第三話 吊るされた男
若い男の向かう先は、オールドバニーのほぼ中央らしい。
「絶っ対に見つけちゃうんだから! ブリルさんの目で《視た》奴は、何処にも逃げられないのよ!」
人混みに
曲がり角を曲がり。
曲がり角を曲がる。
――と、そこには。
「うわ……っとっと……。え………………?」
閑散とした石造りの広場の中央にある物を見たブリルの思考が、ぴたり、と停止する。
一足先にそこまで辿り着いていたらしい若い男は、のろのろと最後の数歩を踏み出すと、膝から崩れ落ちるようにして天を仰いだ。
「どうして……こんなことを……何で……!!」
その口から、悲痛な叫びが漏れる。
「おやっさんは……悪くないのに……! 悪かったのは俺だったのに……! 畜生ぉおおおおお!!」
振り上げた拳を、乾いた冷たい石畳に打ち下ろす。
何度も何度も。
やがて、拳が裂け、血が
「ちょ――ちょっと……ねえ、手が……!!」
「うるさいっ! 放してくれ!!」
止めようとするブリルを乱暴に振り払う。あまりに加減のない一振りでブリルは転倒して尻餅をついたがそれすら視界に入っていない様子で、ひたすらに自分を呪う言葉を吐き、拳を振り下ろす。
「――!!」
遅れて合流した三人の気配が背後に生まれ、キャンディアが息を呑む音が聴こえたかと思うと――。
「メイベル!」
「――承知しております」
とっ。
ブリルのすぐ横で軽やかな着地の音が鳴ったと思った次の瞬間、峻烈なるつむじ風を纏ったメイベルの姿が駆け抜けて行く。
目指す先にある物は、
すかんっ!
最後のステップで高く跳躍したメイベルが、刑台に吊るされた哀れな男の身体を繋ぎ止める縄を右手の一振りで解放し、そのまま宙で易々と受け止めて、ふわり、とメイド服のスカートを翻して着地した。
「メイベル――?」
「……」
慌てて駆け寄ったレイに、息一つ乱していないメイベルが言葉もなく首を横に振った。
遅かった――どうやらもう長くは持たないだろう。
「お、おやっさん! お、俺だ、ナイローだよ!」
そこに拳を鮮血で濡らした若い男が割り込んで来た。メイベルがその腕で抱きかかえていた身体をそっと横たえると、全身をくまなく覆う刑罰の跡らしき無数の裂傷を目にした若い男は一瞬躊躇する素振りを見せたが、己の感情に押されるように手を指し伸ばし、身体に触れ、何度も揺すっては呼びかけた。
「俺のせいだ! 俺がいけなかったんだ! ああ、頼むよ、お願いだ! 返事をしてくれ! なあ、返事を――!!」
「……ううう」
何度目かの呼びかけに、呻きが答えた。
「おお……ナイローじゃ……ないか。俺は……夢を見てるのか……?」
「夢じゃねえって! ああ、俺なんかのせいでおやっさんがこんな目に……! なあ、俺、あんたにどう
「こ――」
どんよりと曇った瞳から徐々に光が消えていく。
それでも男は言った。
「子供は……生まれたか……無事に……?」
「げ――元気なモンさ!」
若い男は溢れる涙を拭おうともせずに無理をして精一杯笑ってみせた。
「おやっさんのおかげだよ! 子供なんて俺もかみさんも初めてで、もうどうしたらいいか分からなくってさ……それでも元気でわんわん泣いて、かみさんのおっぱいにむしゃぶりついてちゅーちゅー吸っててさ。凄えよな!」
「ああ……そうか……そいつは……良かった……」
「お――女の子だった! きっと、美人になるぜ! そいつは間違いねえ! 名前も、決めてんだよ!」
「ああ……そうか……そうか……」
「かみさんが言ったんだ、おやっさんの名前を貰おうって! 俺たち二人とも親は死んじまってるからさ……世話になったあんたの名前を貰って――」
「ああ……そう……か……」
「でもやっぱ、フラウドリンってそのまんまじゃ男名だし、ちょっと変えないとさ……で、フラウって名前が良いんじゃないかって――」
「ああ………………」
「おやっさんにも……抱いて貰いたいんだ……俺たちの子を……! だから! だからさ――!」
「……」
目元を綻ばせたまま光を失った瞳が、ただ静かに虚空を見つめていた。
若い男がいくら答えを待とうとも、もう二度とその口から声が発せられることはなかった。
「ううう……畜生……! 畜生ぉおおおおお!!」
おおお……。
閑散とした広場の石畳に、若い男の
「……ねえ、レイ君。あの人って――」
呼びかけた先の少年の表情は、固い。
それを目にしたブリルの身体に止めどない震えが走った。
(レイ君、怒ってるんだ……)
レイは正面をじっと見つめたまま、囁きで応じる。
「……ええ、昨晩の門番です。間違いありません」
「うん――ち、違うの、そうじゃないの」
ブリルは、ブリルだけが知り得る情報を口に出す。
「同じ人だけど……ううん、気のせいじゃない。同じ門番さんだけど、何処か違ってるのよ。うまく言えないんだけど、急に歳をとったみたいな……」
「その身に受けた傷のせいではないでしょうか?」
「それが……違うのよ、メイベル」
低く潜めたメイベルの指摘に、ブリルは再び首を振って見せた。
「いくら酷いことをされたって、ああいう風には変わらないわ。傷とか表情だけじゃない。白髪も皺も増えてるの。頬もこけて皮膚にたるみがある」
「なるほど……」
レイは自分の目でまじまじとそれを確認しようとしたのだが、つい昨晩のこととは言え、記憶はそこまで鮮明ではない。やはり、ブリルの目は特別だ。
「さすがはブリルですね。そんなことまで分かるなんて凄いです」
「凄くなんて……ないよ……」
深い意味はなかった。
だがその一言は、今のブリルには心を刺すような痛みを与えただけだった。
「あたしの目、そこまで器用じゃない。あたしの感情の動きが大きければ大きい程、《視た》物を忘れることなんてできないから。あたしの気持ちなんてまるでお構いなしに、忘れたい一瞬であればある程、ずっと、ずっと永久に、亡霊のように付き纏うの」
普段のブリルであったなら、誰かの死に直面した今この場で《亡霊》という単語を持ち出すのはあまりに非礼だと詫びる気持ちが湧いたことだろう。
しかし、それすら気持ちの何処か外へと忘れてきてしまったかのように、ただじっと目の前の惨状を、その奇妙な紋様の浮き出た薄青い瞳に映したままブリルは言葉を繋いだ。
「そして……いつもあたしに問いかけてくるの――どうして《視ている》だけだったんだ、って。どうして手を差し伸べてくれなかったんだ、って」
静かに口腔に溜まった唾を呑み下し、最後に言う。
「――どうしてお前じゃなかったんだ、って……」
きゅっ。
すっかり冷え切って冷たくなった自分の手を握る暖かな感触に、ブリルは、はっ、と我に返った。そっと右側を見下ろすと、レイの青緑色の大きな瞳にブリルの泣き顔が映っている。
――え、泣いていたの、あたし?
「ごめんなさい、ブリル。もう言わなくていいですから。全て僕のせいです。これ、使ってください」
「うん……」
しかし、ありがとう、の一言が言えない。
たったそれだけの感情すら湧かない。
渡された白いハンカチを、そっ、と鼻先に近づけると、清潔そうな石鹸の香りとともに、レイ自身の臭いが感じ取れた。
暖かくて。
優しくて。
こんな小さな少年だというのに、包み込まれるような安心感を覚え、ブリルの心が徐々に温かみを取り戻すのが分かる。
やはりこの少年は、ブリルにとっての最大の謎だ――本当に、レイは一体何者なんだろう?
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