さよならようこそビタースイートホーム
森くうひ
第1話
兄貴が死んだ。
何年振りなのか分からないけれど、とにかく久し振りに見たその顔は、白い布の下だった。
会社から帰宅中の駅でいきなりぶっ倒れて、救急車で病院に運ばれたらしい。
よくある電車の中のアナウンスの、何々駅で急病人救護のため何とかかんとか、っていう無茶苦茶ありふれたシチュエーションで、まさか自分が死ぬとは兄貴だって思っていなかっただろうし、俺も唯一の兄弟がそんな死に方をするとは思ってもみなかった。
病院へ担ぎ込まれて、まず社員証で会社に連絡が行って、仙台の実家の両親に電話で伝わって、その後、俺に連絡が来た。俺も兄貴も同じ東京都内に住んでいたのに、俺が一番情報が遅いのが、意味もなくシュールだった。それでやっとこさ俺が病院に着いた時には、もうお亡くなりになっていた。
脳出血。その出血位置が致命的に悪かった。脳の一番奥の、呼吸とか、そういう生命維持を司る部分がやられた。
……らしい。
俺に分かっていたのは、倒れて数時間のうちに兄貴があっさり息を引き取った、という事実ぐらいだった。事実にしても現実味がなかった。
白っぽい顔――布の下の顔も白っぽかった――の兄貴と対面しても、目の前で何が起きているのか、いまいちピンと来なかった。
せっかくタクったのに、死に目に間に合わないとかダセェ。つか、タクシー代三千円返せよ。
腹の内で、そんな文句を兄貴の死に顔にぶつけてみたりした。
深夜、ほぼ最終の新幹線で、両親が東京に着いた。
そこからは怒涛の展開だった。
というか、怒涛、っていう言葉では、語弊があるかもしれない。
何もかもがフワフワしていて、俺の周りを滑って通り抜けていくみたいだった。
おそらく父親も母親も、そんな気分だったんじゃなかろうか。
息子急病の一報を受けて、取るものも取り合えずすっ飛んで来た両親は、新幹線の中で長男の訃報を知った。つまり、家を出たときは知らなかった(かその時まだ兄貴が生きていたのか不明だが)。喪服なんて持ってきているわけがない。
茫然としている父親も、次に何をすればいいのか見当も付かずオロオロしている母親も、えらく老けて見えた。あまりに老けて見えるので俺は、今年の正月に帰省してからもう十年ぐらい経ってんじゃないかと、また腹の内でアホ且つ無駄な事を思ったりした。
雁首突き合わせてまるで役立たずな遺族三名の前に、程なくして、黒スーツ黒ネクタイの葬儀屋が現れた。葬儀屋は、ニコリともしない神妙な顔で、淡々と、しかしサクサクと仕事をしてくれた。プロフェッショナルってすげえ、としか言いようがない。
早々と段取りが決まり、翌々日には通夜ってことになった。
通夜の日は、十二月の初めらしい寒さで、無駄にすっこーんと晴れた空が高かった。
その空をぼんやり眺めていたら、なぜか、前回兄貴に会ったのがいとこの姉ちゃんの結婚式だったことを思い出した。横浜の、えらくこじゃれた結婚式場だった。両親は来ていなかった。たまたま近場の都内に住んでいた俺と兄貴が呼ばれたのだった。
案の定、俺も兄貴も、親戚のおばちゃん達の猛攻撃を四方八方から浴びた。あら久し振り、立派になったわねえ! お父さんとお母さん元気? 拓海ちゃんもトモちゃんもまだ独身?
フリーズした笑顔しか出てこなかった。隣の兄貴を見たら、同じ顔をしていた。
披露宴が終わった後、俺が
「クソ高いご祝儀包んで、おばちゃんのマシンガンでハチの巣になってるんだから、割に合わない」
とぼやいたら、兄貴は
「言えてる」
と苦笑していた。
そして、じゃあな、と適当に手を振って別れた。
それが最後だった。
ドラマチックでも何でもない。
斎場の、親族に用意された控室で、現実はそんなもんなんだな、と実感せざるを得なかった。
夕暮れを待たずに、喪服に身を包んだ兄貴の会社の人達がぞろぞろ現れた。
彼らは受付やら会葬御礼の準備やらをぜんぶ引き受けてくれた。というか、役立たず遺族三人組が気付いた時にはもう、役割分担が出来ていた。
兄貴の勤め先は、外資系のコンサルティング会社だった。
兄貴の会社の人達は、翌日の葬式の雑用も、進んで片づけてくれた。サクッと手伝ってサクッと焼香して、それで精進落としの寿司も食べずに帰っていくんだから、気が利きすぎてヤバい。兄貴の周囲には、さぞかし有能な人材が揃っていたのだろう。三十代ぐらいの、仕事のできそうなイケメンと仕事のできそうな美女が、何人もいた。外国人も何人も来た。普通に日本人だと思ったら、中国系アメリカ人とか、よく分からんがそんな感じの、英語しか喋らない弔問客もいた。
兄貴がこんな世界にいたなんて、俺はこの時、初めて知った。
職業が同じ漢字三文字の「会社員」でも、随分違う。
俺みたいな、マイナーでショボいIT企業社員とは、大違いだ。
兄貴の葬式というイベントの現実味のなさも手伝って、俺は周りを見渡してそんな事ばかり考えていた。
でも、親父とお袋は、弔問客の顔なんてひとつも見ちゃいなかったかもしれない。
両親は、親族席の一番前で、ずっと俯いていた。
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