と呼ばれこの先本物の『女優』となる星乃ゆきが、けれど一番『アイドル』として輝いた日だった。


「来年、私たちチェリースフレはデビュー二十九周年を迎えます。OGの先輩たち、そして今日卒業する星乃ゆきちゃんから受け継いだチェリーを、私たちでもっともっと大きくしたい。今の私たちが最高で最強だって、証明してみせます。だからこれからも、三十周年も、私たちについてきてください」

「チェリーは常に変わりゆくグループだけど、常に今が、今のメンバーが一番だって、最高だって思ってもらいたい。三十周年に向けて、まだまだやれることはたくさんあると思っています」

だから、よろしくお願いします。そう高矢美子と朱堀小春が深く頭を下げたのを見て、他のメンバーもお辞儀をした。

アンコール後、最後のMCで語られたのは卒業するメンバーのことだけではなく、未来のチェリースフレたちについて。

三十周年まで、あと一年とちょっと。その実感に昂る気持ちが湧いてくる。

卒業と加入を繰り返し、常に変化し続けるチェリースフレに一度として同じ日はない。変化と成長。未知への期待がライブへのスパイスとなる。

『みこはる』二人の挨拶は、チェリースフレのさらなる進化を予感させた。



ライブ翌日。朝はいつも通り十一時過ぎに起きたけれど、夜は珍しく外出をした。

行き先は渋谷。銀座線のホームから長い長い階段を降りて地上へ出る。大通りから一本外れた小道を進む。ビル群の中に小さな看板を見つけると、そのビルの地下へ続く急斜面の階段を下っていった。

「いらっしゃいませ」

「予約のアカホリです」

「はい、奥でお連れ様がお待ちです」

隠れ家的なお店の一番奥に通されると、中から小春が「お疲れ」と声をかけてきた。

「うん、お疲れ」

「カシオレでいい?」

「うん」

メニューを見ずに馴染みのお酒といくつかの小皿を注文する。

月曜の夕方早い時間ということもあり、カシスオレンジとジントニックはすぐに出された。もう一度「お疲れ様」と互いを労って、お通しのキャベツを食べた。

「ライブ終わりはいつもここに来るの?」

「んー、まあ半々くらいかな。原宿で服買うときは原宿のご飯屋さんに行くから」

家でのんびりしたい私とは対照的に、小春には『ライブの翌日こそ遊ぶ』というルーティンがある。ライブ前は時間がなくて我慢している分、ライブ翌日に抑圧から解放されて散財する、らしい。

今日も例に漏れず、小春の両脇には大きな買い物袋が四つほど置かれている。

「あ、新メニューのね、明太マヨのバケットがめっちゃ美味しいの。あとデザートのいちごのムースも。冬限定だから。あとで頼もうね」

「うん。いちごのムース、いいね。気になる」

ライブの余韻なのかショッピングハイなのか、今日の小春はやたら饒舌だった。

私たちは昨日のライブの反省会と今日小春が買ってきた服の品評会を二時間休みもなく喋り続けた。

「まさか、ゆきちゃんに先越されるとは思わなかったね」

「うん、びっくりしたけど。でも、ここ最近は演技のお仕事で引っ張りだこだったもんね。思ったより早かったけど、もう納得してる」

「卒業はタイミングなんだよね。きっと、ゆきちゃんにはこのタイミングだったんだろうな。……あのね」

「うん?」

小春が変な間を置いた。

しん、とした空気が私の心の体温を下げる。

「みぃこには悪いけど、私もそろそろかなって、思ってる。卒業」

「……うそ」

「ごめん。本当」

私の悲痛を、小春はきっぱりと拒絶した。

「ひなちゃんが辞めてから、ずっと考えてた。私のタイミングはいつだろうって。考えてるうちにゆきちゃんに先を越されちゃって、びっくりしたけど。でも昨日のライブをしながら、ああ、今ここしかないって直感的に思って。……それでアンコール、みぃこの挨拶を聞いて、予感は確信に変わった」

「わたし?」

「そう。今のチェリーが最強で最高だって証明したい。みぃこそう言ったよね。それで私、ハッとしたの。今だって。三十周年の前に、卒業しようって」

「私、そんなつもりで、言ってない!」

「分かってるよ」

分かってない! そう叫ぼうとして、けれどできなかった。

小春の眼差しが、あまりにも、辛そうだったから。

「分かってるの。みぃこが、今のグループを守りたいこと。最年長としてチェリーを引っ張っていこうと頑張ってくれてること。あの挨拶だってそういう意味だって分かってる。……でも、分かってほしいの。私も、チェリーがもっともっと、大きくなってほしい気持ちは、一緒だよ」

「……分からないよ」

声が震えていた。私は泣かずにいるのが精一杯だった。

小春の辛そうな表情は、私の鏡の姿だった。

「ハタチになって、私自身の将来と、チェリーの未来を考えてた。私はもっと、歌でも、演技でも、もっと上を目指したい。けど、チェリーのことも大切。だからチェリーに恩返しをしてから卒業したいって、ずっとどうしたらいいかなって思ってた。昨日のみぃこの言葉でその答えが分かったんだ。私が辞めることが、チェリーの成長と、そして……チェリーに注目を集める、きっかけになる」

そんなのって、ないよ。

私は小春のことが、分からなくなってしまった。

「……私は、みこはるで、三十周年のステージに立ちたいって、思ってた」

そして小春も、同じ気持ちでいてくれるのだと思っていた。

二人でチェリーを引っ張っていく。三十周年に、私たちがチェリーを大きくするんだって。

だからこその昨日の挨拶だったのに。

「うん、分かってる。だから、ごめん。一緒に立てなくてごめん。……でも、私が卒業することで、チェリーに世間の注目が集まる。そこで最高のパフォーマンスをすればチェリーは一つ上のランクに昇ることができる。チェリーにはワンランク上のステージで三十周年を迎えてほしい。チェリーのために、私は私にやれることをしてあげたい。どうせいつか卒業するなら、今、チェリーに恩返しする形で、卒業をしたい。だからどうしても、今なの」

小春の言いたいことの理屈は分かる。卒業はアイドルにとって大きなビジネスチャンスの側面があるのは隠しようもない事実。そしてそれは、人気メンバー、エース格であればあるほどメディアに取り上げられ、一般人の目に止まる可能性が増える。

そしてチェリーは、加入と卒業を繰り返して成長してきたグループだ。誰かが卒業すれば、誰かがその抜けた穴を他のメンバーの成長で埋め、さらに高みへ進んでいくだろう。それは三十周年の前に、成長のために、必要な試練なのかもしれない。

その理屈は分かるのだけれど。

それでも私は、分からない。分かりたくなんて、ない。

なんでそれが、小春じゃなきゃいけないの。

「私がチェリーを辞めたら、みぃこがチェリーを、ワンランク上に連れて行って」

そんな、残酷な願い。呪いのような、祈り。

だって、小春が言ったのに。

「みぃこが一緒なら、大丈夫だよ」って。

小春と一緒に立ちたいステージがあった。見たい景色があった。

小春がいない、チェリーなんて。

「……あんな挨拶、しなければよかった」

吐いた言葉は、氷点下の冷たさだった。


長い長い沈黙の末、先に席を立ったのは小春の方だった。去り際、「私のいなくなったチェリーを、よろしくね」と小さく呟いた。

それは鈍器のような重さで私の後頭部をガツンと殴った。

小春がどんな顔でその言葉を言ったのか。うずくまるように俯いていた私にはそれを知ることはできない。

楽しみにしていたイチゴのムースは食べ損ねてしまった。

その夜私は一睡もせず、ずっと小春の去り際の言葉を反芻していた。



年が明け、冬に行われた二十九周年ライブ。

毎年恒例の周年ライブで発表されたニュースはチェリーファンを震撼させた。

高矢美子、卒業。

誰よりもアイドルど真ん中だった彼女の、人気も実力も兼ね備えた彼女の、あまりにも唐突な卒業発表だった。

三十周年も目前で。そして年末のライブでもあんな挨拶をしていたのに。

なにより、今日も最高で最強のライブだったのに。

ライブ終演後、SNS上は大荒れに荒れた。流言飛語もネット中を飛び交った。

良くも悪くも、その日のライブは注目を集め、メディアでも高矢美子の卒業は大々的に取り上げられた。


去年の春以上にタイトなスケジュールで高矢美子の卒業前最後の全国握手会兼ツーショット会は行われた。握手券・ツーショット券は即完売。高額転売も取り沙汰された。

ファンの中にはイベントに合わせて全国に着いていく遠征ファンも多く、会会場は異様な雰囲気だった。

「ね、みぃちゃんなんで卒業しようって思ったの? なにきっかけ?」

「もうワンランク上に、ステップアップしたいなって思って。せっかくのハタチだし、後悔しないようにって感じかな」

「卒業したらなにしたいの?」

「いっぱいあって、数え切れないくらい! まずは歌かな、でも、マルチにいろいろやりたいし、そうなれるように頑張りたいな」

「僕、みぃちゃんが卒業しちゃったらチェリー他界しちゃうよ」

「だめー。私が卒業したら、私の分も小春とチェリーのこと推さなきゃだめだよ」

「じゃあ、僕もかちゃん推しになるね」

「いいよ! あずもかは未来のみこはるだから、今から推しておくのおすすめだよ」

「オッケー。みぃちゃんが卒業したら、注目しとく。でも、卒業してもみぃちゃんのことはずっと応援するからね」

「ありがとう! 嬉しい。卒業後も頑張るね」

世間の悪声やゴシップを物ともせず、高矢美子は卒業の日までアイドルであり続けた。


高矢美子の卒業ライブは夏の野外で行われた。

去年の夏の二倍のキャパシティ、そして二日間開催という挑戦のライブ。

けれど蓋を開けてみればそれは握手会同様に即完売の激戦ライブとなった。

会場は高矢美子の出身地でもある神奈川。全国からチェリーファンが高矢美子の卒業を見届けるために神奈川へ集結した。

夕方四時からのライブは太陽が落ち始めているとはいえ暑く、ファンの熱気と混ざって体感温度は四十度以上に思えた。

ライブは初めからノンストップでアップテンポな曲が続いた。メンバーもファンも汗が止めどなく出続け、ウォーターキャノンで浴びた水と同じくらいの汗をかいた。

髪型も気にせず振り乱し、真っ赤な顔で踊るチェリースフレは『水も滴るいい女』だった。

ライブのセットリストは二日間で大きく異なっていた。まるで三十年分のチェリーを二日間に濃縮したかのようだった。初代の曲、黄金期と呼ばれた時期の曲、そして最新曲までを絶妙なバランスで組まれており、曲を歌い出すごとにファンから「おおっ」と歓声が起こっていた。

それは高矢美子の卒業ライブというよりはまるで、『夏版三十周年ライブ』と呼んで遜色ないものだった。

二日間を通して歌われた曲はたった一曲、十五期の始まりの曲。その曲は両日ともアンコールのラストに歌われた。

青春の甘酸っぱい恋を歌ったアイドル・ポップス。

曲の結末で高矢美子と赤堀小春が少年少女の代わりに手を繋ぐ。永遠のような刹那のような瞬間。

けれど。次の瞬間、高矢美子はその日その手をそっと離してしまった。

朱堀小春の顔がくしゃりと歪む。今にも泣き出しそうな表情で、高矢美子の瞳をじっと見つめる。もう一度、その手を掴もうとして、手が震えていた。

高矢美子はそんな朱堀小春を見つめ返すとふっと嬌笑を浮かべ、そのまま背を向けステージから立ち去ってしまった。

悲痛な表情をした朱堀小春だけがスポットライトに照らされ続けていた。

高矢美子はステージに戻ってくることなく別れの挨拶もなく、跡形もなく消えてしまった。

僕の推し・高矢美子は、卒業してしまった。



半年ぶりに見る、チェリーのライブだった。

あの日からずっと、来ることのできなかったその場所。久々のその空気に身体が馴染む感覚があった。

三十周年ライブは、過去最大のキャパシティ。アーティストなら誰もが憧れる到達点の一つ。それを埋めるには、新規ファンの獲得は必須だった。

あの日のライブは大きな話題を呼んでいて、その甲斐あってかチケットは無事完売。

SNSではチェリーのライブに初めて行くという書き込みや昔応援していて久々に見に行くという書き込みが目に付いた。

席は運良く、ステージが見渡しやすいブロックの最前列だった。もしかすると、メンバーが近くの通路まで来るかもしれない。その期待に胸がときめき、自然と口角が上がる。


会場内のBGMがフェードアウトし、照明が落とされる。始まりを告げるOVERTURE。

長いこと見に染み付いたコールは半年ぶりでも自然と声が出た。

ポップアップリフトに押し出されて現れた、十三人の少女たち。

真っ白な衣装に身を包んだ十三人のその表情は力強く、自信に満ち溢れていた。

「三十周年! 今日という日に来てくれて、本当にありがとう! 最高で最強な私たち、その目に刻んでください!」

その中でも一際輝くのは、チェリーのリーダー・朱堀小春。

その煽りに客席がどっと湧いた。最初からボルテージは最高潮。

そこにぶつけられたのは、今日この日のために作られた最新曲だ。

積み重ねてきた数多の青春と積み上げていく未来。出会いと別れ。葛藤と成長。

自身の人生よりも長い、三十年という年月の重みをもった曲を、十三人はアイドルらしく可愛らしく歌い上げた。

ライブは夏同様に新旧曲を織り交ぜて展開され、旧ナンバーでは卒業メンバーのサプライズ登場もあり、新旧揃い踏みの特別ユニットにファンは大いに盛り上がった。

終わってみれば出演メンバーは総勢二十五人。最後は全員でチェリースフレのデビュー曲を歌いフィナーレを迎えた。

「今日、三十周年という日を迎えられたことに本当に感謝しています。ありがとうございます。ここに辿り着くまでにたくさんの方々がチェリースフレに携わってくださっています。OGの先輩方、マネージャーさん始めスタッフの皆さん、私たちを育ててくれた両親、家族、そしてなにより、過去や現在私たちチェリースフレを応援してくださったファンの皆さん。今日ここに来てくださった皆さん。私たち十三人だけでは今日、このステージに辿り着くことはできませんでした。過去から現在までの積み重ねがあって、一歩一歩進んできたから今、この景色があります。こんな素敵なステージに立てたこと。本当にありがとうございます。……そして、私たちはこの積み重ねを、未来に繋げる責任があると思っています。ここはゴールじゃありません。四十周年、五十周年、いつかは百周年まで。チェリースフレというグループが、メンバーが変わってもずっとずっと続いていけるよう、そんな魅力いっぱいなグループであり続けられるよう、メンバー、スタッフ、ファンの皆さん一丸で頑張っていきたいと思っています」

最後の挨拶は感謝と決意だった。

どこまでも誠実な言葉を紡ぐ彼女の姿はチェリースフレ現体制の象徴と言っていいだろう。

「私たちに、これからもついてきてくれますか?」

分かってるくせに。答えなんて、決まっている。

分かってるくせに聞いてくるのだから、朱堀小春はあまりにも、ずるくて、可愛い。

ファンが今日一番に盛り上がり、歓声が地面を揺らすほどだった。

「ありがとうございます」

メンバー全員がお辞儀する。拍手の雨が降り注ぐ。

頭を上げたメンバーの目には涙が浮かんでいる。笑美ちゃんやあずもかはぼろぼろに泣いていた。

その中で唯一、小春だけが、笑顔で立っている。

私はその笑顔をブロック最前列から静かに見上げながら、その笑顔を守れたことが誇らしかった。


End.

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甘酸っぱい笑顔 三砂理子@短編書き @misago65

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