彼が奏でる夢

木葉奈々

彼が奏でる夢

 彼は物語を奏でるのが綺麗で、とても素敵な人である。

 いつもように椅子に座り鍵盤を弾く彼の姿は美しく、その指先から奏でられる音色は私を夢の世界へと連れて行ってくれるのだ。

 今日見た夢は、少年が森の中を走り回る光景だった。

 私はその子の後ろを付いて回り、少年が振り返り笑顔を見せると嬉しさが込み上げてきて、自然と歩幅が大きくなった。

 木漏れ日が地面に映し出す模様を上書きするかのように、少年は手に持った木の枝で線をなぞる。なぞった拍子に飛び散った砂が顔にかかりそうになるが、私はそれをギリギリのところでかわしながら少年の後を追い駆けた。

 次第に私は少年を追い越す。まだ子どもだから私の方が速いのは当然ではあるのだが、気分の高ぶった私はどんどん足を速めた。

 かなりの速さで走っているが息は上がらず、むしろさらに加速していく。

 次第と少年との距離は離れ、私だけが先に見える光を目がけて走る。眩しく光るその先に跳び出すと見慣れた部屋の景色が目に入ってきた。

 部屋一面に並ぶ書籍の数々。並び損ねたものはアンバランスに積み重なっている。

 嗅ぎ慣れた紙の匂いが心地良く再び瞼を閉じようとしたが、夢へと誘う音色が止んでいることに気が付き顔を上げると、丁度彼が立ち上がったところだった。私も体を起こすと、部屋の隅にぽつんとあるそこから歩いてきた彼が私に話しかける。

「―――――――」

 寝起きの私は何を言ったのか上手く聞き取れなかったが、外から入ってくる光と体内時計から考えて、どうやら昼食の時間だろう。確かにお腹も空き始めており、寝起きではあるが何かしら口に入れたいと感じた。

 部屋を後にすると、台所に立つ彼を横で見つめながら出来上がるのを待つ。

 以前別の女性が家にやってきたことがあり、二人で手伝いながら料理をする姿を見てから私も何か手伝いをしようと試みた。しかし、お皿は割れるし、彼は火傷をするという大騒ぎに発展してしまったため自重している。

 同じヒトのはずなのに私と彼では大きな体格差があるし、彼ほど器用に指を動かすこともできない。そんな自分にムシャクシャして暴れるときもあるが、彼が私を抱えてくれるとなんだか安心して、なんて表現したら良いのか分からないけれど、彼のことが好きだなと実感する。

 支度が済むと彼は自分の分と私の分をお皿に乗せて机に並べた。「いただきます」の言葉を口にすると私たちはそれを口に運ぶ。口に広がる香ばしい魚の香りが食欲をさらにそそり、私は味わいながらゆっくりと食べる。そんな私を見て彼は苦笑したが、私は「こんな絶品味合わないでどうする!」と言い放った。

 彼の料理は母親仕込みのものだと思う。というのも、昔彼の実家に挨拶に行った際に口にした料理は、彼と瓜二つのものだったからだ。もちろん多少の違いはあったが、基本となる部分は母親から受け継いだものなのだろう。

 彼との暮らしももう長くなる。物心ついたときから彼と居たから当然ではあるのだが、必然的に私の舌は彼の虜になっていた。彼の作る食べ物はどれも絶品で、毎日の食事が待ち遠しいものであった。

 お皿に余った残りを舌で綺麗に舐め取ると、彼が食事を終えるのを待った。もちろん少し分けてくれるかもしれないので、彼の膝の上にちょこんと座った。私が乗ると彼は「重い」と口にしたが、私の体格を操作しているのは彼だし、そもそもレディに対して体重に関わる発言をするのはデリカシーに欠けると、彼にパンチを食らわせた。

 結局おまけの食べ物は貰えなかったが、食事を終えると彼は仕事をやりに自分の部屋へと籠る。その間、私は彼の邪魔はしないように外へ出掛けるようにしている。言うまでもないが、理由は過去にやらかした経験があるからである。

 今日もいつものようにベランダで日向ぼっこをすることに決めた。昔は近所の公園に行ったり、友達と遊ぶことがほとんどであったが、今はほとんど家で過ごしている。

 ここから見る景色は絶景で、周りに何もない静かなところだからこそ落ち着ける空気があった。山は新緑に染まり、次の季節が始まっていることを告げている。流れる風が顔を撫でる感触がとても心地良かった。

 庭に植えられた花々に、何匹もの蝶や蜂等の昆虫が飛び回っているのを目を細めながら観察する。白色や黄色がチラチラ動くそれに目を追いながら、日差しに当てられた体を横に伸ばした。

 最近は一日中眠っていることが多く、体力も以前に比べて落ちてきたように感じる。

 時間は過ぎ去って行ってしまうもので、楽しかった思い出も自然と思い出せなくなるようになっていた。思い出そうとしてもぼやけてしまうそれらは、残酷にも私と彼との生活を蝕んでいくのである。

 でも、最近は新しい考え方をするようになった。

 失われた記憶は戻らないけれど、彼と過ごしたという事実は変わらない。彼を想うこの気持ちも変わることはないだろう。

 過去は結局過去であり、私は今を生きているのだ。

 彼と過ごした思い出が少しずつ記憶からなくなってしまっても、その分を新しい思い出で穴埋めしてやれば良い。彼といつまでも一緒にいられないことは分かっているけれど、叶うことならば最後の最後まで私は彼のそばに居続けることを誓おう。

 例え彼の傍にいるヒトが私じゃなくなっても、誰かの記憶の中で永遠に我々は生きていけるのだ。

 どれくらいの時間が経ったのか分からないが、ふと部屋から美しい音色が聞こえてきた。どうやら彼が仕事を終え私を呼んでいるのだろう。

 私は体を起こすと、赤くなり始めた空を背に彼の居る部屋へと向かった。

 部屋の片隅で演奏する彼のところに行くと、膝の上に腰かける。

 耳から入る音はなんだか穏やかで、黒く伸びた影を緩和しているかのように感じた。

 彼の温もりを感じながら、私はそっと瞼を閉じる。

 そこで見えたのは、膝の上で気持ち良さそうに目を瞑る私と、ピアノを弾きながら涙を零す彼の姿だった。

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彼が奏でる夢 木葉奈々 @konohanana7

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