煙ズム
ゑデン
第1話 Pink Star Burst
「薬をもったな……」
6号室の男は愛らしく佇む女に言った。街中に溢れる広告やCMでつねに繰り返し何度も眼にする女は女神のように美しく、バビロンの聖なる女神の化身はいつものように繰り返して何度となく同じ事を言う。
「すべての辛い症状に、速攻性の効き目があなたを救う。朝、昼、夜。1日3回毎日続けてお得な増量パックで新登場……」
ふくよかに高鳴る混沌な胸のふところに、外にそりかえした白くしなやかな両手の平で△を作ると、透き通るガラス細工のような細い指で完成された△から片目をのぞかせた。
「存在するものはすべて光り……」
火をともし、そこから出るケムリを吸う。火を支配することができる人間にだけ許された神、プロメテウスの力とでもいうものか。そもそも立ち昇るケムリにつつまれた真実の行方に、本能というものが感じる狂気に満ちた世界も、ケモノの
微細な粒子の塊がゆらぐ白いケムリが口と鼻から大量にあふれ出て、遠く闇夜に広がる黒い海へと吐き出される。0・01ミクロンのケムリが無風でよどむ東京湾の空へ、まったりと革新を持って舞い上がってゆく。
腕や足にプロテクターを付け登山用のザックを背負い、テント・シェラフ・毛布を括り付けたモトクロスバイクに跨り、ドブ臭く薄汚れた暗い海を眺める
バイクのエンジンを掛けると股の間に鼓動する鉄の塊を感じる。エンジンを吹かし、コールタールみたく黒光りした海面に浮かぶ貨物客船の船底へバイクを滑り込ませ、トラックやコンテナなどが隙間なく積まれた駐車スペースの奥にバイクを固定する。
船のフロントで卍は個室の鍵を受け取り、緩やかに上下する客室通路を進んで巴と一緒に部屋へ入った。小さなシングルベッドが二つ置かれた狭いワンルームの個室には、壁に丸い窓が一つ有って外の黒い海面がのぞける。二人は背負っていたザックをベッドの上に置き、腕や足に取り付けたプロテクターを外した。
「Hビデオでも流してるんじゃない? 」
TVのリモコンを卍がいじると映画が映り、懐かしい音が耳に触れる。巴もTVに眼をやると、画面には Easy Rider が映っていた。
動きを止めて顔を見合わせた二人は、気が効きすぎて間の抜けたデジャヴみたいな感じに失笑するも、TVのボリュームを最大に上げる。 J Hendrix の歌う If 6 Was 9 に、乾いたギターのリフが外の通路まで響き渡れば、しだいに大きくなってきた船のエンジンの鼓動とギターの波動が共鳴するように、船は巨体を陸からゆっくりと離し始める。
空と海との境もない暗黒へ汽笛を鳴らし、船の巨体が海上へと船行する。卍と巴は甲板に上がって、遠ざかる陸地に霞んで広がるバビロンの灯りを見詰めた。
生温い海風に吹かれる卍は、胸元に潜ませた
ケムリをゆっくり吸い込むと、海上の闇に赤い火が鮮やかに浮かび上がり、卍の顔をおぼろに赤く照らした。口と鼻から大量に溢れ出す白いケムリが風にゆられて、暗い海上の空へと舞い上がって消えて行く。
赤く火が灯る
鮮やかに卍と巴を捉えるバビロンの輝きが、やがては美しくも朽ち果て死臭を放つケモノの
笑えるバビロンの幻から船は徐々に遠ざかって行き、闇夜の海へと滑るように吸い込まれ、暗黒の曼荼羅へワープする。
次の日、船はどこまでも続く透明な空の下、深い
「午後には港に着くわ、そしたらここを目指す……」
眩しい光に濃い緑色のサングラスをかけた卍は、指に嵌まる
吸い込んだケムリを肺いっぱいに溜めた巴は、卍の広げた地図を覗き込み、「OK ! 」と言ってケムリを吐き出す。そしてもう一度ケムリを吸い込み
船の舳先へ凭れかかり、巴は潮風を浴びて遠く光溢れる水平線に眼をやると、大きく背伸びをして肺いっぱいに溜め込んだケムリをゆっくりと吐き出す。ケムリで覚醒された脳神経は限りなく空と海と光との堺に引き込まれるように滑り込んでゆき、空間と同化して見事に調和し、消えゆくケムリと無限の第三空間へ広がってゆく。
真紅に染まった片眼を手の平で押さえると、海を照らして眩しく輝く太陽を頭上に感じながら、無意識に蒸発した父親が持っていた本の一節を口走る。
「それは、悪が義の前から退く時に起こるだろう。悪は永遠に終わるであろう。そして義が世界の基準として、太陽とともに現れ出るであろう。驚くべき奥義を止めておくすべての者は、もはや存在しない。この言葉は確実に実現し、この
その時卍は何かを言ったか? 光に霞んで揺らいで見えたが、笑っていたのは確かだ。巴は卍をこの世の何よりも、誰よりも信頼している。
歳は一緒の腹違いの姉弟で白人との間の子の姉の卍。親の都合で離れて暮らしていたが、高校に入って一緒の生活になる。
子供のころからテンカン持ちだった巴は、高校へ入るとヤバイぐらいのストレスに、医者から貰った薬を多めに飲んで堪えていたが全然ダメで。限界を超えると誰もいない教室で一人テンカンの発作を抑えるために、取り憑かれたように机を削って必死でいろんな図形を彫り込んでいた。
何故か子供の頃から発作が起きそうになると、巴は無意識にコンパスの針で机を削り、図形を掘って堪えていた。本人も無意識でやってる事で自覚症状が全くなく、あとで机に彫り込まれた色々な形の図形や何かのシンボルのような跡を見て首を傾げた。
そこへ卍が現れ、必死でテンカンの発作を抑えるために、震えて机をコンパスで削る巴の前に黙って腰掛けると、鞄から定規を取り出して巴が削る机の上にそっと置く。
「△にコンパス、あとは定規が必要ね……」
巴が必死に削っていた溝は、正確な△の図形だった。コンパスを持つ手を止めた巴は、虚ろに卍を見上げた。
「この△はピラミッドと同じで5次元を表している、当然よね。ここで
机に削られた△の溝の頂点を指差して卍は言う。そして黙って震える巴に微笑むと、腕を抱えて立ち上がらせ、「ちょっと来て! 」と、強引に人気のない校舎裏へ連れて行くと、「楽になるわ! 」と、火のついた
スローモーションのように口と鼻からケムリを吐き出す卍の、微かに紅く染まり始めた瞳の奥を、巴は震えながらのぞき込み、直感で卍を信用して初めてケムリを吸い込む。
肺にケムリが入ってくると体がカッと熱くなり、毛細血管が拡張して全身の毛穴が一斉に開いたように感じて、すぐに堪えきれず猛烈に咳き込んだ。咳き込むごとに目から火花が飛び散る思いがする。ケムリの糸を引く
卍は黙ってケムリをくゆらせ、紅い眼をして笑みを浮かべている……。
やがて咳が治まると、今にもテンカンの発作が起きそうな最悪の状態だったのが嘘のように跡形もなく消えていて、体が一発で楽になる。
巴の眼は紅く染まり始め、今まで自分がシンクロしていた世界と確実に違った世界へ足を踏み入れた気がして、初めて巴は多次元と魂が繋がり共鳴してゆく。
しなやかで瞬間的な心と体の変化に思わず笑みを漏らした巴は、体が宙に浮き上がりそうに感じて、「すごい……」と、溜め息をつくように口走ると、半笑いがいつまでも止まらずにいた。
それからは学校で発作が起きそうになると、内緒で卍にケムリを吸わせてもらい、巴は発作を抑えていた。日が経つにつれ巴の症状は目に見えて改善され、子供の頃から死ぬほど苦しめられていたテンカンの症状が、あっという間に完治する。
今まで自ら救いを求めて、白衣を纏った
世間的に容赦なくヒステリックで、ナイスでメディカルな内緒の火遊びは、卍と巴の魂と脳細胞を著しく活性化させる。精神衛生上夜な夜なバビロンのクラブでケムリをくゆらせ、音と光の海の底の底へと何度も潜っては、チャクラを開かせ浮上する。
もっとも感受性が多感で豊かなこの時期に、深紅に染まった瞳の卍と巴は、立ち昇るケムリの先に確かに、片眼の開く音を聞いていた。
ハーフで美人な卍はどこのクラブへ行っても特に目立って視線を集めるが、卍は男に興味はなく、左手の薬指の内側に Like, a, lady と自分でタトゥーを入れている。たまにクラブで好みの女と出会えば、姉弟でナンパした。
高2の夏の終わり、夜中にやってる西麻布の雑貨屋を出た所で突然パトカーから降りてきたゾンビに囲まれ、隠す間もなく 二人とも
たかが
いったいこの国は何をそんなに、徹底的に恐れているのか……?
卍と巴には疑念がわいていた。その疑念はだいたい見当は付いていたが、やがて鑑別所に於いておこなわれる矯正という名の全体主義的な脅しと狂気の再洗脳を繰り返しアンポンタンに施され。
残念なことに当然ながら、卍と巴の脳にも魂にもゴーストにももはや、自由は
その行為は卍と巴のチャクラをさらに開眼させて改めて目が覚めた二人は。出所後ビッチの
大陸へ渡った卍と巴は
混沌の炎に包まれし屍が一握の灰となり、風に散り大河に流れて行く様が。夕闇に包まれた大河のほとりで
火柱を立ち昇らせ灼熱の炎に身悶えする死は、大河を凍らせ美しく輝き、気の狂れそうな恐怖を食べて尚、大きく育つ。
チャクラを開く通過儀礼は、卍と巴の潜在意識の裂け目を覗き込み、植え付けられた虚構のどん底へと無限に広がる、反システムで自滅的なバッドトリップを無限ループさせてゆく。
行き切った二人はその後、雑然と下品でナイスでイケてるカオスなビーチが永遠と続く、熱帯東南アジアの眠らない不夜城に暫く住み着く。そこで小遣い稼ぎをしているうちにアジアンマフィアの一員となり、各国でゲリラ戦の戦闘に参加し、混沌の楽園で死線を超えるロシアンルーレットな日々を漠然と過ごしていると、必然的に悪魔の計画がチラ付いて見えた。
いつわりと解りきったこの世界をいまさら確かめるつもりもないが、日本へ戻って来た卍と巴は紫のケムリが誘うままに船に乗り、笑える狂気に支配されるバビロンを後にした。
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