さいわいなことり
夢月七海
前
ピュートが姿を消してから、今日で丁度一週間目だった。
もう、帰ってこないだろうと思いながら、しかし諦めきることが出来なくて、私は深夜十二時を過ぎても窓を開けたままでいる。
この窓から外へ出たのだったなと、暗い森の上に浮かぶ満月を見上げる。
いつものように、籠から出してあげている時間だった。この部屋の窓が開けっぱなしになっていることに気付かなかった、私がすべて悪い。
三カ月のセキセイインコが、一匹で生きていけるほど、この森は優しくないだろう。鴉や猫などの天敵は多い。
時折、拾われたインコが自宅の住所を話して、無事に帰ってきたという話も聞くが、ピュートは「おじいちゃん」もまだちゃんと言えなかった。
私が座るソファーのすぐ前には、真っ白なキャンパスが置いてあった。
数か月後、日本での個展が控えている。新作を発表するという約束もある。しかし、私は筆を持つ気持ちにはなれない。
ピュートが逃げたばかりの頃は、帰ってくるようにと願いを込めて、スケッチブックにピュートの姿を描き続けたが、その事すら今は苦痛となっている。
私は今日だけで、何度目かしれない溜息をついた。
その時、背後の玄関から、控えめなノックの音が聞こえた。
私は訝しげに振り返る。時計の針は、十二時三十分を指していた。
こんな夜の訪問者なんて、論な相手ではないだろう。無視を決め込もうとも思ったが、しかしピュートを拾った人物かもしれないという万が一を考えて、私は重い腰を上げた。
「……誰だい?」
ドアを開けて、不機嫌そうな声を発した私は、目を見開いた。
玄関口に立っていたのは、十歳ほどの少年だった。
真っ白でふわふわとした髪の毛に、白地に黒の波模様のマントを羽織り、中のシャツは鮮やかな水色だった。同じく水色のズボンで、靴下と靴はピンクも混じったベージュ色だ。
何より気になったのは、黒くてつぶらな両目の下に、それぞれ青っぽい痣があったことだった。
私は、恥ずかしそうにもじもじと、こちらを見ようともしない少年を、見ながら考えた。
ここから町まで五キロはあるのに、少年一人だけが夜遅くにいるのは不自然だ。迷子になったのか、家出でもしたのだろうか。
そう思っていると、彼は上目で私を見た。
その時、私はその瞳に、何故だか親近感を抱いた。
「ねえ、おじいちゃん」
美しいソプラノで、少年は話し掛けた。
その声すら、私には聞き覚えがあった。
「おじいちゃん、あのね、信じられないかもしれませんが、」
少年は、目を泳がせながらも、必死に話す。
まだ迷いが強く現れていた顔が、決意したかのように、私を見据えた。
「ぼくは、ピュートです。セキセイインコの」
□
ホットミルクの入ったマグカップに口を付けて、ピュートだと名乗った少年は一息ついた。
リビングのテーブルを挟んで、向かい合うように座り、彼のことをじっと眺めていると、不安そうに私を見つめ返した。
「あの、ぼくのことを信じてくれのですか?」
「ああ」
少年の服装と、目の下の痣がインコだった頃のピュートと一致していたため、私は迷わず頷いた。
それともう一つ、私が飼っているインコに「ピュート」と名付けたことを知っているのは、私以外にピュート自身しかいなかったからというのが、彼の言葉を信じる理由だった。
それでも、なぜ突然、外に逃げていたピュートが、少年の姿になって戻ってきたのかが不可思議だった。
「君は、一体なぜ、人の姿に?」
「……ぼくは外に出て、森の上を飛び回っていました。朝の太陽に背を向けて、ずっと飛んでいたら、一軒の家があったんです。そこに近付いてみたら、庭があって、お腹が空いていたぼくは、そこに降りたんです」
私がこの森の中の一軒家に居を構えてから、何十年と立っていたが、森のさらに奥に家があるのは初めて聞いた。
「畑の中に、女の人がいたのですが、ぼくは気にせずに、嬉しくて歌いながらカブの葉を啄もうとしました。すると、女の人が、くるりと回ってこちらを見ました。後ろ姿は普通だったのに、振り返ったその人の顔は、ブリキのジョウロになっていました」
ピュートはその瞬間の恐怖を思い出したのか、青い顔をして、マグカップを包み込む両手はカタカタと震えていた。
「ぼくはびっくりして、飛び立とうとしましたが、女の人が指を振って、何か叫びました。眩しい光に包まれて、ぼくは上と下が分からないくらいくるくると回っていたと思います。気が付いたら、ぼくはこの姿になって、地面に座り込んでいました。そのまま、ぼくは女の人の前から逃げ出したんです」
ピュートは、まだ信じられないという様子で、自分の小さな両手をじっと眺めていた。彼にとっては、突然人間になったことは、天地がひっくり返るくらいの衝撃だったのだろう。
ピュートの様子を見ながら、私は、一羽のインコを人間に変えてしまうのは、やはりただの女性ではないだろうと考えていた。
「その森の奥に住んでいた女性は、魔女なのかもしれないね。君は、魔法をかけられてしまったんだ」
「そうなんでしょうね。突然人間になってしまったのに、歩き方も手の動かし方も、喋り方も何故か知っているんです。これも、魔法のせいなんでしょうね」
どうして魔女がピュートを人間に変えたのかは分からなかったが、私は彼が帰ってきたことがこの上なく嬉しかった。その姿が、人間でもインコでももはや関係ない。
ピュートは大きくあくびをして、眠そうに目を擦ったが、私の視線に気がついて、恥ずかしそうに目を伏せた。
「お話の途中で、すみません」
「いや、いつもなら君は寝ている時間だからね。人間の子供も、こんな夜更けまで起きていないよ。今夜は、私のベッドで眠りなさい」
「はい。ありがとうございます」
私が立ち上がると、ピュートも立ち上がり、ぺこりと頭を下げた。
そのしぐさからよそよそしいものを感じてしまい、私は悲しくなってしまう。
「ピュート、敬語はやめてくれ。私は、インコだった頃から君のことを、自分の子供のように思っているんだ」
「はい……いえ、うん。わかったよ、おじいちゃん」
はにかんだピュートの笑顔を見て、私もやっと相好を崩した。
雛の時から三カ月間育ててきた私にとっては、再会した時からのピュートの態度には、心に引っかかるものがあったからだ。
安心した私が、自室に行こうとピュートに背中を向けた時、「ねえ、おじいちゃん」と話しかけられた。
「どうしたんだい?」
「あの、一回でいいから、抱き締めてほしいの」
その一言と、ピュートの潤んだ瞳に、私は改めてはっとした。
家から飛び出して、きっと恐ろしい目に遭いながらも森の上を飛び続け、やっと食事をありつけると思ったら、突然魔女に人間にさせられて、彼はどれだけ心細かったのだろうか。その点への配慮を、私は欠いていたのだ。
「ああ、一回とは言わずに、これからも何度も、抱き締めてあげるよ」
「ありがとう、おじいちゃん」
両手を広げて、ピュートの体を抱き締める。ピュートのことを、こんな風に体全体で抱き締める日が来るなんて、夢にも思わなかった。
予想もつかなかった一週間ぶりの再会に、私はピュートの体温を感じていた。
□
私とピュートとの生活は、平和で静かなものだった。
ピュートの服や歯ブラシなどの私物を揃えた。まだ、彼は私のベッド寝ているが、近い内に新しいベッドを買う予定だった。
ピュートは私の作った食事を、いつも美味しそうに食べてくれた。ベーコンとレタスとトマトのサンドイッチがお気に入りだと言っていた。
他にも、インコの時には食べられなかったお菓子なども、私が買ってくると喜んでくれる。
以前よりも、町へ出る回数がぐんと増えた。
私が子供服やお菓子などを買っていくので、店の者は怪しんでいた。彼らは、私が独身であることを知っているからだ。
しかし、理由を尋ねてくることは無かった。
私がいつも、不機嫌な顔をして買い物をしているからだろう。
人と関わることを嫌って、私はこの森の中に家を建てて、一人だけで住み着いた。
ピュートを飼い始めたのは、ただの偶然だった。絵を届けた画商に半ば押し付けられただけであり、初めて動物を飼った私が、これほど愛情を注ぐなんて、今でも信じられないくらいだった。
人間になったピュートは何でも自分でやってくれたが、私が非常に心配して、彼につきっきりになってしまった。それ以外の時間は、買い物へ行っている。
結局、ピュートが戻ってきてからも、私はまだ絵を描けていない。
ピュートとの新しい生活から四日後、森の上は久しぶりに青空で覆われたので、私はピュートとともに、外出することにした。
目指すのは、森の中にある、開けた草原だった。
そこで遊ぶピュートの姿を描きたいと思い、私はキャンバスと絵描き道具を持っていくことにした。
ランチやレジャーシート、フリスビーとボールも用意したので、荷物が多くなってしまったが、ピュートが運ぶのを手伝ってくれた。
「おじいちゃんとお出かけできて、本当に嬉しいよ」
ピュートはランチボックスをえっちらおっちら抱えながらも、その顔は今まで見たことないほど嬉しそうだった。
私は彼の歩幅に合わせて、キャンバスとレジャーシートを抱えながら歩いている。
「今まではずっと籠と家の中だったからなあ」
「仕方ないよ。外は危ないし、戻れないからね」
ピュートは初めての家出で、外の危険が身に染みたのか、何度も頷いている。
そして、私の顔を見上げて、眉尻を下げて言った。
「あの時、外へ出てごめんなさい」
「あれは私の落ち度だったからね、気にしないでくれ」
私は本心で話したが、ピュートは「でも」と言いかけて口を噤んだ。
インコの頃のピュートと、人間の今のピュートとでは、感覚や考え方が全く異なるのかもしれないなと、私は改めて思った。そもそもが全く別の生き物だったのだから、仕方ない。
「それよりも、また帰ってきたことが、本当に嬉しかったよ」
「うん……。僕もすごくびっくりして、こうなったら、頼れる人は、おじいちゃんしかいないと思ったから……」
ピュートは耳をほんのり赤らめながら、口に微笑みを浮かべて、少し俯いた。自分の足元を、確かめるかのように歩いている。
私は私で、ピュートの「頼れる人」という言葉を、道中何度も反芻していた。私はピュートのことを息子のように思っていたが、彼にとっての私は父親のような存在だったのかと思うと、喜びだけに心が満たされていた。
森の中の家から十五分ほど歩いて、私たちは目的地の原っぱに辿り着いた。晴天の下を駆ける風が気持ちよい。
ピュートと黄色のレジャーシートを広げて、早速昼食にした。
「ハムエッグサンド、どうだい?」
「美味しいよ!」
「そうか。初挑戦だったが、上手くいったようだな」
無邪気に口いっぱいにサンドイッチを頬張るピュートの姿を見て、私は自然と笑みを浮かべていた。
仕事で写真を撮る時でも笑ったことのない私だが、ピュートとの新たな生活で、いつもよりも笑顔が増えているように感じる。
「ほら、ピュート、セロリも食べなさい」
「……ぼく、セロリは苦手なんだ」
「一枚だけでも食べてみなさい」
「はーい……」
私に言われて、ピュートは渋々、セロリの茎を口に運んだ。
まさしく苦虫を噛んでいるような顔をしていたが、「食べたよ」と言って、口を大きく開けて私に見せた。
「よしよし、いい子だ」
「えへへへ」
私に頭を撫でられて、ピュートはあどけなく笑う。
こんな、ささやかなピュートとのやりとりにも、私は幸福を感じていた。
絵描き仲間とも、近所の住民とも、家族とでさえ、関わるのを避けて、人嫌いを気取って森の中に引っ越してきたのだが、私は結局、心の底では人と話すことを求めていたのだ。
ランチを終えた後に、ピュートはフリスビーを取り出して、遊び始めた。
一人で出来るだけ遠くまで投げて、自分で取りに行く。前回よりも長く飛ばせたら、彼は「やった」と飛び跳ねた。
私はキャンバスを取り出して、ピュートの姿を描き始めた。
白いシャツを着た背中が、一生懸命走っている様子を、スケッチしていく。
背後から吹く風に押されるように、ピュートは落ちたフリスビーに向かって駆けていく。
目に見えない風の流れも、写し出すように描き取り、そして鉛筆書きの時点でも、空の青さと草原の緑を目に焼き付けていく。素早く動く右手は、まるで自分のものではないようだった。
久しぶりに、絵を描くことの喜びが湧き上がってきた。
今までは仕事のために描いていたのだが、この瞬間は、ただ自分のためだけに、ピュートの姿を描いていた。
「おじいちゃーーん」
フリスビーを右手に抱えて、こちらを振り返ったピュートが、大きく手を振った。
私は鉛筆を止めて、彼に手を振り返す。
ピュートの満面の笑みを見ているだけで、私の心が安らいでいった。
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