ピクニックへ行った夜、リビングのソファーで私はふと、目が覚めた。

 何か、不審な音が聞こえたからだった。私は起き上がり、家の中を見回す。


 二人暮らしには多少手狭な一戸建ては壁から屋根まで、全て木で出来上がっていた。

 その木々の隙間から漏れだすように、さめざめとした泣き声がする。


 まさかと思いながら、私はソファーから立ち上がった。

 足音を立てないようにゆっくりと歩き、自分の部屋の前まで辿り着いた。ドアを、そっと開ける。


 微かに差し込む月明かりで、ベッドの上に腰掛けて、ピュートが目元を擦りながら洟を啜っているのが見えた。

 一体何と声をかければいいのかと悩んでいると、顔を上げたピュートの潤んだ瞳と目が合った。


「ごめんなさい、起こしちゃったね……」

「いや、気にしないでくれ」


 私は、もぞもぞと言いながら、ピュートの隣に座った。

 お互い、下を向いたまま、言葉を探すような沈黙が流れたが、ピュートが先に口を開いた。


「今日のピクニック、とても楽しかったよ。久しぶりにお日様の下で遊べて、サンドイッチもとてもおいしくて、すごくすごく、嬉しかった、幸せだった」

「そうか。良かったよ」


 私は、「なぜさっき泣いていたんだい?」と尋ねたい気持ちを飲み込んで、深く頷いただけだった。


「でもね、一生懸命走っても、ぼくは飛べなかったんだ」


 ピュートの声のトーンが低くなったので、私は相槌も返せなかった。


「籠や家の中だけでも、飛ぶのはとても気持ち良かった。それに、前のように歌えないのも、なんだか寂しかった。やっぱりぼくは、インコだった頃が、一番幸せだったんだなって、気付いちゃったんだ」


 そう言ったピュートの両眼から、今まで我慢していた涙が、再び流れ始めた。


「すまなかった……。私は、ピュートと一緒に、話が出来て、一緒に、外出することも出来て、すっかり浮かれてしまっていたんだ。君の気持ちを、全く考えていなかった……」


 自分の気持ちを正直に話していると、私はさらに自分の身勝手さを自覚した。

 これまで、家族だと思っていたピュートが、私に気を使って、密かに泣いていた事実が、石のように心に沈んでいくのを感じた。


「おじいちゃん?」


 私は心配そうなピュートに顔を覗き込まれて、やっと自分の頬が濡れていたことにはっとした。


「おじいちゃん、泣かないで」


 ピュートが、洟を啜りながら尋ねた。


「いや、いや、いいんだよ。そんな顔しないでくれ」


 私はピュートをこちらへ抱き寄せた。

 優しく肩を包み、右手でピュートの髪をそっと梳く。子供特有の、甘い匂いをかいだ時、また一粒の涙が零れていた。






   □






 翌朝、ピュートには「町へ行く」と嘘をついて、私は隠し持っていたコンパスを元に、西へと歩いていた。

 目指すのは、森の奥、ピュートの姿を変えた魔女の住む家だった。曇り空のせいで、普段よりも暗い森の中を歩く。


 私は、魔女にピュートを元のセキセイインコの姿に戻せないか、交渉するつもりだった。

 昨晩、ピュートは「泣いてすっきりしたから、もう大丈夫だよ」と言っていたが、それでもやはり、彼の本心は別の所にあるのだろうと、私は感じ取っていた。


 魔女の元に行くということをピュートに伝えなかったのは、彼に過度な期待をしたくなかったからだ。

 魔法なんてものとは、微塵も関係のない生活をしていた私には、ピュートにかけられた魔法がどういうものなのか、それを本当に解くことが出来るのかなどを知らなかったからだ。


 もちろん、突然ピュートに魔法をかけたように、底意地の悪い魔女だったなら、私も無事で済まないだろう。その危険性も、想像していた。

 しかし、ピュートの魔法を解けるのは彼女しかいないため、何が起きようとも、彼女を頼るしかなかった。


 ピュートが帰ってきた時の話を元に、朝の太陽に背を向けて、私は森の中を進み続けた。コンパスがあるとはいえ、道のない森を歩き続けるのには不安が強い。

 この森には狼などが住んでいないことは分かっているが、それでも木々が空を隠すほど生い茂る、薄暗い森の中を一人で歩いていると、原始的な恐怖心が湧いてきた。


 振り返って確認できるようにと、炭で木にバツ印を付けながら進んでいた。

 懐中時計を見ると、十一時だった。もう、出発してから三時間も経っていたのかと思いながら顔を上げると、目線の先に、白い煙が上がっているのが見えた。


 あそこに、家があるかもしれない。

 私は疲れてきた自分の足腰を希望で奮い立たせて、そちらの方向へと歩き始めた。


 数十分後、私は一軒の家を遠巻きに眺めていた。

 煉瓦で出来たその一戸建ては三角の屋根で、玄関の廂には銅製のベルが吊り下げられていた。そこから数歩離れた場所に、錆びついた青銅のポストがあり、その上には同じく青銅の風見鶏が刺さっている。


 私がポストのすぐ横を通り過ぎようとした瞬間、風もないのにそこの風見鶏が、私の方へ向いた。


『あんた、クニフェへの客か?』


 突然、その風見鶏から、若い男の声がした。

 一歩踏み出した足をぴたりと止めて、穴が開くほどその風見鶏を見詰めた。


『オレはセッキ。ここの門番兼、使い魔だ。来てくれて悪いが、うちの魔女は、酷く恥ずかしがり屋で、いきなりの来客にはビビっちまう。オレが呼ぶから、ちょっと待っててくれ』

「あ、ああ」


 やはり、固い嘴を上下させて、その風見鶏が喋っていた。

 その多少口が悪い彼の言葉に頷いた。


『おおおーい、クニフェーーーー、客が来たぞーーーー』


 セッキと名乗ったその風見鶏は、雄鶏らしいよく響く鳴き声で、家の中の魔女へ呼びかけていた。

 ぱたぱたと、家の中で誰かが走る音がして、ガチャリと木製の扉が開かれた。


「いらっしゃい」


 扉から出てきたのは、小柄で夕焼けのような色のワンピースに、薄墨色のエプロンを付けた女性だった。

 彼女の首から上は、白い陶器製の一人分の鍋だった。ご丁寧に、黒い取っ手の蓋まで被さっている。


「どちら様?」


 どこで喋っているのか分からないが、魔女はささやかで柔らかな声でそう言うと、小首を傾げた。鍋の中身が入っているのかどうか分からないが、蓋が落ちることは無かった。

 声を聴いても、私は彼女の年齢を推測できなかった。


「私は、この森で暮らしている、ベネディクト・ロイジールというものだ。画家をしている」


 呆気に取られていた私は、一先ず彼女へ自己紹介をする。

 そして、ここへ来た理由を抽象的に表す言葉を放った。


「君が、魔法で人間にしてしまったインコの飼い主だ」


 しばしの沈黙があった。鍋になっている顔の表情は分からないが、何かを考えているようである。

 彼女は、扉の中へ入って、それを開けたまま、私に声をかけた。


「どうぞ」


 私は静かに頷いて、彼女の後に続いた。


 家の中は想像していたよりもずっと普通で、通されたキッチンを兼ねたリビングにも、一般的なテーブルと椅子が置かれていた。窓はキッチン側にあるだけで、全体的に薄暗い。

 少し変わっていると言えば、本棚に見たことのない文字の本が収められていたり、天井からいくつもの草花が吊るされていたりする点だろう。低めの棚の上に置かれた、頭が丸くて胴体が筒状の木の人形は、一体なんだろうか?


 私はキッチンが見える方向の椅子を薦められ、彼女はその向かいに座った。

 舞っている細かな埃が、日光によって反射しながら、私たちの間に積もっていくようだった。料理の途中だったのか、いい匂いが少し漂っている。


「実は、ピュートの、インコのことで相談があって……」


 私は、人間になったピュートと共に暮らしていること、そして彼が元の姿に戻りたがっているということを話した。

 魔女は、何も言わずに、時々頷くだけだった。そして、私が話し終えると、魔女はその真っ白な顎に手を当てて、何やら悩んでいる様子だった。


「私、こうして魔法をかけて、自分の顔を誤魔化すくらいに羞恥心が強くて……、出来るだけ人とも動物ともかかわらないようにしているの」


 彼女は恥ずかしそうに、頭の鍋の輪郭を撫でた。

 そういう風に私には見えているが、彼女は普通の目で私を見て、口を動かし、自分で顔を触っているのだろう。


「でも、この魔法は結構疲れるものだから、誰もいない時は解いているんだけど、もしも不意に顔が見られたら、家の周りに仕込まれた魔法が発動するようにするのね」


 ひそひそ話をするような音量で、魔女が語った。

 私は、ピュートは思いがけずに魔女の顔を見てしまい、その魔法をかけられたのだろうと想像した。


「その発動する魔法というのは、動物を人に変えるものなのか?」


 私の質問に、魔女は唐突に黙り込んだ。

 首の角度が下を向いて、何やら迷っているような雰囲気だった。


「……それは、相手が一番なりたくない姿にしてしまう魔法よ」


 今度は私が言葉を失う番だった。

 ピュートは、そんな様子など、これまで一度も見せなかった。やはり、私に気を使っていたからだろうか。


「自分になりたくない姿になって、驚いている間に戻してあげて、もうここには近付いてもらわないようにするためなんだけど、人間になるのを見たのは初めてだったから、私も混乱してて、その間に逃げられてしまって、本当にごめんなさい」

「いや、それは、気にしないでくれ」


 私は辛うじて、そう言い返すことが出来た。

 そして、こうなった理由は、全て私にあるのだと考えていた。私がいつも、人が嫌いだという愚痴をいつも聞かされていたから、ピュートも人嫌いになってしまったのだろう。


「ピュートを元に戻すのは、可能なのか?」


 魔女はこくりと頷いた後、「ああ、でも」と付け加えた。


「もう時間が大分経っていて、その子も体に馴染んでしまっている筈だから、手間がかかるわ。……そうね、でも、折角なら」


 最後の一言は、急に言葉のトーンが高くなっていた。

 妙に嬉しそうに、彼女は私に提案した。


「手土産に、抹茶を持ってきてくれないかしら?」

「抹茶? 日本のお茶のことか?」


 私が尋ね返すと、彼女は突如立ち上がり、わくわくした様子で棚の上にある、謎の木の人形を持った。


「銘柄はね、この『こけし』って人形の絵が入っているものにしてね」

「……それは構わないが、日本から取り寄せるのに時間が掛かるのでは……」

「それなら大丈夫よ。隣町の日本ショップでも取り扱っているから」


 先程までの落ち着いた様子とは全く違う、わくわくしている彼女の言葉に、私は面食らっていた。

 それほど遠くない場所だから、頼むほどではないではないかという気持ちを飲み込んで、私は固く結んだ口で頷いた。


「用意出来たら、いつでも来てもいいからね。あ、セッキにはひと声かけて。あと、いくつか守ってほしいことがあるの」


 私は魔女からの注意事項を手帳に書き留めて、彼女の家を後にした。

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