第2話
ホットミルクを飲み干して、化粧を直した玲子がバッグを選ぶのを待つ。想夜は、カップを洗う。羚はリビングの隅にあった花を束ねて、手に持った。いつも通りの、少し清潔感を意識したシャツを身に纏って、軽いブランド物のダウンジャケットを着込んだ。
ふと、愛の方を見ると、彼女は可愛らしいフリル付きのスカートの下に、黒く厚手のストッキングを履いていた。金糸を束ねて一つにして、それを赤いリボンで彩る。
「さて、準備できたか?」
想夜がそう尋ねると、羚と愛は共に頷いて、玲子の隣に揃う。玲子は既にばっちり化粧をキメていて、サングラスと帽子で、その身元を隠していた。艶めく黒髪はつばの広い帽子の中に仕舞われ、金の瞳が遮光グラスの中で光る。
「車頼んでおいたから、早く行きましょ」
楽し気に、大人げなく玲子はそう言った。着飾った二人の手を引いて、一歩。扉の外は、近辺が高級住宅街であることもあって、人の声は少ない。ただ、まだ動いている警察や救急の音がうるさかった。庭を出た先の、塀の向こう側で、少し車体の大きい黒塗りの高級車が待つ。運転手を立ってドアを開けていた。そこに我先にと愛が飛び乗り、羚もそれに続いた。運転手に困ったような顔で会釈すると、想夜は助手席に腰を下ろす。最後の玲子は、まだ空いているドアから、羚の隣、後部座席の端に身を落ち着ける。
「ショウちゃん、神社までよろしくね」
運転席に座った男性に、玲子は笑った。ショウと呼ばれた、運転手である男は、はいとだけ呟いて、シートベルトを締める。ショウは玲子の専属の運転手で、柳沢一家とも長く付き合いがある。不思議なことに、彼は想夜が生まれた時から、そこまで見た目が変わっておらず、玲子同様、美しいままで、現在の年齢が不明である。そんな怪しい男であっても、この家族からの信頼は厚い。
音を防ぐために、スピードをあまり出さず、大通りまで車体を動かす。すぐにサイレンが大きく聞こえた。未だ騒ぎは収まっていない。
「渋滞していそうですね。失礼ですが、ラジオを付けてもよろしいでしょうか」
若々しい声で、ショウが言う。
「えぇ、構わないわ。私も気になってたところよ。テロか何かがあったんでしょう?」
玲子の応えに、ショウはすぐにラジオを付け、ニュースを聞いた。ショウは玲子に答える前に、首をかしげる。
「テロだとしても、声明が出されていません。犯人達は逃亡したとのことですが、痕跡は綺麗さっぱり消えていて、よくわからないだとか」
あらまあ、と、玲子が鳴く。ショウの隣で想夜がスマホを動かし、ニュースを見ているようだった。
「でも銃の乱射事件とかとは違うでしょ。軍も動いてたみたいだし、声明未公開なだけで、やっぱテロでしょ」
大人ぶった言葉で、想夜は自分を武装した。ショウはにっこりと笑って、渋滞に差し掛かった目の前の道路を見る。
大人達の会話を無視して、羚と愛は、同じ窓の外を見ていた。警察や黒い軍服の男達が、道を走っている。何かを探しているというよりも、それは混乱している時の動きに近い。羚はそれを見ながら、眠たそうに欠伸を欠いた。
「羚様、神社まで少しかかるので、眠っていてくださって良いですよ。この先に、検問があるようで、やはり時間がかかるみたいです」
ショウの言葉に、花束を抱きしめて、羚は少し困ったような顔をする。その意味を考えた想夜は、一瞬だけ考え込んで、羚の方を見た。
「羚、花が枯れる前に、俺と歩いて行こうか。これじゃ、歩いた方が早いよ」
想夜の声で、ハッと、羚は目を覚ます。
「でも、悪いよ……二人を置いていくのも……」
羚がそんな風に言うと、玲子は止まっている車から、自分でドアを開けて外に出る。突然のことに、羚も愛も、想夜も目を丸くして、動けなかった。
「ショウ。先に行くから、駐車場に車を入れられたら連絡してちょうだい」
「承知しました」
玲子とショウはそんな対応をして、羚と愛を後部座席から降ろし、想夜を助手席から引きずり出した。
「良いの、母さん」
想夜が眉間に皺を寄せてそう言った。
「良いのよ。たまには外を歩いて気分を盛り上げましょ。お墓参りが終わったら、カフェの個室でゆっくりしてればいいのよ」
そういうことではないだろうと、想夜は口を開こうとするが、玲子はその唇に指を重ねる。
「お黙り。最初に歩こうと言ったのは貴方よ。お分かり?」
黙った想夜に、よろしい、と、玲子は笑った。
「玲子様」
ショウが、少し大きな声で、玲子を呼ぶ。何? と、玲子が体を捻ると、少し強張った表情で、ショウは言う。
「貴女なら大丈夫かと思いますが、お気をつけて。軍もそこら中におりますから」
ショウにそう言われて、玲子はにっこりと微笑んだ。
「わかってるわ。貴方も気を付けてね」
はい、とショウが言ったのを合図に、玲子達はガードレールを跨ぎ、歩道へ移動する。一瞬、軍人の一人が羚の目を見たが、すぐに羚は目を反らした。一種の恐怖を飲んで、羚は歩く。花弁が一枚、落ちたのが分かった。
「母さん、神社は人がいっぱいいるのかしら」
愛が、コツコツと足音を鳴らしながら、玲子に尋ねた。
「事件が起きてるすぐ近くの神社よ? いるわけないじゃない」
少し現実を馬鹿にしたように、玲子は甲高く笑う。彼女が悪女の役をやった時のそれと、そっくりであった。想夜は羚の隣に立って、玲子の言葉一つ一つに、困ったような表情を浮かべている。
「その方が静かにお参り出来るでしょ。きっとご利益も集中するから、とっても良くなってるわ」
彼女の前向きな言葉は、元気付くものも多いが、呆れられるものも多い。羚は玲子の言葉を咀嚼して、デパート方面からの異臭を拒む。
「本当に燃えてるのね」
独り言のように、玲子が言った。
「少し遠回りしましょ。嫌な臭いだし」
そう言って、小さく少し暗い路地に、玲子と、それと手を繋ぐ愛が入っていく。それを追いかけて、想夜と羚が早足で向かう。路地は薄暗く、建物が焼けるような異臭はしないが、煙草や近くの定食屋の換気の臭いがした。
羚は実の母と神社に行くときに、この道をよく通っていたことを思い出した。朧げだが、「実は大通りより、こっちの方が、私達にとっては危なくないのよ」と、母の輝夜が言っていたようなことを引き出す。
――――『私達』って、何でだったんだろう。
ふと、手を引かれて歩くことで、そんな疑問が沸いた。羚の母は、時折、まるで自分達が一般人とは違うようなことを言っていたのである。そうやって、羚に生き方を教えていた。
「羚? 大丈夫か?」
下を見てばかりの羚に、想夜が尋ねた。一歩前に出して、止まると、前にいた玲子と愛もこちらを振り返った。
「やっぱり眠かったか?」
心配そうに、想夜が言うが、羚はふるふると首を横に振った。
「でも――」
想夜が羚の顔を撫でた瞬間である。
むわり、と、鉄錆臭い異臭が、周辺を包んだ。その刹那、玲子が今まで見せたことの無い、警戒心をむき出しにした表情を浮かべて、愛を自分の後ろに回した。
臭いの根源は、路地の中でも更に細く狭い場所で、やっとのことで人が一人通れる程度のものである。そこから、カランカランと、アスファルトと鉄を打ち付ける音がして、ジャリジャリと、誰かの足音も聞こえた。途中、バキンと何かが折れる音がして、鉄の音は消える。
「……想夜、愛、羚君、動かないで」
玲子は懐に手を突っ込んで、構えていた。殺気というのだろうか。ピリピリとした緊張感の中で、玲子とその人影は間を詰めていく。人影は暗い路地から身を少しずつ出し、鉄錆の異臭を強めていく。
「――――あの、すみません。道を尋ねたいのですが」
それは一人の少年であった。銀の髪を中途半端に流して、その髪で顔の半分を隠し、少し高そうなファー付きのコートで身を包んでいる。髪の間から見える金の瞳は、何処か獣を思わせる。声変わりの時期を感じる声が、彼を更に少年とする。だが、青白い皮膚と、パッと見れば整っている顔は、少女のような可愛らしさを魅せる。
「神社に、大通りを通らずに行ける方法、ありませんか。お……僕、あまり人目に当たれなくて」
彼は隠れた半分の顔を見せる。それは、ズタズタに崩壊した、酷く吐き気すらも誘引する、もう半分の顔である。
ただ、それを見て、少し安心したような顔をした、玲子を、羚は見逃さなかった。
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