第132話 一滴の雫
正巳が、『俺達と来ないか?』と言うとユミルは、ぽかんとした様子で口を開け、周囲をキョロキョロと見まわし始めた。
……誰に言った言葉なのか、分からなかったらしい。
見回しても、眠っているサナと少女、それにボス吉しか居ないだろうに……。
ユミルは、視線を彷徨わせた上で、何を血迷ったのか少女に視線を定めていた。
しかし、少女は既に一緒に来ることになっている。
ユミルも変だと思ったのだろう。
少女に合わせた視線をサナへと向けたり、ボス吉へ向けたりしている。
……その二人は、元々こちら側だ。
ユミルの様子を見ていたボス吉が、床に下ろされていたユミルの手の上に、自分の手を乗せた。そして――
ユミルが視線を向けた所で一鳴きした。
「にゃおん!」
通信機を外していた正巳には、ボス吉の言葉の意味が正確には分からなかった。
しかし、その仕草から言いたい事は分かる。
ユミルに『お主の事だぞ?』とでも言っているのだろう。
そんなボス吉に対して、不思議そうな顔をしたユミルが言った。
「ねこにゃん?」
「にゃぁ」
「どうしたにゃ?」
「にゃにゃぁ……」
「お腹空いたのですかにゃ?」
……『"パシッ!"』
痺れを切らしたのか、ボス吉がユミルの腕を猫パンチした。
――当然、加減されている。
「ねこにゃ――……私ですか?」
ボス吉が、促したお陰だろう。
ようやく、自分に対して掛けられた言葉だと、気が付いたらしい。
……それ程、戸惑う事でも無いだろうに。
「それで、どうだ?」
「い、いえ……しかし、私は……」
……この感じ、もしかしたら"ホテル"の秘密依頼中か?
「あれだ、別に抱えてる案件を終らせてからでも良いぞ?」
「あ、いえ、
少し迷っていたユミルだったが、やがて口を開いた。
「実は、ホテルを辞めていまして……」
「ああ、そうみたいだな」
ひと月以上前に、マムに話を聞いて知っている。
……マムから、『ユミルさんがホテルを辞めた様です』と聞いて、驚いてザイに確認をした。すると、ザイからも『確かです』と言われた。
ザイには、ユミルが辞めた理由も聞いた。
「それでしたら、私が既に役に立たない事をご存知かと……実際、お嬢様を守る事が出来ませんでしたし……」
……その事か。
ユミルは、綾香の護衛でありながら守る事が出来ず、挙句の果てに自分まで捕まってしまった。しかし、俺の勘だと、伍一会側が二人を攫う際に、手助けをした者が居た筈だ。
――それも、ユミルと綾香の身近に。
……と言うのも、途中までの"伍一会"の動きが完全過ぎるのだ。
幾ら手負いとは言っても、ユミルだ。
そう簡単に
少なくとも、二人の内何方かは逃走していた筈なのだ。
その様子は、救出に向かっている途中で、
……そう、詳細に何があったのか聞いていたのだ。
……そう、聞いていた。
……ん?
「……そういう事か」
徐に
「マム?」
当然マムはこの会話を聞いていた筈だ。
――案の定、直ぐに返事があった。
「パパ……その、仕方なかったのです……危険の排除の為には……」
「分かってるさ。ただ、傷付けた人には謝らないといけないぞ?」
……マムは、いつも俺を中心に物事を処理する。
その弊害は、これ迄もあった。
小さな事は、俺がフォローを入れたりしていたし、マムの存在を明かさない為にもそれが最善だった。しかし、仲間に対してそれではダメだ。
◆
マム達は、電脳領域で会議をしていた。
そして、一つの結論が出た。
つまり、『パパに嫌われない事が最重要』と言う事だった。
◆
少し葛藤があったのかも知れないが、やがてマムから返事があった。
「はい……パパ、その、嫌いになりましたか?」
「いや、そんな訳ないだろう? 変な心配をするな」
「あの、パパ……後でちゃんと謝るので……」
「ああ、そうだな」
……後で、マムの事もフォローする必要がありそうだ。
マムに、『後でな』と言うと通信を切った。
……目の前には、未だ状況が分からないと言った様子の、ユミルが居る。
改めて、ユミルに話しかける。
「ユミル、『役に立たない』と言う理由は、片腕が動かないからか?」
「はい……私は足手まといになると思いますので――」
皆迄言い終える前に、割って入った。
「その責任は、俺にあるな?」
「え……?」
「そもそも、腕が動かなくなったのは、半年前に俺を庇った時だろう?」
「いえ、あれは任務でしたので」
「だとしても、気を抜いていた俺を助けたのはユミルだ」
「私が入らなくとも、神楽様であれば――」
「今の俺ならば万が一にもないだろうな。でも、あの時の俺は素人だった」
「しかし……」
尚も食い下がろうとするユミルに、正巳は予め考えていた事を、実行する事にした。
「それでなんだが、もし腕が動かない事を気にしているのであれば――?」
『"ドンッ!"』
言い終える前に、車体が大きく揺れた。
「ちょ、ちょっと、ちょっとお兄様! これ、車、大変!」
……綾香が、慌てた様子で降りて来た。
……顔や頭が濡れている。
その黒髪は、一部が紅色がかっている様だ。
そんな綾香に、落ち着いた声色で言う。
「海に入ったか?」
「え、『海に入ったか?』じゃなくて……って、お兄様知ってたんですね?」
片目が紅く煌めいている。
「一言教えてくれても……お陰で濡れてしまいましたわ、ふふふ……」
……笑顔が怖い。
綾香に苦笑いを返して、ユミルに目を向けた。
ユミルには、特に驚いた様子が無い。
「ユミルは驚かないんだな」
ユミルに話を振ると、コクリと頷いてから答えた。
「乗車前に、水陸両用と確認出来ていましたので」
「ちょ、ちょっと、ユミは知ってたのに、教えてくれなかったの?」
「えっ、いえ、それほど重要では無いかなと思いまして」
「そ、そう…………まぁ、いいわ」
そして、『少し休もうかしら』と言うと、ボス吉達が横になっていた近くへと、歩いて行った。……横を通り過ぎた時に、その頬に薄っすらと涙の跡が見えた。
綾香が横になったのを確認して、ユミルに声を掛けた。
「ユミル、海を見ないか?」
「海ですか?」
ユミルは一瞬疑問符を浮かべたが、頷くと歩いて来た。
……多少濡れそうだが、問題無いだろう。
ユミルに先に
"上って"とは言っても、二メートル程だが。
ちょっとしたタラップを上がる。
先に上がっていたユミルに続いて、頭を出した。
湿った風を顔に感じる。
そして――
「ほぉ……」
――自然と声が漏れた。
視界が一気に開ける。
見渡す限りの"海"だ。
上って来る朝日が、海の表面を走っている。
振り返ると、先程着水したのであろう埠頭が見えた。
一メートル強あるだろう。
恐らく、あの埠頭から飛び込んだのだ。
「あれじゃあ、濡れるよな」
呟きながら、隣のユミルを見た。
向こうを出てくる際に、巻き直したのだろう。
片方の腕が、体にぴたりと固定されている。
「……」
ユミルは片手で体を支え、視線は海の先――太陽が差し込んでいく"向こう"へと向けられていた。その横顔は、何処か寂しそうだ。
「神楽様?」
ユミルの横顔を見ていたら、それに気が付いたユミルが『どうかしましたか?』と言って来た。そんなユミルに、(こういう時は直ぐに気が付くのに、何処か抜けてる時が有るんだよな)と苦笑してから、答えた。
「腕の事が気になっているのなら、その腕が治ったら一緒に来るか?」
「え? それは……もし、許されれば行きたいです」
その後に、『しかし、頂いた薬で足や他の傷は治りましたが――』と続けている。
恐らく、腕は治らないのではないか?と心配なようだ。
まあ、そんな事は関係ない。
必要な言質は取った。
「よし! 今の言葉、確かに聞いたぞ?」
そう言うと、懐からソレを取り出した。
それは、僅かに減った治療薬――レベル5の治療薬だ。
その薬を手渡す。
「これを飲んでみてくれ……もしダメなら、もっと強いのを試す」
「しかし――」
再び、食い下がろうとするユミルに、意識して投げやりに言う。
「それでもダメなら諦めるさ」
……当然、もしこれで治らなくても、如何にか治す術を探すに決まっているが。
「分かりました。それじゃあ、その……」
ユミルが、何やらモゴモゴしている。
「どうした?」
「あの、それじゃあ……これを飲ませて下さい」
……ユミルがそう言うと、渡した治療薬を返して来た。
「飲ませるって……?」
意味が分からなかったが、片腕で体を支えている姿を見て、思い至った。
「……すまん! 配慮が足りて無かった」
「ふぇっつ?! え、えぇ、あの何時でもだいじょぅ……」
恥ずかしそうにしているユミルを見ながら、申し訳に気分で一杯になった。
そして、(これ以上恥ずかしさを長引かせるのも良くない)と思った正巳は、その蓋を外すと――そのまま、ユミルの口元へと治療薬を持って行った。
「えっ? ――『ゴクゴク……』」
口元に注ぎ始めたのだが――ユミルが戸惑った表情を浮かべている。
(勢いが早すぎたかな?)と思い、流し込む速さを調整しながら、薬を飲ませた。
途中で、何かそういう
空になった容器をユミルの口元から外す。
「…………」
何となく、ユミルの視線が冷たい気がする。
そんな事は……いやいや、まさか。
そんな事は、無いはずなのだが……
「えっと、ユミルさんッ――!?」
ユミルに、何か不手際が有ったかを聞こうとしたのだが……
頬に柔らかい感触と、ほんのりと甘い香りを感じた。
「――っつ?」
「何となく、ですっ!」
……ユミルの顔は離れたが、その感触と香りは残っている。
……なんで?
…………
しばらくぼーっとしてしまった。
我に返ってユミルに目を向けると、微笑みを向けて来た。
……何故だか、ユミルは心なしか機嫌が戻っている。
まあ、減るモノでもないし、悪いモノでもない。
……取り敢えず、良い事にしておこう。
「えっと……その、腕はどうだ?」
正巳がはぐらかす様に言うとユミルは、それ迄体に固定していた布を外し始めた。
――そこに現れたのは、赤黒い線の走った腕だった。
元々白い筈の腕が、血の巡りが悪い為か、薄い紫に近い色へとなっている。
――固定していた布が、全て外れた。
すると、支えを失った腕が、だらりと垂れ下がってしまった。
「神楽様、やはり――」
「"正巳"で良いぞ。それに、ほら……」
言いながら、正巳はユミルの腕を慎重に持ち上げると、胸の高さで支えた。
「ほら、見てみろ」
支えている腕が、熱を持ち始めていた。
……赤黒い線が脈を打っている。
血管が、赤黒くなっていた様だ。
「これは?」
「確か、"再構築"だったかな? ……まあ、そんな感じだ」
治療薬に関して聞いた時、『レベルの違いは、再構築する範囲の違いです』と言われた。その中で、『再構築した組織は、基本的により強化されるので、バージョンアップと言うと分かり易いでしょうかね』とも言っていた。
ユミルは、『再構築ですか?』と不思議そうにしていたが、直ぐにその腕に視線を戻した。……腕が一回り膨張している。
――今まで何度か見て来たのと同じ現象だ。
レベル3程度迄であれば、それほど見た目での変化はない。
しかし、それ以上となると、見た目でも変化があった。
変化があると言っても、それは単に投薬直後の"治療中"の事だ。
治療後、見た目において変化が現れるような事は殆どないだろう。
綾香は、微妙に変化が出ているが……
俺が直接飲ませた事が、何か関係しているのかも知れない。
そのまま確認していると、綾香が何やら熱そうな仕草――顔の汗を拭ったり――をしていた。
「ちょっと良いか?」
「はい……?」
一応断ってから、ユミルの頬に手を触れた。
……かなり熱が高い。
「熱くないか――」
ユミルに、体調を確認しようとしたのだが、邪魔が入った。
「ヒュー流石リーダー!」
「男前!」
……デューとバロムの声だ。
声がした方を見ると、斜め後方にもう一台車両が浮かんでいた。
その上には、同じ様に3人――デューとバロムそして、ザイが居た。
岩斉も載せている筈で、監視は必要だと思うのだが……まあ、正巳の拘束を解くには自力では不可能だから、岩斉が一人でも何もできはしないが。
それにしても、ザイが居ながら……
……ん?
……どこから見てた?
その事をザイに聞こうとしたが、ザイの表情を見て止めた。
――何か、肩の荷が下りた様な顔をしていた。
しかし、数秒その顔を見ていたら、やっと気が付いたのか、二人に何やら指示を出し始めた。……指示を受けた二人は、一瞬で引き締まった顔を引きつらせながら降りて行った。
そんな様子を見て、ため息を付きながら振り返ると、気のせいかユミルの顔が赤らんで見えたが……どうやら朝日の光がそう見せたのかも知れない。
ユミルは、しきりに自分の頬に手を当てている。
……両手で。
「違和感ないか?」
正巳がそう聞くと、我に返ったユミルが一瞬フリーズした。
そして、改めて自分の腕を確認している。
……薄く、線が腕を這っているが、問題なさそうだ。
「あ、あの……これっ」
驚いて、腕を曲げたり手を握ったり開いたりしている。
そんな様子を見ながら、言った。
「これで、ユミルは俺達の仲間だな!」
「なかま……?」
「ああ、まあ強制はしないし、ユミルさえ良ければだが……」
「あの、本当に一緒に?」
信じきれない表情をしている。
「迷惑か?」
「そういう訳ではありませんが、何のお役に立てるか分かりませんが……」
「それなら考えてあるんだ」
「考えて、ですか?」
「ああ。……実は、
「新しい拠点……ホテルは、出られるのですね」
「あぁ、居心地は良いんだがな……まあ、独り立ちみたいなモノかな」
「独り立ち……」
『独り立ち』という言葉に反応した。……元営業マンとしては、このキーワードが落とし文句になると感じたが、今回は止めておいた。
「それで、その拠点の"メイド長"をして欲しいんだ」
「メイド長……ですか?」
「あぁ、まあウチには、家事全般のプロフェッショナルが居なくてな……」
このまま行くと、家事の全般をホテルで学んでいる"子供達"に、一任する事になりそうなのだ。……一応、マムからの定時報告とザイからの現任報告で、子供達が実務レベルにある事は知っている。
だからこそ、始めの内は誰か大人を頭に据えて、見本を見せる必要が有るのだ。
「メイド長自体は、研修中の子供達の中に代りとなる子が出て来たら、その子に引き継げば良い……少なくとも始めの内は、手本となる大人が必要なんだ」
そう言って、再度ユミルの答えを促した。
……これでダメなら、本人の意思を尊重する。
「そうですね……」
しばらく考え込んでいたユミルだったが、やがて顔を上げると言った。
「それでは、私の代わりとなる子供が成長するまでは、お受け致します」
これで、一つの目的が果たせた。
……ザイとの約束も、果たせる。
「『娘を宜しく』か……」
ザイが漏らした言葉を思い出し、心の中で(任された)と呟くと、手を差し出した。
「よろしくな、ユミル」
「はい、
差し出した手を握ったユミルが、微笑んだ。
◆
その横顔を見ていた男は、不意に頬をつたった"一滴の雫"を指先に乗せると、車両内へと戻った。その目には、娘の旅立ちが一つの"終わり"として焼き付いていた。
「任務完了、ですね……」
呼吸するように呟いた言葉は、波間を裂く音に掻き消され、誰の元へも届く事が無かった。
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