君と見た花火は幻

玉樹詩之

第1話 プロローグ

 冷たい風が俺に吹き付けた。寒さに身を震わせながら体を起こす。腰がひどく痛み、俺は背もたれに体を預けた。


「これは、成功。なのか?」


 ありもしない都市伝説に駆り立てられ、無我夢中で、約束の丘のベンチに来ていた。どうやら眠ってしまったようで、すでに目の前には初日の出が拝めた。

 実験と言うか、検証と言うか。迷信を信じ、野宿をした末路は思っていた通りの結果を迎えた。


「さてと、帰ろうかな」


 痛む体を立ち上がらせ、元旦の朝日に向かって大きく背伸びをし、帰宅した。

 自宅はしっかりと施錠がされており、家に入れる窓は無かった。しかし念のために持ってきていた自宅の鍵を左ポケットから取り出し、自宅の玄関を開けた。

 なるべく足音を立てずに廊下を渡り、軋む階段を忍のごとく上った。

 自室の扉をゆっくりと開け、ベッドに腰かけた。枕もとに置いたままにしていたスマホを取り上げ、電源を入れた。するとそこには、去年の日時、二○十六年、一月一日。と表示されていた。


「おいおい、嘘だろ。本当に戻ったのか?」


 都市伝説の内容はこうであった。「除夜の鐘が百九回鳴った大晦日。後悔の念が強い場所で初日の出を迎えた時。時は巻き戻るだろう」そう。つまりこの通りに事が進んでいるのならば、今俺は、タイムリープをして一年前に戻ってきたことになるのだ。

 するとその時、スマホの画面が光った。俺が元居た世界では、すでに死んでいるはずの白羽根しらばねあかりからのメールであった。それを見ると、俺は歓喜のあまり涙していた。そうだ。俺は、彼女のために、一年前に戻ってきたんだ。




「おーはよ! もう授業終わったよ?」


 いつの間にか午後の授業が終わっていたようで、あかりが俺の顔を覗き込んでいた。


「うおっ、近いよ」

「ほえ? そうかな?」


 あかりが言うように、これがいつものことになっている。俺はこれが嬉しいようで、少し恥ずかしかった。


「ひゅーひゅー、今日もお熱いね」


 前の席から俺の親友、及川卓人おいかわたくとが囃し立ててくる。これも今では恒例行事となっている。


「やめろよ。他の奴らも本気にするだろ」

「大丈夫だよ。みんなネタだって分かっているからさ」


 俺の右隣に座っているあかりは少しむっとしていた。なにか不満だったんだろうか。

 卓人は俺の方に身を乗り出してきて、小声で耳打ちをした。


「あちらさんはそこまで嫌じゃなさそうだぞ?」

「え、そうなのか?」


 俺は頬を赤らめながら、わざととぼけた。卓人はそのことに気が付いているのか、ニヤニヤしながら細目で俺とあかりを交互に見た。

 帰りのホームルームの開始を告げるチャイムが鳴った。それと同時に担任の教師が教室に入ってきた。


「よーし、お前ら席に着け。ホームルームを始めるぞ」


 生徒たちはざわめきつつ席に着いた。全員が席に着いたことを確認した担任は、ホームルームを始めた。

 窓側の列の一番後ろが俺の座席になっており、俺の一個前が親友であり、爽やかスポーツ系男子の卓人。そして俺の右隣が、あかりの親友の黒澄巴くろすみともえ。ポニーテールに茶髪。ブレザーは着崩している不良かぶれだ。顔はそこそこ整っていると思う。そしてその更に右が、あかりの席になっている。

 俺は頬杖をつきながら、青空を自由に飛び交う鳥たちを眺めていた。担任の声は俺の耳には届かず、夏休み前の大事な情報を聞き逃したことは言うまでもなかった。


大神真也おおかみしんや! お前ちゃんと聞いてたか?」


 担任は見透かしていたように、俺の名前を叫んだ。


「あ、えと。聞いてました」

「そうかそうか。及川。また後でそいつに説明しといてくれ」

「はーい」


 ここでクラスはいつものように笑いに包まれた。俺は少し抜けている奴。と思われているようだ。ただ面倒くさがりなだけだが、それを分かっているのは数少ない親友だけだ。


「よし、それじゃあ。勉強も怠らず、犯罪には巻き込まれないように、夏休みを満喫しろよ」


 担任は大きな笑い声を発しながら教室を出ていった。


「ったく、相変わらずうるさいわね」


 右横から鋭い小言が聞こえた。黒澄だ。


「まぁまぁ。先生も一学期が終わったから嬉しいんだよ」


 獣をなだめるようにあかりが声を掛けているが、なんのフォローにもなっていない。しかしその満面の笑みから飛び出すその言葉には、黒澄も圧倒されていた。

 俺は帰りの支度を済ませ、鞄を背中に軽々と背負った。椅子をしまい、卓人に一緒に帰ろうと声を掛けようと思っていたが、いつの間にか先に帰ってしまっていた。


「なんだよ、卓人の奴。先に帰りやがって」


 俺は一人、文句を漏らしながら教室を出た。

 下駄箱に着き、革靴を下駄箱から取り出し、上履きを下駄箱に入れた。すると突然飛んできた大きな声が俺の行動を止めた。


「汚いぞ~、ちゃんと持って帰って洗わないと~」


 声がした左方向を見ると、そこにはあかりがいた。夕日が丁度あかりと重なり、一瞬誰だか見分けが付かなかったが、黒いボブに、大きなリボンが付いたカチューシャをしていたので、それで彼女だと気が付いた。


「なんだ、白羽根か」

「そうだよ? これから帰り?」


 そう言いながら、あかりは一歩前に出てきた。そのおかげか、夕日が少し遮られ、彼女の顔がはっきりと目に映った。

 目尻の垂れた瞳。小ぶりの鼻。薄く艶やかなピンク色の唇。彼女の顔のパーツ全てがくっきりと見えるようになった。


「うん。でもお前は部活があるはずだろ?」

「うーんと、あったんだけど……」


 あかりは俯いてもじもじしている。俺は少し素っ気なく返答することにした。


「なんだよ。じゃあ行って来いよ」


 そう言うと俺は彼女に背を向けて、一歩歩き出した。


「大神君と帰るために、サボってきちゃった」


 俺はそのセリフに振り返った。そこには、いかにも古臭いリアクションを取ったあかりの姿があった。自分の額をグーでコツンと叩き、少し舌を出していた。しかし今はそれよりも大事なことを聞き逃していた。


「俺と、帰るため?」

「え、えと。そう、だよ?」


 妙な空気が流れた。訪れた刹那の無音に、俺とあかりはただただ赤らめた頬を見せ合うだけであった。


「えと、一緒に帰ってもらっても、よろしいでしょうか?」


 あかりは潤んだ瞳を俺に向けながら懇願した。そんな瞳を向けられたら、断れるはずがなかった。


「じゃあ、帰ろっか」


 俺は不器用にそう言い放ち、先に昇降口を出た。


「あ、ちょっと、上履き!」


 あかりは俺の上履きを下駄箱から取り出して、俺の後を追ってきた。


「横、良いかな?」


 あかりは事あるごとに俺の許可を求めてきた。いつもとは少し雰囲気が違い、こちらも変な敬語を使ったり、片言になったりしていた。


「いつもなら聞いてこないだろ」


 俺はそう言いながら、あかりの歩幅に合わせて歩いた。あかりは嬉しそうに俺の横顔を覗いていた。

 あかりとは幼馴染で、小学生、低学年の頃は良く一緒に遊んでいたが、中学校に上がってからはお互い思春期に突入してしまい、会話をすることはなくなっていた。それが今年。まさか同じ高校に通っているとは思ってもおらず、同じクラスになり、再び会話をするようになったのだ。俺はそんなことを思い出しながら、彼女の顔をチラチラと窺っていた。それは彼女を見るためでもあったが、それ以上に彼女の動向を探るためであった。なぜこんなにかしこまっているのだろう。俺は疑問で仕方なかった。

 会話は無く暫く無言で歩き続けた。すると十字路まで辿り着いてしまった。この十字路を抜け、住宅街に入ったら、二人とも家はすぐなのだ。


「あのね」


 彼女が口を開いた。俺は耳を澄まして聞いた。


「八月の末に花火大会があるでしょ?」

「うん」

「それを一緒に見たいなって」


 俺は唾を飲み込んだ。その音は彼女に聞こえてもおかしくないほど大きく聞こえたような気がした。


「俺で良いなら。全然付き合うよ」

「え、あ、その。付き合うなんて……」


 彼女は頬を真っ赤に染めながら、顔を横に振っていた。彼女のことだ、きっと何か勘違いしているのだろう。


「あ、えと、付き合うっていうのは、俺でよければ、一緒に行けるよってことで」

「あ、あぁ! そうだよね!」


 やはり勘違いしていたようだ。

 信号が青になった。二人は横に並び、歩き出した。


「場所はさ、約束の丘で、良いかな?」

「懐かしいね。うん。そこにしよう」

「それじゃ、私こっちだから」

「うん。それじゃ、また今度」

「うん! 楽しみにしてるね!」


 こうして一学期の最終日を終えた。


 …………。

 それからは彼女とはメールで何度か連絡は取り合っていたが、あかりの所属する吹奏楽部が忙しく、会うことは無かった。俺はどこにも属さない。つまりは帰宅部だったので、卓人やほかの友達とほとんど毎日遊ぶ日々を過ごしていた。そんなこんなで、いつの間にか夏休みも残すところ数日となった。


 携帯が鳴った。あかりからの連絡だ。


【花火大会の日、部活はあるんだけど、夜には間に合いそうだから、先に丘で待っていてもらってもいいかな?】


 と言う内容のメールであった。正直一緒に行くのもありだったが、後から来るあかりがどんな服装で来るのかとか、花火が始まるまでどんな話をするのかとか、最後の花火の後になんて言おうかとか……。先に丘で待っていると言うシチュエーションも悪くない。


【了解。それじゃあ先に丘に行ってるよ。もちろん、いつものベンチだよね?】


 俺はあえて、いつもの。と言う単語をベンチの前に飾った。返信はすぐに来た。


【正確には、懐かしの。ね(笑)】


 突然マジレスをブッ込んでくる、天然のあかりらしい返信であった。


【それじゃ、また二日後】

【うん。楽しみにしてるね! いや、楽しみに待っていてね!】


 きっと、上手いことを言ったな。と少しどや顔をしているのだろう。そんな想像をしている俺の顔はニヤついていた。


 …………。

 二日後。俺は夜のことで頭がいっぱいで、なんだか胸がむずがゆかった。特に用も無かったが、少しは気持ちも落ち着くかもしれない。と散歩に出た。

 住宅街をフラフラと歩き続けるだけで、本当に何も目的は無かった。歩き始めてすぐ、バタバタと音が聞こえてきそうなほど、慌ただしく一人の女子高生が走って来た。かなりの大荷物であったが、女子高生は息を上げながら横を通って行った。制服を見る限り、同じ高校だったのだが、見覚えは無かったので、きっと上級生か下級生だろう。俺はその背中を見送ると、十字路の方に歩き始めた。

 用もなく十字路まで来てしまったが、そこには図書委員長がいた。才色兼備で謎が多いことで有名だったので、見知っていた。委員長は、こちらには気付かずに学校の方へと歩いて行ってしまった。

 まだほんの数分しか歩いていないが、本当にやることが無く、渋々帰宅した。こんな日が来るとも思っていなかったので、オシャレな服は一着も無かった。結局普段通りの、黒いティーシャツに灰色の七分丈のズボンを選択した。

 後はひたすら待つのみであった。

 長く感じていた時間も、気付けば花火開始の二時間前になっていた。夕飯は帰宅してから食べる。と母に告げ、もうしばらく待った。

 そして時は来た。三十分前になったので、俺は家を出た。気持ちが空回りし、足は自然と速くなっていた。十字路まで来ると、右に曲がって住宅街の裏山を目指した。山と言っても大して大きくなく、幼いころ、あかりとよく深夜に家を抜け出して、この山を少し上ったところにあるベンチで、星を眺めた。そしてここをいつしか二人は「約束の丘」と呼んでいた。

 高校生になった今、小学生の頃とは違い、ベンチにたどり着くまではとても短く感じるようになった。

 先に着いた俺は、ポツリと一つだけあるベンチに腰かけた。数年ぶりのベンチは、とても懐かしく、小さく感じた。

 俺はスマホを開き時間を確認した。するとそれとほぼ同時に花火が上がった。


「間に合わなかったか……」


 俺はため息のように独り言を漏らした。

 その後、色とりどりの花火が次々と上がっていき、散っていった。そして、最後の花火が上がった。それを見た俺は涙していた。花火がどうとかではなく、俺の右隣に誰もいないことに涙していた。彼女は来なかった。

 俺は打ちのめされた体を持ち上げることが出来なかった。なんだか自分が情けなく思える。そう思えば思うほど、気は楽になったが、心の傷は深く刻まれていった。

 火の粉は全て地に落ち、真っ暗な夜空が目の前に広がった。それを見ていると、何かに飲み込まれそうになり、慌てて山を下った。

 覚束ない足取りで、涙でぼやける視界で帰路に就いた。スマホはなんの反応も示さず、自宅に到着した。玄関を開け、靴を脱ぎ捨て、俺は自室に直行した。そしてその勢いのままベッドに倒れこんだ。瞼は重く、眠ってすべて忘れてしまおう。もしかしたら夢かもしれない。そう思い込みながら、俺は眠りについていた。


 夢も見ず、いつもと同じように起床した。窓からは眩いほどの日が射しており、目を細めながら体を起こした。腫れぼったい瞼が昨夜のことを現実にしていた。

 ポケットに入れたままのスマホを取り出し、電源を入れた。通知は二件来ていた。どちらも卓人からであった。


【花火どうだったよ?】


 これが一件目であった。深夜の十二時頃に送られていた。


【おい、今朝のニュース見たか?】


 これが二件目であった。つい先ほど来たばかりで、その文面はどこかせわしなかった。


【いや、まだ見てないけど?】


 返信をして間もなく、卓人からメールが届いた。


【まだ見てないのか。いや、気にしないでくれ】


 意味深なメールに俺は不快感を覚えた。ただでさえ、昨夜約束を破られているのだから。

 俺は返信せずにリビングに向かった。

 階段を降り、リビングの前まで来た。すでに母が起きているようで、中からは物音がした。俺は、おはよう。と言いながらドアを開けた。すると母は慌ててテレビを消した。


「お、おはよ。なんかテレビの調子が悪いみたいでね。リモコン触らないでちょうだい」


 母は引きつった笑みを見せながら、そう言ってリビングを出ていこうとした。


「そんなこと言って、どうせ点くんだろ」


 俺は母の忠告を無視して、リモコンの電源ボタンを押した。テレビは問題なく映った。


「ほら、点くじゃんか」


 俺は母の背中を見ながら文句を言った。するとその時、俺の背後のテレビから、耳を疑うような言葉が聞こえてきた。


「今朝未明、高校二年生の女子、白羽根あかりさんの遺体が、彼女が通う、京蘭高校の裏山で発見されました。手掛かりは一切残っておらず……」


 そこから先は頭に入ってこなかった。画面には彼女の顔写真が映っており、俺の口からは、言葉にならない声が絶えず漏れていた。

 母は俺の手からリモコンを抜き取り、電源を消した。

 俺はその場に膝から崩れ落ちた。両手を床につき、止めどない涙を流した。心の中では嘘だ。嘘だ。と叫び続けていたが、声にはならず、嗚咽となって部屋に響いた。

 泣き続けた末、胃酸が逆流し始めていた。喉を何度も往復し、ひりひりと喉を蝕んでいた。一度大きな深呼吸をし、気持ちを落ち着かせた。立ち上がり、洗面所に行って水を口に含み、うがいをした。そこでもう一度深呼吸をし、リビングに戻った。テレビの前にあるソファに寝転がり、ただ茫然と天井を眺め続けた。

 そうして数時間が経過していた。ソファの陰に座り込み、俺に対する慰めの言葉を探す妹、彩照さてらは健気であった。中学三年生ながら良く出来た妹だ。しかし俺の気はすぐに逸れてしまった。やはりこれは何か悪い夢だ。そうに違いない。俺は自分に何度も言い聞かせた。夢だ。夢だ。夢だ。と。

 静まり返った部屋には母が作った夕飯の匂いだけが漂っていた。匂いは感じていたが、食欲は沸かず、ソファから動こうとはしなかった。

 俺は何かに操られたかのように立ち上がり、


「ごめん。今日は夕飯いらないわ」


 と言い残し、風呂に向かった。


「なにもかも夢だ。昨日から夢を見てるんだ」


 シャワーを頭から浴びながら、何度も鏡の自分に向かって言い続けた。

 気持ちが落ち着いたところで、風呂を出ると、そのまま自室に向かい、ベッドにもぐった。


「早く夢から覚めないと……」


 俺は力強く目を瞑り、無理やり眠りについた。


 …………。

 翌朝。俺は真っ先にスマホの電源ボタンを押した。そこには八月三十一日、月曜日。と映し出されていた。花火大会があった日は、八月の二十九日、土曜日であった。と言うことは……。昨日の出来事は……。冷や汗が全身の毛穴と言う毛穴からあふれ出した。覆ることの無かった現実に、吐く息は震え、視点は定まらず、体をその場から微塵も動かすことが出来なかった。その後、俺は家から出ることは無かった。トイレに行くとき以外は部屋から出ることすら無く、そして夏休み最終日を終えた。


 翌日。登校初日。俺は学校を休んだ。何人もの友人が俺の顔を見に来たが、すべて母にあしらってもらい部屋から踏み出すことは無かった。


 翌日。そして翌日。そしてそのまた翌日。来訪する友は一人、また一人と減っていった。その中でも相変わらず、親友の卓人と、あかりの親友だった黒澄だけは見舞いに来てくれた。

 九月も中旬に差し掛かり、卓人も黒澄も訪ねてくる頻度が下がっていった。その分二人が来た日は、来れなかった日の分まで話をして帰っていった。


 九月最終の月曜。黒澄だけが訪れた。二人きりで会話をしたことは無く、卓人と来た日もただの連れ添いで、口を開くことは無かった。それがどんな風の吹き回しか、一人で家を訪ねてきた。

 リビングに呼ぶや否や、黒澄は妙な話を始めた。


「都市伝説。知ってるよな」

「は、いきなりなんだよ?」

「除夜の鐘がってやつ」

「あ、あぁ、知ってるよ。それがどうした?」

「それに賭けてみない?」

「なにをだよ?」

「あかりが生きる未来を創るんだよ」


 返答に困った。黒澄は不良じみたところはあるが、馬鹿ではない。しかしこんな都市伝説なんかを信じるようにも思えない。ただ、彼女の眼は本気だった。


「考えておくよ」

「あっそ。期待しないで待っとくよ」


 彼女はプイっと顔を背け、そのまま帰ってしまった。都市伝説、か……。

 翌日。俺は久しぶりにワイシャツに腕を通した。少し暑かったが、冬用のズボンとブレザーを羽織って、リビングに向かった。


「おはよ」


 俺はリビングで食事の支度をする母に声を掛けた。


「真也……。良かった……。おはよう」


 母は少し涙ぐみながら、俺の分の食事を用意してくれた。

 席に着いて間もなく、妹が起きてきた。俺が目に入り、目を真ん丸にしたかと思えば、泣きながら俺の横に来て、肩をパンチした。


「おはよ。馬鹿兄!」

「おう。おはよ」


 久しぶりにテーブルを三人で囲んだ。


「なんか、久しぶりだね。みんなでご飯食べるの」


 と、妹は目玉焼きを食べながら言った。


「そうね。一か月って思っていたより長いのね」


 母はそう言って、味噌汁を啜った。

 俺はその会話に入ることは無かった。しかし心の中で一番この瞬間を懐かしんでいた。


「ご馳走様」


 全員がほぼ同時に食べ終わった。俺のペースに合わせていたようにも見えたが、あえて触れることなく食器を片づけた。


「それじゃ、行ってきます」


 鞄を背負い、久しぶりにこの言葉を口にした。母はそれを聞くと、嬉しそうに頷いた。それを見た俺も不思議と笑顔を取り戻していた。

 久々に革靴を履き、久々に玄関を開けた。その先では卓人が待っていた。


「よぉ。久しぶりだな。不登校君」


 卓人なりの励ましだったのだろう。そんな彼にいつもの調子で俺は返した。


「うるせぇ。馬鹿野郎」


 少し照れくさくて、頬を指で掻きながらそう言った。


「まだ本調子じゃねぇな。まぁ、ゆっくり取り戻していこうぜ」


 そう言ってくれた卓人は、手招きをして俺を急かした。そしてこの時、俺は良い友に恵まれたな。とまた少し笑顔を取り戻していた。

 学校に着くと、当然のように白い眼を向けられた。生徒からも教師からも。それはもちろんのことであった。連絡は全て母が行い、家に掛かってきた電話もすべて母が受け答えしていたからである。一部では自殺した噂すら立っていたという。

 夏休み前では下駄箱に着いた途端に誰か一人が俺に話しかけてきたと言うのに、今では隣にいる卓人しかまともに会話をしてくれない。久しぶりの学校は少し息がしづらくなっていた。

 それから俺はしっかり学校に通い始めた。卓人の支えが無ければ何度挫折していたことか。徐々に元気も取り戻し、人間関係も、学校生活も修復しつつあった。しかしそんな中で、黒澄が言っていた、都市伝説。それが頭から離れなかった。もしかしたら、もう一度白羽根あかりに……。


 …………。

 文化祭、体育祭と二学期の大きなイベントは終わり、本日が終業式となった。


「行ってきます」


 玄関を開け、卓人と合流し、二学期最終日の登校をした。

 最終日となると、特にすることもなく、昼前に学校は終わった。下校しようとすると、黒澄が俺を引き留めた。


「すまん卓人。下駄箱で待っててくれ」

「おう。了解」


 卓人が教室から姿を消すと、黒澄は早速本題を話してきた。


「都市伝説の件。どうすんだ?」

「半信半疑だよ」

「そうかよ。ならせめて除夜の鐘の回数だけは聞いてみてくれよ」


 そう言うと、俺の横を通り過ぎ、手をひらひらと振りながら、教室を出ていった。


「まぁ、数えるだけなら……」


 俺はこの時、確証はないが、なぜか都市伝説は本当なのかもしれない。と思い始めていた。

 そして、大晦日を迎えた。俺は試してみるだけでも。と除夜の鐘に耳を澄ました。じっくり聞いたことは無かったが、一つ、また一つ。と鐘が打たれる度に、煩悩が浄化されていくようであった。

 百五、百六、百七、百八。最後の鐘が鳴った。耳から伝わった音は体全身に響き、余韻は収まった。その時であった。ゴーン。と、低く太い音がもう一度俺の身体を伝わった。嘘だよな。と思いつつも、俺の身体は勝手に動き出していた。都市伝説の通りなら……。

 一心不乱に駆け出し、俺は彼女が来なかった、約束の丘に立っていた。

 上がる息を抑え、ベンチに腰かけた。すると急に猛烈な眠気が俺を襲った。


「ここまで、来たのに……」


 俺はそう呟くと、ベンチに横たわった。

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