あなたが遺してくれたもの

内海 怜架

陽の光のような彼女

思えば、彼女はおれが思うよりも寂しがりやだったのかもしれない。

けど、今になってそれに気づいたところで、何も変えられない。


おれを遺して、彼女は逝ってしまった。



彼女――夷守ひなもり はるとの出会いは、大学の旧館にある、研究室として使われていた部屋であった。

昔から周囲に気を遣って空気を読みすぎるきらいのあったおれは、大学一年生の春の終わりにしてすでに人間関係に疲れていた。

気分転換に使える場所を探していた折、おれは友人から創立時に建てられ、新館ができた後も記念館として残されている旧館の存在を知り、昼下がりにキャンパスの端にあるその古惚けた建物に足を運ぶことにした。

この旧館は二階建てで一階は講堂、二階は研究室用の小さい部屋が並んでおり、おれは申し訳程度に封鎖されている階段を抜け、二階を目指す。

まあ予想通りというか、封鎖されているだけあり研究室は施錠されていて、そりゃそうだよなぁ、と落胆しつつも一番奥の部屋まで来てみると、その一室だけ鍵が開いていることに気づく。

もしかしたらこの部屋を使っている人がいるのかもしれない、誰かがいる可能性も考えてノックすると、中から「はい」と返事があった。

まさか本当に人がいるとは思わず驚いたが、とりあえず扉を開ける。

部屋の奥の窓際に佇む、端正な顔立ちをした女性が目に入った。

思わず息が止まる。

相手が美人で気圧されたというのもあるが、この女性をおれは知っていた。

名前は夷守 陽。

同じ学科で一際目を惹く容姿を持つ彼女は男どもの話題に上がることが多い、不特定多数に一方的に知られているレベルの美女。「夷守さん、だよね?」

夷守さんは少し目を丸くしておれを見た後、転じて若干の申し訳なさを含んだ表情をした。

「同じ学科の人? ごめんなさい、人の顔を覚えるのはあまり得意ではなくて」

その、わずかな表情の変化を見たおれは、思ったよりも優しそうな人だと感じた。

「同じ学科の西階にししな。西階 りょうっていうんだけど。大丈夫、初対面だから気に病まないで」

おれは距離感に気をつけつつ、できる限りの親しみを込めた自己紹介をし、自分が無害であることをアピールする。

下手に踏み込むと警戒するし、敵意は向ける方も向けられる方も傷つけることがあるから。

「ありがとう。よろしく、西階くん」

その気遣いが功を奏したのか、夷守さんは微笑み、その後何か思い出したかのように真顔になった。

「そういえば、私に何か用?」

「あ、いや、夷守さんに用があるわけじゃないんだけど。このキャンパス、どこに行こうにも人が多いからさ、どこか静かに過ごせるところを探してて。この階の部屋って開放されてるの?」

夷守さんはばつが悪そうに肩をすくめた。

「ごめんなさい、実はここも自分で掃除して勝手に使ってるの。学則にもなかったし注意書きがあるわけでもないから」

そこでしばらく悩んだ後、夷守さんは、

「西階くんが良ければ、この部屋、一緒に使う?」

と提案したのだった。


夷守さんのいる生活はとても楽しいものだった。

一緒にいても苦にならないというか、波長が合うのだ。

感情の起伏が激しい人は波の振れ幅が大きく、神経質な人は波の間隔が小さく、上手く付き合うには少なからずエネルギーを使う。

その点夷守さんは一緒にいると安心感があり、その距離感が心地よくて、毎日旧館に通ってはいろいろな話をした。


夷守さんは幼い頃に事故で両親を亡くしており、親戚もいなかった彼女は天涯孤独の身で、また一人になるくらいなら、と無意識的に人と深く関わることを避けていた。


おれはこの人を守りたいという、生まれて初めてと言っていいほどの強い思いを持ち、彼女も、潜在的に抱いていた愛情への渇望を少しずつおれに見せてくれた。

互いに下の名前で呼び合うようになり、恋人になるまでに時間はかからなかった。


「遼は『思春期症候群』って知ってる?」

冬のある日、陽がそう切り出したのは、大学の程近くにある普段寄ることのないオシャレな感じの喫茶店でのことだった。

「いや、知らない。なんなのそれ」

「最近、ネットで話題になってる都市伝説のひとつらしくて、他人と体が入れ替わったとか、時間を巻き戻せたとか、そういう不思議現象のことなんだって。思春期の中高生に多いから『思春期症候群』って言うみたい」

陽は律儀にコーヒーを飲み干してからおれにそう解説した。

「へぇ、そんなのが。けど、おかしな話だね。関連性のない症状をその『思春期症候群』って一括りにするのって。都市伝説として広めたいにしちゃ、逆に信憑性を薄めてる気がする」

陽は苦笑して「そうなんだよねー」と言い、「でも、」とつないだ後、

「本当にあったら、罹ってみたいかも」

と、ほんのわずかな羨望の表情で零した。


陽が死んだのは、それからしばらくのことらしい。


陽はその数日後、おれの前から一切の痕跡なく姿を消した。

連絡もつかず、当てのないまま二ヶ月間も大学に通い陽を探していた最中、おれは事務の呼び出しを受け、「二ヶ月前に退学した学生が先月ふらっと来て、一ヶ月後あなたにこの手紙を渡してくださいと言い残して帰ったわ」という言葉とともに、手紙を受け取った。

陽の死を知ったのは他でもない、陽自身からの手紙によってだった。


西階 遼 様


突然いなくなってしまってごめんなさい。

いつかちゃんと話さないと、と思ってたんだけど、怖くてできませんでした。

実は私、『××××××』という病気に罹っています。

いえ、これを読んでる頃には、私はこの世にいないと思います。

事務の人にこれを渡しに来た時にはすでにターミナルケアの段階だったから。

だから、もう会えない。ごめんね。

一緒にいられなくて、ごめんね。

頼ってあげられなくて、ごめんね。

遼と過ごした日々は緩やかで、温かくて、幸せでした。

短い間だったけれど、いっぱいの幸せをありがとう。

大好きだよ。


夷守 陽



自宅で手紙を読んだおれは、無様に声をあげて泣き、自分の不甲斐なさを恥じた。

彼女との日々を思い返しては子どものように泣きじゃくる眠れない日が続いて、さすがに疲れが極限に達したのか、おれは半ば意識を失うように泥沼のような微睡みに落ちていった。


目を覚ますと、目の前には見慣れた自室の天井が広がっていた。

手紙をもらってからの数日は常に夢現のような状態だったため、どのくらい経ったか思い出せないものの、頭はすっきりとしていた。

何日も寝てたような、或いは何日も寝てないようなだるさと熱を帯びた体をなんとか起こし、傍に置いてあるスマートフォンで日付を確認すると、得体の知れない違和感が体を包む。

しばらくして乱れていた日付感覚が戻るに従って、違和感の正体に辿り着いた。

体を包む違和感の原因が分かったところで、すっきりするどころかさらに気持ちの悪い感覚に苛まれる。

当然だ、自分の認識とスマートフォンのディスプレイに表示されている日付に二ヶ月もズレが生じているのだから。


「なんだよ、これ……」

思わず声が漏れる。

夢でも見てる気分だが、その日付が何を意味するかははっきりと分かった。

なぜなら、その日は陽がおれの前から姿を消した日だったから。


陽と話をしなければ。

その一心で取るものとりあえずに家を飛び出したおれは、陽との思い出がある場所を片っ端から回ることにした。

まずは陽ともっとも長い時間を過ごした大学へと向かう。

結果的に大学にはいなかったものの、事務から今朝早くに陽が来て、彼女の退学を受理したという情報を得た。

だが、大学にいないとなると急に手詰まりになってしまった。

陽と過ごした時間が如何に短いか痛感する。

だからこそ、この日々をここで終わらせるわけにはいかなかった。

何より陽に寂しい思いをさせるなんてごめんだった。


行きつけの飲食店や夕日が綺麗な丘のベンチ、大学近くに借りている自宅にも陽はいなかった。

自宅には当然ながら鍵がかかっていて中の様子を伺うことができなかったのだが、陽の性格上退学届を提出したということは身辺整理は終わっていると考えていいだろう。

ここからは一度でも行ったことがあるところを探すしかないのだが、如何せんそういった場所は多すぎるし、すでに太陽は傾いており、さすがにしらみつぶしに探すのは現実的ではない。

陽が借りているアパート前の路傍に座り込んでいる間にも焦りは体を蝕んでいき、全身に嫌な汗が流れる。

何か陽が居そうな場所の手がかりはないかと思い返したとき、ふと『思春期症候群』の話を思い出した。

根拠にもならない程度のただの直感、本来なら嗤って掃き捨ててしまうような動機だが、確かなものなどない今のおれには、それしかなかった。


陽に会いたい、その一心でひた走る。

あの日、最後に話した喫茶店へ向けて駆け出した脚は、もう止まらなかった。

喫茶店に着くや否や、おれは乱れる息を整えることもせずに店内に入り、驚いた表情を浮かべる店員に「待ち合わせです」と告げ、店内を見渡す。


思わず息が止まる。

あたかも出会った日の焼き増しのように、窓際の席、夕陽に照らされて、彼女は居た。

物憂げな表情で窓の外を眺める彼女は、何かに気づいたかのように顔を向け、身動きが取れず所在なさげに立ち尽くすおれを見て一瞬驚いた顔を見せたあと、嬉しそうな、ばつの悪そうな複雑な表情を浮かべた

「陽……」

ずっと会いたかった陽がいる。

言いたいことが多すぎて頭の中をぐるぐると巡るが、それを言葉にしようとすると口を開くだけで言葉が出てこない。

「何でこんなところに……」

ようやく絞り出した言葉は、なぜこんな分かりにくい場所を選んだのかという疑問だった。

その問いに対して陽は困った表情を浮かべて返答した。

「遼が探しに来るんじゃないかと思って」

「もっと分かりやすいところだっていいじゃないか」

「姿を消した手前、見つかるような場所にいるわけにはいかないかなって」

そこまで言うと、陽は納得したように頷き、涙を浮かべた。

「あぁ、けど、心のどこかでは遼が探しに来ることを期待してたのかもしれないね」

「もしかしたら辿り着きそうな場所をわざわざ考えて、こうして待ってた」

「本当に見つかりたくなければ、全く関係ない場所にでも姿を隠せばよかったんだからね」


「けど……もう一度、会えてよかった……」


そう言って泣き出した陽を、おれは泣き出さないように必死に涙を堪えながら抱き竦めた。


落ち着きを取り戻した陽は、ポツリポツリと自分の病気の話をし始め、今更ながらに自分と関わらない方がいいと締めくくった。

そんな無責任な言葉に対しておれは、強い憤りを覚えた。

おれはそんな義憤を飲み下し、陽をしっかりと見据えて、自分の思いを伝えることにした。

おれが今まで人と接する中で積極的にはやってこなかったことだ。

どんなときでも傷付くのを恐れるから、やっぱり人と本音で話すのは大変だから、おれは陽との距離感に甘えて、自分の強い衝動を言葉にしてこなかった。

今ならわかる。

言わなくても伝わるなんてのは、そう考えた者の傲慢、自己満足。

一番大切なことは、声に出して伝えるべきなんだ。


「おれはさ、陽。傷付くことを恐れる弱い人間だよ。多分、陽もそれを知ってるから、おれを傷付けないように、自分を引きずらないように離れようとしたんだと思う」


「でも、おれは知ってるんだ。一番大切なことに向き合うことの大切さを」


「おれはさ、何があっても、陽の隣にいたい」


それは、陽を失う痛みを背負うという選択だったけど、意外と寂しがり屋の陽を独りにするよりは遥かに良いと思った。


陽はおれの思いを静かに受け止め、乾ききらない涙を湛えながら、笑顔で、


「ありがとう」


と言った。


それから二ヶ月後、陽は旅立った。

亡くなる少し前に、陽は、

「夢を見てたんだ。今くらいの時期、もうすぐ死ぬってときに、急に寂しくなって、『遼に会いたい』ってお願いしたの。そしたら、遼が探しに来てくれた日に戻ってた」

と打ち明けてくれた。

「もしかしたら『思春期症候群』だったのかもね」

と、笑いながら。


何にせよ、おれを遺して、彼女は逝ってしまった。


今度は、たくさんの愛情と思い出も遺して。


それに、陽からは大切なことを教わった。


だから大丈夫。それがあれば、おれは立ってられる。


「ありがとう、陽」


おれはそう呟いて、彼女のように暖かい陽の光が差し込む、春の空を仰いだ。

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