第5話 アイしてる人
「僕の心も体も、あの人のものなのかもしれない」
付き合って数ヶ月後に、嘉治さんは苦しそうに言った。自分はあの人を忘れられないのだと、あの人の呪縛から逃げられないのだと、疲れたように捲し立てた。
「別れましょう」
自然とそんな言葉が出てきた。嘉治さんが一彦さんのことを想う度に、私も苦しかった。お互い楽になるために、別れた方がいい。
嘉治さんは目を見張って、迷うような顔をしたけれど、
「…………はい」
私の中の何かが、音を立てて崩れ落ちた。
「何? あんた、あのファザコン男と付き合ってたの?」
中橋さんに嘉治さん──田沼さんの事情は伏せて田沼さんと付き合って別れたことを話すと、中橋さんは呆れたような顔をした。
「別れて正解だよ。彼、なんかいかにも陰湿そうな感じがしたから」
陰湿。中橋さんが形容した言葉に笑ってしまった。確かに陰湿な感じだったかも。
「加藤さんにはもっと良い男がいるって」
中橋さんは励ますように私の肩を叩いてくれたけれど、私の気持ちは晴れなかった。
田沼さん。人柄が良くて、弟のような人で、お父さんをあいしている人。
お父さんが吸っていた煙草と同じ銘柄の煙草を吸っている人。お父さんに囚われている人。そのために苦しんでいる人。
田沼さんと別れて、私は一度だけ田沼さんが吸っていた煙草と同じ銘柄のそれを吸った。それを吸うと、煙草を口にくわえる田沼さんの姿が浮かんだ。……嗚呼、囚われているのは、あの人だけじゃない。
その日、私は煙草を吸いながら田沼さんのことを思って、涙を流した。唯一の家族を失った、孤独な彼の幸せを祈った。
田沼さんとは思わぬ再会をした。田沼さんが急患として、私の病院に運ばれてきたのだ。田沼さんは彼の職場で倒れたらしい。貧血と診断された彼は一日入院することになった。
病室の外からこっそり田沼さんの様子を伺っていると、智子さん、と名前を呼ばれたため、ドキリと胸が跳ねた。
「いるんでしょう。入ってきてください」
躊躇いながらも病室の中に入ると、ベッドにいる田沼さんが私を見て微かに笑った。
久しぶりに見る田沼さんは更に痩せたように見えて、彼の目の下にはクマがあった。私は中橋さんが口にした陰湿という言葉を思い出した。
「お久しぶりですね。お元気でしたか?」
私はそれなりに、と答えた。田沼さんは良かった、と呟いて、笑みを消した。
「あなたと別れてから……度々ある夢を見ました」
田沼さんは目を伏せて話し出す。
「夢の中で、僕は父さんにあなたを恋人として紹介している。父さんは嬉しそうに笑って、僕達を祝って、僕達の幸せを願ってくれる。そんな夢」
「…………」
「僕は……父さんと、普通の親子になりたかった」
田沼さんの目元に涙が滲んで、頬の上を零れ落ちた。
「平日はあまり喋らないけれど一緒にご飯を食べて、休日は一緒に将棋や釣りをする……そんな普通の親子に、なりたかった」
涙は止めどなく溢れ出して、田沼さんの頬を濡らしていく。
泣きながら本心を吐露する田沼さんをただ見つめていると、田沼さんは涙を拭いて私を見て、私の手を取った。
「智子さん。僕はもう……逃げない。あなたからも、父さんからも」
私の手を、ぎゅっと握りしめる。
「だから……また僕の恋人になってくれませんか」
──嗚呼。
崩れ落ちたものが、再び積み上がるのを感じていると、田沼さんは空いた手を私の背中に回して私を抱きしめた。
「智子さん。愛してる」
涙が溢れ出して、私は田沼さん──嘉治さんにしがみついた。泣きじゃくる私を、嘉治さんは優しく抱きしめて、背中を摩り続けてくれた。
それから、数年後──
私は嘉治さんと結婚して、彼との子供をもうけた。出産は無事に成功して、女の子が産まれた。嘉治さんは娘である赤ん坊を抱いて、彼女の笑顔を見て照れたような顔をした。その姿を見た私は思う。きっと、彼は良い父親になるだろう。
結婚してからも、嘉治さんは変わらず私を智子さんと呼んだ。嬉しそうに、幸せそうに笑いながら。私は変わらず彼のそれに弱い。
嘉治さんは、変わった。……でも、嘉治さんの中から一彦さんは完全には消えていないのだろうと思った。きっとこれからも、一彦さんは嘉治さんの中で生き続ける。それを今は穏やかな気持ちで受け止めることが出来る。
嘉治さんと、彼との子供と眠りながら、私はある夢を見た。
一彦さんが孫が出来たことを喜んで、孫である私達の娘を腕に抱きながら、嘉治さんと飲んでいる。嘉治さんは酔っ払って、鼻歌を歌っている。やがて酔い潰れて眠る彼らを私は微笑ましく見守っている。
そんな、幸せな夢だった。
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