妖怪ワタホメ
憑木影
妖怪ワタホメ
「まずはじめに、申し上げておきますが」
そのおとこは、彼女の殺風景なオフィスに、よく馴染んでいた。
おとこというより、老人というべきであろう依頼人は、超常現象研究家といういかにも胡散臭い肩書きが書かれた名刺をみても顔色ひとつ変えない。
まあ、片目を眼帯で覆ったそのおとこは元々表情らしきものがとても薄かったのだが。
「わたしのことを、妖怪ハンターだとか妖怪退治の専門家みたいにいうひとがいますが、とんでもない誤解です」
「違うのか」
特に感情を感じさせない、平板な口調で老人はいった。
彼女は、うなずく。
「だいたい妖怪なんて、退治することはできません。誰にも。妖怪は、そうですね、概念なんです」
「概念だって?」
「ええ、そうです」
彼女の自信たっぷりの笑みをみても、老人は表情を変えない。
その杖を持ち黒いスーツ姿の老人が、彼女にはなぜか死神のようにみえる。
しかし不吉な印象があるわけではなく、むしろとても影が薄い。
妖怪にたとえれば、ぬらりひょんといったところであろうか。
彼女は自分の考えが気に入り、微笑みながらうなずく。
「例えてみればですね、そう、物理学者のディラック博士が考えた驢馬電子のようなものです」
「驢馬電子?」
「ええ。負のエネルギーを持つ反物質というととても得体の知れないものに思えますけど、驢馬という名のついた電子といえば、妙に納得するものでしょう」
「そう、なのか?」
なにか納得した気配のない老人にかまわず、彼女はにこやかに話をすすめる。
「そうなんです。妖怪とは、何か得体の知れない現象を受け入れるために発明された概念なんですよ」
「ではそれは、実在しないという気なのか」
彼女は、勢いよく、首を振る。
「いえいえ、実在するのは間違いないです。驢馬電子が実在するようにね。でもそれは、わたしたちの常識を越えた奇妙な振る舞いをする。だから、それを親しみやすくするために概念をはりつける。概念と奇妙な現象がひとつになって、妖怪といえます。西欧のモンスターとは、真逆ですね」
「真逆とは?」
「モンスターはまず、怪物が存在する。そのあとに、現象がついてくるんです。たとえば、ブラド・ツェペシュという怪物にドラキュラという吸血と死者の蘇りがセットになった現象がついてくるみたいなもんです。まず個別の怪物が存在し、一般的な現象が結びつく。妖怪はまず現象があり、そこに個別の概念がはり付く」
「なるほど」
老人は、彼女の話しに辛抱強くついていく覚悟をきめているようだ。
「では、退治をせずにあんたは何をするわけだね」
「決まってるじゃあないですか。名刺に書いてるように、研究する。つまり分類して整理し、名付ける。医者と一緒です。診断し、病名を決める。あなたは、風邪をひきました。治るかどうかは、あなた次第です」
「わかった」
老人は、うなずく。
「それでいい。名付けてくれれば、十分だ」
彼女は、なぜか得意げな笑みをうかべる。
「それでは、お話をききましょうか」
「海が、やってくるんだ」
老人が、奇妙な話をはじめても彼女は笑みをくずさない。
無言で、先をうながす。
「海の中から、おんなが現れる」
彼女は少しうれしそうに、する。
老人は、彼女の表情におかまいなく、話を続けた。
「おんなは、燃えている。海の中で、燃えてるんだ」
彼女は、すこしほう、という顔をした。
「海は、いたるところで現れる。たとえば、この部屋の中にあらわれることもあるだろう。おれは、幻覚を見ているのだと思うか?」
「違うと思いますよ」
彼女は、あっさりと否定する。
「ええと、そうですね。さっきディラック博士の話をしたから、シュレディンガーの猫の話をしましょうか。シュレディンガーの猫は、知ってますよね」
老人は、うなずく。
「放射線は、波であると同時に粒子である。スイッチがふたつ。片方に放射線があたると毒ガスが出て猫が死ぬ。もう片方にあたれば、猫は生きて箱からでる。さて波である放射線は両方のスイッチにあたるけれど、スイッチが作動するのは波が粒子化したとき。波が粒子化するのは、観測した瞬間。ひとが観測するまで、猫は死んだ状態と生きた状態が重なり合ってる」
老人は、ある意味年老いたものらしく辛抱強く話を聞いている。
「では、観測をして猫が生きていたとしましょう。死んだ猫は、どこに行きましたか?」
老人は、わからないと首をふる。
「死んだ猫は、負の存在確率へ落ち込むんです」
彼女は立ち上がり、夢見心地に世界を見渡し両手を大きくひろげた。
「世界には局所実在化しなかった様々な負の存在確率の現象で、満ちあふれています。わたしたちは、負の存在確率のものを見ることができない。普通はね」
彼女は、老人に顔をよせる。
「でも最近の量子力学の研究では、負の存在確率に落ち込んだものを観測できることが判りました。それは、弱観測とよばれます。あなたは、弱観測で負の存在確率の海を見たわけです」
老人は、戸惑ったようにつぶやく。
「まあ、おれが見ているものが負の存在確率となった海だとして、それは幻覚となにか違うのか」
「違いますよ、何言ってるんですか、ぜんぜん違いますって!」
彼女は話しにならないというように、手をぶんぶんふる。
「いいですか、幻覚というものはあなたにしか見えない。でも、負の存在確率の現象は条件さえ整えば誰にでも見れる。あなたの幻覚は、あなたの無意識があなたに見せているとしましょうか。負の存在確率の現象は、その理屈に従えば集合無意識があなたに見せているといえる。つまり、それは世界があなたに見せているといっていい。世界が、あなたに語りかけてるんですよ」
彼女はきっ、となった表情で老人をみた。
老人は、顔色をかえずにそれを受け流す。
「では、世界はおれに何を語りかけてる」
「はじめましょうか、妖怪の名付けというものを」
彼女は、にいっとチュシャ猫のように笑う。
「名付け終われば、何が語られているかも判るはずです」
「そう、なのか」
どこか納得していないようにも見える老人を無視して、彼女は話を続ける。
「まず、海。そして、おんな。このふたつが結びついた妖怪は、よく知られています。そうですね、有名どころでは濡れおんなでしょうか。それに、あの牛鬼もまた海とおんなが結びついた妖怪だといえますね」
老人は、無言のまま彼女を見ている。
部屋では、奇妙なことがはじまっていた。
いつの間にか、雨がふりはじめている。
消火用のスプリンクラーが動き出したとでもいうのだろうか。
老人と彼女はその奇妙な出来事を気にとめる様子もなく、話を続けていた。
「さてまず、海から片づけましょうか。海とは、民族学的社会では他界のことです。共同体の存在するケの空間の外に存在する、他界。非知の世界ともいっていいでしょう。その他界とおんなが結びつくというのは、どうでしょう。おんなは魔法昔話の文脈では、よく他界と結びつけられます。なぜか。それは、一般的にはこう説明されています。おんなは、子を産む。民族学的社会では、子は黄泉の国から死者が帰ってくるものとされます。つまり、おんなは身体の中で黄泉の国と、結びついているとされます」
雨は、次第に強くなっていく。
床は、水で満たされていた。
老人と彼女は何も言わなかったが、あたりには潮の香りが満ちている。
そう、彼女たちの足元には海が出現しつつあった。
相変わらずその怪異を気にとめるようすもなく、彼女は話し続ける。
「おんなが結びついた他界、それはつまり黄泉の国と結びついているといえるでしょう。そしてそれは、海の示すある現象と結びつくのです」
「ある、現象」
「そう。海は様々な顔を持ちます。穏やかなときもあれば、嵐の激しさを持つこともある。そして、あるときには、海は全てをのみこみ冥界へとつれさる、おそるべきものとなるのです。海とおんなが結びついたとき、妖怪は他界と現世の境界となると同時に手ともなるのです」
「手?」
「冥界からさしのばされ、わたしたちをそこへ引きずり込もうとする手」
いつしかふたりは、夕暮れの海の中に佇んでいた。
黒いスーツの老人は静かに波打つ海に杖をついて立つ、死者のように見える。
「ではおれは、冥界へ招かれてるというのか」
「あなたは、いいましたよね。おんなは、燃えていると」
「ああ」
いつのまにか。
海には、渦ができたいた。
その渦は、赤い。
灰色の水の中に、赤い渦が混ざり込んでいる。
それは、炎が海の中にあるようにも見えた。
「このわたしたちの暮らす島国には他国にみられない、独特の神話があります。この島国では、太陽神はおんなであるとしています。おんなの太陽神は、中々他国ではみられないものですが、それだけではありません。太陽神は、海の中から生まれてきたのです」
「海の、中から」
ぼんやりとした老人のつぶやきに、彼女はうなずく。
「最初に国をつくった神のひとり、イザナギ。彼は、黄泉の国から帰ったあと、海の水で黄泉の汚れを落とします。そしてその黄泉の汚れから、太陽神が生まれてくるのです。わたしたちの島国では、炎と水、そして黄泉の汚れは独特の結びつきを持っています。そして、それらが結びついたとき、ひとつの妖怪となります。わたしはそれを」
おんなはぐいと、老人に顔を近づける。
「ワタホメ、とよんでいます」
赤い渦は、次第に力をましていく。
それは、おんなの髪にみえる。
おんなの髪が海の中で、渦巻いているように見えた。
「海、火、女と書いて、ワタホメと読みます。それが、あなたの前にあらわれる妖怪の名です」
赤い渦、その中心がもりあがり、おんなが立ち上がる。
燃えていた。
水の中で、炎が燃えさかりおんなの姿をとっている。
炎と水のおんなは、老人へ向かって手を伸ばす。
それは、どこか愛おしげな。
哀しげで。
儚げな、風情をもったようすで。
けれど、おんなの燃えさかる顔は。
太陽のように、笑っていた。
老人は杖に仕込まれていた剣を無造作に抜くと、叫ぶ。
「よくぞ、名付けてくれた、礼をいう」
剣は、おんなの胸を刺し貫いた。
炎のおんなは、溶けるように海へ帰っていく。
急速に、怪異が消えていった。
海の水は失われ、雨も消え去り、あたりは殺風景な部屋にもどる。
彼女は、ため息をついた。
「ああぁ、なんで説明する前に、斬ってしまうんですか。まあ、いいですけれど」
老人は、不思議そうにいう。
「あれは、おれを冥界にひきこもうとする手ではないのか」
「何いってるんですか。ひとの話、きいてないんですか」
彼女の怒った言葉を、老人はあきれたような顔をしながら聞く。
「いいですか、この島国では海の中から現れる炎は、海とおんなの怪異が持つ位相を逆転させるのですよ。つまりそれが示すのは、冥界からの帰還、死の汚れの拒絶」
「ほう、ではおれはあの妖怪によって、むしろ死から遠ざけられていたのか。あの妖怪が去ることによって、おれには死が訪れるということか」
彼女は、大きくうなずいた。
老人は、大きく笑う。
そして、声をあげて笑い出した。
「死がくるか。それもまた、重畳」
老人は、さきほどの妖怪ワタホメが見せた、太陽の笑みをみせる。
妖怪ワタホメ 憑木影 @tukikage2007
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