5話 クライマーとファイター
長野県松本市 飛騨山脈穂高連峰
北アルプスの峻厳な山々は人を拒むかのように標高が増すにつれ険しくなっていく。標高が百メートル上がれば気温は〇・六五度下がる。すでに二千五百メートルを超える標高で、ハイマツ帯を過ぎ、登山道を無視して大岩の転がる岩場をトラバースで進んでいた。
景観に感動する余裕はとうに失せ、疲労が思考を支配し始めていた。荷物を置きたい、腰を下ろしたい、首と肩の血流を回復させたいという欲求に抗っていたが、もはや無視できるものではなくなってきた。それでも那智は前方警戒分隊の指揮を引き続き行い、部隊の進行を遅らせることなく進み続けていた。
途中には
そうした場面では山岳レンジャーである那智が隊員達の安全を確保する。ハンマーでハーケンを打ち込みながら先頭を登り、
登攀するバディを交替で
ザイルと自分のハーネスをカラビナで繋ぐ前に
人一倍登り降りをし、神経を擦り減らしながら前進を続けるが、疲労感を覚えるよりも分遣隊における自分の役割に満足していた。精鋭達の中で彼らの足を引っ張ることを恐れるよりも、役割があり、仲間に貢献できる方が気が楽だった。
そうしてようやく目標の地点へと到着すると、分遣隊長の剣崎が隊を分けた。主力と爆撃誘導を実行する火力誘導班に分かれ、火力誘導班は攻撃目標を見下ろすことのできる位置に
「寒っ」
警戒員として配置に就いた海保3曹が呻く。OPは尾根を外した斜面だったが、強烈な風に吹き晒されていた。
「早くポンチョを出して保温しろ」
那智はポンチョを被って顔をスカーフで覆う。頭部の放熱量は体の約八割で、頭部の保温は低体温症を防ぐ上で重要だ。また山地機動のレイヤリングは非常に難しい。動いていれば体は熱を帯び、立ち止まれば汗が冷え、たちまち体温が下がる。水は空気の約二十五倍の熱伝導率を持つため、湿度をコントロールし、肌から濡れを離す必要があった。ドライレイヤーやベースレイヤーなどレイヤリング用の服はすべて自費負担だが、レイヤリングに妥協は出来ない。
ポンチョは体に直接風が当たるのを防いでくれる。それに加え、一般部隊の官給品にはないゴアテックスのレインウェアも身に着けていた。
ポンチョは雨風を凌ぐだけでなく、偽装に使う事やライトを使う際に光を漏らさないよう遮光するのにも使える他、担架を作ったり、渡河する際の応急浮体を作ったりと意外と汎用性が高く、背嚢の中でもすぐ取り出せる位置にしまってあった。ポンチョをしっかりと被って保温しながら那智達は監視を行った。
攻撃目標は見下ろす平地に存在した。見失いそうなOD色の個人用テントが四つ、綺麗に並べてある。
攻撃目標を捕捉すれば後は
近藤以下本部班の班員達がJ/PED-1
野中はしばらく無線でやりとりしていたが、日本海上で待機していた空自の支援戦闘機が要請によって差し向けられたことを剣崎に報告した。
那智は寒さに凍えながらもその様子を興味津々で見ていた。航空支援の火力誘導を見るのは初めてだった。声が無線機に通る様にフェイスマスクを外した野中は白い息を吐きながら真剣な目つきで指示を行っている。
「到着まで五分」
野中が短く告げる。他の隊員が設置したLLDRを野中は覗き込んで点検し、誘導を開始した。コールサイン・クーガー01に進入方位や使用兵装などを指示していく。その手際は流石としか言い様が無かった。
情報小隊では
「
野中が声を張る。すでに接近する戦闘機のエンジンの音が山々の間に雷鳴のように響いていた。戦闘機が進入する方向に那智は目を凝らした。
『クーガー01、
「
『
「
野中はLLDRを使って目標に一連の符号化されたパルスレーザーを照射する。
背後に二機の戦闘機の機影が見えた。一瞬にして機体がはっきりと分かるほどの距離に機影はあった。思わず口を開けて驚嘆する。
戦闘機はまるで空気を引き裂くように頭上を飛び抜ける。もちろん本当に爆弾が落とされることはなく、二機は編隊を解いて左右に分かれるとそのまま爆音の余韻を残しながら飛び去って行った。
「クーガー、アドバイスウェンレディフォーBDA」
『クーガー01、ゴーアヘッド』
「BDA、ミッションサクセスフル。グレートヒット、ターゲット、デストロイ。ハウコピー?」
『クーガー01、コピー』
野中は
「今のはF-15じゃないか?」
那智は呆れた顔をする。F-15は制空戦闘機で空戦専門だ。対地攻撃は出来ない。板垣3曹が振り返って剣崎と顔を見合わせると、剣崎は肩を竦めた。
「あれは複座型を改造した戦闘爆撃機だ。日本版ストライクイーグルだよ」
剣崎の言葉に那智は驚いた。ストライクイーグルとはF-15の派生であるF-15E戦闘爆撃機のことだ。周辺国の脅威になる爆撃機能(対地攻撃能力)を持たせないために、意図的に対地攻撃能力や空中給油能力を除去してF-4EJを導入した過去があるほど、日本は爆撃という言葉には敏感で、深部侵攻爆撃を任務とするF-15Eは導入されていない。
「F-2があるのに何故今さらそんな改造を?」
「空自の事情には疎いからな」
「偵察機への改造名目の予算で改造してるんです」
撤収する野中が言った。
「空自もやる気なんだな……」
那智は去っていった戦闘機の方向を向いた。音速で飛ぶ戦闘機の姿はすでになかった。
※
『馬鹿。制限高度ギリギリよ。実戦的な訓練も良いけど、メンバーから外されたら元の子もないでしょうが』
「制限高度は守ってるよ」
爆撃アプローチを終えて上昇したF-15の機内通話で後席から浴びせられた罵声に流して答えた
『クーガー01、
「クーガー01、ラジャー」
東條は早期警戒管制機の機上兵器管制官に応答し、操縦桿を倒してバンクをかけながら4G旋回して機首を南へと向けた。
「クーガー02、こちら01。機体と武器システムをチェック。
『ラジャー。02、ステート6・0』
東條機に続いている二番機の機長である大城戸智登2等空尉が応答した。大城戸2尉のF-15はすでに東條機の右後方に位置していた。大城戸は東條の
『問題ない』
東條の後席、
「02、これより空中給油を実施する。高度そのまま、編隊を維持」
『ラジャー』
後席員のサポートは偉大だ。特にこのF-15は今までのF-15と違い、多種多様な任務に対応するため、任務の組み合わせも複雑でパイロットのワークロードは増している。
大きく分けても航法、操縦、火器管制、電子戦、サイトや早期警戒機とのデータ処理等々これらのミッションを一人のパイロットでやろうとしても操作機器の簡素化集約化では補いきれない部分が出てくる。それをWSOと分担することでパイロットは機体操作と編隊の指揮に集中できた。
『どう思うの』
「なにがだ?」
木坂が話しかけてくる。戦闘機パイロットは機種によって性質が出てくる。複座のF-4のパイロットはおしゃべりで単座のF-2やF-15、F-35のパイロットは寡黙だと言われている。この複座のF-15に乗り込むと単座のF-15のパイロットである東條も木坂もよく喋るようになった。
『この機体にこの訓練よ』
木坂とは因縁の仲と言っていい。戦闘機パイロットという職種に女性の登用が解禁されたのは最近で、木坂は航空学生で採用が開始された女性戦闘機パイロットの二期生に当たる。
空戦に置いて小柄な方がGの負担を受けにくく、男よりも女の方が有利な面もあった。しかし、男でも音を上げる訓練についてこれる女は少なく未だに採用された人数は一桁に留まる。
負けず嫌いの勝気で活発な性格の木坂は部隊配備当初は問題児扱いを受けており、東條も手を焼いた。
どこの国でもどの時代でも、軍隊や警察は、男性原理で成り立っている。そうでなければ、敵や犯罪者と戦うことが出来ないからだ。最近は自衛隊もセクハラに神経を使うようになったが、今でも強固な男性社会であることに変わりはない。男性社会の中では、女性の役割は限られている。誰かの所有物か付属品のような扱いをされる。男性原理は、支配欲と強く結びついているからだ。
そんなことに真っ向から反発する木坂は、常に気を張っていて周囲を敵視していた。指導のために後席に乗り込んだ東條をGロックでグレーアウトさせるためにとんでもない機動を行ったこともあった。
そんな木坂に、東條は彼女の性格と空戦技術を切り離して指導することにした。
東條が編隊長を務めた初の緊急発進で中国軍の戦闘機を
東條に対してやけに馴れ馴れしくなったのはそれからだった。空ではもう階級の上下に関わらず敬語を使わなくなっていた。不都合があるわけではないし、地上ではそれなりの分別のある態度なので東條が問題にしなければ、先ほどのように馬鹿呼ばわりすらしてくる始末だった。
『対地攻撃能力が付与された
「F-4だって改で支援戦闘機になっただろ。防衛省も全機種を
『今さらそんなごまかしは聞きたくないわ。もう秒読みだとは思わない?』
「秒読みって、“北爆”がか?」
北爆とはベトナム戦争に対するアメリカの本格的介入の第一歩となった北ベトナム爆撃を意味するが、東條達の間では北朝鮮への空爆という意味で暗に使われていた。
まだこの“特別なF-15”が航空自衛隊でどのような運用をされるのかや、この訓練目的について表立って説明されたことはなく、不透明なままだ。しかし、このF-15を運用する臨時編成の飛行隊に各部隊から集められたパイロット達は、アメリカフロリダのエグリン空軍基地において始まった試験に引き続き、連日に渡る過酷な訓練やF-2やF-35等の異機種共同訓練を行い、大規模な航空作戦が行われる予感は誰しも持っていた。
そして、その対象が今緊張の高まる朝鮮半島であり、北朝鮮の策源地攻撃を想定していることは薄々感づいていて、各人で北朝鮮の地形を研究したりもしている。だが、誰もがそれが現実になることを恐れるかのように言及は避けていた。
『私はどちらかというと開戦……いや、再開ね。プラン5027のように北が先手を打つんじゃないかしら』
朝鮮戦争は終わってはいない。停戦や終戦ではなく休戦状態であるため、名目上は現在も戦時中であり、緊張状態は解消されていない。それどころか最近は再び軍事的緊張が高まりつつあり、朝鮮戦争の再開も懸念されている。
そこに来て、この連日に渡る訓練と、なによりもこのF-15だ。
RF-4E偵察機の退役に伴う代替の偵察機として一部のF-15DJを改修、及び将来必要となる電子戦機を開発するという表向きの公表とは異なり、このF-15DJは米国にフェリーされた後に、そのF-15DJの部品を新造のF-15E戦闘爆撃機に移植すると言った方が正確な、ほぼ別物となるほどの再生大規模改造を受けていた。
現在、航空自衛隊ではF-15JやF-2戦闘機の近代化改修が急がれているが、年に多くて十二機とそのペースは遅く、間に合っていない。またF-15の一部の初期ロットであるPre-MSIPは近代化改修に対応しておらず、周辺諸国の戦闘機に対抗するには厳しくなりつつあり、後継機が必要だった。そのため、Pre-MSIP機を米国に送り、改良再生して日本仕様のF-15Eとする、という荒業が試みられた。
これはF-15Eとは言っても従来のF-15Eではなく、ボーイング社が米空軍に提案したF-15EXがベースであり、従来のF-15とは全く違う最新の機種となっている。その耐用時間は従来の機の三倍の二万時間にもなり、単純に八十年運用が出来るため、今後の発展性も視野に入れた余裕のある設計となっている。
コックピットはアナログ計器が廃され、F-35と同様のタッチパネル式大型液晶ディスプレイを取り入れた新型コックピットシステムに換装されたグラスコックピット化されており、セントラルコンピュータも高性能な最新型となっている。
レーダーも新型の
F-15EXのベースとなったF-15Eストライクイーグルは全天候型の戦闘爆撃機で、低高度での高速侵攻任務に対応している。機体の番号や標記こそ元のF-15DJだが、コンフォーマル・フュエル・タンクを装備し、AN/AAQ-33スナイパーXR目標指示ポッドと地形追従レーダー、赤外線センサーを備える航法ポッドを装備する外観はごまかしようがない。
三沢基地第三航空団の機体としてこのF-15Eは今、試験名目で飛行しているが、行っているのは実質、渡洋爆撃──しかも実戦的な地形追随飛行や空中給油、陸自の爆撃誘導員との連携など、危険も伴う非常に実戦的な訓練だった。
「ともかく十中八九、半島有事を想定した事だというのは間違いない」
『このストライクイーグル導入も、それを見越したってわけ?』
「そんな急に降って湧いた計画じゃあないだろうな。F-35で初期ロットのF-15も更新するなんて話もあったが、結局飛行隊も増やすことになったら調達ペースが間に合わない。それにF-35は確かに第五世代機としての能力は優れているが、足の長さやペイロードは日本の要撃機向きじゃない。南西で勢力上圧倒的な中国を相手にするにはこれくらいの機体も必要ってことだろう」
単純な飛行性能を比べるとF-35の航続距離は二二二〇キロ、最高速度はマッハ一・六。対するF-15は機内燃料のみでも二八〇〇キロ、F-15Eの最大航続距離であれば五七五〇キロ、最高速度は機体重量が増したF-15Eでもマッハ二・五だ。
専守防衛を方針とする日本にはステルス戦闘機であるF-35は抑止力と有事の際のゲームチェンジャーや切り札となるが、平時においては、ステルス戦闘機である必要のない恒常的な対領空侵犯措置などの任務が主たるため、運用時間当たりのコストも高く、使い勝手が悪い。
日本はそのため、F-4戦闘機の後継である
「高価なF-35を補佐、補完できるF-15を維持しなくてはならない上、F-15に
『でも早まったとは言っても、ストライクイーグルだってまだたった十二機よ。それに加えてF-2とF-35を航空支援に回してF-15で制空権を確保するとしても空自総出になるわ。中露を睨んで防空態勢も維持しなくてはならないとなると作戦機も武器も足りないんじゃないの』
ストライクイーグルに再生改良されたのは近代化改修非対応のPre-MSIP機の複座型十二機がすべてだ。空自唯一の第五世代ステルス戦闘機であるF-35は一個飛行隊分しか配備が済んでいない。F-2も三個飛行隊だ。
「まあ、課題は山積みだな。でも能力がないわけじゃない」
東條には議論の余地は無かった。やれと言われれば実行しなくてはならない。
しかしこの時期に東條がこのF-15Eに回されたということは、これから起こり得るであろう朝鮮半島有事において自分は制空戦闘を担当することが出来ない可能性があった。
防衛大を出て戦闘機パイロットとなった東條は二十八歳。那覇の第305飛行隊のパイロットとして近年、中国の海洋進出に伴い緊迫の度合いの増す南西方面の防空を担い、中国軍相手にしのぎを削ってきた。それだけに空戦技術には自信があり、本物の戦闘機パイロット――戦闘機対戦闘機の制空戦を制するパイロットになりたいという気持ちが本能的にあった。
「作戦機が足りないとしても、恐らく日米共同作戦になるだろう。自衛隊は米軍の補助的な任務を担うことになる。まあ、そう言っていつまでも胡坐をかいているわけにはいかないが……」
自衛隊は軍隊としては不完全な組織であり、在日米軍を補完する存在でしかなかった。日米同盟が無ければ満足に自国を守れないというのが日本の現状で、東條にはそれが薄氷の上に立っているに等しい状況だと思っていた。
近年、米国も世界の警察の旗を降ろし、自国の利益を優先する方針に転換しようとしていた。経済的損失が大きい場合は、日本を守ってくれなくなるかもしれないという危機感は間違っていない。だからこそ自分達の国は自分達で守るべきなのだ。
『時代は変わるわね……』
木坂は感慨深い声を発した。
「不変なものなどないのさ」
時代に応じて自衛隊も日本も変わらなければならない。最適化や進歩が無ければ淘汰される。
旧式なイーグルは最新のストライクイーグルに化け、航空自衛隊は策源地攻撃能力を取得しようと模索している。女性戦闘機パイロットが自分の後席員を務めるようになり、ステルス戦闘機が、世界の空の覇者になろうとしていた。
空戦にこだわる自分は、古い存在なのかもしれないなと、東條は自嘲気味にマスクの中で顔を歪めた。
二機のF-15Eは日本海に抜け、空中給油機を目指して飛び続けた。
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