ピクシー・リング

叢雲いざや

プロローグ

 夕暮れ時のサトウキビ畑を男が歩いている。重い鞄の中身は抗生物質だ。男の仕事はいくつものコロニーを回って薬を届ける事であったが、予定をもう三日も過ぎていた。重責感、罪悪感といった重苦しい感情が男の背骨を押し曲げている。


 男の属する組織は“旧世界政府”という。半世紀前、この地上を絶滅寸前に追いやった最終戦争――海を取り囲むように位置する左右の大陸、それぞれの覇者である大国同士が、お互いの沿岸部に大量のミサイルを撃ち込みあった。その核の熱が吹き上げた雲の情景を誰とはなしに、環状にキノコが発生する自然現象に擬えて“ピクシー・リング”と呼ぶようになった――を引き起こした責任者の末裔である。教育機関の復興が進まない中、政治家あるいは様々な分野のエキスパートとして、必要な知識を世襲的に受け継いできた人々だ。その知識で戦禍を免れた戦前のテクノロジーを用い、奇跡的に生き残った全人類に奉仕し贖罪するのが生まれながらに課された使命であった。


 男の目の前を子供たちが横切る。“平和を愛する者たち”の宿舎から出てきたところだ。

 この宿舎には巡礼者が滞在し、子供たちに説法を行う。最悪の戦争を止められなかった大人たちの失敗を、いかにしてあの災厄が起こったかを、過ちを繰り返さないための道徳を。彼らもまた、争いが起こる根本的な原因を無視して、ただ『祈り』『願い』を声高に訴えるばかりだった祖先の愚かさを悔いているのだ。


 男は町の酒場に入る。ここのマスターは年の頃四十前後、黄色人種にしては長身で、右の額から頬にかけて傷跡がある。彼はこの町の顔役で“斡旋屋”だ。“旧世界政府”、“平和を愛する者たち”、あるいはそのどちらにも属さない人々が彼に仕事を持ち込み、彼はそれを求職者に斡旋する。重い鞄の中身を預け、次いで報告書や新しい依頼書、報酬のやり取りに必要な書類を受け渡す。


「飲んでいくかい?」

マスターが男に、ラム酒の樽を指しながら言う。

「いや、もう発つものでね。心遣いありがとう」

男は三日の遅れを取り戻すために徹夜で移動するつもりだった。マスターは、あんたらも大変だな、と低くつぶやくと男に紙袋を寄越した。奢りだ、と言う。中身はサンドイッチと水、キャンディだった。

 礼を言うと男は忙しげに酒場を後にした。


 男は軽トラックに乗り込むとエンジンをかけた。この世界ではガソリンも車両も貴重だ。それを使えるのは“旧世界政府”の特権であった。デコボコな田舎道を古い古いトラックが走っていく。


 この世界の陸地は戦前の七割。人口に至っては〇.一パーセント。それでも、爆弾の粉塵で長らく黒ずんでいた空はかつての色を取り戻しつつあった。

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