13 触ってもいい?

「どうぞ」

 彼女は黒いマグカップを差し出した。心を和らげるホットココアの香りが、湯気を伝ってリビング中に広がる。それを受け取ると、彼女は両手を合わせながらにっこりと笑った。

「マグカップね、白と黒のペアがあったから、今日買っちゃったの。まさかこんなすぐに役立つなんて」

「いきなりお邪魔してすまなかったよ」

 マグカップを一口啜る。ホワイトモカほどではないが、やはり甘い。水に溶け合わさるカカオの香ばしい風味と彼女の笑顔で、胸の奥まで暖まりそうだ。

 明るいリビングを見回す。相変わらず質素だが、最初に来た頃と比べてインテリアが増えている。おやつを入れるための竹かご、黒百合を閉じ込めたガラスのオブジェ、それに雑誌を並べるために新調した白い本棚。いい意味で、人間臭さがこの空間に表れてきた。

 そして、彼女の境遇を聞いてもなお、今の私にはここに住めることが羨ましい。

 ホットココアを飲み干して、早速シャワーを借りることにした。彼女からシャツとショートパンツを渡される。彼女自身は既にセーラーの襟がついたシンプルな白ワンピースに着替えていた、かわいい。その佇まいを褒めたくても言葉が素直に出てこないので、結局見ているしかできないけれど。

 それはそうと、シャワーに行く前に携帯を確認しなければ。

 カバンから携帯を取り出してみると、やはり画面いっぱいに不在着信の通知が並んでいた。これらは怒りからか、心配からか、後悔からか。私は母にとってどれだけ大切なのか。考えるだけ無駄なので、「友人の家にいる」とメッセージを一言入れて、電源をオフにした。

 彼女には泊めてほしいとお願いした理由をまだ伝えていない。それでも、彼女はあえてそこに触れないでいてくれた。


 シャワールームに入り、鏡に向かって服を脱いでいく。どれだけシンプルな服装を心掛けても、脱いでみれば女性の体つきだ。別に性別に対して不満も違和感もないが、彼女にとってこの体はどんな風に見えるのだろう、と考えてしまう。

 蛇口を捻り、水を流してお湯に変わるのを待つ。

 私と彼女は友達関係でもあったから、こうして家に来るのはそこまで緊張しないが、世間一般ではそう行かない。恋人を泊めるというのは、もっと大きな意味を持っているのだから。彼女はそれについて考えたのかな。彼女から私への、はともかく、私は十分そういう目で彼女を見ている。意識して触れないようにはしているが。

 彼女は、私とどうなりたいのかな。

 ただ精神的な支えがほしいだけ、とか。

 もし彼女が今の関係をよしとしているならば、私はそれに応えよう。自分から何か仕掛けることはきっとできないし、したところで彼女に失礼だ。

「自分でキスしておいて言うことか……」

 思わず自分にツッコミを入れる。

 別れを切り出した日、あれこそが私の黒歴史だろう。自分から彼女を突き放した、という意味では私も裏切り者だ。その歴史がなければ今の私がいないとはいえ、私は彼女を見捨てるような自分が許せない。

 そして、あの日に触れた唇の味をたどろうとしても、軽く重なってすぐに離れたため、今じゃまるで分からない。覚えているのは揺らぐ彼女の瞳だけ。怖がらせちゃったのかな。でも後悔はしていない。もしそれで彼女が、彼女は私のものである、と分かってくれるならそれでいい。

 お湯に顔を打たれながら、瞼を小さく開けてみた。ぼやけた視線の先に、おそらく蛇口であろう銀色の物体が見える。せめて彼女の前では、別の世界の住人になりたいな。この閉鎖的な世の中に縛られた失敗組の人間だと絶対に思われたくない。

 再び目を閉じて、遠くに思いを馳せる。

 夕焼けに染まる空と静かな大海原。どこまでも広がる水平線。もしも、誰の期待にも応えず、ひっそり彼女とそこで暮らしていけるとしたら――それは、とても、幸せなことなんだろうな。


 リビングに出たとき、彼女はソファに座って住宅雑誌を読んでいた。そのとなりに腰掛けて、彼女の髪から伝わる優しい花の香りに包まれながらページを覗き込む。「別荘にほしいインテリアライト」というテーマで様々な形の照明が紹介されている。適当に一つ見てみても、十万円以上は掛かる。照明にそれほど金を掛ける必要があるのか考えるのが普通だろう。しかし、それがあるだけで生活の質と雰囲気が一気にロマンチックになるのだから、そのぶんの価値はきっとあると思う。

 彼女は雑誌を広げて、私にもよく見えるようにした。しばらく、二人でページを読み進める。時々彼女と憧れを語り合い、時々黙り込んだ。

 最後の一ページまで読んで、パタンと雑誌を閉じて本棚に戻しに行く彼女。ワンピースについているひらひらした紺色のセーラー襟は、背後から見ると広く長い。

 かわいい、って褒めるなら今がチャンスだ。

「か」

 言い掛けた瞬間に、彼女が振り返る。すぐさま口を閉じた。口が変な動きをしていたからか、私を見た彼女は小首を傾げる。その仕草もかわいらしい。でも、率直な言葉ほど口に出しづらい。

 修学旅行の日の自分は勢いに乗って「愛している」なんて言えたけれど、それには長い背景があった。今いきなり言うのでは、絶対にタイミングがおかしい。いや、おかしくなくても緊張してしまう。

 彼女はソファに戻って、ちょこんと私の横に座る。さて、もう雑誌もなくなった。私はやはりここに泊まりに来た理由を言わなければならないだろう。

 そうして口を開こうとしたタイミングで、彼女の声が先に響いた。

「あのね」

 口を閉じる。今日はつくづくタイミングが悪い。

 それにしても、私に何かを言おうとする彼女の様子は変だった。珍しく私から目を逸らして、小声で言葉をこぼしている。まるで照れているみたいだ。

「今日、いつもと違うワンピースを着ていて、シャンプーとかも変えたりしているから」

 ふと、柔らかな少女の手が私の手に重なる。私が温かいのか、彼女が冷たいのか。シャワーから出たばかりだから、私が温かいのかもしれない。手のひらはお餅なのに、指は骨だ。それを優しく曲げてみたりしていると、

「ねぇ、聞いてるー?」

 彼女が抗議した。

「あ、うん、聞いてるよ」

「せっかく頑張って言ったのに、絶対聞いてないでしょ?」

 小さく頬を膨らませて拗ねる仕草もかわいい。

 この流れだと、彼女は私にワンピースの寝間着を褒めてほしいのだろうか。確かに彼女はワンピースとシャンプーを変えたと言っていた。道理で花の甘い香りを漂わせていたのだ。

「見たときからずっとそのワンピース、その、似合ってると思っていたよ。あと、いい匂いするって」

「そう、それが聞きたかったの」

 彼女は顔をひょいと私に近づける。その髪が揺れ動くのにつれて、甘い香りがまた広がる。そして、目の前には彼女の顔がある。くっついてきそうだ。

 近すぎる。

 無意識に後ろに身を引いてしまった。かつてない距離感に対して平静を保とうとしてみるが、本当は彼女の麗しい容貌に目が釘づけになって心臓がうるさく跳ねて、会話なんかに集中できない。ソファに手をつき、私を包囲した体勢の彼女。極度に恥ずかしい状態なのに手を解いてほしくなくて、私は黙っていることにした。

「あの」

 何秒か経って、先に口を開いたのが彼女だった。拗ねているのか落ち込んでいるのか、視線をソファの上に落として小声で言う。

「ここまでやったんだから、その……鈍感なのか優しいのか……」

 言葉の意味は気になるが、この姿勢のままじゃ頭が回らない。何か返事しなければいけないのに、言うべきことが出てこない。

 だって、ワンピースの襟があと数センチで首に当たりそうなくらい近い。

「えっと、つまり?」

 結局意味を聞き返してしまった。

 彼女は呆れた表情で私を見下ろす。いきなりこんな状態に持ち込まれても、はっきり言ってもらわなければ意味が分からないが、私が悪いのだろうか? 彼女が拗ねるくらいだから、私が悪いのだろう。でも、好きな人とこれほどの至近距離にいるのにも関わらず、会話の意味を推察しろなんて無理難題じゃないか。

 もたもたしているうちに、彼女はソファについた手を下ろした。その代わりに、向かい合う体勢で私のももの上に座って、華奢な手を私の首に回す。しなやかな身動きは、獲物に纏わりつく猫だ。ごくりと唾を飲む音が聞こえた。今まで以上に積極的な彼女の様子を見て、どんどん答えに近づいた気がする。

「あのね、その。このままキスしたい、と思う」

 言い終わった瞬間に照れて顔を食卓の方に背ける彼女。純白のワンピースが私の上で広がる。ももに重なった人体は、出来上がったパンケーキのように、熱くて、柔らかくて、ハチミツの甘い匂いがする。でもそれどころじゃない。

 やっと彼女が言おうとしていることの意味を思い知って、頭の中がこんがらがる一方、心臓が力強く重く速く体に熱い血流を送り込んでいく。返事がほしくて、彼女はちらっと私を見返す。

「ああ……じゃあ、触ってもいい?」

 俯きながら、彼女は頷いた。

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