PAGE.303「水平線の向こうへ」
「へっくしっ!!」
慣れない潮風の匂いが鼻をくすぐる。
数日前に海でのバカンスを楽しんだばかりだというのにまだ慣れない。コーテナはくしゃみから溢れた鼻水を引っ込みさせる。
船の上。間抜けな顔でコーテナは海を眺めている。
「うぅ~……誰かボクのウワサしてる~?」
ルノアから聞いたことがある。
風邪でも何でもないのに不意にクシャミが出る。そういう時は誰かがウワサをしてるという言い伝えがあると。ちなみに二回連続だった場合は悪口らしい。
一度で止まったという事は悪口以外。褒められているのか、それとも何か些細な事をいじられているのか。
「まあ、いいか~」
どっちであれ、悪口でないのなら探る理由もない。コーテナは両手を天に上げると、軽い柔軟運動を始める。
……船の甲板の上。
王都から数日。フリジオが用意した馬車から船に乗り換え、海の旅に乗り換えてからは既に数時間以上が経過している。これから、二日ほどの海の旅を満喫することになるらしい。
二日が立てば、グレンという島国に到着する。
皆が言うにはバカンスを楽しむ観光スポットとして有名であり、自分の身を鍛える修行の場としても暇をしない場所。自然の“楽園”だそうだ。
口を揃えて大絶賛の行く先にコーテナは何処かワクワクを覚えていた。
時間は既に夕方。暗くなる前に部屋に戻ろうかとコーテナは甲板を去って行った。
「ふふっ」
そんな様子を高台からアタリスが眺めていた。
皆と別れ、分かりやすい程に元気がなかったコーテナ。この後の事が心配だったのか、今まで通りちょっと間抜けな姿を見せてくれたコーテナに安堵していた。
「随分と可愛がっているようですね。あのお嬢さんの事」
高台に一つ用意されたハンモック。
フリジオは本を片手に横たわり揺れている。船の潮風を満喫するために用意された私用の設備だそうだ。
「……友、だからな」
「友、ですか」
フリジオはそっとアタリスの瞳を眺めている。
何を考えているのか分からない。相も変わらず底の見えない表情を浮かべている。
そんな瞳を眺め、フリジオも面白げに笑みを浮かべていた。
「それにしても、随分と豪勢なものを用意したものだ」
高台から眺める船の景色。
「少数の船乗りに我々だけ……プライベート用の私船を用意するとはな」
本来ならば、騎士団が用意した業務用の船を利用する予定だった。
しかし、フリジオの言い分により予定が変更。業務用の船は港に残し、フリジオの家系にて使用されている専用のプライベート船を使うことになったのだ。
「これでは箱舟というよりは……海に浮いた牢獄、であるな」
アタリスの言葉には棘がある。
ここにいるのはフリジオの家計の関係者のみ。他の騎士団のメンツは誰一人として乗っていない船の上。
つまりは……“フリジオの計画を進めるには最適な船”。
フリジオは功績を得て英雄になることを夢見ている。ヴラッドの娘と魔王の器であるコーテナ。この二人を仕留めたものなら、かなりの功績を得ることが出来る。
例え、不当な手を使ったとしても、関係者を口留めすることなど容易い。いつどのタイミングでも、フリジオの手が届く処刑場へと連れてこられたのも同義であった。
「そう、ご警戒ならさず」
フリジオはアタリスの言葉に対して手を振っている。
「貴方達が何もしない限りは手を出しませんよ。一族の誇りとして、そこは信用なさってください」
「お前、その言葉胸に誓って言い切れるのか?」
「言い切れますとも」
どの口がそれを言うのかとアタリスは呆れそうになる。
あらゆる手を使って悪人に仕立てあげ……そこをチャンスにアタリスを抹消し、英雄になるために必要だという最高の功績を得ろうとした。
そんな男が、一族の誇りだなんて軽々しく口にするのが恐ろしくて仕方ない。
何を言ったところで、人間として何処か正気のネジが外れているフリジオには意味がない。それ以上の反論は時間の無駄と、アタリスは口を閉じる。
「まあいい。私も特に暴れるつもりはないさ」
アタリスはハンモックで一度眠りに就こうとしているフリジオに背を向ける。
「……コーテナに手を出さぬ限りはな」
ただ一言、警告だけは残しておく。
もしも不当な手でコーテナを仕留めようものなら、口車に乗る結果になろうと容赦はしない。その身がこの世に残るかどうか覚悟しておくようにと釘を刺しておいた。
言いたいことは言っておいた。
アタリスはコーテナと同じ部屋に戻るため、高台から降りて行った。
「……ヴラッドの娘、か」
フリジオは自身の目元にアイマスク替わりで本を置いておく。
「その化け物は人類の脅威でありながらも人類を愛していた。彼は世界の脅威であると同時、一部の人間が憧れるスタァでもあった」
フリジオが目にした一族の書物。
それはヴラッドと対立を続けた、一族の数年間の記録。
ヴラッドの残した悪行の数々。しかし、その中には一族の目を見張る美しい行動の数々までもが記録されていた。
ただの悪党として、ヴラッドはこの世に名前を刻んだわけではない。
彼が人間を愛したと同時、人間も彼を愛する者が多かった。そんな不思議な存在には、魔物狩りの一族であるはずの“バロットヴェノム家”も心なしか惹かれていた。
___数年の果てに得た決着。
しかし、真なる決着はついておらず、ヴラッドの一族との決着については後の一族に託された。
その代、今はフリジオへと受け継がれた。
「ふふっ。その意味、少しわかりましたよ」
あのアタリスという少女はそのヴラッドの娘。
書物に書かれてあった人間像と全く同じ。ヴラッドのように目に余るような悪行こそしていないが、それ以外の行動は書物に残されたヴラッドの像と全く同じである。
「……ですが、そう簡単には諦めませんよ」
船旅はまだまだ続く。フリジオはそっと瞳を閉じる。
「英雄になるために……僕は君を絶対に逃がさない」
功績を得るために。英雄になるために。
いつか、良い意味でその先を裏切る存在であれ。
フリジオは自身のエゴを、夜空に変わりつつある薄暗い空に晒し、潮風に揺られながら睡眠をとることになった。
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