12 帰りたくない
高校三年生になり、誰もが受験の重圧に屈伏して勉強をするようになった。放課後の教室にもちらほらと人が残り、開いた問題集に対峙する。かつてはイヤホンをつけて寝ていた人、部活にしか興味を示さなかった人、最底辺に甘んじていた人。酸欠になりそうな重たい空気を背中に乗せながら、ペンを動かす機械と化している。この中で暮らす私も、心に棲みついた影をどんどん増大させていった。
彼女をビルに送ったあと、帰路に就いた。帰ったところで塾に行かなければいけない。実にだるいが、これも彼女のために乗り越えなくては。
そう意気込んで、家のドアを開けた。
「ただいま」
挨拶こそ言ってみたが、いつも通り返事が来なかった。リビングに入る。母が食卓の椅子に座って、気だるそうに携帯を眺めている。その横を通って、部屋の中に入ろうとした。
「夕食を用意したから、自分でキッチンから持ってきて食べなさい」
先に食べてから塾に行け、ということだろう。作ってくれたことが意外で、しんみりとした気持ちになった。
「ありがとう」
私は早速キッチンから夕食を取ってきて、母の向こう側に腰を下ろす。素朴なみそ汁とご飯だったが、ちょうど気分に合っていた。いただきます、と両手を合わせてからおかずに箸を伸ばしたら、母がふと私に目をやって言う。
「今日模試の成績が返ってくるんだよね? 問題集はちゃんとやった?」
「全部解いた」
進学校だから、一般的な公立高校よりも授業が進むのが早く、範囲は既に終わっていた。おかげで問題集を早いうちからいっぱい解くことができる。今度の模試も、今までの積み重ねをきちんと活かせたと思うし、期待してよさそうだ。
夕食を食べ終わると、私はカバンを拾い上げて塾に向かう。
「模試の成績を今日見るからね」
母の声を背負いながら、既に黒に染まった夜空の下へ踏み出した。
目が痛くなる繁華街に潜り込み、人波を縫って塾へ進む。流行しているであろう様々な曲が店から道路に流されるが、タイトルの分からないものばかりだった。これも仕方がない、私はもう受験生なのだから。
宝石のネックレスがずらりと並ぶショーケースを指差して笑い合うカップルが道を塞ぐ。薄汚い歩道橋を目掛けて、仲睦まじい背中たちの横を早足で通る。紙くずやコーラ缶の転がる階段が私に近づいた瞬間、嫌な思い出が鮮明に放映され、呼吸が加速していく。
「これ、絶対トラウマになっているよな……」
トラウマってこれほど容易にできるものなんだ。
気持ち悪いペンキの側を通り過ぎるなり、下り階段が見えてくる。何だか無性にホワイトモカが飲みたくなってきた。あの甘すぎる感じ――嫌な記憶で詰まる脳を塗り替える甘い味が、案外好きなのかもしれない。
手すりに掴まりながら、慎重に一歩一歩階段を下りていった。目の前で、あの日の光景が薄い膜を挟みながら再生される。目を堅くつぶってみた。映像が消える。胸を撫で下ろした。
講座が終わり、手に入れた模試の結果を上から下まで細かく見ていく。
はっきり言って、理想とは程遠かった。全体の割合だけで言うならそこまで悪くはないが、T大の受験生たちと腕相撲をするには圧倒的に力量が足りない。
間違っている問題の多くは苦手科目の数学だった。応用問題でぐるぐると空回りして、時間を消耗しているのが明らかだ。もしこれが彼女だったら、正解への道筋をはっきりと目に捉えながら正確に走り抜けていくだろう。基礎力があっても応用力が足りない自分は、ひらめきで問題を解けるような天才が羨ましくなる。
その他の科目で間違っている部分の多くはケアレスミスだった。こればかりは自分のせいだ。
大きなため息をつき、手に持った紙をカバンにしまった。出口に歩き出そうとしたとたん、背後から呼び止められる。
振り向くと、自分を担当しているメンターだった。
「高二あたりから、成績があまり伸びないね」
彼は苦笑しながら私の状態を指摘した。悪意はないのだろう、しかし結果を確認したばかりの自分にはとても刺さる。
「そうなんですよ」
頑張って笑みを絞り出した。たぶんぐしゃっとした気持ち悪いものだったと思う。
「勉強法でも間違えたのでしょうかね。数学がどうしてもできなくて」
「基本はできているんだよな。問題も真面目に解いてくれているし」
「応用の方をもっと多くこなそうと考えているところです」
私は俯く。今でも十分多く解いていると信じていたが、やはり足りないみたいだ。足りないという現実を突きつけられるのは苦手。自分に価値がないと言われているような気分になる。
メンターも一体何がだめなのか見当がつかない様子で、結局応用問題を多く解くという結論にしか導けなかった。自分でも、どうして模試のときにはできなかったのか分からない。ただできなかったことが事実として、私の背中に重くのしかかる。
塾を出て、まずは記憶の中にある薄暗いカフェに訪れた。注文はもちろんホワイトモカ。今は嫌なことを忘れたい。
「どうぞ」
店員がドリンクを渡してきたとき、手が触れて、反射的に引っ込めてしまった。幸い店員がドリンクをがっしりと握っていたので落とさなかったが、お気をつけ下さい、なんて言われてしまった。
昔から人との接触が苦手なものだから、仕方ない。
ホワイトモカを慎重に握りながら、唇に近づけた。既に刺激的な甘い熱気が口に当たる。勇気を出して一口飲むと、やはり熱く蕩けて舌を焼く。コーヒーの苦味が砂糖をより引き立てているのだろう。頭がぼうとする。
できれば、もう二度と他の味が分からないくらいに甘いのがいい。ホワイトモカを手に持ったまま歩道橋を見上げると、色褪せた雲の背後からガラス玉がちらりと蒼白な顔を覗かせた。
家のドアを開けると、母が玄関に立っていた。
「ただいま」
私は呟いて、腰に両手をキツく当てている母の側をできる限り冷静な顔で通る。
「あなたの問題集を見たけど、私がこの前買ってきたものをどうして解かなかったの?」
この前買ってきたもの、とは?
振り返ると、紙をぐしゃぐしゃに丸めたかのようにシワをいっぱいに寄せて、じろりと猛禽の視線を送りつけてくる。その言葉の意味を推測してみるが、心当たりが全くない。私は確かに塾に言われた通りに問題集を全て解いたはずで、母に何かを買ってもらった覚えはなかった。
ついてこい、と言われたので後に続く。立ち止まった先、そこは私の本棚だった。参考書、問題集と研究資料で埋め尽くされているそこから、母親は何冊もの本を取り出す。ハイレベルな問題集ばかり。それらを私の勉強机に叩きつけた。
「そこに入れといたって言っていたでしょう?」
「それを聞いた覚えはないけど」
「問題集を置いてあるから解きなさいって絶対に言った! 最近集中力が低いんじゃないの? 高二の頃から成績がよくないし、それでもT大に入る気?」
私は勉強机の上を見た。頑固な物体に打ち当たった可哀想な問題集たち。これらを全部解かなければいけないと考えれば、またもや憂鬱になる。どれだけやったって成果が出ない上、終わりの見えない作業だった。
「で、模試の結果は? 渡しなさい」
素直にカバンから取り出した。視点を床に定めてじっとする。母の表情がどれだけキツくなっているのか、眉間にどれほどシワを寄せているのか気になるのに、見る勇気がない。パラパラと紙の擦れる音が聞こえる。母は今、項目を一つ一つ見ているのだろう。
床に浮かぶ細かい塵を無心で凝視していると、母がやっと口を開いた。
「あなた、本当にT大を受けるの?」
とても淡白な声で、怒りや焦りといった感情が籠もっておらず、ただ憐れみを感じさせる。母は静かに問い掛けた。
私は歯を食いしばった。それだけじゃ足りなくて、手で首を握り締める。酸素が抜けていく。意識を喉の痛覚に集中させれば、私は泣かずに済む。脈打つ血管さえも押し潰すくらいに、手に力を込める。足が柔らかくなる。まるで宇宙と地球の境目にいるような、ふらふらする感覚。妙だ。
T大に入るためにS学園に入ったんだ。同級生たちも皆、この使命を背負って勉強している。私はT大に合格することを望まれて、必要とされているのだ。逆に言えば、T大に合格できない私は必要とされない。
自分のために生きると決めたはずなのに、必要とされないことがたまらなく恐ろしい。
私が考え込んでいる間、母は無言で私を待った。しかし、伝えなければいけない言葉が全部首を握る手に阻まれて、そこにつっかえてしまっている。才能がなくてごめんなさい、努力が足りなくてごめんなさい――いや、もっと他に言いたいことがあるのに。私を軽々と飛び越えていく人間が憎い。そんな私を受け入れてくれようとしない母が憎い。
息が通らなくて、体が崩れ落ちそう。
「模試も、数学がボロボロな上、ケアレスミスも多い。未だに状況が分からないのなら――」
「うるさい!」
手足が先に動いた。床に置いてあったバッグを拾い上げて、入り口にいる母を思い切り押しのけリビングを走って通った。勢いのまま玄関のスニーカーに足を通すと、ドアを出てバタンと閉める。ロックを掛けない。全速力で夜の道路を突っ走った。家が一軒一軒後ろに消えていく。空気がどんどん希薄になる。
我に返った瞬間、両足が痺れたように動かなくなって、道路のど真ん中で地面に膝をついた。息が苦しい。すごく苦しい。溢れていく生温い液体を拭く気力もなければ、立ち上がるほど頑丈な足もない。目の前にある冷えたアスファルトが、足にゴツゴツした突起を押し込んでくる。立ち上がらなければ。追いつかれるかもしれない。
膝を立てて、ふらっと立つと、またすぐ前へ倒れそうになる。慌ててそこら辺の壁に手をついた。呼吸のリズムを取り戻すんだ。まずは体が動けるようにしなければ。
一歩、一歩。足を小刻みに動かしていくと、やっと歩くという感覚を思い出してきた。きっと喉の震えが治まってきたのもあるだろう、やっと正常に歩けるようになった。しばらくぼうと歩いていたが、行くあてもない。周りは静まり返った変哲のない住宅街で、もし家に帰るなら逆方向に戻らなければいけない。
でも、今はあそこに帰りたくない。
少しの間だけでも、母からの、そして自分自身からの期待に応えられない私を忘れていたい。
ふと、舌に張りついたままの残り僅かなホワイトモカの味を思い出す。とても冒険的な選択だが、今の私にはどうしても必要に感じてしまう。私はバッグから携帯を取り出して、番号を入力した。すぐに繋がった。
「突然にごめん。今日、家に泊まってもいい?」
泣いたばかりだと思われないように、努めて落ち着いた声を装った。
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