トウモロコシ畑の下

@Kairan

巨人の男 シルビス

 ■すべてを手放す痛みの時が来る。しかしそれは希望の始まりでもある。■


 早く引き上げて欲しい。老人のジェームズは思った。だが、反対側に座るスーツの白人の男は椅子から立ち上がりそうにない。二人はこの2時間の間、ジェームズの農家の居間のテーブルから動くことはなかった。会話が減って、まるでチェスのステールメート、お互いに動かせる駒がなく、引き分けでこれ以上話せる事はない。だが、男は帰らない。


 男はジェームズが畑で育ている平均240cmのトウモロコシに近い身長がある。


 スーツのビジネスマンのシルビスと、泥にまみれた農民のジェームズ。


 ジェームズの農家にいるのに、客人であるスーツの男は王座に深く居座る権力者だ。匂いだって主張力がある。テーブルの向こうに座っているのに、まるで目の前に置かれた車の香水のように匂いが濃い。この白人の匂いを初めて嗅いだ時から、黒人のジェームズはこの男を信用できないでいる。


「何度も同じことを言うのじゃが、その値段でこの土地を手放すことは出来ないんじゃ」


 この白人にトウモロコシ畑を売れない。やっすい値段で土地を買い上げる不動産業者をこれ以上相手にもしたくない。アイオワ州で生まれ、アイオワ州のこの土地で死ぬんじゃ。そもそも都会からやって来て、黒人の農民に金の話を持ち込んでくる白人のやつでろくな奴はいなかった。


 男が先ほどから醸し出す静かさ。


 この男のメガネの奥の目は青い。その青く、暗闇の中でも輝く目は、ジェームズを品定めするように観察していて、ジッと動かない。養豚の豚を見るような目。機械の目。だから気が許せなくて、警戒して、この男が帰るまでジェームズは気を許せない。畑に忍び込んだ狼。


「帰ってもらおう」


 ジェームズは椅子から立ち上がった。筋肉もなさそうな骨だけの腕に力を入れてテーブルで自分を支えている。シルビスは座ったままの腕組み。シルビスの腕の筋肉はスーツを中から破ろうとしている。


 シルビスの後ろの掛け時計に目をやった。メガネをかけていないので、ボンヤリとしか見えなかったが、黒い針は間違いなく夕方の7時あたりを指していた。そろそろベンゾジアゼピン系睡眠薬を飲み、足元がふらつく前にベッドで横になるべき時間だった。


 その前に、この狼を出さなければいかん。


「明日は収穫の続きがあるんじゃ。ワシは休みたいんじゃよ」


 ジェームズのトウモロコシ畑はサッカーフィールド一個分の広さがある。そんな広大な土地をジェームズは毎日一人で、太陽に皮膚を焼かれながら育てている。そしてジェームズは今年で75歳。今となっては休む事は仕事だけなく、朽ちる身体にとって絶対に必要な事だった。


 刹那、薄暗くなった部屋の中でシルビスの顔が明るく照った。口の角が上に釣り上がり、やけに白い歯がその間から見える。笑顔。眼鏡の後ろの目は死んだ魚のように冷たく、そこには命が宿っているのかと思う。


「この土地を手離したくないお気持ちは分かります。だけども、この土地には後継ぎもいない」


 動かない。帰らない。余裕のある表情。ジェームズが嫌う、慌てることがない教養のありそうな顔。ジェームズは中学校も高校も行った事がない。親の畑の手伝いをし、弟たち3人を自分が働く代わりに学校に通わせた。自分には教養もなく、その為に人からバカにされた事が沢山あった。ジェームズはいつもコミュニティの笑いのネタだった。唯一慰めをくれるのはこの土地で成長する穀物。いつもの土地の匂い。風で揺れる幾万のトウモロコシ。


 シルビスは小さなネクタイを締め直す。スッポリ太い腕の後ろにネクタイが隠れて


「あなたの体も限界が来ている。以前のように土地は豊かなトウモロコシを生み出してくれない。収益もない。また、温暖化で暑くて、高齢者のあなたにはキツイ筈です」


 シルビスが息を吸うと筋肉質の肩が大きく上に上がった。


「手放したいけど、手放せない。お気持ちは分かりますよ。だけど現実を見ましょうよ」


 そして、ジェームズの遠くなった耳に辛うじて聞こえる声で付け加えた。


「ただ、後押しが必要なのでしょうね。きっと」


「後押し?今から帰るお前さんが後押しが必要なだけじゃ」


 ジェームズは鶏の皮のような首を横に降った。この白人の若造に何が分かる。金しか興味がないよそ者に。この土地から、このボロボロになった農民の体と穀物から生み出される、汚い金を見たこともないくせに。


 ジェームズは両手でバランスを取りながら居間のドアまで一歩一歩、一歩一歩進む。


 その時だった。


 ナニカノニオイガスル。


 ジェームズのツギハギだらけの黒い鼻が痙攣した。シルビスの香水でもない、この部屋にこもった二人の男の汗でもない。全く別な匂いがした。


 軋む膝を動かして、後ろを振り返る。


 窓を見る。


 奇妙だ。


 どんどん暗くなっていく筈なのに外は明るくなっている。こんな光を見たことがなかった。窓の向こうを見たくなり、足を引っ張っていく。一歩進む度に、木の床が膝と共にキーッと鳴る。


 窓の近くで急に鼻と喉が痛くなる。匂いは外の自分の畑から間違いなく来ていた。


 冷たいガラスに両手をつけて、外の世界、地平線まで広がるトウモロコシ畑を、つまり自分の愛おしい息子を見ようとする。畑を人間の頭として例えるなら、その髪の毛一本一本の数、つまり全てのトウモロコシを把握しているぐらいにこの畑をジェームズは愛していた。


 だからこそ、目に映った物はジェームズの心臓の鼓動を早くし、薄くボロボロの肋骨を叩きつけ始めた。


 トウモロコシ畑で見た物。


「か、か、」


 言葉が出てこない。膝がガクガク震える。その場所から動けない。老眼が見せる世界が嘘でないか、自分が狂ったのでないのを確かめるために目をこする。


 後ろでシルビスが椅子から立ち上がる音がし、古い木の床を踏みつけて近づいた。


「え?」


 シルビスがつぶやく。ジェームズは震える指で窓の向こうを指した。


「・・・火事だ」


 トウモロコシ畑の地平線に赤い線が横に伸びていた。


 普段のこの時間帯には真っ赤な太陽が豊かな畑を淡い空色で照らし、そして徐々に青色へと塗り替えられていた。だが、ジェームズが毎日見てきた明日へと繋がる色はそこにはなかった。


 黒い煙の海が畑の空に広がっている。畑が火に飲み込まれている。


「トウモロコシが燃えているのか?」


 シルビスの声に驚きが入っている。シルビスの車の香水のような匂いはもはや、煙の匂いに代わっていた。


 そこでようやくジェームズは我に返る。ワシがなんとかしなければ。ワシが消しに行かなければ!


 シルビスは大声で


「私が消防車を呼ぶから早く消しに行っ・・・!」


 と言い終わる前にジェームズは居間を突き抜け、玄関の扉を押して外に飛び出そうとしていた。


 ジェームズの頭の中で親父と母ちゃんが記憶の中から蘇った。カンカンと照った太陽の下でトウモロコシの収穫をする二人。親父が大きな手で小さなジェームズを持ち上げる。その顔は汗でいっぱいで笑っている。泣きながら母ちゃんの胸の中に飛び込むジェームズ。ジェームズを優しく見下ろす母ちゃんの目。弟たちと一緒にコッソリと子猫に餌をやったこの畑。村の女と一緒に裸で横になり、手を繋いで星空を見上げたこの畑。


 誰か火を消してくれ。誰か・・・。だが、ジェームズの側にいてくれた彼らは今はもういない。誰も助けてはくれない。ジェームズとジェームズの畑だけがここにあった。


 いつの間に?何故だ?疑問を持ちながら、ジェームズは水場の蛇口を思いっきりつねった。ところが何度も何度も捻っても、虚しい金属の掠れた悲鳴、そしてゴボゴボと詰まったような苦しい音しか出てこない。水は流れてこなかった。


 ジェームズは畑を振り返る。さっきよりも火が一段と畑に広がっていてちょっと前に窓から見えた地平線の赤い線が、今では大きなドラゴンのように目の前の畑を這い回っている。1本、2本、3本のトウモロコシが火に触れて呆気なく倒れて行く。


 時間がない。ジェームズはどす黒い煙に包まれながら火に向かって走った。考えている場合ではない。自分の服で消すしかない。


 トウモロコシの灰が宙に飛び散り、ジェームズの気道に吸い込まれる。


 ケホッケホッケホッケホ。


 今度は倒れたトウモロコシにつまずいて情けなく転ぶ。土と小石と灰が口の中に無理やり押し込まれる。だがここで終わるわけにはいかない。


 ワシはここで終わる訳にはいかない。ジェームズはそう思い、ボロボロになった指で、アイオワ州で守ってきた土を握る。やっとの事で立ち上がり、シャツを脱いで近くで燃えているトウモロコシの火を叩き消した。


「畑が!畑が!あ、あつい」


 目の前の火が少し弱まる。そして次の火に襲われているトウモロコシにジェームズは飛びつく。


「あつい、あつい」


 後、何本のトウモロコシが・・・・。い、いや、一本でも。一本だけでも。ワシは諦めない。


「加勢させてください!」


 後ろを振り向くと、いつの間にかシルビスが息を切らして火の畑の中を走ってきていた。火が照らしたシルビスには血管が顔に浮かび上がっていて、メガネがずり落ちそうだった。今日、一日中見せてきたポーカーフェイスはそこになく、困ったパニック寸前の若者の顔をしていた。


 火に飲み込まれながらも追いかけて来てくれた白人のシルビスに一瞬感謝の気持ちが湧き上がる。不思議だった。数分前までは目の敵にしていたのに今では白人に対しての嫌悪感がない。


 お互いに見つめあって、頷きあう。シルビスはスーツを脱いで早速トウモロコシについた火を叩いて消す。一段と火が強くなっている。真っ黒な煙が空を余す事なく埋め尽くしていた。とっくに炎は畑全体に拡がり、ジェームズ達を囲み始めている。ジェームズは鼻を抑えた。歯の震えが止まらない。


「諦めてはいけません!」


 ジェームズの心の内を読み取ったのか、シルビスがキッパリと叫ぶ。側で火を消す若者の目に諦めない命の光が宿っていた。


「あなたの家族の大事な畑をここで無駄にしては行けない」


「あ、ああ!」


 大火傷をしてでも、この火は消す。例え自分の命に変えても!ジェームズは炎の中に飛び込んで、死ぬ覚悟で自分のボロボロの農民のシャツを大胆に振り回して火を叩き続けた。もう腕が上がらない。だが、少しずつ火が消えていく。もしかしたら、もしかしたら、消防車が来るまで間に合うかも知れない。ジェームズは歯を食いしばった。消防車さえ来れば!


「消防車はいつ来るんだ?」


 ジェームズは炎と炎の間から叫んだ。ジェームズが揺れる空気の壁の向こうで振り返る。1秒、2秒、3秒と返事がこない。その間に目の前のトウモロコシが黄緑から黒の灰へと燃えていった。


「消防車は来ているのか?!」


 返事はなかった。嗄れた大声でもう一度聞く。パチパチとトウモロコシが燃える音が二人の会話の空白を埋め尽くす。長い、長い、長い時間が経った。


「い、いや、それが・・・・家の中のどこに電話があるのかが分からなくて・・・・」


 ジェームズの頭の中が白くなる。


「よ、呼んでいないのか?」


「え、ええ、呼べていません」


「携帯は?お前さんの携帯は使えなかったのか?」


 シルビスの巨人の体が小さく見える。今日一日中見せて来た自信もすっかり焼き払われていた。


「わ、私の携帯は充電が切れてまして」


 聞き取りにくい声だった。あたりが煙で一瞬暗くなり、パチパチとトウモロコシが燃え続ける音だけが聞こえた。


 父ちゃん、母ちゃん、ファーガス、ラヒート、デビッド。・・・ローラ。この土地の一部だった者たちの顔が頭に浮かび上がる。終わったのだ。ジェームズが何十年も守って育てて来た物が目の前で跡形もなく破壊されていく。


 次の手が思いつかない。そして疲労で体がもう動かない。情けなくなり・・・笑ってしまう。指で目を抑えながら笑ってしまう。肩がヒクヒクと痙攣している。


 ようやく目を開けると、シルビスが指でジェームズの家の方角を突き刺して何かを訴えていた。火は今、家の方に進んで飲み込もうとしていた。ジェームズの家。最後の砦。最後の宝。ジェームズは薄くて今にも切れてしまいそうな老人の筋肉の悲鳴と格闘して無我夢中で家に駆け寄る。


 シルビスは後ろから、ジェームズを追いかけるように叫ぶ。


「消防車に連絡してください。そしてここは任せてください!消防車が来る前に消してみせますよ」


「あ、ありがとう!」


 お願いする。限界を超えた老体に鞭を入れて膝を引きずりながら家に近づく。まだ希望はあるはずだ。家の中に入って、すぐに消防車を呼べば。


 嵐に畑がやられた時も、雨が降らなかった夏でも、ジェームズは諦めなかった。雑草のように踏まれても、次の日には立ち上がる。それが両親がジェームズに一生をかけてトウモロコシ畑で教えてきた事だった。親父は言った。「神はこれまで必要なものを与えてきた。これからも必要なものを与えてくださる」。その教訓を信じて活かす時が今なのだ。

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