弥勒菩薩

執行明

第1話

 草一本ない荒野を男が歩いていた。

 彼の頭上には巨大な赤い太陽が、鈍く光っている。男は愚痴をこぼした。

「まったく、行けども行けども何にもない。この地方はどうなっとるんじゃ……おや、建物があるではないか。ずいぶん大きいが、なにか変わった建物じゃな」

 入ってみると、ひとりでに灯りがついた。

「おお、誰かいるのか。ようやく人に会えたわい」

 そう言って見渡してみるが、誰もいない。ただ大きく、殺風景な壁があるだけだった。と、その壁が急に光りだし、にこやかな青年の顔が映る。

「ヒトではありませんが、いらっしゃいませ。ようこそ地球へ」

 男はあんぐりと顔をあけて、壁に映った顔を眺めた。

「なんと……これはマーラの技か」

「科学の技です。はじめまして。あなたはどなたですか。宇宙に脱出した人類の生き残りでしょうか。それともこの星を発見した異星人の方ですか。いずれにしても歓迎します。地球、そして地球人についての全てのデータを提供します」

「わしは弥勒菩薩だ」

「ミロクボサツさん。あなたは地球人の子孫ですか? それとも完全に別種族の方でしょうか? 残念ながら太陽系の寿命は尽きつつありますが、人類は滅亡前に、地球と地球人についてのあらゆるデータを私というコンピュータに残しておきました。いつの日か、宇宙人でも異次元人でもいい、誰かがその知識を受け継いでくれるのを待っているのです。そう、あなたです。感激です。とうとう私の使命を果たせるときが来たのです」

「わしは仏じゃ。天界、極楽浄土からやって来た」

「……はぁ?」

「わしは仏だ。弥勒菩薩じゃ」

「仏のミロクボサツさん……ああ、データにありますね。確かブッディズムという古代宗教の教祖さんの後継者で、初代のゴータマ・シッダールタ氏が亡くなられてから五六億七〇〇〇万年後に地上に現れ、多くの衆生を救うという。東アジア文化史の記録に書かれています。確かに現在は西暦でいえば、AD五六億六九九九万九六一七年。たしかに予言通りに来て頂いたんですね」

「その通りじゃ!」

 弥勒菩薩は胸を張って言った。

「ところでこの地上はどうしたことだ。誰もいないし草一本生えておらん。マーラが人間を滅ぼしてしまったのか」

「マーラ……はい、その言葉もデータにあります。サンスクリット語で悪魔のことですね。いや、悪魔は関係ありません。太陽の寿命のせいです。あなたの先任者、通称お釈迦さまでしたっけ。あの方が亡くなられて」

「亡くなったなどと俗な言い方をするな。入滅と呼べ、入滅と」

 少し不機嫌な声で弥勒は異議を唱えた。

「そうそう、入滅と呼ぶんでしたね。入滅されてから五〇億年ほどで太陽は膨張期に入っているんです。そのせいで地球にはとっくに人が住めなくなってますよ」

「なに? では衆生はおらんのか?」

 弥勒は叫んだ。

「いや、お前がおるではないか。お前を救済し、輪廻の苦しみから解脱させてやろう」

「私はコンピュータです。あなたと会話しているのは、このディスプレイに表示しているグラフィックに過ぎませんからねえ。もともと輪廻転生なんてしてませんから、解脱と言われても、すでにしているのかもしれません。それより人類の知識を……」

「そんなものに興味は無い! わしは衆生を救いに来たのじゃ!」

「あ、そうですか」

 プツン。

 知識のリクエストがないとみるや、コンピュータは自ら画面を切った。

 あとに残された弥勒菩薩は、荒野に飛び出した。

「わしを崇める凡夫どもはどこじゃああ! わしは救世主なるぞおおお!」

 釈迦の入滅後、五六億七〇〇〇万年後に出現する弥勒菩薩。

 巨大な赤い太陽の下、誰もいない荒野でたった一人……自分を有難がってくれるはずの人間を求め、彼はいつまでもいつまでもわめき続けるのだった。

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弥勒菩薩 執行明 @shigyouakira

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