脳洗い
中柴ささみ
脳洗い
今日、いつものようにお風呂場で脳を洗っていたら、めずらしくあちらから話しかけてきた。
「ねえ、ちょっと気になることがあるんだけれど」
泡だらけの脳が言う。
「なに」
袖を濡らさないように目一杯腕まくりをしたわたしが答える。気をつけていたはずなのに、もうパジャマのお腹のあたりはお湯でびしょびしょになってしまった。わたしはいつも、食器や顔や脳を洗うときにはどれだけ注意していても服をびしょびしょにしてしまうのだ。世の中の人々はもしかするともっとうまくやれているのかもしれないが、そんなことは知りようもない。
脳が何か言うようだ。
「君、最後にお風呂に入ったのはいつ?」
急な質問に少々面食らった。今まで何度か脳と会話をしたことはあったが、わたしのことについて尋ねられたのは初めてだったからだ。
「さあ、いつだったかな……。一昨日、いや、三日、うーん、四日くらい前じゃないかな」
わたしのような生活をしている者にとって日数を数えるというのはたいへん高度で難しいことなのだが、世の慣習に倣って、比較的長く睡眠を取ったあとで一日がリセットされる、という方式をとって申告した。……正しく数えられているかかなり不安ではあるが。
「あのねえ、いつも綺麗にしてくれるのはありがたいけれど、せっかくぴかぴかになったって、お湯から出て戻る先であるところの君自身が垢でべたべたなのってけっこう気持ちが悪いよ。風呂場に来ているのにさ、なんで君は風呂に入らないの?」
どうやら脳は呆れているようだ。わたしは答える。
「それは確かに申し訳ないと思ってるよ……。でも、そんなにしょっちゅう体を洗う必要があるとも思えないんだよね。ほら、こんな生活だしさ。脳は頻繁に洗わないと困るけど、わたしのことは三日や四日洗わなくたって平気だよ」
入浴はあまり好きではないのでなるべく必要最低限で済ませたいというのが本音だけど。だってお風呂は面倒だし、何よりその間にお風呂場の外に脳を置きっぱなしにしなければならないのが嫌なのだ。表面が乾いた脳は壊れやすくなるし、戻すと頭がひりひりする。
そろそろいいかなと呟いて、シャワーの栓をひねる。泡だらけの脳はいつ見ても滑稽で面白い。思わずふふ、と笑い声が漏れた。それを聞いた脳は少しだけむっとしたように、というのは気のせいで、実際はわたしの様子など全く意に介していないのかもしれない。脳のことはよく分からないのだ。シャワーヘッドを掴んで脳にぬるめのお湯を浴びせると、しわしわの斜面を泡が滑り落ちていく。泡がお湯にのって流れていく様子を眺めるのは、脳を洗うときのわたしのいちばんの楽しみだ。泡とお湯はしばらくふたり一緒に行くけど、排水口にたどり着くとなぜか急に仲違いしてお湯が泡を置いて流れて行く。取り残された泡は困ってオロオロしているうちに、後から来たお湯たちに邪魔だ邪魔だと押し流されてしまう。
わたしがお湯を止めるのを待って、脳がまた口を開いた。
「あのねえ、要不要の話をしているわけではないんだよ。そりゃあ風呂に入らなくても生きていくことはできるよ。不潔だと思わないのかって聞いているの」
「お風呂は嫌いだから」
そう言うとわたしはタオルを取りに行くためにお風呂場の外に出た。
そうして脳の話を強制的に終わらせることに成功した、はずだったのだが、脳は全くあきらめていなかったらしい。というのもあれ以降どうも脳がうるさい。不潔!とか馬鹿!とか風呂入れ!とか、四六時中言いたい放題言っている。他ならぬわたしの脳なのだ、すぐに飽きて静かになるだろうとタカを括っていたのだが、なぜか中々に諦めが悪い。今までわたしのことには全くの無関心だったくせに、どうして急に干渉してくるようになったのだろう。なんでそんなに怒ってるの、と何度か尋ねてみたけど、うるさい馬鹿風呂入れの一点張りでまともに会話もしてくれない。わたしが折れて入浴するまでずっと騒ぎ続けるつもりなのだろうか。ふう、と少し大きな息をついた。いつだって脳と喋るとろくなことがない。
それから数日間、脳はわたしに入浴を要求し続け、そしてある日、ぴたりと静かになった。深夜にクーラーのタイマーが働いて冷風がおもむろに止んだときのように、ずっと鳴り響いていた脳の声が止んだのである。その頃にはわたしにとって脳の声はある種の環境音やもっと言うと自分の心音のように常に当たり前に存在するものになりかけていたので、脳が急に黙ったことにもしばらくは気がつかないほどだった。まるでわたし自身のエンジン音であるかのように常にやかましく鳴っていた脳の声が止んだことに気がついたとき、わたしは少々面食らった。わたしに入浴させることを諦めたのか? あんなにしつこく騒いでいたのに?
とりあえず、脳に声をかけてみる。
「おーい」
……脳は答えない。以前の通り、めったに喋らない脳に戻ったのかもしれない。
もう一度声をかけてみる。
「おーい」
……やっぱり脳は答えない。少し心配になってきたので、脳の様子を見に行ってみることにした。と、驚いたことに脳がいない。いったいどこに行ったのだろう。ここ数日は存在を無視し続けていたけど、実際、脳がいないとわたしはとても困るのだ。なんとしてでも見つけて戻ってきてもらわなければならない。
脳を探して家中を歩き回る。もう特に返事は期待していないにも関わらずおーいなどという間抜けな呼びかけを続けながら、リビング、キッチン、玄関、そして、お風呂場。脱衣所を通り抜け、浴室のドアを開ける。そこに脳はいた。
脳は脳自身の脳を洗っていた。脳は、まさに脳自身の脳にシャワーを当てているところだった。脳自身の脳のしわしわの斜面を、泡が滑り落ちていく。
ああ、これで全てに納得がいった。脳が執拗にわたしに入浴を要求していたのは、このためだったのか。脳にも脳があり、そして、わたしが脳を洗うように、脳もまた脳自身の脳を洗いたかったのだ。ただ騒ぎ続けているように見えたのも、抜け出す機を伺っていたということなのだろう。秘密の式事が見つかった脳はばつが悪そうにしている。わたしから抜け出すのは想像を絶するほど大変だったに違いない。
「勝手に、ごめんね」
居心地悪そうに、水しぶきでびしゃびしゃになっている脳が謝る。
「いいよ」
わたしはゆるす。それほどに脳洗いは大切なのである。脳は、こまめに洗わないと大変なことになってしまうのだから。
脳洗い 中柴ささみ @kame_kau
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