逃避所
如月
第1話 出会い
私には『逃避所』があった。夜、何かを考えすぎて眠れない時は一人で家を出て、決まってその場所に行った。その場所──家から歩いて三分程で着ける近所の小さな公園は、日中は人が何人かいるけれど、夜中には誰もいなかった。
『逃避所』に着いた私は決まってベンチに腰掛けて、夜空を見上げていた。運が良いと、綺麗な星空が見えた。私はその星空を見るのが好きだった。日中は皆のものであるこの場所が、その時だけは私だけの場所であるように感じる感覚も好きだった。
その日、眠れず私は『逃避所』に向かった。
『逃避所』である公園に着いて、ベンチに腰掛けて、頭を上げる。今日は生憎の曇り空で、星は見えなかった。残念な気持ちになって、はあ、と小さく溜め息をつく。暫くボーッと曇り空を眺めていると、不意に人の気配がした。
「お嬢さん」
本当に不意打ちで声をかけられたから、私はびくりと肩を跳ねさせてしまった。
「すみません。驚かせるつもりはなかったんです」
丁寧な口調に恐る恐る声がした方を見ると、私から少し離れた所に一人の男性が立っていた。男性は白いTシャツにジーンズというラフな格好をしていた。辺りが暗いせいか、彼の歳の頃はよく分からなかった。
「……え……と」
突然現れた男性に戸惑っていると、暗くてよく見えないが、彼は真面目な顔になったようだった。
「あなたが夜中にこの公園にいるのを何度か見かけましたが、若いお嬢さんがこんな時間に外にいるのは危ないですよ」
男性の言葉に、私は納得した。彼は夜中に一人で公園にいる私を何度か見かけて、注意をしてくれたのだ。
「ありがとうございます。でも、大丈夫ですよ」
私は明るく笑った。
「いつもはここには誰もいませんし、もしいても私なんかをナンパする人はいないでしょうから」
私の顔は特別可愛くないし、胸も小さい。こんな私を狙う人なんていないだろう。しかし、男性は険しい顔をした。暗くてよく見えないが、眉を寄せたようだった。
「男の中には、女なら誰でもいいという人もいるんですよ。夜中の外出は控えた方がいい」
私はムッとした。
「注意してくれるのはありがたいですけれど、私は夜中にここに来ることは控えませんから」
「……どうして、夜中にこの公園に来るんですか?」
「……星が、綺麗だから」
私はそう答えて、男性から視線を外して夜空を見上げた。
「このベンチに座って夜空を見上げると、運が良い日は綺麗な星空が見えるんです。私はその星空を見るのが好きなんです」
男性は黙っていたが、やがて口を開いた。
「あなたのそのお気持ちはよく分かります。僕もこの辺りから見える星空が好きで夜中によくこの辺りに来ていますから」
男性が私と似たような行動をしていたことに、まるで同士を見つけたような気持ちになり、嬉しさが湧き上がった。
「でも、夜中に一人で公園にいるのは控えた方がいい」
再び、私はムッとした。そして、稲妻のようにある考えが閃いた。
「じゃあ、あなたと一緒ならいいんですね?」
男性は、狼狽えたようだった。
「あなたも、星空を見るためによくこの辺りに来るんでしょう? 私とあなたの目的は同じ。じゃあ、ここで一緒に星空を見ればいいじゃないですか」
我ながら名案だと思ったが、男性はそうは思わなかったらしい。
「僕とあなたは今日が初対面で、お互いのことをよく知らないのに、そんなことは出来ません」
「じゃあ、これから知っていけばいいんですよ」
男性は溜め息をついた。
「……ここは、私の『逃避所』でもあるんです」
言うか迷ったが、私は思い切って告げた。
「『逃避所』?」
「はい。夜、眠れない時に、決まって私はここに逃げるんです。ここに逃げて、夜空を眺めると、心がすっと落ち着くんです。そうして、また頑張ろうと思える。ここで夜空を眺めることは、どうしても私には必要なことなんです」
男性は沈黙して、問いかけてきた。
「紙とペンはお持ちですか?」
「え? 持っていますが……」
「お借りしてもいいですか」
私は頷いて、手提げカバンの中から紙とペンを取り出して、男性に手渡した。
「ありがとうございます」
男性は紙に何かを書いて、ペンと共に私に渡した。
「僕の携帯の番号です。夜中にここで夜空を見たい時は、ここに連絡してください。僕も一緒に見ますから」
「……いいんですか?」
喜びが大きくなって、顔が綻んだ。
「はい。……僕も、誰かとあの星空を見たいと思っていましたし」
男性も、笑ったようだった。
私は頭を下げた。
「ありがとうございます!」
そして、頭を上げて今は星が見えない夜空を眺めながら言った。
「今日は生憎の曇り空ですね」
「ええ。残念です」
私は、この男性と一緒に星空を見たいと思った。私が好きな、あの星空を。
この男性とは今日が初対面なのに、そんなことを思ったのが不思議だった。
「そういえば、あなた、名前は?」
「僕の名前は、
「そう。素敵なお名前ですね」
「ありがとう。あなたのお名前は?」
「私の名前は、佐川
「清子さん」竹島さんは私の名前を繰り返して、笑みを深めた。「良い名前ですね」
ありがとう、と返すと竹島さんは私の隣に座ってきた。距離が近付いたことで、先程より彼の顔がよく見えた。彼の顔は、随分と若々しく見えた。
竹島さんに対して嫌悪感や警戒心はなかった。今日が初対面なのにも関わらず、彼と打ち解け始めている自分に気が付いた。
「不思議ですね、私とあなたは今日初めて会うのに」
「本当に。僕としては佐川さんが無防備で心配になりますよ」
「無防備ではないですよ。それに誰にでもこうじゃないですよ? 竹島さんは、同士だから」
「……同士、ね」
竹島さんは呟いて、少し笑った。
「星空同好会でも作ります?」
「はは、良いかもね」
竹島さんは声を上げて笑った。笑うと更に若々しく見えて、私は尋ねていた。
「竹島さんって、おいくつなんですか?」
「……いくつに見えますか?」
質問を質問で返されて、少し考えて答える。
「27……くらいとか?」
「……はずれですけど、当たりです」
はずれだけど、当たり?
「それってどういう意味?」
竹島さんはそれには答えずに、佐川さんは……と言いかけて、笑った。
「女性に年齢を聞くのはタブーでしたね」
「私は気にしないですけど。21です」
竹島さんは目を丸くした。
「随分とお若いですね。大学生ですか?」
「はい、大学生です」
竹島さんは、私から視線を逸した。
「年の差がありすぎて、何だか恥ずかしいですね」
「え? 竹島さんは27なんですよね?」
「……見た目は27でも、もうオジサンですよ」
私は、竹島さんは一体いくつなのかが気になった。でも、それを聞くことはやめた。
ベンチに並んで座って夜空を眺めながら、私と竹島さんは色々な話をした。最近見た本や映画の感想とか、ニュースの話とか、他愛のない話題ばかりだったけれど、その時間は楽しかった。
竹島さんと別れて、家に帰った私は彼のことを考えた。私だけの『逃避所』への思わぬ侵入者だったけれど、優しい人だった。彼の笑顔を思い出して、暖かな気持ちになった。
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