第10話「迫る不穏」
インドネシア 西ジャワ州バンドン フセイン・サストラネガラ空港
佐々木と岸野は、第1小隊の小隊陸曹の新島曹長、2小隊長の香坂三尉、2小隊陸曹落合曹長とともに、数分間これからの行動を話し合った。そして岸野と香坂、新島、落合が指揮してターミナルビルの防御を固めるべく部下を配置していった。佐々木は大使館員から手渡された携帯電話を取り出し、中隊長が持つ携帯電話を呼び出した。ありがたいことに電話は通じていた。
「中隊長、インドネシア軍の輸送機は我々を置いて逃げてしまいました。残留邦人は皆無事ですが、我々は空港ターミナルに置き去りになっています。警護のインドネシア軍も居ません。街の方角から銃声がひっきりなしに聞こえています」
佐々木は一通り報告すると、今野一尉の返事を待った。
『佐々木、そちらを救出する手段はまだ見つかっていない。必ず迎えを出す。民間人たちをなんとしても守り抜いてくれ。今、こちらは――』
唐突に会話が途切れ、話し中を示す電子音が鳴った。佐々木が携帯電話を耳から話して画面を見ると、圏外になっていた。たった今まで受信可能だったのだが、近くにある送受信アンテナの基地局が破壊されたようだ。とにかく状況は報告できた。後は中隊長を信じて待つしかない。しかし何時まで?
「速やかに
佐々木は衛星電話の開設を指示し、改めて防御陣地を確認する。
小さなターミナルビルを臨時の防御拠点にするため、隊員たちは一斉に行動を開始していた。民間人たちはビルの中央に集められ、空港の外と、スポットに通じる入り口の両方にバリケードを構築した。資材はビル内のあらゆる物が使われていた。インドネシア陸軍の残していった土嚢やテーブル、机などを置き、遮蔽物にする。入り口のガラスドアはあらかじめ外された。防弾には何の役にも立たない上、銃弾で破壊された場合には、破片が飛び散って危険だからだ。現在時刻は0100。夜明けまで六時間以上もある。
幸い衛星電話はしばらくして通じた。後続の部隊を送り出す手段が無いため、現状では救援に向かえないという。陸路での前進は現実的ではないとのことだ。
海自の護衛艦がヘリを搭載して向かっているため、それを待って救出するとのことで、それまでは何時間かかるか不明だが、とにかく耐えるしかない。
最小限の照明だけを残した、ほの暗いターミナルの中で、彼らはじっと救援が来るのを待った。民間人に子供がいないのは幸いだった。少なくとも大人ならば状況を理解してしばらくは我慢してくれるだろう。彼らが昨夜からほとんど何も食べていないと聞いた隊員たちは、携行してきた戦闘糧食を分け与えた。
中には不満を言ってくる者もいたが、非難に慣れた自衛官たちは冷静だった。
岸野も一休みしてビルのベンチに座っていた。自分の分の食事はすべて民間人に与えてしまったので空腹だった岸野は、それをごまかすために持参した熱中症予防の塩タブレットを舐めてしのごうとしていた。
佐々木は持久戦に備えろと指示を出していたが、早くも兵站面では食料の不足という課題が立ちはだかっている。飲料水は幸い空港内の売店にあったが、食品はスナック等しかなかった。もし本当に持久戦をするなら空港の外へ出て調達する羽目になるかもしれない。そんなことをとりとめなく考えていた岸野に近づいてきた女性がいた。
「あの、すみません」
女性は恐る恐るといった様子で岸野に声をかけてくる。
「はい、なんでしょうか」
岸野は億劫に思いながらも立ち上がると正対して聞いた。女性はまだ若く、パンツスーツ姿で腰ほどまである黒髪を後ろでアップにまとめていた。白い肌はインドネシアで日に焼けたらしく、健康的な色をしている。先ほど管制官達の言葉を訳してくれた民間人だ。
「コーヒーを淹れたんですが」
「いえ、結構です」
岸野は無表情な声を吐き出した。極度の緊張といら立ち、すり減った心の結果の無味乾燥さだった。目の前に立つ女性の目と、口元がほんのわずかだが、哀し気な、傷つけられた表情を見せていた。岸野は瞬時に後悔した。向けるべきではない感情を、向けるべきではない相手に突き付けたという後悔だった。
岸野は謝意を含んで微笑んだ。
「すみません……そういうつもりではなかったのですが。――コーヒーには興奮作用があるし、トイレも近くなるから……」
言い訳がましく言った言葉に、女性はようやく笑顔になった。
「判りました、待っててください」
しばらくすると、どこで調達したのかココアを淹れた紙コップを手に戻ってきた。どうぞ、と差し出されたココアを、岸野はありがとうと礼を言って受け取った。一口含み、おいしいです、と笑って見せた。
薄暗い蛍光灯の光と緊張した静けさの中で、彼女はにこりと、嬉しそうな笑顔まで岸野に施してくれた。優しい瞳が柔和に細められ、唇の端にえくぼが浮かぶ。
陽の光を思い出す優しい表情だと岸野は思った。
インドネシアにやってきて、初めてきれいなものを見たような気が、岸野にはした。
「あの、ありがとうございます。助けにきていただいて……」
岸野は意外な思いだった。感謝されたいと思ってここにやってきた訳ではないが、今思い返せば、ここにやってきたことを感謝されたことは今までなかった。
「いえ。これが私たちの仕事ですから」
岸野が言うと彼女は少し困った顔をした。
「それにまだ感謝されるのは早いですよ」
岸野はそう言って時計を見た。そろそろ自分も配置につかなくてはならなかった。彼女と話せたことは勇気になった。
「そろそろ行きます。……ありがとうございました」
岸野はそう言って空のコップを持って彼女の前から立ち去った。
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