桜と水車と饅頭の約束

 僕が、そのおばあちゃんにあったのは、偶然のこと。


 ほんの好奇心で立ち入った森林の中。


 獣道を通っていくと、開けた場所になり、そこには一戸の小屋。


 その隣で、水車が回っていた。


 小川をはさんだ反対側には一本の木。


 周囲は、森林に覆われており、あたりは薄暗い。


 怖いなあ。


 帰ろう。


 来た道を振り返ろうとしたとき、小屋の扉が開いた。


 僕が恐る恐る振り返ると、そこには、一人のおばあちゃんが佇んでいた。


「おやおや、お客さんかい」


 おばあちゃんは、穏やかな笑みを浮かべている。


「ほらほら、坊や、せっかく来たのなら、よっていかないかい。おいしいお菓子があるよ」


 僕は、戸惑った。


 怖い感じはしない。


 どうして、おばあちゃんが一人、こんなところにいるのだろうか。


 それでも、謎めいたおばあちゃんに興味を抱いてしまった。


「大丈夫。食って食べようという気はないよ。本当に久しぶりに、人が訪ねてきてくれて、うれしいんだよ。ほら、おいで」


 僕はためらいながらも、おばあちゃんの言葉に従った。


 進められるままに、小屋へと入る。


 小屋へ入ってすぐに炊事場があった。炊事場といっても、いかにも昭和といった感じの炊事場。竈とポンプ式の水道。一段上がったところには六畳ほどの和式の部屋いくつかの和箪笥と押し入れ。物はほとんどなく、質素な暮らしをしているのがわかる。


 おばあちゃんは。和箪笥の引き戸を開けて、小さなかごを出した。それをこたつの上に置きながら、おいでと手招きをする。


 僕は戸惑いながらも、ずいぶんと汚れた運動靴を脱ぐ。その傍らにはおばあちゃんのわら草履。ずいぶんと履いていたのか、擦れている。


 僕は、靴をわら草履の隣に並べて、床の間に上がる。


「さあ、座りなさい」


 おばあちゃんに促され、こたつの前に座る。僕の正面の襖が開いている。


 縁側の向こうには、水をくみ取りながら回り続けている水車と、花も葉っぱもついていない木。


「お茶でいいかしら?」

「う…うん」


 おばあちゃんが、ポットから急須にお湯を注ぐ。すると、お茶のいい香りが漂ってきた。


 本当はジュースのほうがいいと思いながら、差し出されるお茶の香りが優しく感じて、湯飲みを啜ってみた。


 普段お茶を飲まない僕にしてみれば、その渋さに咽てしまった。


「あらあら」


 おばあちゃんが、僕の背中を優しく撫でてくれた。


「すまないね。饅頭と一緒に飲むといいよ」


 僕は、饅頭を食べて、お茶を飲む。すると、お茶の渋みがおいしく感じられた。


 それに饅頭もおいしい。思わず、二つ目に手を伸ばした。


「おばあちゃん。これ、おいしいね」

「そう。ありがとう。わたしの特技なのよ。よかったら、おみやげに持っていって」

「いいの?」

「ええいいわよ。ちょっと、作りすぎたから。そうだわ。袋に包んであげる」


 そういって新聞紙を取り出すと、饅頭を、いくつか包んでくれた。


「ねえ、おばあちゃん。どうして、こんなところに一人でいるの?」


 僕が尋ねると、にっこりと微笑む。


「まっているの」

「待ってる?」

「そう待っているの。約束したから……」


 そういいながら、縁側のほうを見た。


 そこには


 水車と木


「だれを?」

「……」


 おばあちゃんは答えなかった。


 けれど、その笑みを浮かべたままの横顔が、悲哀に満ちているような気がして、僕は口をつぐんだ。


「さあ、もう日が暮れるね。そろそろお帰り」

「あっでも……」


 なにを言おうとしているのか。言葉が見つからない。


 このまま、帰っていいのだろうか。


 こんな寂しい場所に、おばあちゃん一人残していいのか。


「大丈夫。私は平気よ。さあ、帰りなさい。尋ねてくれてありがとう」


 おばあちゃんは、ずっと笑顔を浮かべている。それが悲しく思えてくる。


 帰りたくない。もう会えないことが辛い。

 せっかく会えたのに……。


 僕が戸惑っていると、おばあちゃんが優しく抱きしめてくれた。


「大丈夫……。わたしは大丈夫だよ。さあ、お帰りなさい。ここにいてはいけないよ」

「おばあちゃん……」

「ありがう。さあ、おゆき……」


 おばあちゃんは、僕の背中を押した。再び、振り返ったときには、おばあちゃんの姿はなかった。


 小屋も水車小屋もない。


 鬱蒼とした森の光景が広がっているだけだ。


 僕は、再び森林に足を踏み入れようとした。すると、風が僕の行く手を遮る。


 目を開けると、桜の花びらが散っているのが見えた。


 たちまち、僕の行く手が開かれていく。


 僕は、思わず駆け出した。


 気づけば、あの場所にたどり着いていた。

 小さな小川。


 咲き誇る桜の木。


 回り続ける水車


 主を失ったボロボロの小屋には、蔦が伸びている。


 ほとんど時間がたっていないはずなのに、その空間のみが長い刻が過ぎていた。


「おばあちゃん?」


 おばあちゃんの姿はない。


 僕は小屋の中へ入った。さっき見た炊事場。畳はカビが入り、穴が開いている。


こたつもない。


箪笥もボロボロ


 人が確かに住んでいた。けれど、いなくなってずいぶんと経っている。


 僕は床に一枚の写真が落ちていることに気づいた。


 写真には、和服の似合う女性と軍服を着た男性が映っていた。


 それを見て、ふいに僕の死んだおばあちゃんのことを思いだした。


 おばあちゃんはよく戦争で亡くなったおじいちゃんの話をしていた。それを思い出して、僕は小屋を出る。


 水車が回っている。


 さくらは咲き乱れて、ユラユラと揺れている。


「そっか……」


 僕は水車の隙間から見えるさくらを見た。

 すると、写真に写っていた男女の姿があった。男女はただ抱き合っている。


「ようやく会えたね。おばあちゃん」


 僕は、踵を返すと、そこから立ち去った。

 僕は振り返らなかった。振り返っても、男女の姿はもうないことがわかっていたからだ。


 ただ桜の木だけが、ひそかに花を咲かせ続けるだろう。


 これから、おばあちゃんの墓参りにでもいこうかな。


 どうせなら、まんじゅう持っていこう。


 おばあちゃんみたいなおいしい饅頭じゃないけど、きっと喜んでくれるだろう。


 僕は、森林から出ると、走って饅頭を買いに向かった。

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