一人目 逢いたい人 ―または、誰かを亡くした後に残された者による抵抗の話―
1
暑い夏が盛る八月半ば。夜となっても、昼の太陽の日差しを吸い込んだアスファルトが熱帯夜を作り出している為、暑さは継続している。
しかし、そんな幾日も続いてきた熱帯夜が、今日に限って心地良い夏風が何度も吹き抜け、ほんの少しだけ過ごしやすい環境が整えられていた。
そんな夜。悲惨な事件が起きてしまったのは、何かの罰なのだろうか。
曜は自分の過去を振り返り、そしてまたうな垂れる。清廉潔白と言うつもりはないが、少なくともこんな罰を受けるほどの罪を犯したつもりはなかった。では、『これ』はなぜ起こってしまったのだろう。
顔を上げ、勉強机に置かれたデジタル時計に目を遣る。午後九時。部屋の外では、けたたましく鳴るサイレンの音と、野次馬の傍迷惑な叫び声と、普段聞き慣れない大きな音が響き続け、静かで過ごしやすくなった夜をぶち壊す。
曜は部屋の隅にあるテレビの電源を点ける。そこではちょうどニュース中継が始まっていた。
画面に映されたのは、数軒ある住宅のとある一軒家。二階建てのごく普通の家の玄関前に、『KEEPOUT』と黒字で大きく書かれた黄色いテープが張り巡らされている。
近くには二台のパトカーに、救急車にテレビ局のクルーが乗ってきたワゴン型の中継車が止まっている。さらにパトカーが一台到着し、サイレンを止めると同時に、部屋の外のサイレンの音も止んだ。
野次馬を青の制服で身を包む警官が押し止めている中、野次馬の背後でテレビレポーターらしき二十代の女性が、カメラに向かって状況を説明する。
「午後八時頃、東京都板橋区にて二人の遺体が発見されました。一人目は建築家、咲間栄治さん四十二歳、二人目は専業主婦、咲間遥さん三十九歳。遥さんは鋭利な刃物で腹部を刺され大量に出血しており、必死の救命措置を施すも、死亡が確認されたそうです。栄治さんは自分の書斎で首を吊っており、発見時には既に死亡していたとのことです。詳しい情報は……」
曜はテレビのスイッチを乱暴に切る。
音の消えた部屋の、外側へ耳を傾ければ聞こえてくる。
野次馬のやかましい声が。レポーターの機械的な声が。家の中を調査する警察の声が。
コンコンと曜の部屋のドアが叩かれる。
二回ということは、どうやらノックのマナーを知らないらしいなと、曜はどうでもいい事を考えてしまった事に溜息を吐いた。そんなことを考えても気は紛れない。
くしゃくしゃと髪を掻き乱して、どうぞと短い言葉で促すと、ノブを乱暴に回して中年の小太り刑事がずかずかと入ってきた。どうやら現場検証の途中経過を伝えに来たらしい。
「心中、お察しします」
「そんなことはどうでもいいです。何がわかったんです?」
彼のぶっきらぼうな口調に、刑事は特に何の感情も反応も示さず、端的に情報を伝える。
「咲間栄治さんのパソコンに遺書らしきものが残されていました。これはおそらく無理心中でしょう。つまり――――――」
刑事のある言葉を聞いた直後、後の報告はもちろん、警察の歩き回る音も、野次馬の叫び声も、何も耳に入らなくなった。
無理心中。無理心中。無理心中。曜はただ頭の中でその言葉を反芻する。
何度も何度も何度も。
頭の中でぐるぐると回って、ようやく口を挟もうとした時にはもう遅く、小太り刑事は一礼して部屋を後にすると、鑑識を怒鳴り散らして指示を出す。
追及する気力も無くなった曜は、背を重力に任せ、ベッドに仰向けに倒れ込む。目を閉じて、その瞼の上に腕を乗せて眠りに就く準備をする。
曜は早く夢を見たかった。ひと眠りすれば、この現実が変わるのではないかと思っていた。
この現実という悪夢から逃げる為に、夢の中へ意識を向けた。しかし、残念なことに夢は見なかった。脳が映す映像は黒い背景ばかりで、両親の姿は全く出てこない。仕方なく、曜は夢への逃避を諦める。
目覚めた時には全ての音と色が消えていた。
窓をちらりと見ると、パトカーや救急車の回転灯の光はない。騒ぎも聞こえないところ、外のうるさいハエ共は、すでに撤収したらしい。
恐らく警察の誰かが見兼ねて消したのだろう、部屋の電灯は消えていて、背景が夢と同じで黒に塗り潰され、まだ夢の中にいるのかと一瞬錯覚した。
目もすぐに慣れて、辺りがぼんやりと見え始めた頃、ジーンズのポケットに入れっぱなしだったスマートフォンを取り出し、ディスプレイを点けて時計を確認する。深夜三時ジャスト。どうやら五時間も眠りこけていたらしい。
曜は身体を起こす。まだ頭は朦朧としている。それでも家に一秒たりとも居たくない曜は、勉強机に無造作に置かれた鍵をポケットに突っ込む。すると、見覚えのないメモ書きが、机の真ん中にこれ見よがしに置かれている。
曜はそれを手に取る。目もすっかり慣れ、薄くぼんやりと書かれた文字を読み取る。
『何か思い出したことがありましたら、こちらまでお電話ください』
くしゃっとメモ書きを握り潰すと、乱暴にそれを机に投げ捨て、曜はそのままふらふらと歩き出す。
二階から下りて、リビングに差し掛かったところで足を止める。
つんと鉄錆のような香りが鼻を刺激する。もうすでに遺体は搬送され、血も簡易的に掃除されていたが、匂いだけはこびりついていて離れない。
その場を去ろうとしたが、リビングに置いてある立て鏡が目に入り、ふと何の気なしに鏡の前に立ってみる。
半袖の赤と黒のチェックのシャツ。華奢な身体つきで少し頼りない風貌。短く整った髪に、少し細めに開けられた目。見慣れた自分の姿が映り込んでいる。
ただ表情は暗く疲れ切っている。五時間も眠りこけていた筈だが、全く疲れは取れていないらしい。
曜は目を瞑って頭をゆるゆると振る。目を開き、改めて鏡を見ると、後ろのフローリングの床に何かが一瞬映り込んだ。
それは血の海に倒れ込んだ母親のように見えて、思わず振り向く。当然そこには何もない。
しかし、イメージだけは脳の中に残ってしまい、頭をぶんぶん振って掻き消そうとした。それでも頭からイメージは消えず、改めて両親の死は夢ではなく現実だと実感し始める。
とにかくここには一秒も居たくなかった。早く準備をして出かけようと、足早に父の書斎へ向かう。
扉を開けると、奥の仕事机のスタンドライトが点けっぱなしで置かれているのが見える。恐らく捜査に来た警察も消す事を忘れてしまったのだろう。
曜はぼんやりとした部屋の中で唯一はっきりと存在を主張する机に歩み寄り、引き出しの中を漁る。
何処にある? と、何度も手で探ってみる。すると何かがこつっと爪に当たり、それを握ってみる。これだ。そう思うと目当ての物を取出し、尻ポケットに突っ込み、引き出しもスタンドライトもそのままにして玄関へ向かった。
重く感じるドアを押し開けると、案の定パトカーも野次馬もテレビリポーターも、その存在が消えていた。唯一残っているのは、玄関へと続く塀と塀の間の柱に貼り付けてある、『KEEPOUT』の黄色いテープだけだ。
曜はテープを無造作に掴んで引き剥がし、乱雑に小さく丸めると、そのまま道路へ投げ捨てた。
そして曜は歩き出す。暗い道の足元を照らすのは街灯のみで、車はまったく通らない。歩行者もまったく見かけず、動く存在と一つも出会わない。
少し歩いてから徐々にスピードを上げ始め、アスファルトを蹴りつけるように走り出す。自分の家からとにかく逃げたくて。少しでも現実から目を背けたくて。
とにかく走った。脇目も振らず走った。足が縺れそうになっても走った。走って走って走って、息を切らしながらようやく足を止める。
辿り着いたのはぼろぼろのコンクリートの壁の廃ビル。広めの土地の上に立つ五階建ての建物だ。
曜も詳しくは知らないのだが、以前オフィスビルか何かを建てる予定だったらしい。しかし、途中で建設は中止されたようで、何故か取り壊しもされずにそのまま残されている。
曜がまだ幼い頃からすでに建設は中止されていて、街の一角にある誰もいない、誰も使わないその廃ビルは、当時の曜にとって、綺麗に建てられたビルの中に、一つだけある異質な存在で、その強い印象が何故か自分の中で徐々に町のモニュメントのような存在のように思い始めたのだ。
中学生になった頃、行ってみたいけど怖くて行けないという恐怖心が、歳と共に薄まった為、曜は憧れであった廃ビルに、ついに入り込む。その時の第一印象は、『何故?』という疑問で埋め尽くされる。
外観とは裏腹に、ビルの中は比較的綺麗で、窓ガラスは一つも割れていない。そして一番奇妙に思えたのは、一部の部屋に家具が置かれていることだった。
中でも一番奇妙に思ったのが三階の一番奥の部屋だ。廊下を突き当たる場所にある木製の扉を開けると、広々とした灰色の部屋に木で出来た長方形型の大きな机と、壁には天井すれすれまでの高さのある、これまた木で出来た大きな本棚が置かれていて、さらには焦げ茶色のソファが設置されていた。長年誰も此処に入ったようなことは無かったのにだ。つまり、それらの家具は曜が廃ビルを気に掛け始めた時から既に置かれていたということになる。
それらの事柄を考慮すると奇妙ではあったが、部屋と家具が気に入った曜はその部屋を自分の、所謂隠れ家として気にせず使うことにして、高校二年の今も一人でゆっくりと過ごす場所として利用しているのだった。嫌なことがあった時、一人になりたい時には、よくこの場所に足を運んでいた。何故かはわからないが、曜にとってこの廃ビルは心が落ち着く場所なのだ。
曜はおぼつかない足取りでなんとか歩を進めて廃ビルへ入る。通路を通ってゆき、階段まで辿り着くと、自らを奮い立たせて一段一段登っていく。とてつもなく長く感じる階段。頭がくらくらしてくる。あと少し、あと少しだと自分に言い聞かせ、ようやく三階へ上り詰めた。だがまだ先だ。コンクリートの壁に手を突きながら、奥へとゆっくり進む。
タンタンと靴音が響く。その音がどこか心地良く感じ、不思議と足に疲れが感じなくなった。その勢いでどんどん足を運び、ようやく目的の部屋に辿り着く。
曜は逸る気持ちでノブを掴む。すると、ぐにゃりと目の前の扉が異様な形に捻じ曲がる。慌ててノブから手を放すと、自分の腕もあらぬ方向にひん曲がっていることに気が付いた。
そして、すっと視界が傾いてゆき、身体の左半分に強い衝撃と痛みが走る。瞼に重りを付けられたかのように、曜は目を閉じる。そしてそのまま意識を闇の中に溶かしていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます