先輩は名探偵

神浦七床

第1話

 1


 私の先輩は名探偵だ。

 ここでの名探偵の定義は、謎を解き事件を解決する者という極めてミステリ的に一般的なものだ。

 証拠を集め、推理する。

 とんでもない超能力も霊界との交信も読心術も使わず、ただ断片を揃えてまとめて華麗に謎を解く。

 先輩はそれが出来る人間だった。

 先輩、じゃあ曖昧な呼び方すぎて分かりにくいか。もう少し詳しく説明しよう。中肉中背。無地のシャツにジーンズ。細い瞳の上にかけられたこれまた細いフレームの眼鏡。容姿は人並み以上。運動神経もこれまた人並み以上。コミュニケーション力が発達していて誰とでも会話を続けられる。

 人間として完璧な先輩はテニス部なんかに所属しておけばよっぽど楽しい青春人生を送れたに間違いないのに、私も入っている推理小説研究会に何故か所属していた。ちなみに二年で部長。

 よくある推理小説のように先輩は学内の謎を次々と解き、我らが西大のホームズとして学内にその名を馳せていたのだ。そして、そのワトソン役はこの私だった。

 不本意なことに。


 2


「ねえ、先輩。何故あそこに三十センチ定規と指示棒が立てかけてあるんでしょう」

 まだ五月とはいえ、風が無く蒸し暑い室内で私は先程まで着ていた水色のカーディガンを腰に巻きながらそう問いかけた。

 部室棟の給湯室。

 こんなところに来たのは我々推理小説研究会がお茶を飲もうと考えたから、というわけではなかった。うちの部室にはティファールがある。

 これは捜査の一環だった。

 事件の概要を説明すると、天文部が学生会から一時的に借りていた部室棟の屋上の鍵が消え、その捜索を頼まれたというものだ。話がこれで済めばただの人海戦術で方がつくのだが、厄介なことに鍵は部活中の天文部室の机上に置かれていたという制約があった。全員机に向かって何らかの作業をしていたので、鍵に手を伸ばす者がいたら必ず気づく。人の目による密室だ。

 密室というキーワードが出たら推理小説研究会に解を委ねるしかない、というのが西大天文部の考えだったらしく、事件は今日の午後六時頃うちの部室に持ち込まれ、それから三十分ほどすぎた今、部室内の捜索を終えた先輩がふらりと立ち寄ったのがこの給湯室だった。

 ステンレス製の流しに立てかけられていた二つの道具が目につき、私が何の気もなしに言った言葉が、あれだ。

「ああ、なるほどね」

 対して先輩は長袖シャツを捲る様子もなく汗ひとつかいていない涼しげな顔でただ一回頷いた。そのまま私に声をかけずに先輩は来た道を戻る。きっとまた先輩は何か閃いたのだ。私には見えない何かを見つけたんだ。行き先は依頼人達の部室だろう。そのくらいは私だって推理できる。


「なかなか手の込んだ芝居でしたね、とは言えないね。三文芝居がいいとこだ」

 天文部室にて、先輩は解決編を早速始めた。

 横に長い机を二つ並べた周りには椅子が四つあり、その全てに天文部員が座っている。先輩はドアの前に立ち、私はその横で所在なく先輩を見つめる。

「芝居?どういうことですか」

 きっとこちらを睨むのは天文部長と名乗った男だ。強気に振舞っているがその瞳はちらちらと揺れている。両の手はズボンの膝の部分をきつく握りしめていた。

「もう少しわかりやすく言おうか。じゃあ、狂言でどうだろう」

 先輩はにこやかに言う。残る三人の天文部員はそれを聞いてうなだれた。部長だけが先輩を見つめ、真実を突きつけられるのを拒むように食ってかかる。

「何を根拠にそんなこと言うんですか!」

「給湯室に物差しと指示棒を置き忘れていたね。それで何があったかは大体察しがついた」

 回りくどく勿体ぶった態度で先輩は天文部を追い詰める。首に巻かれた紐にゆっくりと力を込めていくように、じわじわと。

「君たち、鍵を流しに流してしまったんだね」

 面白いジョークを言ったかのように、先輩はきゅっと口元を吊り上げた。反対に部長は背筋を丸め、他の部員と同様に机に目を落とした。後は自白のオンパレード。

 合鍵を作ろうと思った、というのが彼らの言い分だった。天文部として夜に星の観察をしたい。夜間に屋外でやるのに一番手っ取り早いのはここの屋上だが、勿論鍵がかかって入れない。それならこっそり合鍵を作って忍び込んでしまおうと彼らは考えたらしい。それに使われたのはお湯に入れると変形するおもちゃのプラスチックゴムだ。ゴムで鍵の型を取り、さあ鍵を出してゴムを冷やそうと給湯室の流しでわちゃわちゃやっている時、鍵は部員の手からつるりとすべって流しに落ちた。そして、運悪く排水溝にホールインワンしてしまったらしい。清掃員の度忘れか、ゴミの受け皿がはまってなかったのも災難だった。

「合鍵を作ろうとして鍵を無くしたなんて言えません。だから、盗まれたことにしたかったんです…」

 観念した部長は素直に我々を呼んだ理由まで説明してくれた。

 自分のしでかした悪事を隠すのは良くないとは分かっているが、そうしたいと思う気持ちはよく分かるな、というのが私の感想だった。排水溝から鍵を取ろうとして持ち出した細くて長い道具をしまう余裕がないほど彼らは切羽詰まっていたのだ。

「別に、合鍵作ろうとしたことは言わずに無くしたって言えばいいじゃん」

 先輩はけらけらと軽薄に笑った。

「謎を解くのは俺の仕事だけど、その謎をどう扱うかは君たちの仕事だからね。あとはご勝手にどーぞ」

 細い瞳を更に細め、先輩はあっけに取られた様子の天文部員をおいて部室を後にした。私は軽く一礼して、その背中を追いかける。

 悔しいほどにいつもと変わらない。お馴染みの手順だった。


「先輩!」

 私の声を最初は無視していた先輩だったが、何十回か呼んだ頃ようやく振り返ってくれた。

「どうして最後までやらないんですか」

「最後って?」

 先輩は意味が分かっているはずなのに、その真面目そうな顔のパーツに似合わないへらへら笑いを続ける。振り向きざまに組まれた腕も解けない。

「謎を解いてそれで終わりでいいんですか。真実を知った人間としての責任はないんですか」

 笑顔は崩れなかった。

「君は、俺に彼らの処遇を決定してほしかったのかな。学校に引き渡すところまでやってほしかったとか、そういうこと言っちゃう?」

「それが探偵としての、責任じゃないですか。真実を暴いてはいおわり、なんて無責任すぎます。探偵は勝手に事件に首を突っ込んでるんだから最後の後始末くらいはしっかり…」

「ああ、君は探偵になりたかったんだもんね」

 先輩は私の言葉を遮って、大きく一度だけ頷いた。

「君にはなれないよ」

 頷いて顔を上げた先輩の顔は、相変わらず笑んでいた。何度も聞いた言葉を、私を傷つけると分かっている言葉を躊躇なく投げつける。

「…論点が、違います。私が探偵になれるかどうかとこの話は違います」

 先輩の細い瞳を、半ば睨みつけるように見た。

「同じだよ。君は探偵とは何かを履き違えている。そんな人間が探偵になれるわけがない」

「じゃあ教えてくださいよ」

 先輩は答えない。

 遠くから聞こえる合唱部の澄んだ歌声や剣道部の竹刀の打ち合いの音が途端に大きく感じられた。

「探偵はね」

 先輩はそこで一度言葉を切り、唇を湿らせてから続けた。

「人の人生をしっちゃかめっちゃかにかき乱すものなんだ」

 歪な笑いが貼り付いたままの顔。先輩の声はさっきよりとても静かだったけれど真っ直ぐで、よく聞こえた。

 探偵でない私には、先輩が探偵である自分をよく思っていないということだけしか分からなかった。


 3


 先輩と私の仲は悪くない。むしろ、良い。

 学科は違うが同じ学部だから試験前にはよく教養授業の解説をやってもらうし、休日にボウリングに行くことも二ヶ月に一回くらいある。私も先輩もボウリングは得意でない。私はスコアが百を越えたことがないし、先輩もそれよりちょっと高いくらいだ。でも毎回遊ぶ場所がボウリングになってしまうのは何故なんだろう……なかなかに謎だ。

 推理小説研究会だから勿論ミステリについて話す。探偵についても話す。その時の先輩は饒舌に小説内の推理の穴に言及したり理想の探偵について語る。

「こういう探偵も現実にいるんですかね」

 大学の先生をしながら舞い込む事件を解決する探偵が出てくるミステリシリーズの最新刊を読んでいた私の疑問に、先輩は自分の本から顔を上げて薄く笑った。

「この現実にいる大体の探偵は浮気調査とペットと人探しが専門の雇われ探偵だよ。浪漫の欠片もない、推理より運と足が物を言う業界だ」

 それを知っているということは、先輩も一度くらい小説の中の探偵に憧れたことがあるんじゃないかと思うけれど私は口にしない。

 でも実際、ここには私の憧れた理想の探偵がいるのだ。大学生活を満喫しながら日常の謎を解く名探偵。いや憧れなんてものじゃ足りない。成り代わりたいと思うくらいに、何故そのポジションに私がいないのか呪うくらいに、私は探偵になりたい。

 先輩は重々それを承知して、いつもはこんな具合に優しく釘を刺す。先輩が妙に軽薄になって、私にきつく当たるのは、私が探偵になりたいと口に出して言うか、探偵としての先輩を批判する時くらいのものだ。

 だから、天文部鍵消失事件の時も、私は落ち込まなかった。全く落ち込まなかったと言ったら嘘になるけれど、本当にちょっとだけだった。その日の夕飯が口を通らなかったくらい。小さな落ち込みだ。

 先輩のポリシーは知らないし、今後もきっと話してはくれないんだろうと思っていたがそれでいいと思っていた。真実を暴く探偵としてはどう考えても失格な態度だったが、公私混同しなくてもいいだろうなんて勝手な言い訳を考えてそのままにしていた。

 だからこそ先輩はあんなことをしたんだろう。私の中途半端な探偵愛に痺れを切らして、あんなどうしようもない結末を作ったのだろう。


 4


 その日は曇り空で、ほのかに雨の匂いがしていた。梅雨真っ盛りの六月には珍しく、空は雨を振らせまいと抵抗しているようで、「無駄な抵抗はやめなさーい」なんて心の中で呟きながら私は部室に向かった。たまたま三限が休講になり、暇を持て余していたので積読を片付けようと思い立ったのだ。

 サークル棟の受付で部室の鍵を借りようとしたら、「もうすでに貸し出しています」と答えられた。ああ、先輩もいるのか。何たる偶然。私はゆったりと階段を登り、部室の扉を音を立てないように開けた。先輩の読書の邪魔はしたくなかった。

 予想通り、部室には先輩がいて、机の一番奥のお誕生日席にいつものように腰掛けていた。しかし、その手にあるのは本ではなかった。電気もついていなかった。

 先輩は紙の束を持っていた。A4かそのくらい。身近なもので言うなら原稿用紙サイズのその紙の上の部分を、私に気づいてない先輩は両手で掴み、勢いよく破く。

 びりびり、と半分に。そのまま手を止めずにまた半分。もうまた半分。紙束が小さく分厚くなっても少しずつびりびりと執拗に、先輩は紙を破く。

 いらない紙や機密情報の処理というにはしつこすぎた。紙吹雪くらいの大きさになった残骸を見て、先輩はふう、とため息を漏らした。その顔には何の表情も浮かんでいない。達成感も、疲労も、何も無い。その瞳だけが妙に血走っていて、怖かった。

 不意にその顔が上がって、私の存在を捉えた。無表情から一転、先輩は迷う素振りもみせずににこりと笑った。私は笑顔を返せない。

「あの、何してるんですか?」

「紙をね、ちぎってたんだ」

 見てわかることを先輩は歌うように言った。

「なんで」

「いらないからね」

「これ、なんなんですか」

「さあね」

 答える気はないようで、先輩は紙吹雪をかき集めてゴミ箱に捨て、自分のリュックを持って立ち上がった。

「なんなら、推理してみたらどうかな」

 その時の先輩の表情は、今まで見たことのないものだった。唇の端を上げた意地の悪い笑み。私に何の能力もないことを知っていて言っているんだ。しかし、その目は凪いでいた。私を傷つけようともからかおうともしていないニュートラルな瞳からは何も読み取れない。

「じゃあ、ごゆっくり」

 ぱたん、と音を立てて扉が閉まった。

 先輩から思いもかけない挑戦をかけられた私は、しばらくそのまま呆然としていた。


 私は人よりも行動力のある人間だ。だから、そこまで躊躇せずにゴミ袋に手を突っ込み紙吹雪を書き出して机の上に戻すまでを先輩がいなくなってからすぐやった。ゴミ漁りなんて一生やるもんかって思ってたけど、こんなところにくだらないプライドはいらない。

 紙切れはどれも私の親指の爪より少し大きいくらいの大きさで、私はかろうじてその元の紙がなんだったのかを悟った。

 やはり、原稿用紙だ。

 枠の色が薄茶色なそれは、自分が小学生の頃よく百均で買っていたものによく似ている。

 書かれた文字の筆跡を確認する。先輩の筆跡とは似ても似つかないものだった。すごく可愛い丸文字。先輩の文字は大きくてかなり乱雑なものだ。漢字の口の部分を常に丸で書くような適当さもある。しかしこの文字は小さくて丁寧で、the女子といった感じ。

「…さて」

 左腕の腕時計を確認すると、次の授業まではまだ一時間以上あった。

 出された謎は解かねばならない。

 私はすっと息を吸い込んで膨大なパズルを始めた。


 原稿の枚数が少なかったのが良かったのか、運が良かったのか、作業は一時間きっかりで終わった。テープで不格好ながらも繋げた原稿用紙が十枚。どうやら小説の書き出し部分のようだ。一枚目らしきものは題名と名前から始まっていた。繋げる時に大体の内容は頭に入ったけれど、もう一度最初から読んでみる。

 主人公は女子高生。友達と彼氏といつも通りの充実した学校生活を送っていた彼女は、ある日くだらないことで弟と喧嘩をしてしまう。部屋を飛び出した弟を怒鳴りながら追いかけた彼女は、目の前に迫った弟の体を怒りのあまり強く押してしまう。弟は勢いよく階段を転げ落ち……話はそこで途切れていた。続きの書かれた紙もきっとどこかにあるのだろうと思って探したが、ゴミ箱にも部室にもなかった。先輩が持っているのか?

 きっとそうだ。自分の問いかけにすぐに強く頷く。だって、この小説の中に出てくる女子高生の彼氏の名前は、先輩の名前と同じだったから。この小説はどこからどこまでも先輩絡みで、だからきっとこの小説が何なのか知ることは先輩について知ることと同義だ。

 分からないのは、この小説の作者と、先輩がこの小説を持っていた理由と、破いた理由。左手の指を一本ずつ立て、それを右手で包む。ぐっと力を込めて握ると、根本的な部分に対する疑問が頭に生まれた。

 そもそもこれは、本当にただの小説なのか? 


 四限なんて出なければよかった。頭の中は先輩と小説でいっぱいで、ろくにドイツ語は頭に入って来なかった。授業後、私は急いで教室を出て大学の図書館に向かった。司書さんに声をかけ、お願いを口にする。髪をお洒落にセットしている司書さんからはワックスの匂いが強くした。一度司書室に入った彼の残り香が消える前に、彼は私の望み通りのものを持ってすぐに戻ってきた。

 三年前の新聞記事。

 私はそれをコピーし、返却した後に閲覧室に入った。奥の方の人気のない席に腰掛け、新聞に目を通す。

 痛ましい事故について書かれたそれは、やはり小説内の事故と同じだった。

 この小説は誰かの私小説だ、というのが私の推理だ。妄想メインか事実メインなのかははっきりしないが、少なくとも誰かが現実を元に書いた小説だろう。偶然登場人物が先輩と同じ名前だったというだけなら先輩があんなに執拗に小説を破く必要がない。そして誰かが書いたものが先輩の手にあるということは、その作者は先輩にこの小説で何かを伝えたかったということになる。そして先輩はそれを破いた。伝えられたことに対する答えが、それだ。

「やっぱり、不穏だ」

 私は口の中で呟いた。

 主人公の弟の名前をネットで検索したらすぐにその事故は見つかった。事故の日付が分かったから、地元の新聞を探してもらい該当する記事はないかと探したところ、大当たりだった。しかし記事の中身は少し小説と異なる部分もあった。弟が亡くなったのは本当。でも、事件の経緯の説明が少し違かった。

 主人公である姉の存在がその記事には一切なかった。まるで、弟が一人で足を滑らせたかのような書き方をされていた。

 どちらが正しいんだろう。もしこの小説の作者が姉本人なら、小説のほうが本当かもしれない。この場合は作者がやりたいことは自分の罪の告白だろうか。

 作者が他人の場合、その人は何を望んでいる?このケースでは新聞が正しいとも小説が正しいとも言えない。だが、本当にあった事故を他人が容疑者の一人称で書く、というのは悪趣味だ。作者は書いたそれを先輩に見せることで、先輩に不快な思いをさせたかったんだろうか。もしそうなら目論見は成功してるのか、それもよく分からない。あの時紙を裂いていた先輩の無表情を思い出す。怒りも悲しみも見えなかった。私がいるまで誰もいなかったんだから素直に感情を出しても良かったのに。それか、先輩にとっては表情筋を動かすにも値しないものにでも見えていたんだろうか。


 先輩は感情豊かとは言わないまでも、その振る舞いを見ると私には何となく感情が読み取れる。通常運転の時は口数も多く私に対する細かな気遣いが多い。逆に焦っていたりイライラしてる時は愛想はあるものの自分から話しかけることが減り妙に煽りのキレが良くなる。結構単純な人間だ。前に本を読んでいてふと顔を上げると、本片手に顎を抑えたまま固まっている先輩が目に入って「どうしたんですか?」と尋ねると、面白い掛け合いで笑いそうになるのを我慢していたら顎がつったと涙目で答えられた。遠慮しないで笑ってよかったのに!  

 そんな先輩の無表情。そして私に向けられた意地の悪い笑み。それは私のデータベースにはない。でも、考えるなら、「八つ当たり」じゃないか。先輩が私を心の底から傷つけようとするならこんな生ぬるいことでは済まない。こんな分かりにくくて逃げ道のある思考には連れていかない。あれは先輩の気まぐれで、たまたま来た探偵未満の私に謎を振って気分を晴らそうとでも思ったんだろう。先輩にはそういうちょっと意地の悪い部分があってもおかしくない。というかある。


 何度か一緒にミステリ映画を観に行ったことがある。大体海外のマイナーなやつ。なんでそんな選択をするのかというと、真面目に犯人当てするためだ。国内の小説が原作の映画だとお互い原作を読んでしまっているからフェアにならないことが多い。海外のメジャーめなやつもそう。わざわざ東京の小さな映画館まで行って、がらがらな館内の真ん中の席に腰掛けて、私達は推理をする。分かり次第手元に用意した紙に推理を書いて相手に渡し、映画内でも謎解きが始まったらそれを見て答え合わせをする。正解者には不正解者が次回キャラメルポップコーンを奢らなければいけないという罰ゲーム付きだ。ちなみに私は四戦中ゼロ勝三敗一引き分け。引き分けの時の映画は有名ミステリのパロディものだった。

 映画が終わったあと、駅までてくてく歩きながら先輩はいつも「また観に行こうね」と笑う。

「それ、ただでポップコーン食べたいだけですよね」

 私がそう言うと、先輩は大真面目な顔を作って頷くのだ。

「人の金で食べるキャラメルポップコーンほど美味いものはない」

 ちょっとぐらい私に期待してくれてもいいのにな、なんて少し寂しく思いながらも私は「次こそは先輩に奢らせますよ」と笑い飛ばすのだった。無邪気な意地悪。別に、嫌いではない。


 5


 図書館を後にした私は思考を戻し、歩きながら仮説をまとめることにした。

 仮説その一は、作者が姉本人。この場合の彼女の目的は罪の告白だ。その当時彼氏であったらしい先輩に自分の罪をこっそり明かす。それで自身が救われるのかそれとも自傷行為と等しいのかそれは分からない。疑問点は、なぜ今更小説を先輩に渡したのかと、小説調にした意味だ。

 仮説その二は、作者は第三者。この場合の誰かさんの目的は先輩を非難することだ。純粋にあったことを報告するのなら小説調で書く必要はない。この悪趣味なやり方は先輩への悪意を匂わせている。疑問点は作者は何者か、ということだ。こんなに事情を知っているのに面と向かって先輩に言うことはしない。おおかた姉の知り合いで、姉の彼氏だった先輩を何らかの理由で恨んだり不快に思ったりしたのだろう。

 これ以上は、絞れない。例えば姉の関係者に聞き込みをするとかもうちょっとの行動力を発揮すれば分かることも増えるのかもしれないが、はいじゃあそうしましょうとやれるほど簡単なことではない。探偵としてはやるべきだ。好奇心と探究心のまま真実のみを追いかけるべきだ。でも、そんなことしたら姉や先輩のプライバシーを侵すことになる。それは良くないんじゃ。いや、私がやりたくないだけだ。危ない道を進みたくない。保身。探偵になりたいなんて言ってるくせに、結局はこうやって……。

「遅かったね」

 気がついたら私は部室の扉の前にいて、そのドアノブを捻って中に入っていた。鍵は開いていた。そして、聞こえたのは先輩の声。

 いつもの席に座っていつものように本を読む、先輩の姿があった。

「やっぱりミステリはフェアでありたいよね」

 先輩は本を開いたままうつ伏せに机の上に置いた。代わりにどこからか出てきた茶封筒を持って先輩は続ける。

「謎が出てくる本をミステリって読んでるけどさ、そう言うなら本なんていつだってストーリーに謎が含まれるわけじゃない。それならどんな本だってミステリと呼べる素質があることになる。

「だからね、俺としては、誰にでも解ける可能性がある謎を ミステリって呼びたいんだ。これなら物語全体の展開は当てずっぽう以外では解けないから、全ての本をミステリって呼ばなくて済むよね。

「ついでにこの論を既存のミステリ枠に当てはめると、お仕事ミステリなんてのも外れちゃんだけどさ。あれは知識がないと解けない。人によっては雑学本にしかならないよ。まあこれは個人の主観なんだけど。

「ああ何が言いたいかっていうとね、君に出した謎には君に与えるべき情報が不足していたなって思ったんだ」

 先輩はやっと言葉を切り、封筒を私に差し出した。私はしばしその手を無視して手近にあった紙に数文字書いて、封筒と引き換えに先輩に渡した。

 差出人を見た。小説内の姉と同じ名前が書かれていた。

 この瞬間に仮説二は棄却され、仮説一が残った。

 中にまだ紙が入っているのでそれを取り出すとどうやらあの小説の続きらしかった。びりびりになってなく、シワひとつない紙をめくり、読み進める。

 階段を勢いよく落ちた弟を見て姉は正気に戻り、すぐに救急車を呼んだ。しかし、弟は帰らぬ人となった。事情を聞かれ、逡巡した姉は嘘をつく。それは、「何故か」急いで階段を降りようとした弟が階段から落ちたというものだった。そのままその嘘は通った。誰にもバレず追求されず、姉はそのまま生き続けることになった。その事実を述べた部分で小説は終わっていた。

「差出人は姉。目的は自身の罪の告白。まあ及第点かな」

 先輩は私の渡した紙を読み上げ、ぱちぱちと乾いた拍手をくれた。

「じゃあ発展的な質問だ。これが小説調な理由と今俺がこれを持っていた理由も答えてもらおう」

 私が考えることを保留にした部分を先輩は容赦なく突いてきた。私は腕を組み、浮き上がってきた思いつきを語った。

「小説として出版してもらうため。そして、今になって罪悪感が芽生えて書き上げたから」

 自分の罪を知らせたい相手は先輩のみじゃなかった。遍く任意の人間だった。強すぎる破滅願望。

「半分正解」

 先輩は唇の端を吊り上げた。

「この小説が送られてきたのは、これが初めてじゃないんだ」

「え?」

「あの事件が起きてから何回も何回も同じ小説が俺の元に届くんだ。貴方の手で出版してって、真実を明らかにして、そうじゃないと弟が報われないって、そう言われるんだ」

 先輩の口から乾いた笑いが断続的に漏れた。笑いかどうかも正直分からなかった。呼吸しようと必死になってやっとの思いで出した音かもしれなかった。

「それに毎回俺がどう返してるか、知ってるだろ?」

 無表情で、原稿用紙をびりびりに引き裂いた先輩。あれは、小説に対する苛立ちを表してるわけではなかった。証拠隠滅。まるで追い詰められた犯人がするような。

「俺は名探偵なんかじゃないんだ。真実を暴いてめちゃくちゃにするのが嫌で、一番身近な問題からずっと目を逸らしてた」

 痛々しい笑顔を浮かべ、先輩は妙に明るい口調でそう言った。吹っ切れたように装っているが、唇の端が時折ぴくりと痙攣していた。

「ねえ、君はどうするの?」

 急に焦点が私に移り、ぱちくりと瞬きをしたがすぐに先輩の言いたいことが分かった。そして、先輩が何を目的に私に謎を出したのかも分かってしまった。

「小説は手元にある。警察に言おうと思えば彼女のことをいつでも話せる状態だ。真実も全て君の目の前にある。ねえ、君はどうする?」

 探偵としての選択を、先輩は私に突き出した。

「私は…」

 封筒を両腕で抱きしめ、私は目を瞑った。

頭の中で二つを天秤にかける。天秤は始めはかたかたと揺れたが、やがて皿を吊るす鎖が両方とも切れた。皿は落ち、そのまま天秤は消えた。

 私は原稿用紙を何枚か掴み取って、びりびりに引き裂いた。先輩を苦しめやがって、という思いを込めて、何回も何回も何回も、重なった紙が厚みを帯びて破りにくくなっても、力を込めて裂き続けた。

「君は…」

 封筒を残して全部の紙を破き終え顔を上げた私を、先輩は眉を下げて見つめた。

「これが私の答えです」

 そして、私は自分のリュックからまっさらな原稿用紙の入ったファイルを取り出した。

「先輩、書きましょう」


 私達は小説の続きを書いた。生き続けることになった姉が小説を書いて先輩に送り続けるが、先輩から返事として来た小説を読み少しだけ明るい気持ちになる小説を書いた。

 嘘とごまかしを駆使して、真実からは程遠い物語を作った。

 そして、先輩はそれを姉に送った。


 6


「探偵として真実を白日の元に晒すか、後輩として真実は忘れて先輩に都合の良い結末を探すかで迷いました。でも、自分のポリシーは曲げたくないし先輩にも幸せになってほしいから、この選択肢を作り出しました。これならどちらも守られるので」

 小説を書き終えた後、私の言葉に先輩はいつものように優しい口調でこう問いかけた。

「君の探偵のポリシーってなんなの?」

「真実を暴き、場をぐちゃぐちゃにした責任を取って全てをハッピーエンドに導くことです」

「君は欲張りだ、世の中にそんな探偵なんていないよ」

「ここにいるじゃないですか」

 私が冗談めかして言うと、先輩は声を上げて笑った。しがらみから解き放たれたように、心の底から笑っていた。

「先輩は私は探偵になれないと何回も言ってますが、私は諦めませんよ。ずっとずっとこれからも探偵を目指します」

 探偵という夢に終わりはない。例えば教師とかサラリーマンみたいに、規定の時期に規定のことをしなければなれない職業とは違って、探偵はいつでもどこでも誰だって推理力さえあればなれる可能性がある。それは希望でもあり呪いでもある。一生諦められない、死ぬ瞬間まで見続けられる夢。

「そっか」

 先輩は軽薄そうな笑みではなく、弟子か何かを見るような温かい視線と微笑みを私にくれた。


 そして、その日を最後に先輩は部室に来なくなった。きっとまだ探偵としての自分に悩んでいるのだろうと思った私は一ヶ月ほど放っておいたが、それでも音沙汰がないので試験勉強の合間を縫って一人で先輩の家まで行ってみることにした。あの後姉はどうなったのか、厄介ごとに巻き込まれてはいないか。聞きたいことは山ほどある。

 行きなれた先輩のアパートの呼び鈴を鳴らす。応答はない。郵便受けに新聞は入ってないから、きっともう起きているはずだ。物音一つ聞こえない。出かけているのだろうか。

 私は頭の中で先輩が一人で行きそうな場所を考える。

 〝この現実にいる大体の探偵は浮気調査とペットと人探しが専門の雇われ探偵だよ。浪漫の欠片もない、推理より運と足が物を言う業界だ〟

 良いだろう、上等だ。まずはあなたから探してやる。

 私は地面を蹴って駆け出した。

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