やっぱあたしって天才♪

 伊都国佐賀平野に「到」着した魏朝高官御一行様は、再び大荷物を舟に積み込み、有明海を南に向かって出向するわけ。

 で、卑弥呼様の話から想像するに、熊本県の八代付近に上陸。また大荷物を舟から下ろすのよ。これがつまり「南へ水行一〇日」


 そこから陸路、宮崎へ。Webマップツールで測定すると、霧島を越えて車で一六五kmの距離。山道の難所を歩き、当時の軍隊の移動距離である「一舎(一二~一五km)」を目安に、一日の移動距離を五~一〇kmと想像すると、まさに「陸行一月」の記述にぴったし。


 畿内説をる学者先生方は、

「一ヶ月も移動したら、とんでもない南方に到達してしまうじゃないか。九州から飛び出してしまうわ(ワラ)」

 なんて言ってるけど、そんなわけないじゃん。馬車も牛車もなく、いや荷駄車さえも無い高官一行が、大荷物を抱えて山道をどれだけ歩けるかっつ~の(笑)


 そう考えつつ、Webマップをぼんやり眺めていたあたしは、さらに気付いてしまった。この道のりって、半島帯方郡から宮崎までの、ほぼ最短・・ルートじゃん!!


 帯方郡・・・から女王国までの距離トータルは、一万二千里余と書かれている。つまり約九二〇km。あたしはツールを利用し、帯方郡比定地である韓国ソウルのちょっと上付近から、宮崎までの直線距離を測ってみた。なんと約八〇〇kmである。

 海路、沿岸航行でぐるりと半島南岸に回るロス、敵国狗奴国を避け有明湾を若干遠回りするロス、九州中央部に横たわる九州山地を若干迂回し霧島付近を抜けるロスを加算すると、まさに約九二〇km一万二千里余ではないか!?


 なるほど。そういうことだよ。――

 各経由地間の距離を、個別に足していくから一万二千里に収まらなくなるんだよ。水行千里ってのがまず、距離としてアバウトなわけだし……。全行程トータルで見れば、確かに一万二千里余で宮崎に辿り着くんだよ!!


(あははは。解決解決♪)


 邪馬台国九州説といえば、北部九州説が圧倒的に強い。なぜなら先日雄治も言っていたが、行程を伊都国まで消化した時点で一万五〇〇里を費やす計算になる。残りはわずか一五〇〇里(一一五km)なので、女王国は北部九州に決まってる……というのである。

 もしそうであれば、何故邪馬台国は、遠国統治のかなめとして一大率を伊都国に置いたのか。女王国が北部九州ではなくもっと遠国にあったからこそ、一大率を置く必要があったのではないか!?

 そういった、あらゆる論点に全て説明がついてしまう。また魏志倭人伝の行程記述が、極めて合理的であったことも判明する。


「へっへっへ~。やっぱあたしって天才♪」

 いや、まあほとんど卑弥呼様に教わったんだけどね(笑)


 あたしはそこまでの考察を、文章にまとめる。一時間がかりでまとめ上げ、歴史研究会グループウェアの掲示板にアップする。

 書込実行ボタンを押した瞬間、敬太郎君の新たなレスに気付いた。明日の西都原古墳群見学の件、敬太郎君もOKらしい。バイトを翌週に振り替えて貰えたんだとか。良かった良かった。


 あ、智ちゃんも何やらカキコしてるじゃん。――

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